前回のブログ『球磨と彦の漢字の成り立ちと熊津彦、難升米様親子』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12626067814.html

追記 2020/09/26 6:00

2020-09-25 21::51投稿の当ブログ「誤字」の修正と文章の追加等で再投稿致しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。
 
度重なる自然災害、さらに新型コロナ

ウィルスの感染により、
お亡くなりになられたすべての方々のご冥福を心からお祈り申し上げます
感染した方々の早期回復を心からお祈り申し上げます
開発の進むワクチン・・
全世界の方々に平等にワクチンが行き渡り、この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今回のブログタイトル

第一回国勢調査から・・うちの宮原家の事がまた少しだけ解りました

前回の続きの前に、先日9月24日初めて「意味を知った」曾祖父が頂いていた「章」について書かせて頂きます。<m(__)m> 

 

①曾祖父が頂いていた

       第1回 国勢調査記念章  

 

先日令和2年9月24日発行の熊本日日新聞社様の「新生面」を読んでいた父が

とても面白い話が書かれているぞ!と私に紹介してくれました。

 

令和2年9月24日発行の熊本日日新聞社様の「新生面」 より 抜粋致します。

5年に一度の国勢調査は今年、100年の節目を迎えた。

欧米諸国から遅れること1世紀あまり、1920年(大正9年)の第1回調査は

「一等国の仲間入りだ」と国を挙げてのお祭り騒ぎだったという。

〈”調査員は紋付、ハカマなどの正装で”という指示があって、初めて背広を買った調査員も何人か。町には”国勢調査”のイルミネーションが輝き、花電車が走り・・・〉第1回の華やかな様子が50年前の本誌にあった。

中略・・・・

名誉職であった調査員は、今やなりて不足だ。・・・・

以下 省略させて頂きます<m(__)m>

以上 令和2年9月24日発行の熊本日日新聞社様の「新生面」 より抜粋

 

上記の記事を、何故か?😌声を出して読み上げてくれる父。

すると・・気が付いたのです・・

「名誉職・・? うん? お父さん、確か家(宮原家)の曾じいちゃん、第1回の国勢調査には

関わっているはずよ!・・」

と 私。

祖母が保管していた曾祖父の勲章?のような物にそういう事が書いてあったのを以前見かけた記憶があったからです。

父は・・・えっ?曾じいちゃんが・・どれどれ見せなさい(p_-)・・と。

 

皆様にもご紹介させて頂こう!と思いまして写真を撮りました😊

 

国勢調査記念章 と書かれた木箱

 

 

記念章 表

 

 

記念章 裏

 

 

ナンテ書いてあるのかな? とアップにしました😊

 

 

大正9年 国勢調査 記念章 十月一日

とあります😊😊

100年前の物です・・・ 箱も記念章も、マダマダ綺麗です。

 

父と二人で「名誉職」だったんだぁ~ と 少し驚きながら、すぐに調べたくなる私は、この章は一体どういう人達が頂いた「記念章」だったのか気になり調べました(p_-)

 

 

ウィキペディア 国勢調査 (日本) 調査員 国勢調査員 より

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8B%A2%E8%AA%BF%E6%9F%BB_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#%E5%9B%BD%E5%8B%A2%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%93%A1

 

国勢調査員
国勢調査員は総務大臣の任命による非常勤の国家公務員という位置づけである。


戦前においては、調査員になることは名誉なこととして地域で受け止められていた。

 

第1回国勢調査の2年前に公布された国勢調査施行令(大正7年勅令第358号)では、

「国勢調査員ハ府県知事ノ推薦ニ依リ内閣ニ於テ之ヲ命ス」

「国勢調査員ハ名誉職トス」

と規定されている。

 

調査終了後に発刊された「国勢調査記念録」は、紳士録としての性質も持っており、経歴として載せるために寄付を行う調査員も多かったという。

また、実施記念の表彰として第一回国勢調査記念章が制定され(大正10年6月17日勅令第272号「第一回国勢調査記念章制定ノ件」第1条)、第一回国勢調査に関与した者に対して授与された(同第3条)。

 

画像 ウィキペディアより 第一回国勢調査記念章

 

以上 ウィキペディアより 転記致しました。

 

画像を見て・・父と二人で

あああ~っ!! これこれ \(゜ロ\)(/ロ゜)/・・・\(◎o◎)/!

