前回のブログ

第一回国勢調査から・・うちの宮原家の事がまた少しだけ解りました』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12627410882.html

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。
度重なる自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
お亡くなりになられたすべての方々のご冥福を心からお祈り申し上げます
感染した方々の早期回復を心からお祈り申し上げます
開発の進むワクチン・・そして特効薬
全世界の方々に平等にワクチンが、薬が行き渡り、

この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

 

前回のブログを投稿して、すぐに、とても大切な事に気が付きました。

さらに

人は(私は)・・・頭の中に先入観(前もって得た知識)があると・・

文章を正しく読み解く力を失う事にも気が付きました。

「気が付いた事」はおそらく・・・ 

今の状況下でなければ一生気が付く事は無かったのかもしれません・・・

とても複雑な心境ですが、意を決して書かせて頂きます。

じっくりとお読み頂ければ と願います。

 

 

気が付いた事

倭人の刺青は

   水害(洪水)を避ける為の祈り・・であった

 

どのように、こう確信するに至ったのか、順を追って書かせて頂きます。

 

 

ブログ『湯川(ゆご)周辺は倭人伝の原風景・・・揃ってしまうのは何故だろう・・

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12624774207.html

ブログ『球磨と彦の漢字の成り立ちと熊津彦、難升米様親子

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12626067814.html

上記のブログを続けて書いた際に ブログ内に魏志倭人伝を引用しました。

 

ただ・・・

妙に・・何かとても大切な事が抜けている気がして、あらためて、私が2019年2月に書いた

ブログ『後漢書を読んで。奴国と狗奴国』を読み返していたのです。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12442972003.html

 

 

 

ブログ『後漢書を読んで。奴国と狗奴国』でも書いたのですが

 

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。
本紀10巻、列伝80巻、志30巻の全120巻からなる紀伝体。
成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で、
編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)

『魏略』(ぎりゃく)とは、中国三国時代の魏を中心に書かれた歴史書。
著者は魚豢(ぎょかん)

三国志』の裴松之注に引用され残る文により、

魚豢(ぎょかん)は劉表と面識があったこと、その後魏に仕えたことが記述されている。
劉 表(りゅう ひょう、
漢安元年(142年) - 建安13年8月(208年10月)の方。

つまり・・
後漢書』編者 『范曄』 398年 - 445年
魏略』編者 『魚豢』は劉 表と面識があった(劉 表142年-208年)

という事から
『魏略』の方がより古いと言う事は以前から理解していました。

 

その『魏略』には何が書かれていたのか・・・


【魏略曰:「女王之南、又有狗奴國、女(以)男子爲王、其官曰拘右(古)智卑狗、不屬女王也。自帯方至女〔闕「王」〕國萬二千餘里。其俗男子皆點(黥面)而文〔闕「身」〕、聞其舊語、
自謂太伯之後、昔夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之吾(害)。
今[イ妾](倭)人亦文身、以厭水害也。」】

 

私が、過去ブログ『後漢書を読んで。奴国と狗奴国』で完全に見落としていた箇所は

ここです!

昔夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之吾(害)。
今[イ妾](倭)人亦文身、以厭水害也。」

 

以厭水害也。・・・水害・・・?

過去、様々な倭人伝の訳を見て参りましたが・・殆どが、この部分を無視して

ブログ『湯川(ゆご)周辺は倭人伝の原風景・・・揃ってしまうのは何故だろう・・』で私が引用したように、後世に書かれた中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(通称 魏志倭人伝)の文章を重視されている事に気が付きました。

 

通称 魏志倭人伝より

夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。
夏后少康(夏第六代中興の主)の子が、會稽(浙江紹興)に封ぜられ、髪を断ちからだに入墨して蛟竜(みずちとたつ)の害を避ける。いま倭の水人は、好んでもぐって魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨して大魚や水鳥の危害をはらう。のちに入墨は飾りとなる。

 

「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(通称 魏志倭人伝)には、私が気になった

以厭水害也

という言葉が無いのです!

 

『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれた書物! 

