前回のブログ『2020秋 最近の私と一主婦の考え』 より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12632223891.html

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。
度重なる自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
お亡くなりになられたすべての方々のご冥福を心からお祈り申し上げます

この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

 

きゅうりの収穫もひと段落つきました。 (ここ数日はゆっくり出来そうです)

農作業のお手伝いをしていると、学ぶ事が多くあります。特に

感謝の心

を持つ事が出来ます。

生きていく為に必要な食は、地球の恵み、農作業に携わる方々の御苦労を頂いている

という、人としての基本的な当たり前の感謝の心です。

球磨に戻って私は多くの事を学び直している・・・そう感じています。

 

所で・・・!!

私は勉強不足でした・・・😥

とっても大切な事を知らないでいました。

猛反省をしております。

また、新たな事を知りました。

その事が、最近続けて書いて来た事に繋がっているような気がしてなりません。

ですから、今回は、「新たに知った事」を書かせて頂きます。

それは・・地元の面田(免田)から出土していた鎏金獣帯鏡

についてです。

早速、書かせて頂きます(p_-)・・・<m(__)m>

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2019年1月に書いたブログ

 

このブログで書いたように、旧球磨郡免田村(現あさぎり町免田)は江戸時代慶長年間まで

面田村 であった事が解っています。

この旧面田村の才園古墳から出土した金でメッキされた鎏金獣帯鏡

鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していません。

(一貴山銚子塚古墳:福岡県糸島市、城塚古墳:岐阜県三野)

 

さらに、

才園古墳出土品
玉類(管玉・紫水晶の切子玉・ガラス丸玉)、金環、鉄刀剣類、鉄ハサミ、銅鈴、黄金の馬具飾り(鏡板・杏葉・雲珠・辻金物)等
馬具飾りは金銅製のものや、鉄の下地に銀を張ったものなどで、現在でも光を当てると輝きを見せるそうです

この馬具飾りについては

『特に馬具は轡だけでも計8セット以上が副葬されていることが明らかとなり、これは
1つの石室から出土したセット数としては、長野県本郷大塚古墳出土例などと並んで全国でも最多クラスを誇る。』

という、物です。

 

 

1つの石室から出土したセット数としては、長野県本郷大塚古墳出土例などと並んで全国でも最多クラスを誇るという黄金に輝く馬具と共に出土した 鎏金獣帯鏡

 

出土した鎏金獣帯鏡の内区には12、外区に32の銘文があり、
「この鏡を持てば諸侯に抜擢される」

と、極めて珍しい内容の呪文が刻まれています。

 

 

面田(免田)から出土した鎏金獣帯鏡

製作地について、中国の鏡の研究者である王士倫氏はどのように鑑定されていらしたのか

 

私は、不勉強で こちらの鑑定書に何が書かれていたのか、曖昧な事しか理解していませんでした・・・・

 

所が・・今朝、妙な夢を見てしまい、鎏金獣帯鏡がどうしても気になって、何気なくネット検索を行っていました。

(妙な夢の原因は・・・おそらく昨日球磨郡内にあった鏡山という山の存在に気が付いたからだと思うのですが・・)

 

すると・・

とてもありがたい事に、過去の解説書をご紹介なさっていらっしゃる御方のブログに気が付く事が出来ました。

 

サイト 古代の足跡 in 熊本 様の 才園古墳(出土品展示 熊本市) でした。

 

熊本市立博物館に展示の才園古墳からの出土品、撮影可能な出土品のお写真も掲載されていらっしゃいます。

 

 

大変、重要な事をお書きでいらっしゃいますので、勝手ながら転記させて頂きます。

 

古代の足跡 in 熊本 様の 才園古墳(出土品展示 熊本市) より

この鎏金獣帯鏡は他に福岡と岐阜に1面ずつ出ているだけ、しかも才園古墳の鏡の縁には華麗な文様があるという大変に珍しいもので、以前に読んだ解説では、古代鏡研究の大家である中国浙江省文物考古研究所長の王士倫氏が調べたところ後漢後半(2世紀頃)から三国時代(3世紀半ば)にかけて、中国の会稽、現在の浙江省紹興付近で鋳造されたものということでした。その時代は日本はまだ弥生時代後期で古墳時代には入っていません。

 

以上 

古代の足跡 in 熊本 様の 才園古墳(出土品展示 熊本市) より転記させて頂きました。

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※古代鏡研究の大家である中国浙江省文物考古研究所長の王士倫氏が調べたところ、

後漢後半(2世紀頃)から三国時代(3世紀半ば)にかけて、中国の会稽、現在の浙江省紹興付近で鋳造されたもの

 

後漢後半(2世紀頃)・・・西暦100年代 から

三国時代(3世紀半ば)にかけて・・・・西暦200年代半ば

中国の会稽、現在の浙江省紹興付近で鋳造されたもの

 

私は全くの不勉強で、ここまでちゃんと理解しておりませんでした!😥

 

 

後漢後半西暦100年代~三国時代西暦200年代半ば・・

中国の会稽、現在の浙江省紹興付近

あれっ!!??