と・・・

そして・・さらに 父と二人で驚いたのは

「国勢調査員ハ府県知事ノ推薦ニ依リ内閣ニ於テ之ヲ命ス」

「国勢調査員ハ名誉職トス」

 

あんれ~っ! 記念すべき 第一回の国勢調査員・・・

曾じいちゃん 

県知事さんからの推薦で内閣によって命ぜられたのだ・・

曾じいちゃん(曾祖父)の事、やはり、全く理解していなかった私達親子・・・🙄😥

 

慶応元年(1865年) 生まれの曾祖父。

当時の曾祖父は・・

明治時代中頃には、私の住む旧宮原村宮麓区(府本区)の当時は選挙で選ばれていた区長を務めていて、尚且つ、明治時代から大正時代にかけての岡原村(現あさぎり町岡原)の

村会議員を務めていました。

曾祖父が第一回国勢調査の国勢調査員だった事は当時はとても名誉な事であった・・・

と ようやく理解出来た私です・・・ トホホ

 

曾じいちゃん 本当に ごめんなさい 😣

な~んにも解らん曾孫で 本当に ごめんなさい😣 と曾祖父にお詫びしました。

 

所が・・・

第一回国勢調査記念章の他に、もう一つ、曾祖父が頂いた別の「章」があったのですが・・・

この「」の事も、今回初めて調べてみました。

(曾じいちゃん 本当に今まで ごめんなさい )

 

②曾祖父が頂いていた 

  明治21年製 日本赤十字社特別社員章  

 

曾祖父が頂いていた、もう一つの章の写真を撮りました😊

 

 

明かりを当てると、今でも輝きます😊

 

下の写真・・矢印の上あたりに4か所の小さな穴があります。

本当は、何か付いていたようです(p_-)

 

 

裏面  明かりを当てると 凄く輝きます😊

 

見ずらいので(ー_ー)!!

影で再度 写真撮影・・・・

 

 

明治二十一年 日本赤十字社

と あります。

明治21年(1888年)と言う事は・・今から132年前の物・・・・うわ~っ!

これって・・何だろう 🙄🙄・・・(?_?) (?_?) (?_?)

思って 調べました(p_-)

 

すると・・・まず 全く同じ画像が公開されていました。😊

 

日本赤十字社 熊本県支部様 サイト内

赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」展  こちらに 同じお写真が載っていました。

https://www.kumamoto.jrc.or.jp/exhibition/hatsume/251/

 

赤十字救護看護婦 日本初の外国病院への救護員

「竹田ハツメ」様がお持ちでいらした

日本赤十字社特別社員章 明治21年製

画像をお借り致しました<m(__)m>

 

 

日本赤十字社特別社員章 明治21年製・・・・

何故? 曾祖父は、同じ物を持っていたのだろう????

増々 興味が湧いてきて、さらに 調べました(p_-)

 

(日本赤十字社様) 特別社員 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E7%A4%BE%E5%93%A1

 

日本赤十字社における特別社員

日本赤十字社をはじめ世界各国の赤十字社では、社員を募り、一定の要件を満たした者に表彰として特別社員の称号を贈呈している。

日本赤十字社では、1887年(明治20年)に日本赤十字社と改称し、特別社員及び名誉社員制度を創設。これに伴い、日本赤十字社特別社員の称号受称者は、特別社員章(勲章式)を贈呈され当人に限り佩用することができた(遺族は保管のみ)。

1890年(明治23年)5月22日には、総裁小松宮彰仁親王と社長の佐野常民の名で早稲田大学のは創立者である内閣総理大臣侯爵大隈重信の妻 綾子に特別社員の称号が贈られているが、これは称号創設から間もない時代の顕著な例として見ることができる