『魏略』の編者 『魚豢』は劉 表と面識があった方(劉 表142年-208年)

つまり! 

『三国志』より

『魏略』の方がより断然古い!

 

その『魏略』には三国志にあるように

今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾

体に入墨して大魚や水鳥の危害をはらう のちに入墨は飾りとなる。

ではなく!

書かれているのは

其俗男子皆點(黥面)而文〔闕「身」〕、聞其舊語、自謂太伯之後、

昔夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之吾(害)。
今[イ妾](倭)人亦文身、以厭水害也。

です!

 

以厭水害也。・・・水害?・・・

ここが魏志倭人伝では抜けています!

 

非常に気になりました! 心が凄くザワザワしました だから!

何と書いてあるのか 調べました!

 

古代史獺祭様サイト  魏略逸文 05 より 勝手ながら転記させて頂きます。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/giryaku/itsubunn05/giryaku_itsubunn05.htm

 

魏略 (逸文5) 翰苑 卷三十

(原文)
自帯方至女國万二千余里
其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後
昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 
以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也

(読み下し)

帯方より女國に至るには万二千余里。
その俗、男子は皆、黥而(面)文(身)す。 その旧語を聞くに、自ら太伯のすえという。

昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し、以って蛟龍の害を避く。 

今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。

以上 古代史獺祭様サイト  魏略逸文 05 より 転記

 

昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し、

以って蛟龍の害を避く。今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。

 

以厭水害也

この水害とは一体どういう意味だろう!?

 

その答えは

以避蛟龍之害

蛟龍の害を避く

の意味を調べたら、ようやく解りました。

 

蛟龍とは いったい・・・?

 

プロメテウス様 サイト内

蛟龍、虬龍、燭龍、蟠龍、窫窳など様々な龍たち1:中国の神獣、四象、霊獣特集

に詳しく記されていました。 

とても重要な事なので 勝手ながら 抜粋して転記させて頂きます。

https://prometheusblog.net/2018/02/07/1046757658/

 

蛟龍(こうりゅう 蛟龙 jiao1long2 ジャオロン) 属性:水

古代中国では、角のある頭を公龍といいました。二本角のある頭を龍と、一本角のある龍を蛟(こう)といい、角のない龍を螭(ち)といいました。

蛟龍は龍の一種の海龍で、強大な法力を誇ります。

文献によっては、《韻会》のように角のない龍を蛟と呼ぶとあったりしており、角の有無は文献によってまちまちです。

日本では蛟をみずちと呼び人々に害をなす化け物として描かれています。

 

龍は中国の歴史の中で、様々に変化しました。例えば、雲を呼びよせ雨を降らせたり、万物に通じた神秘の動物であり、うろこを持った動物たちの長であり、黄龍のように四霊(龍、鳳、麒麟、亀)の長でもあります。古くからは様々な王朝の皇権の象徴として用いられ、各海の龍王のように四海を統治する力を持っていました。

しかし、蛟に関しては逆で、多くの蛟は様々な場所で災いをもたらすと言われるようになり、悪蛟と呼ばれるようになりました。

蛟龍は洪水を起こすことができるとされ蛟龍はよく人に目撃されていたため、多くの人が蛟龍を知っていました。

住んでいる場所は人里から遠く離れた湖や水のある静かな場所の水の底です。池や河川に住み着いているのが蛟龍です。水にもぐっていることから潜蛟とも呼ばれます。蛟龍には角があり、角はまっすぐで短く、枝分かれはしていません。

足は退化して短くなっており、全部で四本の爪があります。これは、古代皇帝の衣装に描かれていた飛龍と同じ爪の形をしています。

以上 プロメテウス様 サイト内

蛟龍、虬龍、燭龍、蟠龍、窫窳など様々な龍たち1:中国の神獣、四象、霊獣特集 より転記

 

蛟龍はよく人に目撃されていたため、

多くの人が蛟龍を知っていました。

蛟龍は洪水を起こすことができるとされ・・・・・

日本では蛟をみずちと呼び人々に害をなす化け物として描かれています。

 