最近のブログで「中国の会稽、現在の浙江省紹興付近」については何度も書かせて頂いています・・・

さらに、あらためて気が付いたのですが、才園古墳と同じく旧面田村(免田村)の本目遺跡から出土していた、中国製の破鏡も確か浙江省での製作だったはずです!

 

 

弥生時代後期から古墳時代前期(1世紀~4世紀)にかけての遺跡。

出土土器は「免田式土器」と呼ばれ有名。

1994年の発掘調査では、弥生後期の土壙墓、木棺墓、球磨地方初の墳丘墓(盛り土をした豪族の墓)や破鏡(中国鏡の一部をペンダントにしたもの)、古墳時代前期(4世紀)の地下式板石積石室墓2基などを発見。

球磨地方初の墳丘墓(盛り土をした豪族の墓) ※古墳時代より以前のお墓です。
盛り土のみで作られた墳丘墓は、熊本県や南九州ではあまり例を見ないと言われています。
さらに破鏡は穿孔されていて非常に珍しいとの事です。

 

本目遺跡

★弥生時代後期から古墳時代前期(1世紀~4世紀)にかけての遺跡。
※1世紀~4世紀・・・西暦0年代~300年代にかけての遺跡。
★出土した破鏡(方格規矩鏡)とは、3世紀頃(200年代)、中国浙江省(せっこうしょう)付近で製作された方格規矩神獣鏡で穿孔されていてペンダントとして使用されていました。
★大量の免田式土器が出土。

 

※中国浙江省(せっこうしょう)付近で製作された方格規矩神獣鏡

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古代の球磨と中国浙江省は かなり繋がりが深い・・・・

 

 

面田の才園古墳から出土した鎏金獣帯鏡

 

 

※古代鏡研究の大家である中国浙江省文物考古研究所長の王士倫氏が調べたところ、

後漢後半(2世紀頃※西暦100年代)から三国時代(3世紀半ば※西暦200年代半ば)にかけて、中国の会稽、現在の浙江省紹興付近で鋳造されたもの・・・・

 

中国の会稽、現在の浙江省紹興付近・・・・

 

会稽郡 ウィキペディアより 抜粋させて頂きます

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E7%A8%BD%E9%83%A1

 

会稽郡(かいけい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。

秦代から唐代にかけて設置された。

揚州東部の
長江下流域に設置され、六朝時代には政治、文化(六朝文化)の中心地として発展した。その領域は時代によって変遷があるが、現在の中華人民共和国浙江省紹興市付近がその中心である。

 

先秦時代
郡名は会稽山による。伝承では夏朝禹の時代には会稽山の名称が使用されていた。

禹が死去した地であると記されており、現在も禹を祭った禹王廟が位置する。地名は禹が死去する際、諸侯が一堂に会しその業績を計ったことから「会稽(会計に通じる)」と称されるようになった。

『史記』によれば
夏少康の庶子である無余が会稽に封じられ越の始祖になったと伝えられる。春秋時代には越の国都として発展していた。当時、呉と越がこの地域において対立していたが、越王勾践は呉王夫差に敗れて会稽山に逃げ込み、夫差の下僕になるという屈辱的な条件によって和睦し、助命された話が伝わっている(『史記』の越王勾践世家)。後に勾践は夫差を討って呉を滅ぼすのであるが、この話から、敗戦の恥辱や他人から受けた堪え難いほどの辱めを意味する「会稽の恥」という故事成語が生まれている。

 


その後、越は楚に滅ぼされるが、前223年、秦の攻撃を受けた楚は滅亡する。

翌年、秦将の王翦により会稽郡が設置され、呉県に郡治が設置された。

管轄範囲は呉・越両国の故地であり、現在の江蘇省長江南岸、安徽省南東部、浙江省北部及び上海市西部に相当した。

 

前漢
漢初、会稽郡は呉郡と称された。

前202年、劉邦は韓信を楚王に封じ、秦代の会稽郡・東海郡・泗水郡・薛郡・陳郡に楚国を設置した。しかし翌年には韓信は廃され淮陰侯とされ、代わりに劉賈を荊王とし東陽郡・故鄣郡・呉郡の53県に荊国を設置した。

前196年、劉賈が淮南王英布の兵によって殺害されると、翌年には
劉濞が呉王に封じられ荊国の故地を継承している(呉国)。

前154年、呉楚七国の乱が発生すると劉濞は敗死、呉国は廃されている。

 

後漢
後漢が成立すると冶県は東冶県に改められ県西部には侯官県が設置された。

永建年間、陽羨令であった周嘉等により会稽郡が広大であり地方行政に不便を来たしていると郡の分割が請求された。129年(永建4年)、会稽郡北部の13県に呉郡を設置、それまで郡治が設置されていた呉県が呉郡の管轄となったため郡治は山陰県に移されている。また138年(永和3年)には章安県東甌に永寧県を設置、山陰・鄮・烏傷・諸曁・余曁・太末・上虞・剡・余姚・句章・鄞・章安・東冶・永寧・侯官の15県を管轄するようになった。

