前回のブログ『湯川(ゆご)周辺は倭人伝の原風景・・・揃ってしまうのは何故だろう・・

より 続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12624774207.html

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。
 
度重なる自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
お亡くなりになられたすべての方々のご冥福を心からお祈り申し上げます
感染した方々の早期回復を心からお祈り申し上げます

 

ワクチンの開発が世界中で進んでいますね(^'^)

全世界の方々に平等にワクチンが行き渡り、この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

前回のブログで、主人が大葉と見間違えた、沢山生えた「草」が実はただの草ではなく

紵麻  カラムシ

であった・・・と言う事を書かせて頂きました。

中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(通称 魏志倭人伝)に記された言葉

種禾稻・紵麻

(倭人は)稲、紵麻(からむし)を植えている。

 

家の周囲の道端に群生している紵麻  カラムシ あらためて写真を撮りました😊

こんな感じで100m程 群生しています。

 

中国のサイト様に載っていた紵麻の写真

 

やっぱり(p_-) ただの草じゃなくて(ー_ー)!!

家の周りに生えている「草」は・・・・紵麻(からむし) です😊

 

最近の私は、毎朝、7時から幼なじみのハウスでキュウリの収穫を行っています。

本日9月21日も朝7時から収穫のお手伝いをさせて頂きました。

キュウリは、かなり元気になって参りましたよ~\(^o^)/

もちろん収穫高は激減していますが、それでも、元気に大きくなったキュウリを見ると

私は、凄く嬉しくなります。

実は、先日(9月19日)球磨の定番「茶まん」(言うなればティータイム)の時、幼なじみ夫妻に前回のブログ内容を簡単に説明して(p_-) 紵麻  カラムシの話をしたのです。

 

でっ・・「紵麻  カラムシってどんな草?」と聞かれたので ふと ハウスの前を見ると・・・

あっ!\(◎o◎)/! あれっ!あれよ!!

何処にでも生えているので気が付かなかったのですが、ハウスの前の道端にも

「紵麻  カラムシ」は沢山自生していました(^'^)

 

すると・・・幼なじみの奧さん(私と同じ年)が

あっ!紵麻  カラムシってポンポン草 たい!」 と・・・・・

あああああ~っ! そうでした! ポンポン草だ!

 

子供の頃、指を輪っかにして紵麻  カラムシの葉を乗せて叩くと

「ぽ~ん!」と言うので、遊んでいました。

そうです。「紵麻  カラムシ」 私達、子供は ポンポン草と呼んでいました。😀

幼なじみの奧さんはあさぎり町上(旧上村※うえ村)出身なのですが、幼なじみは

ポンポン草なら、何処にでも生えとるタ~イ!」と。

そうです、紵麻  カラム(ポンポン草)は、私達の生活エリア、何処にでも生えている身近な植物でありました😊

 

下の写真・・・

田んぼばかりですが、私が住む旧久米郷宮原村の宮麓とはこういう地域であります😊

旧岡原村大字宮原(現あさぎり町岡原北)。

この地・・住居登録上、田地登記上は旧宮原村の時代から・・・大字 宮野(みやの)

であります。

宮麓・・・ この地のは大正時代まで府本と記されていました。

 

下の写真

ここから、真っすぐ道を進むと、

中嶋大権現(中嶋霧島神社※宮原神社)の別当寺

龍泉寺の観音堂であった宮原観音堂(みやのはる観音堂)があります。

※写真は3年程前に撮ってブログに載せていました(^'^)

 

 

久米 妙見山より見た、私達が住む球磨川上流域 旧球磨郡久米郷久米村・宮原村の

風景  山の中ではなく 平野です😊

 

この地の何処にでも生えている植物 紵麻  カラム(ポンポン草)は、

すご~く身近な植物であります(^'^)

 

今回のブログタイトル『球磨と彦の漢字の成り立ちと熊津彦、難升米様親子

まずは・・前回のブログの補足を書かせて頂きます。😀

 

