前回のブログ『星に願いを 夢ではなくて・・・』 より 続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12618355770.html

 

2020/09/04  19:05 再投稿

9月2日に投稿した、当ブログ、2か所の追記を書かせて頂きましたので再投稿させて頂きました。 下記に追記箇所のリンクをはらせて頂きました。

 

 

リンク ⇒ 2020/09/04 追記① 黒原山 補足
 

 

リンク ⇒ 2020/09/04 追記②
ブログ最下部) 

 

======================================

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。

 

度重なる自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
お亡くなりになられたすべての方々のご冥福を心からお祈り申し上げます
感染した方々の早期回復を心からお祈り申し上げます

 

豪雨災害の当日、

令和2年7月3日からの大雨に関する関係閣僚会議(第1回)を開催

安倍総理大臣がその時におっしゃって下さった「お言葉の数々」が、不安な心に大きな安心をもたらして下さいました。

 

首相官邸 ホームページ より

令和2年7月3日からの大雨に関する関係閣僚会議

https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/actions/202007/04kaigi.html

 

 

首相官邸 ホームページ

令和2年7月3日からの大雨に関する関係閣僚会議 より 転記

 

※地元自治体と連携しつつ、政府一体となって・・

 

お言葉の通り、その後、復旧に向けての現地訪問、調査に、安倍総理大臣をはじめとする

関係閣僚の方々が次々と 「この地」にお越しくださいました。

国をあげての支援の数々、心から感謝致しております。

ありがとうござます

 

さらに

私は安倍総理大臣に、心から感謝致しております。

ありがとうございました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

災害後、2か月・・・この地でも新しい動きが始まりました!

 

球磨川流域の豊かな自然を積極的に活用する「グリーン・ニューディール」の考え方を軸に地域再生を図る

 

8月31日付の熊本日々新聞社様の記事

熊本豪雨復興、球磨川流域の自然活用を 有識者会議が初会合

ネットでも記事が公開されています

https://news.yahoo.co.jp/articles/b0894f4ca3145f4a26567803f73e612006dd697f

 

熊本豪雨からの復旧復興の方向性を議論する県の「くまもと復旧・復興有識者会議」(座長・五百旗頭真兵庫県立大理事長)が30日、県庁であり、球磨川流域の豊かな自然を積極的に活用する「グリーン・ニューディール」の考え方を軸に地域再生を図るよう蒲島郁夫知事に提案した。

 グリーン・ニューディールは、温暖化防止や再生可能エネルギー普及など環境分野に重点を置いた米国発の経済活性化策。世界恐慌の克服に向けて戦前の米国で推進されたニューディール政策が、テネシー川流域の総合開発を柱としており、球磨川流域の被災地復興にもこのイメージを重ねる狙いがある。

 

8月31日発行の熊本日々新聞社様 の記事には続けて

坂東眞理子昭和女子大学理事長様のお言葉として

『気候変動の影響が深刻化する中、新しい社会経済システムを作る地域開発のお手本になって欲しい』と強調

とのお話が記載されていました。

 

球磨川流域地域の復興

※温暖化防止や再生可能エネルギー普及など環境分野に重点を置いた

新しい社会経済システムを作る地域開発のお手本

 

未来へ夢を持つ事が出来る素晴らしい復興プランだと思いました。

感激しております

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

①久米部の発祥の地

先日、8月29日の早朝5時過ぎ・・・・

ふと山の方を見ると、とても幻想的な光景を目にしました。

スマホで思わず写真を撮ったのですが、実際に見るのとは迫力が違います😥

目の前に見えた空は・・

古代久米郷と呼ばれていたこの地の山々から「青い線」が天に繋がっているように見える

とても幻想的な光景でした。

 

 

写真の青い線が繋がって見える山頂が三角形のようなお山は久米の妙見山です。😊

写真右側に写るのは、黒原(くろばる)山

江戸幕府所有の地図には黒原山の山頂付近に「あま引嶽」と記されていました。

 

同日(8月29日) 久々にPM.2.5の影響が少なく、山々がとても綺麗でしたので、上記の景色をあらためて日中に撮影しました😊 (下の写真)