以上 ウィキペディアより 転記

 

日本赤十字社をはじめ世界各国の赤十字社では、社員を募り、一定の要件を満たした者に表彰として特別社員の称号を贈呈している。

日本赤十字社では、1887年(明治20年)に日本赤十字社と改称し、特別社員及び名誉社員制度を創設。これに伴い、日本赤十字社特別社員の称号受称者は、特別社員章(勲章式)を贈呈され、当人に限り佩用することができた(遺族は保管のみ)。

 

※特別社員章(勲章式)

これです! ありました \(^o^)/

 

遺族は保管のみ・・・だから、祖母が大事に保管していたのですね!

家は・・・祖父も、祖母も、父も 日本赤十字社の社員となっていたので・・・・

あまり、深く考えていなかったのですが、

日本赤十字社創設直後明治21年・・・ここが何だか凄いような気が・・・

 

※一定の要件を満たした者

って何だろう?? 🙄(?_?)・・・

と 思い、さらに調べてみました(p_-)

 

日本赤十字社 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E5%8D%81%E5%AD%97%E7%A4%BE

 

歴史
博愛社として

日本赤十字社の前身は旧田野口藩主の伯爵大給恒(おぎゅう ゆずる)や元老院議官で後に伯爵となった佐野常民(さの つねたみ)、同じく後に子爵となる桜井忠興(さくらい ただおき)らが、西南戦争時の1877年(明治10年)に熊本洋学校(くまもと ようがっこう)に設立した博愛社(はくあいしゃ)である。

佐野らは、「戦争の悲惨な状況が拡大していること」に鑑みて、

陸軍省に「敵味方の区別なく救護を行うという赤十字の精神を発現する博愛社として、救護班を派遣することを願い出た。しかし、陸軍卿代行の西郷従道(明治維新の功労者西郷隆盛の実弟)は、「内戦は国家間戦争とは異なり、逆賊=犯罪者の救護は赤十字の救護とは言えないのではないか」と、その精神に理解を示せず、設立を許可しなかった。

そこで、佐野らは元老院議長で征討総督の有栖川宮熾仁親王に直接、設立と救護班の派遣を願い出る。

逆徒であるが天皇の臣民である敵方をも救護するその博愛の精神を熾仁親王は嘉し、中央に諮る事なく設立を認可した。ただ「敵味方ともに助ける」というその思想が一般兵士にまでは理解されず、反乱士族側と明治政府軍側の双方から攻撃もしくは妨害などを受け死者が出たと言われている。

 

日本赤十字社
博愛社は国際赤十字の精神を発現する団体として創設され、赤十字として認知されるよう活動していたが、
1886年(明治19年)ジュネーヴ条約に調印した日本政府の方針により、

1887年(明治20年)日本赤十字社と改称し、特別社員および名誉社員制度を新設し、初代名誉総裁に小松宮彰仁親王が着任した。

当時西欧の王室、皇室は赤十字活動に熱心であり、近代化を目指す日本の皇室でも

昭憲皇太后(明治天皇皇后)が初代名誉総裁を務め積極的に活動に参加し、

正式紋章「赤十字竹桐鳳凰章(せきじゅうじちくとうほうおうしょう)」は、

昭憲皇太后の宝冠のデザインを模倣して制作・制定された。

同社の活動に際しては、華族や地方名望家がその指導的立場に就いた。

また、当初、活動の本拠が置かれたのも、東京都千代田区の子爵桜井忠興邸であった。

1888年(明治21年)6月、支部設置を決定した他、有功章、社員章を制定した。

 全国に赤十字運動への理解と普及を目指す最中、1888年(明治21年)7月、福島県磐梯山が、巨大な水蒸気爆発により山体崩壊を招き、大災害を引き起こした。 このため、当時国際紛争解決にむけた人道組織であった赤十字を、自然災害にも活用すべく政府に願い出た。