①球磨川は別称「木綿葉川(ゆうば川)」

前回のブログで、球磨川の別称を「木綿川(ゆうば川)」と呼ぶ事を書かせて頂きました😊

marineと奈央様から頂いたコメントの返信にも書かせて頂いたのですが

江戸時代後期の相良藩士田代 政鬴(たしろ まさかま)編纂の相良藩史の名前は
求麻外史』 です。
球磨を別称「求麻」と呼ぶ理由は 求麻外史によりますと
昔(古代)、八代の者が川から
麻の葉が流れてきたので、上流に行くと人が麻を作っていた。

そして麻を求めに人がやって来るようになったので、この地「球磨(クマ)を[求麻(クマ)]とも

呼ぶようになったそうです。
求麻外史にも記されている「藤原定隆の和歌」も この話に由来します。


夏来れば 流るる麻の木綿葉川
誰水上に禊しつらむ

 

藤原定隆 ウィキペディアより 抜粋致します

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E9%9A%86

 

藤原 定隆(ふじわら の さだたか)は、平安時代後期の公卿。

藤原北家良門流、権中納言・藤原清隆の子。官位は従三位・左京大夫

中略・・・

仁平2年(1152年)加賀守に任ぜられる。仁平3年(1153年)正五位下に叙され、久寿元年12月(1155年2月)に右兵衛権佐を務め、春宮権大進を兼ねる。

母が乳母を務めた近衛天皇近臣の1人で、天皇崩御の際に天皇の居所である近衛殿から天皇の父母(鳥羽法皇・美福門院)のいる鳥羽殿に駆け込み、崩御の一報を伝えている。

保元2年(1157年)従四位下・皇太后宮亮に叙任されると、丹波守・三河守・越中守・伊予守・備中守と各国の受領を歴任。応保2年(1162年)右馬頭、永万2年(1166年)左京大夫をそれぞれ兼任する。仁安2年(1167年)、後白河上皇の院別当を務め、法勝寺の千僧読経において禄を賜っている
後白河上皇の院近臣でありながら、二条天皇期には天皇親政派であったことが知られ、

二条天皇による伊勢神宮遥拝の再興に定隆が深く関与していた
仁安3年(1168年)従三位・皇太后宮亮に叙任され公卿に列す。
以上 ウィキペディアより 抜粋

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

近衛天皇様の近臣の1人で、さらに後白河上皇様の院別当を務め

さらに・・・

二条天皇様による伊勢神宮遥拝の再興に深く関与していた藤原定隆。

この方が何故? 球磨の、球磨川の古代の事を和歌に詠まれたのか・・・

皆様、不思議だとはお思いになられませんか?

 

夏来れば 流るる麻の木綿葉川
誰水上に禊しつらむ

 

平安時代の天皇様の近臣でいらした公卿の方でも、

古代の球磨の事はよ~く御存じであったようです・・・

当時の球磨は 球磨御領と呼ばれる 治天の君が荘園領主であられた

天皇領 王家領

でございました。

 

前回のブログでも書きましたが

万葉集の代表的歌人である柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌
「肥人 額髪結在 染木綿 染心 我忘哉」。
 

漢文の読み方。
肥人(こまひと)の額髪(ぬかがみ)結へる染(しめ)木綿(ゆふ)の染(し)みにし心我れ忘れめや。 
意味は、球磨人(くまひと)が草木染めの麻で髪を結われていた珍しい姿が心に染みついて離れないように、あなたのことがどうしても忘れられない。この歌では、「木綿 ゆふ」は麻のことであると解釈されている。

 

「木綿」 ゆふ

其風俗不淫。男子皆露紒、以木緜頭。婦人被髪屈紒・・・
その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿 (ゆう)の布を頭に巻いている。

婦人は髪に被り物をし後ろで束ねて・・・

 

私は・・・

いつの時代も 日本の中心域にいらした一部の方々は「木綿(ゆふ)」に繋がる球磨の事を

よ~く御存じでいらした

と考えざるを得ません

さらにこの地に聳える黒原山からは・・・・朱(辰砂)が採掘されます。

 

②朱(辰砂)が採掘される黒原山の府本

朱(辰砂) 画像 ウィキペディアよりCinnabar on Dolomite.jpg

 

