前回のブログ『!浙江省紹興(東冶)付近で鋳造された鎏金獣帯鏡』から続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12633293444.html

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。
度重なる自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
お亡くなりになられたすべての方々のご冥福を心からお祈り申し上げます

世界中で新型コロナウィルス感染が再拡大していますが
この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

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最近、父が私に書斎を与えてくれました・・・😊

家には、お客様が「泊まられる時のみ」に使う和室が数室ありまして・・・

掃除しながらいつも「無駄だな・・もったいない」(ー_ー)!! と思っていたのですが

ついに、父がその中の1室を、私の書斎に使ったら良いとOKを出してくれました\(^o^)/

 

求麻郷土研究会を高齢の為に退会なさった方から購入した相良藩関係の多くの書籍や、

頂いた資料、その他、自分で購入した書籍が貯まりにたまっていたので、ようやく整理する事が出来るようになりました。

森泉さんのように(解りますでしょうか?)、電動ドライバーで本棚にするボックスを何個も組み立てて完成!

実は、頂いていた資料の大半は複数の段ボールの中に入っていて、必要な物だけを出して読むの繰り返しだったのですが、やっと本棚に収納する事が出来ました😀

 

郷土研究の先輩方が50年近くかけて調べられた資料ですからこれからは大切に読ませて頂きます。

気持ちを新たに、書斎で頂いた資料の目録を読んでいると・・・早速、非常に気になる資料が多くあり、最初に手にした資料には驚きの記述がありました\(◎o◎)/!

早速ご紹介させて頂きます<m(__)m>

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旧球磨郡久米郷久米村の方々の伝承

 

頂いた書籍の中に昭和18年に編纂された「久米村史蹟」がありました。

「久米村史蹟」の中に当時の旧球磨郡久米郷久米村の方々が故郷をどのような地だと理解されていたのか!

が記されていました。 ご紹介致します。

 

「久米村史蹟」 より

久米の起源に就いて定説はないが、昔印度から米(水稲)が渡来して、それを作る人が居住したので久米と称すと言ひ、又久米部の兵隊の居たところだから久米と称すと言ふ説もある。

 

按ずるに神代天孫の御降臨は大部隊の編成でその本部たる皇孫尊は高千穂に御降臨ありしも、其の他の枝隊は各地に分散降臨あり。

その一に天津久米命は久米部の兵を率いて球磨の地方に降臨ありしものと思はれる。

球磨の地に御降りになり、その久米部の兵隊の居た所であるから久米と名をつけたといふ説もある。

 

その久米部の兵隊は神武天皇の御東征に従ったもので、神武天皇御製の一節に

「みづみづしい久米の子らが頭槌、石槌もてとあるが、頭槌、石槌は当時の戦道具で石槌は而も之が宮崎県妻地方及び球磨地方から発見される獨特の石器である点から見て確かに球磨地方に久米部の人々が居住したのであると推定されるのである。

 

以上 昭和18年発行 「久米村史蹟」 より

※以下の文章は追々ご紹介させて頂きます<m(__)m>

 

★私が過去ブログでご紹介した「久米物部」の住めりし処なるべし のお話も書かれています。

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その一に天津久米命は久米部の兵を率いて球磨の地方に降臨ありしものと思はれる。

球磨の地に御降りになり、その久米部の兵隊の居た所であるから久米と名をつけたといふ説もある。

 

私は・・・非常に驚きました!

令和2年、現代を生きる私が「そうなのであろう・・」と推測していた事を

昭和18年当時の旧球磨郡久米郷久米村の方々は・・・

実はしっかりと伝え聞いていらしたのだ!!

と。

 

もうビックリして、座椅子ごと、後ろにひっくり返ってしまいました😓

 

でも、どうして!今を生きる私を含めてこの地の人達は「何も解らない・・知らない・・」

人ばかりになってしまったのだろう!!?

そう考えた時に、頂いた資料に付いていた「ある御方」の言葉に目が留まりました。

 

久米歌について、その御方は

『戦時中、もっぱら「一億玉砕」の合言葉として、それこそ耳にタコができるまで宣伝された歌であるが、この歌をもう一度冷静に検討し直してみると・・・(以下略します)』

と記されていらっしゃいました。

 

戦時中・・・・そうだったんだ・・・知らなかった・・・

 

だからだ・・・

何故?私を含む、今を生きる「この地」の人達が、球磨郡久米郷久米村の伝承を全く知らないでいたのか!?

それは・・・戦後の教育にあったのだと思いました。

 

おそらく・・触れる事すら、どなたもおやりにならなかったのだと・・・避けたのだと・・

私達の世代は、「久米村史蹟」 に書かれていた、

この球磨のとても大切な古代の歴史、足跡を全く教えては頂いていません!!