画面右下のこんもりとした森に見える場所が、ブログで何度かご紹介した湧水地

「湯川」(ゆがわ・ゆご)の木々です。

こちらの湯川(ゆがわ・ゆご)は、元々、うちの宮原家の所有地だったのですが、湯川の水が注ぎこむ、「井口川」の河川工事の際に、祖母が県に譲渡致しましたので、今は「県」の所有となっています。

ただ、湯川の水の神様をお祀りさせて頂く事は、家の宮原家が継承を続けさせて頂いております。

 

 

私の部屋から見える黒原山です。窓からアップにして撮影してみました

 

和名妙によると、球磨郡には六つの郷が置かれていました。

球玖(くく)郷・久米郷・人吉郷・東村郷・西村郷・千脱(ちぬぎ)郷 の六郷です。

 

久米郷とは・・・昭和54年編纂の「多良木町史」によると

『久米は黒原山の裾野一帯である』

と記されています。

古代の久米の象徴ともいえるお山が こちらの「黒原山(くろばるやま)」 となります😊

 

『久米は黒原山の裾野一帯である』

太田亮博士は・・・この地を・・・

 

太田亮博士 ウィキペディアを参照ください<m(__)m>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E4%BA%AE

太田 亮(おおた あきら、1884年7月1日 - 1956年5月27日)は、日本の歴史学者。氏族制度の研究で知られる。

大阪府吉野郡下市村(現・奈良県吉野郡下市町)に生まれる。

京都法政大学予科(現・立命館大学)を経て、1910年に神宮皇學館(現・皇學館大学)を卒業。山梨県立高等女学校教諭、内務省考証官補、同嘱託などを経て、1934年から西園寺家の「管見記」の編纂にたずさわる。同年、立命館大学講師。1941年に同教授となる。文学部長を兼ねた。1945年11月7日、「日本上代ニ於ケル社会組織ノ研究」で法学博士号取得。1949年、近畿大学教授。1955年、専修大学教授。講義の帰途に突然路傍で倒れ、午前4時30分、心臓動脈硬化症のため死去。

主著に『姓氏家系大辞典』。また『摂津』、『家系系図の合理的研究法』など多数の著書がある。

以上 ウィキペディアより 転記

 

太田亮博士が球磨郡久米郷について、如何なるお言葉を「姓氏家系大辞典」にてお書きであったのか・・・

「姓氏家系大辞典」 内 「久米」 の項 は 国立国会図書館デジタルコレクションにてご覧いただけます。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/172

 

久米の項は日本全国各地の久米氏について①~⑱の番号が振られ記されています。

最後の⑱は球磨郡久米郷について記されていました。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/176

 

 

肥後の久米部

和名妙、當國球磨郡に久米郷あり。

久米部の発祥地か。

 

『久米は黒原山の裾野一帯である』

久米部の発祥地か。

 

2020/09/04 追記① 黒原山 補足

球磨郡あさぎり町岡原(旧宮原村)に聳える黒原山(くろばる山)。

実は日向国、現在の宮崎県を流れる大河「大淀川」の源流、水源の山でもあります。

黒原山を源流とする大淀川の河口。

古くより大淀川河口の沖合「小戸の瀬」は小戸神社御鎮座の清浄地として祀られる聖地です。

 

大淀川は宮崎県の方々から「母なる川」として、昔から住民に親しまれてきました。

と書かれたブログを拝見致しました(^'^)

ブログ 宮崎のシンボル 母なる川に架かる「橘橋

http://www.qsr.mlit.go.jp/miyazaki/html/douro/tachibana_bashi/index.html

 

宮崎県の「母なる川」と呼ばれ親しまれている「大淀川」の母なる水は「黒原山」から湧き出す水である事に私は誇りを感じます。

肥後国球磨郡側の黒原山には肥後宮原銀山もあり、さらに過去ブログでご紹介しているように「黒原山」からは水銀(丹)、「辰砂」も採掘されます。

日本国内の水銀鉱床群はわずか4か所

私の地元は九州南部水銀鉱床群の一部だった・・・と言う事です

2019年11月投稿ブログ (再追記あり)石杵と赤いお顔と王冠の御神象 古代の井処

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12547026537.html

以上 追記①でした。

 

②91歳のおじの言葉

ブログ『私の過信と・・古の山々は雑木が自然のダムだった・・91歳のおじの言葉

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12613436858.html

で書きましたように

 