私が住む地域は現在は球磨郡あさぎり町岡原ですが、平成の大合併前は球磨郡岡原村

旧岡原村時代の平成元年9月に発行された『おかはる』には、文化8年に作成された「宮原村古地図」が、表紙に使用され、他にもページ内に小さく記載されています。

 

表紙はもちろん 黒原山 です 😊

 

 

下の写真 山頂が途切れていますが、黒原山の麓地域が描かれています

 

かなり以前、ブログでも書いていたのですが、古地図に見える、森?に囲まれた空間のように見える場所・・・不思議な空間に見えますが・・・ここが「府内」です。

下の地図で枠で囲んでみました・・

枠で囲んだ中が、府本の中の字「府内」。

枠で囲んだ府内の左側中央付近が稲積妙見鎮座地です。

枠で囲んだ中の森のような・・府内を守るように見える場所が 字「外園」

字「外園」は私が今住んでいる場所なのですが・・・

昭和21年に今の場所に移る前は、家の宮原家は府内の中に唯一、一軒だけありまして

この字「府内(馬場田)」は、以前ブログで書いた事もあるのですが、

字「府内」はうちの宮原家の本籍地となり、
今は、外園に住んでいますが、父曰く、「本籍地は府内(馬場田)から絶対に動かしてはならない!」という掟(おきて?)をきつく言われております。

🙄🙄・・・(?_?)・・・(?_?)・・・(?_?)・・・

で・・・最近、あらためて何故?と 父に聞いたのですが、父は祖母から言われていた事であり

「うちの宮原家を継ぐ者は、必ず『府内(馬場田)』に本籍がなくてはいけない!」と言われていたそうです・・・

🙄🙄・・・(?_?)・・・(?_?)・・・(?_?)・・・

ちなみに・・・

『府内』を守るように張り巡らされた?外園。

字「外園」 が 通称 侍村(まちむら)と呼ばれる地域であります。

 

黒原山でも採掘される辰砂(朱)・・・

Cinnabar on Dolomite.jpg

 

再度ウィキペディアより 辰砂(朱)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E7%A0%82

 

辰砂(しんしゃ、英: cinnabar)は硫化水銀(II)(HgS)からなる鉱物である。別名に賢者の石、

赤色硫化水銀、丹砂、朱砂などがある。日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。

水銀の重要な鉱石鉱物。

不透明な赤褐色の塊状、あるいは透明感のある深紅色の菱面体結晶として産出する。

『周禮』天官冢宰の鄭注に「五毒、五藥之有毒者」のひとつにあげられるなど、中国において古くから知られ、錬丹術などでの水銀の精製の他に、赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されている。

中略・・・

中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになった。

日本では弥生時代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも其山 丹有」と記述されている。

 

画像 ウィキペディアより 金属光沢のある辰砂の結晶。

Cinnabar-Dolomite-Quartz-278325.jpg

 

※日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。 水銀の重要な鉱石鉱物。

鉱石鉱物・・・・なるほどねぇ・・・

何が なるほどねぇ~ なのかと言いますと・・・(後ほど(p_-) )

 

③熊縣(球磨縣)の

熊津彦様と御子息 難升米 様

前回のブログ『湯川(ゆご)周辺は倭人伝の原風景・・・揃ってしまうのは何故だろう・・』で

「松野連系図」では球磨縣の熊津彦様の御子息は・・ 難升米 様である・・

と記されている事をご紹介致しました。

 

松野連系図   (注記は『鈴木 真年』氏と思われる)

※鈴木 真年氏 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E7%9C%9E%E5%B9%B4

鈴木 真年(すずき まとし、鈴木眞年とも。天保2年(1831年)- 明治27年(1894年)4月15日)は日本の江戸時代末期から明治時代にかけての系譜研究家・国学者。

初めは紀州徳川家に属して系譜編輯事業を担当、明治維新後は弾正台に属して新政府の下での系譜編纂事業に就く。のち、宮内省・司法省・文部省・陸軍省と所属を変遷しながらも、この間に系譜編纂を継続し公的・私的いずれの立場においても多数の系譜集を編み世に送った。

 

松野連系図

 