赤十字として国際的にも例がない戦時以外の活動であったが、政府は了としたため、瞬時に救護班を現地へ派遣、救援活動を行った。

日清戦争(1894年(明治27年) - 1895年(明治28年))時には、
初めて国際紛争の医療救護班を戦地に送り出した。

この時、帝国陸軍近衛師団軍楽隊楽手でもあった加藤義清が出征する友人を見送りに駅に行った際、同じく大陸の戦地に向けて出発しようとしている日本赤十字社従軍看護婦達の凛々しい姿に強い感銘を受け、一夜で作詞したといわれている軍歌『婦人従軍歌』がある(従軍看護婦を唄った歌曲は世界的にも珍しく、同時に明治日本軍歌を代表する曲の一つに数えられている)。

1901年(明治34年)には明治天皇の名による勅令により「日本赤十字社条例」が設置され、「日本の陸軍大臣・海軍大臣の指定する範囲内において陸海軍の戦時衛生勤務を幇助すること」ができるようになった。

日露戦争(1904年(明治37年) - 1905年(明治38年))が起こると、日本赤十字社は旅順など満洲で投降したロシア人捕虜の人道的な待遇に尽力した。第一次世界大戦でも中国山東省の青島で捕虜となったドイツ人も日赤の援助により人道的な待遇を受けた。

以下 略させて頂きます<m(__)m>

以上 ウィキペディアより 転記致しました<m(__)m>

 

今まで、殆ど勉強させて頂いていませんでした・・・

その事が、凄く恥ずかしく、自分自身が情けなくなりました・・・

 

※日本政府の方針により、翌1887年(明治20年)に日本赤十字社と改称し、特別社員および名誉社員制度を新設し、初代名誉総裁に小松宮彰仁親王が着任した。

同社の活動に際しては、華族や地方名望家がその指導的立場に就いた。

1888年(明治21年)6月、支部設置を決定した他、有功章、社員章を制定した。

 

曾祖父の特別社員章は明治21年製・・・

※同社の活動に際しては、華族や地方名望家がその指導的立場に就いた。

 

曾祖父はこの時・・・何歳だったのだろう??

慶応元年(1865年) 生まれの曾祖父。

明治21年(1888年)と言えば、 まだ 曾祖父は23歳です・・・

曾じいちゃん・・凄い人だったんだな・・・

「敵味方の区別なく救護を行う」という赤十字の精神を発現する・・・

わずか23歳でこの崇高な活動に賛同して、社員になったんだ・・・・

 

ここまで、勉強して、私は弛んでいた背筋がピンと伸びたような気分になりました。

高祖父(曾曾じいちゃん)が早くに亡くなって、20歳でうちの宮原家の家督相続を受けた

曾祖父は、私が20歳の時とは全く違う『志と家の家督を継いだ心構え』をしっかりと持っていたのだと思います。

もちろん、会った事もない曾祖父ですが、

私は、曾祖父の曾孫に生まれた事を

心から誇りに感じました。

 

ただ・・・この曾祖父が晩年、頂いた手紙。

那須氏、外家内一同 の方々から、 何故

葦原様

と呼ばれていたのか・・・

 

以前からブログ内で数回ご紹介させて頂いている・・・

曾祖父宛ての手紙

先祖への手紙

 

 

先にウィキペディアから転記した内容・・・

※同社の活動に際しては、華族や地方名望家がその指導的立場に就いた。

 

本当は・・・子供の頃から、祖母や祖母の兄姉妹、親戚から

家の事は色々聞いてはいたのですが・・・

当時は全く興味がなくて・・・

『今の時代に何言ってるんだろう・・』 くらいにしか考えていませんでした。

それに・・『本当はどうなんだろう・・?』なんて考える事もありました。

 

でも・・・

曾祖父が 葦原様 と手紙に記されていた事・・・

さらに・・・

最近ずっと考えてはいたのです・・・

前回のブログで書いた事・・以下の事・・・・・

 