父の従兄である、91歳になる椎葉家のおじは

何故に山崩れや川の増水が増えているのか? その答えとして

それは 昔の山と今の山は違う からだ
古の山々は根が強い雑木が自然のダムだった

言います。

 

椎葉家のおじは

91歳になったおじさんが言う事だから、多くの人達に伝えて欲しい」と言っていました。

多くの人達に伝えて欲しいと言われた その言葉とは

『これからは、もっと山を愛して欲しい』

でした。

 

椎葉家のおじは、私と父に以下のような話をしてくれました。

昔の山はね・・・

『急な場所には雑木が生えていて、じゃらい(ゆるやかな、平な)場所に杉やヒノキが植えられていた』

 

『雑木はね、自然のダムになる。根っこが太くて地中に深く広く伸びている』

『だから、どんなに雨が降っても、その根っこが土を抱えてくれて、山崩れは起きなかった』

『雑木の下には葉っぱが積もって、それが時を経て、腐葉土となり、フワフワスポンジのようになって、山に降った雨を吸い込み、自然のダムの代わりになっていた』

『だから、昔は山に大雨が降っても、その雨はすぐに里に下りてくる事は無かった』

『大雨が降っても、雑木の生えた山が水を吸収して、その水は地下水となって里の恵みとなり、地下水以外は後で自然と川へ流れていく、』

 

『雑木は、栴檀の木や紅葉、栗やドングリの木、山桜 他色々あるぞ』

『栴檀の木やドングリの木は、わざわざ植えなくても、鳥や山の動物が生やしてくれる』

『栴檀の木は何年も待たなくても、あっと言う間に大きくなるぞ』

 

『急な場所には雑木が生えていて、じゃらい(平な)場所に杉やヒノキが植えられていた』

水上(球磨郡水上村)の滝を見れば一番解りやすいぞ!

 

水上(球磨郡水上村)の滝・・・・ ああ~あそこか! 私は「あの光景」が目に浮かびました。

2017年11月に書いた過去ブログ『球磨(古代久米)と山部 所縁の地の今秋』で

ご紹介した風景です!  皆様 ぜひ ご覧頂ければと願います!

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12328830375.html

 

私は・・・・ このブログでご紹介した風景、あの時見た風景が

球磨(古代久米)の治山治水における原風景である事に

当時 全く 気が付いていなかったのです!!

 

椎葉家のおじが言った 水上(球磨郡水上村)の滝とは

球磨郡水上村江代の「白龍王橋」「白龍妃橋」がかかる 白水の滝

球磨川源流に近い、球磨川支流「白水川」 の源流にかかる橋です。

 

江代地区から見た「白龍妃橋」

 

「白龍妃橋」の上から見た 風景

 

 

本当だ・・・・

急な場所には 雑木が生えていて・・・

比較的、ゆるやかな場所には 杉 が植えられている・・・・

 

さらに、ブログ『球磨(古代久米)と山部 所縁の地の今秋』でご紹介した

黒原山の反対側の槻木集落の風景

 

廃校となった槻木中学校の上、急な斜面には 雑木が一面に生えていて

杉は植えられていない・・・・

 

椎葉家のおじの言葉を聞くまでは、私は全く・・・何も気が付いていなかった・・・

気が付いていないまま・・・

2017年11月に『球磨(古代久米)と山部 所縁の地の今秋』と題して ブログを書いていた・・・

何という事なのだろう・・・このブログタイトル・・・

未曾有の大災害を受けて、初めて、私は、当時書いたブログの本質を知る事になってしまいました・・・

不思議は続き・・・

実は『球磨(古代久米)と山部 所縁の地の今秋』の直前に書いたブログのタイトルは・・・

『見えない大きな力』 だったのです・・・

見えない大きな力・・・お導きの意味を、本当の意味を、当時の私は・・・

全く理解していませんでした  ・・・・・・・

理解するのに・・・3年もかかってしまいました・・・

未曾有の大災害を経験して・・・初めて理解する事になってしまいました・・・

遅かった・・・

遅かった・・・でも・・・これから、多くの方々が、この事を真摯にお考え頂ければ・・

未来に対して、明るい光がさしてくる・・

私は、そう考え、そう願っております

 

 

椎葉家のおじの言葉・・・

『これからは、もっと山を愛して欲しい』

 

大きな御力のお導きも 『これからは、もっと山を愛して欲しい』 ではなかったのか・・・

 