蛟龍は洪水を起こすことができるとされ・・・・・

あっ・・・・・

 

 

やっと・・意味が解りました・・

昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也

昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し、以って蛟龍の害を避く。 

今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。

 

つまり、

昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し、

以って蛟龍の害を避く

※洪水を起こすことができるとされる蛟龍の害を避けていた

今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。

倭人もまた同じように、蛟龍の害を避ける為に

水害を洪水を厭わす(嫌・・避ける為に)文身(刺青)をしていた・・・

 

ここで・・・私は・・・とめどなく 涙が溢れてきました・・・

そういう事だったんだ・・・・

何故? もっと早く気が付く事が出来なかったのだろう

 

でも・・悲しい事ながら皮肉な事ながら

7月4日 あの 大水害に遭わなければ

この事に 気が付く事は一生おそらくなかった・・・

 

だから・・気が付く事が出来た 出来てしまったという

今の状況が 辛くて悲しくて 切なくて

やりきれません・・・

 

また・・心が痛くなってしまいました・・・

 

つらい・・・

出来るだけ、前向きな言葉をブログで書こうと最近は心がけていました

明るい言葉や表現をしたい! と心がけていました

 

でも・・ 本当は

今でも、まだ『時間があの日で止まっている』 と 言われる方々が 球磨郡内人吉市内には

沢山いらっしゃって、その言葉を聞くたびに 心が痛くて切なくて・・・悲しくて・・

 

 

古代を勉強しているのだから もっともっと早く、私は気が付くべきだったのです

 

私は・・・この地に住んでいるのだから

※文身點(黥)面、猶稱太伯之苗。
さらに

大久米命様は「黥(さ)ける利目(とめ)」とあり、

目のまわりに入れ墨をしていた・・・

の続きを 黥(さ)ける利目(とめ)」の意味、理由 その祈りの意味を

しっかりと 理解して 気が付いて いなければならなかった・・

「黥(さ)ける利目(とめ)」は洪水、水害を避ける為の祈り・・

 

古代から、球磨郡人吉地域は、大量降雨の地でした。

その事は、ブログ『今後の為の記録 台風接近前と通過後・・濁流に注ぐ清らかな流れ

でも書きました。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12623696340.html

 

球磨郡誌書かれている事

球磨郡誌 国立国会図書館デジタルコレクション でもご覧いただけます。

あらためて、別ページもご紹介致します。

球磨郡誌 69~70ページより (コマ番号 87~88 )

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262/87

 

 

※阿蘇郡の北部、八代郡東部、球磨郡東南部の三か所

この三か所は 最多雨地 となっている

 

 

年に数回の洪水はモンスーン地帯の通用性であって

敢て 天をとがむべきではない

 

 

このページに書かれている事こそ、

和名類妙に書かれた「球磨郡」の気象の特徴である

と考えます。

 

さらに このページには

この気象に順応して、この気象上の特性に適応した人文性の

発達こそ尚盆地の独自性である

と記されています。

 

 

昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し、

以って蛟龍の害を避く

洪水を起こすことができるとされる蛟龍の害を避けていた

 

今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。

倭人もまた同じように、蛟龍の害を避ける為に

水害を洪水を厭わす(嫌・・避ける為に)文身(刺青)をしていた・・・

 

つまり、魏略 に書かれた、倭人は 

洪水、水害を避ける祈りの為に 刺青をしていた

 

『魏略 に書かれた、倭人』

この方々の住まわれる地域は おそらく

洪水の発生に見舞われる事が多い地域であったのだ

私は推測致します!