難升米 様 とは ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E5%8D%87%E7%B1%B3#:~:text=%E9%9B%A3%E5%8D%87%E7%B1%B3%EF%BC%88%E3%81%AA%E3%81%97%E3%82%81,%E9%AD%8F%E3%81%AB%E4%BD%BF%E3%82%8F%E3%81%97%E3%81%9F%E5%A4%A7%E5%A4%AB%E3%80%82

 

邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫。

『三国志』魏書巻三十・東夷伝・倭人の条(魏志倭人伝)中に卑弥呼の使いとして登場する。

景初2年(238年)6月、卑弥呼は帯方郡に大夫の難升米と次使の都市牛利を遣わし、太守の劉夏に皇帝への拝謁を願い出た。

劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送った。難升米は皇帝に謁見して、男の生口4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。

12月に皇帝は詔書を発し、遠い土地から海を越えて倭人が朝貢に来た事を悦び、卑弥呼を親魏倭王と為し、金印紫綬を仮授した。皇帝は難升米と都市牛利の旅の労苦をねぎらい、

難升米を率善中郎将に牛利を率善校尉に為して銀印青綬を授けた。

正始6年(245年)、皇帝は詔して、帯方郡を通じて難升米黄幢(黄色い旗さし)を仮授した(帯方郡に保管された)。正始8年(247年)に邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために帯方郡塞曹掾史張政が倭国に渡り、その際に難升米に黄幢と詔書を手渡している

以上 ウィキペディアより 抜粋

 

※「松野連系図」では球磨縣の熊津彦様の御子息は・・ 難升米 様である・・

球磨縣の熊津彦様とは・・・

日本書紀 景行天皇(十七)兄熊と弟熊、水嶋の崖の泉

日本書紀 景行天皇18年紀 山部阿弭古と水嶋

 

原文
夏四月壬戌朔甲子、到熊縣。其處有熊津彦者、兄弟二人

天皇、先使徵兄熊、則從使詣之。因徵弟熊、而不來、故遣兵誅之。

壬申、自海路泊於葦北小嶋而進食、時召山部阿弭古之祖小左、令進冷水。

適是時、嶋中無水、不知所爲、則仰之祈于天神地祗、忽寒泉從崖傍涌出、乃酌以獻焉。故號其嶋曰水嶋也、其泉猶今在水嶋崖也。


現代語訳
(即位18年)夏4月3日に熊県(クマノアガタ=現在の熊本県球磨郡・人吉市)に到着しました。そこに熊津彦(クマツヒコ)という兄弟が二人いました。天皇はまずは兄熊(エクマ)を呼び寄せました。すぐに使者に従って、(天皇に)詣でました。次に弟熊(オトクマ)を呼び寄せました。しかし来ませんでした。そこで兵を派遣して誅殺しました。

 

※時召山部阿弭古之祖小左 令進冷水。 とは

山部阿弭古が祖「小左」を召して,冷き水を進らしむ。

と言う意味で・・・

 

つまり(^'^) 山部阿弭古と言う方のご先祖様「小左」さんは・・・ここに住んでいましたよ!

と言う意味でございます。

山部氏の先祖は 久米氏 久米族・・・

なぁ~んだ・・日本書紀には、ちゃんと書いてあるではありませんか!😀

「小左」さんは・・・大・中・小 ・・で考えると・・・

球磨の古代の権力者に使える中では3番手となる方かな??

 

大変不敬ではありますが・・・私は

景行天皇様の御名を使って、日本書紀の編纂者の方々が、

当時の球磨には「こういう人達がいましたよ!」と後世に伝えていらっしゃるような・・・

そういう意味に捉えております・・・

 

球磨の当時の権力者・・・

ああ~・・・ あの鏡を所有していた方々なのかもしれません・・・・

過去ブログ 球磨 あさぎり町の遺跡からの出土品 より

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12313557213.html

 

鎏金獣帯鏡 レプリカ 写真

 

あさぎり町教育委員会は、鎏金獣帯鏡がどのような姿であったのか「成分」も含めて完全復刻「模造品」を作成されました。
 

鎏金獣帯鏡 「完全復刻 模造品」 写真

 