『球磨(古代久米)と山部 所縁の地の今秋』・・・・

③久米族と山部 治山治水の原点

久米氏をあらためて ウィキペディアで見てみると・・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E6%B0%8F

 

久米氏(くめうじ)は、日本の氏族の一つ。

久米直
久米氏
(久米直)
氏姓    久米直
始祖    

1.味耳命(高御魂命系)
2.味日命(神魂系)
種別    神別(天神)
後裔    山部連


古代日本における軍事氏族の一つで、『新撰姓氏録』によれば高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があった。

久米部(「くめべ」と読む。来目部とも表記することもある)の伴造氏族(久味国造)。

『日本書紀』神代下天孫降臨章1書には、大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である大来目命(天久米命)を率いて瓊瓊杵尊を先導して天降ったと記されており、『新撰姓氏録』左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述がある。このことから、久米直・久米部は大伴氏の配下にあって軍事的役割を有していたと考えられている。

ただ、『古事記』には天忍日命と天津久米命の2人が太刀・弓矢などを持って天孫降臨に供奉したとあり、大伴氏と久米氏を対等の立場として扱っており、両氏の関係を考える上で一つの問題点となると思われる。

すなわち、久米部を統轄する一族がある時点で衰えたため、大伴氏がかわりに久米部を管理するようになったということである。『古事記』の伝承は、その古い形を伝えるものだったのかも知れない。

また、神武天皇東征説話に見える来目歌、戦闘歌舞の代表といえる久米舞は、久米氏・久米部の性格を考える上で重要である。

以上 ウィキペディアより転記

 

後裔    山部連

山部・・・とは ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%83%A8_(%E5%93%81%E9%83%A8)

 

山部(やまべ) または 山守部(やまもりべ) は、朝廷直轄の山林の管理や産物を貢納する職業部(品部)。およびそれを管掌する氏族。

概要
自営農民でありながら、時と場合に応じて、栗・竹・かつらなど、山林の所出物を貢献した。

全国的に設置され、宮城十二門の門号にも陽明門として名を残す軍事的な部の民である。

地方では「山部首」、あるいは「山部直」・「山部公」により統轄され、中央の伴造は「山部連」が担当した。山部連は、天武天皇13年(684年)に八色の姓が制定されたことにより、宿禰の姓を得ている

 

考証
この山部一族は、法隆寺に献納された「命過幡」(めいかばん)との関連性が問われている

「幡」(ばん)とは、仏の威徳を荘厳(しょうごん、かざりたてること)するための寺院内外に飾られる旗であり、「命過幡」とは臨終に際して浄土へ往生することを願って行われる命過幡燈法(めいかばんとうほう)のための供養の幡である。そこには、施入の年月日や姓入者、供養される人の名が記載されている。
法隆寺の命過幡は20例ほど知られており、そのうちの4例に山部氏が携わっている。

 

中略・・・・

法隆寺のある大和国平群郡(現在の奈良県生駒郡斑鳩町)には、山部連一族が居住し、大勢力となっていた情況が窺われる。
播磨国は「山部」、「山部直」、彼らを管掌する「山部連」、及び上宮家や法隆寺と密接な関係な関係があったのではないか。
山部一族と大原氏との関連性も今後の研究課題であろう。
というのが岸俊男の意見である。

以上 ウィキペディアより 転記

 

久米族と山部・・・ 山部は久米族の後裔

山部(やまべ) または 山守部(やまもりべ) は、朝廷直轄の山林の管理や産物を貢納する職業部(品部)。およびそれを管掌する氏族。

山林の管理

 

太田亮博士の見解

肥後の久米部

和名妙、當國球磨郡に久米郷あり。

久米部の発祥地か。

 

発祥の地から 

『これからは、もっと山を愛して欲しい』

と言う声をあげる事は、古代の方々が現代人に声をあげている警鐘をならしている

そういう事にもなるのでは!

私は そう考えました・・・・

 

これからも、治山治水についてしっかりと勉強して、この「球磨の地」から

発信を続けていきたい

そう考えています。

 

④球磨とチヌギ

今回のブログ、最初に書いているのですが

和名妙によると、球磨郡には六つの郷が置かれていました。

球玖(くく)郷・久米郷・人吉郷・東村郷・西村郷・千脱(ちぬぎ)郷 の六郷です。

 

以前から疑問だったのですが『千脱(ちぬぎ)郷』 のちぬぎ・チヌギって一体何なのだろう??と。

漢字に惑わされてはいけない・・と思い チヌギって一体何なのだろう?? 