 

大水害に遭い この事に気が付いてしまう状況に・・・

今、『この地』がある事は非常に辛いです

 

 

先にも書きましたように あの大水害の日から 時間が止まっているようだ・・

とおっしゃる方々が今でもいらっしゃいます。

懸念しているのは、「この地から離れよう」とお考えになられる方もいらっしゃるかもしれない

と言う事です。

 

球磨郡、人吉地域は 過疎化が進んでいます。

ネット公開 『ひとよしくま 広域行政要覧 - 人吉球磨広域行政組合』 様によれば

本圏の総人口は、昭和30年国調(157,215人)をピークに、以来昭和50年(116,862人)まで減少し続けてきたが、昭和55年になると117,021人、増加率0.1%の僅かながら増加に転じたものの、昭和60年には、116,244人、平成7年108,197人、平成17年には、100,694人、平成27年には、88,820人と減少が続いている。年齢別構成をみると、昭和30年は正常なピラミッド型を呈していたが、その後急速に高齢化が進み、およそ40歳を境に以下は減少、以上は増加という
逆ピラミッド型の傾向となっている。

とあります。

 

※ピーク時の昭和30年には

球磨郡人吉市を合わせた圏内の総人口は15万7千人2百15人

しかし、現在は高齢化が進み、逆ピラミッド型の傾向となっている。

 

さらに

ネット公開 『ひとよしくま 広域行政要覧 - 人吉球磨広域行政組合』 様によれば

本圏域は、紀元前5~6千年前の狩猟を主とした生活の時代から既に人々が住み着き、

弥生時代には、発展的な農耕社会が形成されていたと想定される。

とあり さらに

地勢は、九州中央山地の脊梁を成す山々と日本三急流の一つである球磨川水系が作り出した平地とによって成り、典型的な盆地を形成している。

球磨地方は、人吉盆地を中心とした内陸的な気候と山地型の気候となっており、

平均気温は、15.5℃、年間降水量2,879㎜と多く、

その豊富な雨水が大地を潤している。

地形上からか気温差が大きいため霧の発生数がかなり多い。

とありました。

 

7月4日の激甚災害、大水害を受けて、さらに人口減少に進む事があっては

球磨の古代の方々の営みまで、

未来では忘れ去られてしまうのではないか・・・・

私は、決してそのような事があってはならない! と思います。

 

ただ・・・

前回のブログでも書きましたように

私が様々な事に気が付いて、このようにブログに球磨・人吉地域の事を書く事で

球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
元気をなくしてしまったこの郷土の方々が郷土に誇りを感じ、

少しでも勇気づけて頂ければ凄く嬉しいのです

 

 

今回気が付いた事は

昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し、

以って蛟龍の害を避く・・とは

洪水を起こすことができるとされる蛟龍の害を避けていた

 

今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。・・とは

倭人もまた同じように、蛟龍の害を避ける為に

水害を洪水を厭わす(嫌・・避ける為に)文身(刺青)をしていた・・・

と言う事でした。

 

先にも書きましたように

魏略 に書かれた、倭人は 洪水、水害を避ける為の祈りの 刺青をしていた

この方々の住まわれる地域は おそらく

洪水の発生に見舞われる事が多い地域であったのだと

私は推測致します!

 

皆様・・・私の考えなのですが

歴史の中で、人は嘘をついたり、隠そうとした事があるのかもしれません。

さらに、人が移動すれば、物も動くし、風習や信仰も動くのでしょう・・・

もちろん・・地名も動くのでしょう・・・

しかし

山は動く事はありません

川は動く事はありません

自然環境、気象条件までも動かす事は出来ません。

つまり・・・自然は嘘をつく事はないし、何かを隠す事もないのです

その事を今回、あらためて認識しました。

 

 

今回のブログに繋がる内容として、拙い内容ですが、

以下のブログをご紹介させて頂きます。

 

過去ブログ

 
最近のブログ (シリーズのように繋がっています・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近は時間の許す限り精力的にブログの更新を行って参りました。

明日(9月28日)以降は、所用が続きますので、しばらくはブログ更新は

出来ないかもしれません。

前回のブログの最後に書かせて頂いた内容等も、早くご紹介させて頂きたい!

と思っていましたが、今回は、「おそらく優先して書かせて頂いた方が良い」と考えた事を書かせて頂きました。

 

最後までご覧いただきまして ありがとうございました。

 

皆様、お身体十分にお気を付けてお過ごし下さい。

 

次回『恒星アケルナル 熊本県南部以南でしか見る事が出来ない星』に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12629277347.html

 

愛する球磨の地より ひろっぷ でした