辰砂(朱)が採掘される 黒原山(くろばる山)

前回のブログより

枠で囲んだ中の森のような・・府内を守るように見える場所が 字「外園」
字「外園」は私が今住んでいる場所なのですが・・・

昭和21年に今の場所に移る前は、家の宮原家は府内の中に唯一、一軒だけありまして

この字「府内(馬場田)」は、以前ブログで書いた事もあるのですが、

字「府内」はうちの宮原家の本籍地となり、
今は、外園に住んでいますが、父曰く、「本籍地は府内(馬場田)から絶対に動かしてはならない!」という掟(おきて?)をきつく言われております。

🙄🙄・・・(?_?)・・・(?_?)・・・(?_?)・・・

で・・・最近、あらためて何故?と 父に聞いたのですが、父は祖母から言われていた事であり

「うちの宮原家を継ぐ者は、必ず『府内(馬場田)』に本籍がなくてはいけない!」と言われていたそうです・・・

🙄🙄・・・(?_?)・・・(?_?)・・・(?_?)・・・

ちなみに・・・

『府内』を守るように張り巡らされた?外園。
字「外園」 が 通称 侍村(まちむら)と呼ばれる地域であります。・・・・・・・

 

(以上 前回のブログ『球磨と彦の漢字の成り立ちと熊津彦、難升米様親子』より

 

うちの宮原家を継ぐ者は、必ず『府内(馬場田)』に本籍がなくてはいけない!」・・

と言う事と

曾祖父が 葦原様 と 手紙に記されていた事は・・・

 

何か繋がっているような気が・・・ようやく・・・確信に変わってきているのです・・・

古代に関係しているような・・・ようやく・・・確信に変わってきているのです・・・

 

前回のブログを書いて 増々 確信に変わってきているのです・・・

 

辰砂(朱)が採掘される 黒原山・・・

鎌倉時代初頭までは、この地域を所領していた方は・・西園寺公経

鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、

四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物・・・

 

西園寺公経と伊予宇和郡を替地して、この地を所領する事になった

宮原一族の先祖 橘 公業・・・

 

所領者が変わると・・・もちろん山の所領者も変わるんですよね・・・

 

言い換えると・・・辰砂(朱)が採掘される 黒原山は

鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物 西園寺公経様が

所領していた御山 だった・・・

と言う事ですね・・・

 

その後の所領者は・・・ あれっ!?

あれっ?? そうか!!!

 

南北朝時代後期に、相良氏が球磨郡内の豪族の方々をまとめて、球磨郡を統一するまで黒原山は 橘一族が 所領していたんだ・・・

そうか・・・

 

私・・何でこんな単純な事も時系列で理解出来ていなかったのだろう・・・

 

曾祖父が頂いていた

第一回国勢調査記念章 と

日本赤十字社特別社員章 明治21年製

曾祖父が、私に何かを伝えてくれたような気がします・・・

 

勲章と言えば・・

2018年の3月に書いたブログ『続 祖父について』でご紹介した

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12361471048.html

叙勲を受けた祖父・・・

 

ブログ『続 祖父について』では祖父の叙勲賞状の写真はご紹介していたのですが

勲章の写真を今回、撮りました。

(曾じいちゃんの事ばかり書いたら祖父が寂しい?かと思いまして・・・😊)

叙勲を受けた年、昭和15年ですから、祖父はまだ26歳でした。

 

祖父が頂いた

明治勲章ノ勲六等ニ叙シ單光旭日章 箱

 

明治勲章ノ勲六等ニ叙シ單光旭日章

明治勲章

概要
勲位の相当は次の通りである。勲一等(正三位に相当)・勲二等(従三位)・勲三等(正四位)・勲四等(従四位)・勲五等(正五位)・勲六等(従五位)以上を勅授。勲七等(正六位)・勲八等(従六位)・勲九等(正七位)・勲十等(従七位)・勲十一等(正八位)・勲十二等(従八位)。

 