と調べてみたのですが・・・・

「チヌギ」とは「千木」の本来の名称であったようです。

 

古代史の画像・日本人のルーツ 温故知新様サイト

神宮建築の原型(2)
出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    127~128頁

で詳しくお書きになられていらっしゃいました。

http://matmkanehara.blogspot.com/2010/05/blog-post_22.html

 

とても重要な事をお書きでいらっしゃいますので

勝手ながら 転記をさせて頂きます。

 

中略・・・・

私たちがこれまで<千木>を<チギ>とよんできたのは、
正しくは「チヌギ」(千之木)と助詞の「ヌ」を入れて、

読まねばならなかったのだ。
ということである。

なぜなら、<チヌギ>とは沖縄弁で、
ツ(チ)ノ(ヌ)ギ(角木)のことであり、
その原型たる<角木>はインドネシアに厳としで実在しており、
家屋文鏡もまた、
古型が 現在の千木よりも、
現在のインドネシアの<角型>に近かったことを
証明しているからである。

 

以上 古代史の画像・日本人のルーツ 温故知新様サイト より 転記

 

私たちがこれまで<千木>を<チギ>とよんできたのは、
正しくは「チヌギ」(千之木)と助詞の「ヌ」を入れて、

読まねばならなかったのだ。

 

球磨郡 チヌギ郷  チヌギとは「千木」の本来の名称

 

「千木」とは ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%9C%A8%E3%83%BB%E9%B0%B9%E6%9C%A8

 

千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)は、神社建築に見られる、建造物の屋根に設けられた部材である。

 

表記と呼称
千木の文献上での初見は、『古事記』の出雲大社創建条の「氷木(ひぎ)」であり、また「冰椽」とも表記され、『日本書紀』の神武天皇紀にも表記は異なるが、「ヒギ」と読ませている。『延喜式』の祝詞において、「千木」の表記が現れることから平安時代中期には、「チギ」と読まれたとみられる

以上 ウィキペディアより 抜粋致しました。

 

『古事記』の出雲大社創建条の「氷木(ひぎ)」であり

『日本書紀』の神武天皇紀にも表記は異なるが、「ヒギ」と読ませている

 

ヒギ の ヒ は 本来は氷ではなくて・・・

   肥 だったのではないのかな・・・

何故ならば・・・

出雲の斐伊川(ひいかわ) ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%90%E4%BC%8A%E5%B7%9D

斐伊川(ひいかわ)は、島根県東部および鳥取県西部を流れる一級水系斐伊川の本流。

古事記にも肥河(ひのかわ)として記述が見られる。

 

※古事記にも肥河(ひのかわ)として記述が見られる。

肥 = ひ  ヒ

 

肥の文字は・・・・球磨 久米 を表すようです・・・

以下

國學院大學古事記学センター 様 サイト をご覧下さい。

http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/ujizoku/kumenoatai/

 

倭王権の軍事的機能を担った久米部の伴造氏族。久米は来目とも書く。

表記としては来目が古く、久米は比較的新しいものとされる。

語源は不詳であり、「肥(球磨、クマ)」「組(クミ)」「垣(クベ)」などの説がある。

『古事記』(以下『記』と略す)においては、始祖・天津久米命が天忍日命(大伴連の始祖)とともに邇々芸命を先導し、大久米命が道臣命(大伴連の祖)とともに兄宇迦斯を討つなど、大伴連とともに武力をもって活躍する姿が描かれる。

 

ここまでで 理解出来た事

※久米は・・・= 肥 であり = 球磨・クマ   である

※出雲の肥河(ひのかわ)は = 斐伊川(ひいかわ) である

※肥 = ひ・・ヒ

※球磨の六郷  チヌギ郷

※チヌギは・・・= 千木の「千木」の本来の名称

※千木は・・・『日本書紀』の神武天皇紀にも表記は異なるが、「ヒギ」と読ませている

 

千木 = ヒギ = ・・・ 肥木 ではないのかな・・・

久米は・・・= 肥 であり = 球磨・クマ   である

さらに

球磨の六郷の一つ  チヌギ郷

チヌギ(千木)・ 肥木

私は・・何か・・・全て繋がっているような気がしてなりません

 