 

凄く悲しくなりました。この地の古代の人達が一体何をしたと言うのでしょうか・・・

戦時中のお話と、古代の歴史を繋げて「これは避けよう」とされたのであれば、

凄く悲しくなりました。この地の古代の人達が一体何をしたと言うのでしょうか・・・

 

 

 

でも、ようやく理解出来た事があります。

旧球磨郡久米郷久米村は合併で多良木町久米となりました。

 

その多良木町黒肥地地区御出身の上皇様の御養育係をお務めになられた信国様。

 

 

※お読みでいらっしゃらない御方はぜひご覧頂きたいブログでございます<m(__)m>

 

 

信国鉄蔵氏  皇太子にお仕えした九年の歳月 より

わたしはただ、郷土の名をそして山河をけがさないようにと念じつつご奉公したまでのことである。

 

 

私はおそらく・・いえ きっと 信国鉄蔵様

郷土に残る、古代の誇り高き伝承を御存じでいらしたのだと 

思います。

 

信国様だけではなく上記のブログ内でご紹介させて頂いた

明治・大正・昭和三代の天皇様の歯科侍医をお務めになられた人吉出身の一井正典先生

信国様と同じように
郷土の名をそして山河をけがさないように、いえ
お二人とも、

郷土の名、山河に、誇りを感じていらっしゃったのだろう!  

と私はあらためて感じました。

 

実は・・・

身近な同世代の人達に確認したのですが、私同様、皆 信国様、一井先生、お二人とも

存じ上げていませんでした。

皆、凄く驚いていました。

 

「そういう御方々がこの地から出ていらしたとは知らなかった。聞いて心から誇りに感じる」と、そして皆同じように「何も学校では習っていないよね・・」と言っていました。

 

しかし、今の地域の学校教育では、故郷の歴史をしっかりと教えて頂いているようです😊

 

私も今後、もっともっと勉強して、多くの方々に故郷球磨の歴史、

古代の歴史をお伝えして行きたい!

心からそう思います。

 

所で(p_-)

今回、「久米村史蹟」を読んだ事がきっかけで、頂いていた地域の以前の字図を見て

沢山の事に気が付きました。

 

①久米村思川には稲田姫命様がお祀りでありました。

大国主命様のお母様であり、田心姫様は大国主命様の奥様でもいらっしゃいますね・・

 

②旧面田村(免田)には「稲田」という地名が字が残っていました。

 

③旧上村(現あさぎり町上)と旧岡原村(現あさぎり町岡原)にまたがる神殿原(こうどんばる)

この神殿原に隣接して「畝宮」 と言う字、地名が残っていました。

 

球磨郡久米郷の「畝宮」です・・・

 

次回、しっかりとお伝え致します。

 

 

さらに・・

前回のブログでは

面田の才園古墳から出土した鎏金獣帯鏡 全国でわずか3枚しか出土していない貴重な金メッキで施された鏡は
後漢後半(2世紀頃※西暦100年代)から三国時代(3世紀半ば※西暦200年代半ば)にかけて、中国の会稽、現在の浙江省紹興付近で鋳造されたもの・・・・

中国の会稽、現在の浙江省紹興付近とは後漢が成立すると冶県は東冶県となる。
魏志倭人伝において邪馬台国の位置を示す記述の中で会稽の名が出てくる。そこでは、邪馬台国は「其の位置は会稽、東冶の正に東」と記されている。

時代は遡り先秦時代
『史記』によれば夏少康の庶子である無余が会稽に封じられ越の始祖になったと伝えられる。

 

魏略より

昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し、以って蛟龍の害を避く。 
今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。

 

以上、私が最近調べていた事に全て繋がっている・・・と言う事が解りました。

 

実は、最近だけではなく、過去に調べていた事にも繋がっている事をあらためて認識致しました。

 

自然は、希少生物は、希少植物は証明してくれています。

皆様に お時間がある時で構いませんので、ぜひご覧頂きたい過去ブログを

ご紹介致します。

 

2018年の1月に書いたブログです。

 

 

 

 

上記のブログを書いて解っていた事は

球磨の希少植物や希少生物は

中国「浙江省」「江蘇省」が原産、生息地である

と言う事でした。

 

あらためて、今回さらに気が付いた事がありますので、その事も次回以降書かせて頂こうと思っています。

その一つが・・・

やはり、喜界カルデラの大噴火から免れる為に、大陸に渡っている人達がいる!

と言う事です。

きっと・・・・後世この方々の末孫の方々は、弥生時代に

戻って来られたのだと思います。

(私の考えですが・・・)

 

書きたい事が山積みで・・・

今回は「久米村史蹟」の一部内容と、次回の予告編?を書かせて頂きました😊

 

最後までご覧頂きありがとうございました。

皆様、お身体十分にお気を付けてお過ごし下さい。

 

秋も深まって参りましたが、

地元人吉出身の犬童球溪氏 訳詩の「旅愁」をご紹介させて頂きます😊

 

 

 

愛する球磨の地より ひろっぷでした。

 

次回『11万年前以前からの球磨人と、超古代からの球磨のおさらい』 に続きます。

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