★明治勲章ノ勲六等ニ叙シ單光旭日章
祖父は
26歳で勲六等(従五位)であった事が解りました。

 

今回は、まだまだ未熟な曾孫娘が曾祖父の「」の意味を初めて知った・・

と言うお話を書かせて頂きました<m(__)m>

祖父の勲章の意味も、もっとしっかり勉強しなければいけない・・と反省しております。

 

また・・治山治水について書きそびれました😥

でも、今回書いた事も、きっと、今まで書いて来た事に全て繋がっているような

気がしているのです・・

 

 

 

所で・・・(p_-)

前回のブログ、コメント欄15尾方様へのご返信にも書かせて頂いたのですが

今までの過去ブログでも何度も書かせて頂きましたが

球磨の遺跡・・・
8万年前から人が住んだ形跡を残し・・
石器時代の遺跡も多数・・・
さらに3万年前から8000年前の遺跡は至る所から発見されて
喜界カルデラ爆発後の火山灰の上からも遺跡は見つかっています。

日本最古12000年前のベンガラで彩色された耳飾り(耳栓)も球磨と鹿児島の霧島市から発掘されています。

縄文時代には存在しなかった・・と言われていた水稲稲作に欠かせない有肩打製石斧球磨の縄文時代の地層から発見されました。(日本最古

 

私は、日本人の根底は縄文時代にあると思っています。

最近、中国で4000年前の遺跡が発見されましたが・・

あの遺跡はどう考えても、縄文時代に大陸に日本から渡った方々が形成されたのでは・・?
と見える、凄く繋がりを感じる遺跡です。
後に、縄文時代晩期に九州に渡って来られた方々は、元は九州にいらっしゃった方々だと私は考えています

喜界カルデラの大爆発を逃れて、大陸に脱出していた方々の後裔ではないのか!?と。

何故ならば・・
長江流域の風習は、「
縄文時代の日本そのもの」だと思うからです。

 

次回は上記の中国で発見された遺跡の事、他 杉について(治山治水の原点) と 

日本では鹿児島・宮崎・高知南部・熊本南部以南の地域でしか見る事ができず

北半球の多くの国々では全く見ることができない。また、沖縄などでもあまり高く昇らず、

南の空に低く見ることしかできない。

このため、かなり明るい星にも関わらず、日本での知名度はそう高くない

という 恒星 アケルナルについて 他

もちろん 前回の続きも書かせて頂きます(^^)/

 

 

ここまでのおさらい? ブログご紹介(最近のシリーズ?)

 

(再投稿)球磨(久米)の古代久米人が継承した治山治水

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12621016123.html

 

湯川(ゆご)周辺は倭人伝の原風景・・・揃ってしまうのは何故だろう・・

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12624774207.html

 

球磨と彦の漢字の成り立ちと熊津彦、難升米様親子

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12626067814.html

 

 

最後までご覧頂きありがとうございました。

寒暖差が一段と厳しくなって参りましたが、

皆様方、お身体十分にお気を付けてお過ごし下さい。

 

私は・・・

今回のブログを書いた事で、背筋が少しだけ・・ピンと伸びました。

私は曾祖父のダメダメ曾孫で、祖父のダメダメ孫ですが、

ただ、私に出来る事、私がやらないといけない事があるのだと・・思っています。

背中を押して下さっているのは、ご先祖様、そして・・・

この地の古代に深く関わっていらっしゃった御方々のようです・・😊

(うん?? マタマタ~(ー_ー)!! とのお声がいずこから・・・)

 

いえ! 本当です (p_-) ・・・・😉

 

でも、私が球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、

元気をなくしてしまったこの郷土の方々が 

郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければ凄く嬉しいです。

 

最後に・・・遠い古代の方々、そして 曾祖父や祖父・・ご先祖様の事を考えながら・・

聞きたい曲は・・・

 

 

 

(^'^) 球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

とても大切な事に 気が付いてしまいました・・・

次回『倭人また文身し以って水害(洪水)を厭わす也。魏略より』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12627804952.html