 

 

 

所で・・・・

私は熊津彦様の・・・彦と言う文字がどうしても気になっていたのですよね・・・

④彦の漢字の成り立ち

彦の漢字は  

彦 - ウィクショナリー日本語版 - Wiktionary によると・・・

意義
才能のある人、俊才、英才。
(ひこ)上代日本語の和語で高貴な男性を指す。
対義語: 姫

 

とあるのですが・・・私ひろっぷは、これだけではどうも納得しないでいたのです・・

(変わり者ですから・・・)

そこで、さらに 彦の漢字をもっと調べてみました(p_-)

すると・・・私が納得する回答を見つける事が出来ました!\(^o^)/

 

漢字/漢和 語源辞典 様 サイトより 「彦/彥」という漢字

https://okjiten.jp/kanji1730.html

 

私が納得した その意味を 勝手ながら画像をお借りしてご覧いただきます<m(__)m>

 

「人の胸を開いて、そこに入れ墨の模様を書く」象形(「模様」の意味)と

削り取られた崖」の象形と「長く流れる豊かでつややかな髪」の象形(「模様・飾り」の意味)から、崖から得た鉱物性顔料の意味を表し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、それを用いる「美青年」、「才徳のすぐれた男子」、
「男子の美称」を意味する「彦」という漢字が成り立ちました。

以上 漢字/漢和 語源辞典 様 サイトより 「彦/彥」という漢字

 

※入れ墨の模様

※「削り取られた崖」

※「長く流れる豊かでつややかな髪」(「模様・飾り」)

※崖から得た鉱物性顔料の意味を表し

※それを用いる「美青年」、「才徳のすぐれた男子」

 

あ~ なるほど~ 納得!!

先に書いた

※辰砂 日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。 水銀の重要な鉱石鉱物。

鉱石鉱物・・・・なるほどねぇ・・・

何が なるほどねぇ~ なのかと言いますと・・・

が ここに繋がる訳です😊

 

つまり

彦の文字が付く古代の方は

入れ墨があり、さらに崖から得た鉱物性顔料「丹(に)・辰砂」を使用した「美青年」、「才徳のすぐれた男子」

と言う意味である!

 

彦の文字と「丹(に)・辰砂」は繋がっている!

 

ここで・・・

ベンガラは? とお考えの方もいらっしゃるかと思うのですが・・

ベンガラではダメです(ー_ー)!!

ベンガラなんて、この地域「球磨・人吉」ではどこででも採れます。

ここ球磨では、今でも畦道なんかで ダラダラと普通に流れております(^'^)

 

例えば、私の住む集落「宮麓」の田んぼのあぜ道。 ベンガラダラダラ・・・

地元の古代の鉄の研究家 「宮广(みやま)」様から写真を頂きました😊

 

球磨郡内の各所でベンガラはダラダラ~

 

ベンガラは球磨郡内のどこででも採れる そんなに珍しいものではないので・・・

ベンガラではダメなのです(ー_ー)!!

権力者の威厳を示すためには 日本でも僅かな地域でしか採掘されない「丹(に)・辰砂」 でなくてはダメなのです!!

 

彦の文字と「丹(に)・辰砂」は繋がっている!

ようやく・・・私は秘密に気が付いたのかもしれません・・・🙄・・・ニンマリ😏

 

日本国内におけるわずか4か所の水銀鉱床群

この4か所の水銀鉱床群と縄文時代の大都市 が重なっている事に気が付いたのですが・・

その件は次回に書かせて頂きます(^'^) <m(__)m>

 

古代の方々のお名前「彦」を「日子」と表される場合もありますが、

私は縄文時代から続く古代日本の風習を考えるに

今回調べた「」の文字がお付きになられる御方々が持つ

丹(に)・辰砂」を使用する事が可能である!と言う、プライド

その周辺の方々の「」の文字がお付きになられる御方々へ対する敬意を感じずにはいられません。

 

⑤球磨の漢字の成り立ち

ブログ『(再投稿)球磨(久米)の古代久米人が継承した治山治水』で書いたのですが・・

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12621016123.html

 

