お正月が過ぎいつの間にか1月も終わり。

お正月早々地震があり、ほんとに悲しいし被災された方の気持ちははかりしれない。今までの生活がなくなってしまうんだもん。



介護生活も3ヶ月となり、明日から出勤になる。どーしてやめておかなかったんだろうかと、それとも、少しでも仕事をしていたほうがいいのだろうか?

不思議な事にヘルパーの資格をもらったと同時にストレスがMaxとなり、母にあたる事が多くなった。母は体調は日々悪くなっているようで、食は細くなり、こちらの言う事が理解できない事も多くなったり、飲み込みができなくなったり、尿の出し方がわからなかったり、わからないと言う事を嫌と言うようになり、はじめ嫌と言うから、嫌はないだろーと心の中で思っていたら、言われている事がわからないので嫌と言うと言う事がわかり、つくづく脳って大事なんだと思った。


毎日の生活はほんとに、母にほぼ時間をかけている感じはしているのに、私は母にいったい何をしてあげているのだろうかと、悩む事もある。身の回りの世話や食事をさせる事に精一杯で一緒に楽しんだりとかがなくなった。


お正月にメイが戻った時は、メイが話しをしたり3人で寝る前に昔の話しをしたり、きっと母も楽しかっただろうな😌と思うけど、メイが戻ってから、最終試験をひかえていたので、時間がある時はそっちに時間を…と言いたいところ、ぐうぐう寝てしまっている私。


それでも何とか資格をもらえたのにその疲れがでて精神的に何だか不安定で、母に、母より先に死にたいとつぶやいた。母はそれは困るわ、生きててもらわないと…といったけど、ポロポロ涙を流す私をどうみたんだろう。



これじゃいけないと思い、母をショートに預けた後にシャトレーゼホテルのバイキングに行って、ケーキを思いっきり食べてきた。



とにかく甘い物を食べて脳の疲れを癒そうと思ったけど、やっぱり限界もあり、他に食べたものは、お漬物だった。今思うと色んなものを食べればよかったとも思う。でも、又行けば、やっぱりケーキざんまいかなぁ。今度は選んで食べよう。友達は義理の母をみていて、あ、それ腹立つよねとか、本人は笑えなかったと言ってたくらいだから、切羽つまっているのもよくわかった。でも私は大笑いをしてしまい、普通、面白いよね~と。


口をモゴモゴしているお義母さんに、何かつまっているの?といきたら、

おかあさん(友達をおかあさんと呼んでます)がつまっているから



と言われたそーな。笑える。私の母が言ったら、まだ私は笑えるから、彼女ほどではないかと思ってみたり。

そんな友達もいるのも心強いよね、とお互いになぐさめあった。


戻って行ったメイから、彼の家に行き両親に会ってきたよ。ひみちゃんにも会いたいって行ってるけどいつがいい?と言われた。


あー結婚の話しだ。うれしいんだけど、泣きそう。その後プロポーズをされたようで、



同じケーキなのに夢があるわーと思いながながめた。

昴、嬉しいね。ようやく伴侶をみつけたんだね。彼におくる言葉考えているんだー。メイより長生きして。メイに心配かけないよう、自分の体を大事にしてほしい。そして2人で老後をいつまでも仲良く送ってほしい。昴にできなかった事だよ😛



家の中のお風呂の暖房が壊れたり、電気の基盤が壊れたりと手配してもらい2月早々に家のお直しをしてもらえそうで、少し安心もしたけど、何故にどっぷり家にいた時じゃなく、この益々忙しくなるタイミングなのかとも思うけど、色んな事を考えないようにするためなのか!!


仕事をしながらの介護がどうなるかはこれからだけど、それと同時に、介護タクシーの夢もゆっくり目指していけたらいいな。


きっと今年、いい年になるよね、昴🌠

毎年、毎年、1年が早いと思いながら過ぎていく。


今年は、車の二種免許をとってみたり、介護ヘルパーの資格をとるために、ニチイに通い、ようやくデイサービスと居宅サービスの実習まで終わり、後は講義が1回でその日に最後の試験がある。それに合格すればヘルパーの資格をもらえる。