 

孫策は後に袁術から自立し後漢朝に帰服を申し出たが、中原の戦乱に苦しむ後漢朝の支配は揚州方面にまでは及ばず、孫策の死後は弟の孫権に会稽太守の地位が継承された。

孫権は208年、曹操(魏の武帝)を赤壁の戦いで破り、呉の創始者(大帝)となる。

 

魏晋南北朝
呉の首都は孫権時代に揚州丹陽郡の建業に移ったが、会稽郡は丹陽郡や呉郡と共に三国時代での呉朝の中心的な地域となっていった。また、呉は山越の征伐をたびたび実施し、漢族の支配領域を広めていき、南朝のさきがけとなる。

三国時代には会稽郡に始寧県・永康県が新設された。257年(太平2年)には東部臨海地域に臨海郡を、260年(永安3年)には郡南部に建安郡を、266年(宝鼎元年)には諸曁・剡両県以南に東陽郡を設置した。

魏志倭人伝において邪馬台国の位置を示す記述の中で会稽の名が出てくる。

そこでは、邪馬台国は「其の位置は会稽、東冶の正に東」と記されている。

晋代になると会稽郡の管轄県は山陰・上虞・余姚・句章・鄞・鄮・始寧・剡・諸曁・永興(266年に余曁県より改称)の10県となり、現在の紹興市・寧波市の大部分および杭州市蕭山区一帯となった。

 

以上 ウィキペディアより抜粋させて頂きました。

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ここまでをまとめると

以下の事が理解出来ました。

 

①面田の才園古墳から出土した鎏金獣帯鏡 全国でわずか3枚しか出土していない貴重な金メッキで施された鏡は

後漢後半(2世紀頃※西暦100年代)から三国時代(3世紀半ば※西暦200年代半ば)にかけて、中国の会稽、現在の浙江省紹興付近で鋳造されたもの・・・・

 

②中国の会稽、現在の浙江省紹興付近とは後漢が成立すると冶県は東冶県となる。

魏志倭人伝において邪馬台国の位置を示す記述の中で会稽の名が出てくる。そこでは、邪馬台国は「其の位置は会稽、東冶の正に東」と記されている。

 

③時代は遡り先秦時代

『史記』によれば夏少康の庶子である無余が会稽に封じられ越の始祖になったと伝えられる。

 

夏少康・・・!!

 

昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し、以って蛟龍の害を避く。 
今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。

 

つまり、
昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し、
以って蛟龍の害を避く

 

※洪水を起こすことができるとされる蛟龍の害を避けていた
今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。
倭人もまた同じように、蛟龍の害を避ける為に
水害を洪水を厭わす(嫌・・避ける為に)文身(刺青)をしていた・・・

 

 

繋がっている・・・

繋がっている!! 繋がっている!!!!

 

 

繋がっている!!!!

そう感じるのは 私だけでしょうか!?

皆様はどう お考えになられましたか? 

 

 

何故? 日本国内でも、大変貴重な金メッキされた鎏金獣帯鏡が

熊本県球磨郡の 旧面田村から出土したのか!!?

 

しかし・・・鎏金獣帯鏡について 最近の学者様方は・・・

「豪華な金銅製馬具類にも遜色のない、貴重な鏡として九州南部の内陸の要衝である人吉盆地の有力者に、近畿中央政権から贈与されたと考えられます。」

となられるのでしょうか!!????

 

私はど素人の主婦ですが、その私でさえ この鎏金獣帯鏡が

※後漢後半(2世紀頃※西暦100年代)から三国時代(3世紀半ば※西暦200年代半ば)にかけて、中国の会稽、現在の浙江省紹興付近(東冶県)で鋳造されたもの・・・・

となる事に

 

何か不都合でもあるのでしょうか!!?

と叫びたくなりました。

 


何か不都合でもあるのでしょうか!!?

 

皆様はどう お考えになられましたか? 

 

私は・・私は・・・

古代の球磨の方々が 奈良時代から現代まで続く 何等かの隠ぺいに 

嘆き悲しんでいらっしゃるようなそういう、お声が叫び声が聞こえているような気がしています。

 

何故?何故? 何故!! と・・・

どうして、真実を明かしてはいけないのか?  と・・・

 

無性にこの曲が大音量で聞きたくなりました・・・

 

ふ~っ 落ち着きました (ご安心下さい いつものひろっぷに戻りました😊

 

最後まで、ご覧いただきましてありがとうございました。

すっかりと、秋が深まって参りました。

皆様、お身体十分にお気を付けてお過ごし下さい。

 

 

愛する球磨の地より ひろっぷ でした。

 

次回『球磨郡久米郷の伝承 昭和18年 何を知っていたのか・・』に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12634145438.html