そして 1年程前からの過去ブログで何度も書かせて頂いているように

球磨・クマ の 地には

8万年前の遺跡が存在し、

さらに 

縄文時代初頭から 球磨・クマ の 地は

高度な文化が存在した、九州きっての縄文時代の大都市でありました・・・

私は・・何か・・・全て繋がっているような気がしてなりません

 

チヌギ・・千木 の原型たる<角木>はインドネシアに厳としで実在しており・・・

インドネシアと言えば・・・

 

インドネシア独立戦争を主導したスカルノ大統領(デビ夫人の御主人)

インドネシア独立戦争 ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89

 

日本人とインドネシア独立戦争 より

1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表し、独立戦争で特に貢献した市来龍夫と吉住留五郎に対し感謝の言葉を送った。

 

市来龍夫君と吉住留五郎君へ。

独立は一民族のものならず全人類のものなり。

1958年8月15日東京にて。スカルノ

 

市来龍夫君・・・市来龍夫氏は球磨郡多良木町 御出身の御方です。

市来龍夫氏についても、今後のブログでご紹介させて頂きたい と思っています。

 

球磨・・・・ 

日本全国に「熊(クマ)」や「隈(クマ)」の文字が付く地名は数え切れない程ありますが、

球磨(クマ)と付く地名は全国で唯一

そう・・ただ一つ 球磨郡 のみです。

次回は『球磨』の漢字について検証した事、『肥』の漢字について検証した事などもご紹介させて頂きたいと考えています。

 

最後までご覧頂き ありがとうございました。

台風に猛暑・・・

皆様方、十分にお気を付けてお過ごし下さい。

 

私は最近・・・所用続きでございます。

昨日もお手伝いさせて頂いたのですが・・・

今朝(9月2日)も、朝6時半より、幼なじみのビニールハウスで、台風対策の為の、緊急収穫を行って参ります!

(`・ω・´)ゞ

 

2020/09/04 追記②

台風10号が近づいています。

幼なじみのビニールハウスで、本日も朝からお手伝いをさせて頂きました。

明日も、朝6時30分から、台風前の緊急収穫を行います。

9月2日、れきたんくん様から頂いたコメントへの返信でも書かせて頂いたのですが

ビニールハウスでの緊急収穫では汗がシャワーを浴びているように止まりません。

幼なじみは台風10号に対して、ビニールハウスを全開にして、2mくらいの背丈になっているキュウリは、倒して、対応するそうです・・
折角、精魂込めて育てた植物なのに可哀そうです。
幼なじみは「1週間程はおそらく、しな垂れているけれど、中で元気を取り戻すのが出てきたら、もう一度立て直す」と言っています。凄く、前向きです。

ただ、とても残念そうでした。

7月の豪雨災害を切り抜けた、水田では、すでに稲穂が実り始めています。

 

昨日から、少なくとも3日分の食料と水の確保をとの報道を拝見して、ドラッグストアーや

スーパーを周っているのですが、ペットボトルの飲料水は昨日からどの店も棚は空っぽです。

飲料水は、災害の時に購入したコック付きタンクを利用しますが、パン類はようやく今日、購入する事が出来ました(^'^)

7月の大災害を受けて、地元の方々は早め早めの対策を行われています。

 

今日、福岡管区気象台の記者会見で「7月の豪雨災害を受けた地域でも、同様、それ以上の大雨が降る可能性がある」とのお話がありました。

今回の台風10号は大雨を伴う、暴風雨となる予想で・・・・

7月の豪雨災害を受けて、過信を失くした私は・・・本当は とても怖いです

だからこそ、万全の対策を行って、命を守る行動に徹したい! と思います。

 

このような状況で、時間を取ってゆっくりと皆様方のブログを拝見する事が出来ず、

申し訳ございません。

 

台風が近づく、沖縄・九州だけではなく、全国に影響が及ぶ可能性があります。

皆様方も万全の対策をお取りになられ、ご安全にお過ごし下さい。

 

どうか、どの地でも 被害が出ませんように
と 祈っています。

 

愛する球磨の地より ひろっぷ でした

 

次回『今後の為の記録 台風接近前と通過後・・濁流に注ぐ清らかな流れ』に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12623696340.html