球磨・・・・ 
日本全国に「熊(クマ)」や「隈(クマ)」の文字が付く地名は数え切れない程ありますが、
球磨(クマ)と付く地名は全国で唯一
そう・・ただ一つ 球磨郡 のみです。

 

ただし・・・球磨郡内には熊山とか熊の付く地名は複数あります。

でも、何故? ここは 球磨(クマ)なのか・・・

漢字に興味を持ちました(p_-)

 

漢字/漢和 語源辞典 様 サイトより 「球」という漢字の成り立ち

https://okjiten.jp/kanji473.html

 

マタマタとても重要なので、

その意味を 勝手ながら画像をお借りしてご覧いただきます<m(__)m>

 

3つの玉を縦のひもで貫きとおした」象形と「さき開いた毛皮」の象形(「求める」の意味だが、
ここでは、「1点を中心に集まる」の意味から1点を中心にまるくなっている「
美玉」を意味する「」という漢字が成り立ちました。

以上 漢字/漢和 語源辞典 様 サイトより 「球」という漢字の成り立ちより

 

球 の成り立ち

※3つの玉を縦のひもで貫きとおした

※「美玉」を意味する

 

3つの玉を縦のひもで貫きとおした美玉って何だろう?? 

調べました(p_-)

【漢字トリビア】「玉」の成り立ち物語様 サイト より

https://www.excite.co.jp/news/article/TokyoFm_aUfmKguLVY/

 

「玉」という字は象形文字。
三本の横線が「玉」そのものを表し、縦一本の線はそれらの玉を貫く紐を表しています。
数珠や首飾りの一部のような形を描いて「玉」のことを示しているのです。
古代中国には、この「玉」という漢字そのものの形をした、佩玉(はいぎょく)と呼ばれる装身具がありました。

中略・・・

玉を紐でつなげたこの飾りを、人々は腰帯に吊り下げていたといいます。
殷や周の時代において、その玉は装飾品というよりも、お守りや厄除けとして用いられていました。

当時の人々は、強くて堅い光沢のある玉に、特別な力を感じていたのです。

中国最古の漢字字典『説文解字』によると、美しい「玉」には、人間がそなえるべき五つの徳がある、と記されています。
人を温かく思いやる「仁」の心、澄んだ目をもって正しい道を知る「義」の心。
打てば響く智恵の「智」に、何者をも恐れない勇ましさ「勇」。
そして、清廉で潔い様子を意味する高潔の「絜(潔・ケツ)」。

いにしえの人々は、そんな徳をもつ玉を身につけておけば、その力が我が身にもたらされると考えたのです。

以上 【漢字トリビア】「玉」の成り立ち物語様 サイト より 転記

 

※中国最古の漢字字典『説文解字』によると、美しい「玉」には、人間がそなえるべき五つの徳がある、と記されています。

※古代中国には、この「玉」という漢字そのものの形をした、佩玉(はいぎょく)と呼ばれる

装身具がありました。

 

佩玉(はいぎょく)とは 何だろう さらに調べました(p_-)

徳に喩えられた佩玉 様サイトより

https://www.epochtimes.jp/jp/2011/04/html/d30157.html#:~:text=%E3%80%90%E5%A4%A7%E7%B4%80%E5%85%83%E6%97%A5%E6%9C%AC4%E6%9C%88,%E9%81%A5%E3%81%8B%E3%81%AB%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 

【大紀元日本4月18日】佩玉(はいぎょく)とは、腰帯などの着衣につり下げる玉(ぎよく)製の装身具のこと。

古代中国で愛用され、古代人の服装によく見られる。玉の種類によって身分をあらわしたとされているが、古代人の佩玉への愛着を鑑みると、装身具の一部としての役割を遥かに超えていた。

 