今年は2回の試験を受けて、来年も2回受けて、どーにかなれば、私の転職も可能となる。


何のために頑張っているかもよくわからず、新しい環境にいこうとしている自分。

何かをしていないと不安になるんだと思う。


母ともぼちぼち何となく生活できていて、怒ったり笑ったり、この時間が続くといいと思いながらも、2月から職場復帰をしなくてはいけないプレッシャーもある。



今年は生活が昨年までと変わり、それを楽しみつつ、来年はどうなるかなぁと楽しみでもあり、心配でもある。


メイは来年には、今の生活も変わりそうで、私も早く、念願の孫を抱ける日がくるといいなぁ~と少し楽しみだったりもする。



昴がいたら、一緒に楽しめたと、そんな思いはあるけど、いないんだから仕方ない。

心細くそれでも、近くにいて何かあるとラインをくれる友達や会いにきてくれる友達もいる。


それを良しとして、来年も楽しんで生活できていければいいのかな。


今年1年よ、ありがとう。

これがお守りとなり、色々できたね。




大学の友達が遊びにきて、再開も楽しんだ


のもつかの間もう11月になってしまった。

10月22日は昴との結婚記念日でそして今年は昴が亡くなってからずっとリレーフォーライフをしてきた、彼女のお葬式でもあった。

7月に食事に誘われ、2週間前にラインをもらい彼女は私に別れを告げていた事がわかったけど、彼女の生きたい気持ちも伝わり、涙なしではやりとりができなかった。その彼女が生きたいと最期まで願っていたけど、家族に見守られ逝った。会いたかったけど、母の目が離せないので行く事はできなかったけど、たくさんの人が彼女のお別れにきたようだし、家族に当てたノートも残していたようだった。

私も自分の人生、自分らしく過ごしていけたらと思った。



母を10月に家に連れて来て、今は仕事を一旦休んで在宅で母と過ごしている。

もしかしたら、昴の死がなかったら考えなかった事かもしれないけど。

自分を産んでくれた母が施設で薬で寝たきりにさせられてるのは、切なくて切なくて仕方なかった。

実際に在宅でとなると、どんな生活になるかの想像もつかないくらいに今年1月に、外泊をした母とは変わってしまっていた。

それでも、廃人のような母をみた時、このままにはしておけないと感じて施設を出ますと言ってしまった手前、今の施設ほどよくできないと言われ、ほとんどの施設で断られ、そんなにみんな薬で寝かせているのかとか、腹もたったけど、もちろん、今、介護ヘルパーの研修をしているのでその仲間にきくと、良い施設もあるようで、ひどいところにあたったね、と言われてしまった。

結局、サ高住なら入れたけど、常に母をみてくれるわけではないので在宅に決めてしまった。


介護研修のある前後をショートにしてもらい、何とか父と母との3人で毎日大笑いしたり、泣いたり、転んだり、転ばせてしまったりとしながら時間が過ぎていってる。

仕事をしている時とは違う時間の流れを感じている。


介護研修でした事をしようとしても、忘れてしまったり、母だからいいや〜と思ったりして、実践にはなっていないけど、それでも学んでいると、認知の人ってそうだったんだ、とかこんな世界で生きているんだとか、考えさせられる事も多い。


夜は決まって、30分、2人で童謡を聴いたり歌ったりしているけど、昨日、眠気がおそって、2回も母に起こされた。一緒に歌っていると、嬉しそうに笑っている母がいて、茶摘みが流れた時は手遊びをしたかったのに、もうすっかり、忘れていて2人で笑いあった。

確かに、自分で体が動かせなくなってはいるけど、薬で眠らせておかないと行けないような事もなく、施設に対して腹だたしく感じる。施設の事情もあっただろうけど。

92歳の父は大変になったとは思うけど、夫婦にしかわからない時間を2人で居れる事を私は羨ましく思っている。


介護の先生は認知で死ぬんだよ、食べても飲み込む事を忘れて、胃瘻にしないとなればそれは、死んでしまうって事なんだよ、死因は認知にはならないけどと言っていた。


母をみていて、がんより認知のほうが嫌な病気だと感じるけど、認知を十分に堪能(?)している母はどうなんだろう。


この先、どうなるかわからないけど、今は自分の選んだ生活をするのみ。

不安でいっぱいな毎日だけど、母と父と過ごす毎日がきっと私にとって、幸せな時間だったと思える事を願っている。