中国の古書『礼記・玉藻』は「古の君子は必ず佩玉を帯び、理由なく玉を身から離すことはなかった(古之君子必佩玉,君子无故,玉不离身)」と記述している。

なぜ古代の君子は一時も身から離さないほど、佩玉を珍重したのだろうか。

 玉は単に美しいだけでなく、十一の徳がある(玉有十一徳)といわれている。

中国古代の有名な思想家、孔子は玉が十一の徳を持つことを説き、君子の徳を玉に喩えた。

儒家の教えでは、十一の徳とは仁、智、義、礼、樂、忠、信、天、地、德、道を指す。

中国伝統思想の基盤ともいえるこの十一の徳を、後継者は「仁愛、義挙、礼儀、知恵、信頼(仁、義、礼、智、信)」という五徳にまとめ、玉は正にその思想のシンボルとなったのだ。

 

このため、古代の人々は常に佩玉を身につけることで、玉のように澄んでやさしく、高尚な美徳を常に心に抱くよう、気遣ったのだ。
以上 徳に喩えられた佩玉 様サイトより転記

 

 

球磨の球という漢字の成り立ち まとめ

※3つの玉を縦のひもで貫きとおした「美玉」を意味する

「美玉」とは佩玉(はいぎょく)の事である

※中国の古書『礼記・玉藻』は、「古の君子は必ず佩玉を帯び、理由なく玉を身から離すことはなかった(古之君子必佩玉,君子无故,玉不离身)」と記述している。

※その理由は・・・

美しい「玉」には、人間がそなえるべき五つの徳があるから

人を温かく思いやる「仁」の心、

澄んだ目をもって正しい道を知る「義」の心。
打てば響く智恵の「智」に、何者をも恐れない勇ましさ「勇」。
そして、清廉で潔い様子を意味する高潔の「絜(潔・ケツ)」。

 

球磨の「」の漢字の意味を成り立ちを調べたら・・・私

感動致しました!!

素晴らしい・・・・

 

さらに・・・

琉球王国の「球」も同じ意味合いで「球」が付いているのでは・・・とも考えました。

 

球磨(クマ)

何故? 熊や隈の文字と区別しているのか・・

私は・・・何か・・・漢字の意味にふさわしい 根源 がある場所だから・・

ではないのかな・・と考えております・・・

 

さらに続けて球磨の・・磨

漢字/漢和 語源辞典 様 サイトより 「磨」という漢字の成り立ち

https://okjiten.jp/kanji2044.html

 

マタマタとても重要なので、

その意味を 勝手ながら画像をお借りしてご覧いただきます<m(__)m>

 

「切り立った崖の象形とあさの表皮を
はぎとる象形」(「
」の意味)と「崖の象形と崖の下に落ちている石の象形」(「石」の意味)で

麻は表皮を水に浸してつぶして繊維をとる所から、「すりつぶす」、「すりつぶす為の石うす」を意味する「磨」という
漢字が成り立ちました。

以上 漢字/漢和 語源辞典 様 サイトより 「磨」という漢字の成り立ちより 転記

 

は表皮を水に浸してつぶして繊維をとる所から、「すりつぶす」、「すりつぶす為の石うす」を意味する「磨」という
漢字が成り立ちました。

 

あんれ~っ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

麻に「木綿(ゆふ)」に繋がっていました!!!!

ビックリ!

 

球磨の「磨」

な~んだ そう言う事か!!

 

 

 

ここまで調べて感じた事

球の漢字の成り立ち、磨の漢字の成り立ち

和名類妙に記された 球磨郡

この漢字をこの地にお充てになられた御方は

古代の球磨の事をよ~く御存じでいらしたようです!

 

和名類妙に記された 球磨郡

この漢字をこの地にお充てになられた御方々は

一体 どのような御方々でいらっしゃったのか・・?

大体の推測は出来ております<m(__)m>

 

今回は治山治水について触れていませんが・・杉について新たに気が付いた事がありますので次回書かせて頂きます😊

 

今回も、凄く長くなってしまいましたので書式があまり付けられませんでした・・😥

でも、私・・・何だか核心に迫ったとても大事な事に気が付いているのかもしれない・・

と思っています。

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皆様、最後まで、ご覧頂きありがとうございました。

寒暖差が厳しい季節になって参りましたが、お身体十分にお気を付けてお過ごし下さい。

 

愛する球磨の地より  ひろっぷ でした😊

 

次回『第一回国勢調査から・・うちの宮原家の事がまた少しだけ解りました』に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12627410882.html