前回のブログ『球磨郡久米郷の伝承 昭和18年 何を知っていたのか・・』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12634145438.html

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。
度重なる自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
お亡くなりになられたすべての方々のご冥福を心からお祈り申し上げます

世界中で新型コロナウィルス感染が再拡大していますが
この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

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お詫び<m(__)m>

最近、プリンターの調子が悪く、前回ご紹介した畝宮等の記載された字図他、さらに気になる地名が記載された字図をスキャンする事が出来ません😥

昨日(11月2日)、部品を調達しまして、本日、自分で修理致しますので、

字図に関するお話は もうしばらくお待ちください<m(__)m>   

 (私、元SEなので簡単な修理くらいは出来ます😊)

 

と言う事で 今回は、

鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない鍍金鏡の一つ

『鎏金獣帯鏡』や1つの石室から出土したセット数としては、長野県本郷大塚古墳出土例などと並んで全国でも最多クラスを誇る馬具、それも金や銀で彩色された馬具』を所有した方々が住んでいたこの球磨の地が元々どのような地であったのか、自分自身の「おさらい」の為にも書かせて頂きます😊

私の過去ブログを続けてお読み下さっていらっしゃる御方々もご一緒に「おさらい」して下さい。

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前回のブログを書いた後、所有する1996年1月31日発行の

免田町文化財調査報告書 第2集 本目遺跡

を読みました。

詳しい内容は、今後ブログ内でも追々書かせて頂きますが、まずは(p_-)

私の勉強不足で全く知らなかった事が記されていましたので、ご紹介させて頂きます。

 

 

1.旧石器時代の球磨 11万年前以前から

人が住んでいた・・

免田町文化財調査報告書 第2集 本目遺跡 記載の内容を簡単にまとめますと以下のようになります。

 

※旧石器時代とは今から1万3000年前までを指す。

日本列島には20万年前から人が住んでいると考えられており、3万年前を境として

前期旧石器時代と後期旧石器時代にわかれる。

熊本県内では110か所程の旧石器時代の遺跡があり(1996年時点)その内の半数近い

52か所が球磨人吉地域に集中

 

前期旧石器時代(20万年~3万年前)の球磨

①深田村下里遺跡 (現あさぎり町深田)今から11万年以前の剥片石器が採取された。

②人吉矢岳遺跡では4万年程前の握槌(ハンドアックス)が発見された。

 

後期旧石器時代(3万年~1万3000年前)の球磨

①免田町(現あさぎり町免田・・面田)の四本松遺跡では三稜尖頭器が発見される。

②五本松遺跡からは頁岩製の石器と黒曜石片数点が発見される。

 

 

知りませんでした\(◎o◎)/!

我があさぎり町深田からは11万年以前の人の営みが見つかっていたとは・・

全く知りませんでした!

勉強不足です😥

11万年以前・・・・!!

日本全国ではどうだったのだろう? と興味が湧き・・調べてみました。

旧石器時代 ウィキペディア より 抜粋します

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

 

区分法
通常、旧石器時代は以下の3つに区分される。

前期旧石器時代(約260万年前 - 約30万年前)
ハンドアックスがひろく用いられた時代。この時代の人類はホモ・ハビリスおよびホモ・エレクトスが主流であった。

 

中期旧石器時代(約30万年前 - 約3万年前)
剥片石器が出現した時代。
ネアンデルタール人が広がった。極東アジアの中期石器文化の特徴から、ヨーロッパから来たネアンデルタール人に依ったものではなく、アジアの原人から進化した古代型新人によって形成された可能性が大きいとされる。

 

後期旧石器時代(約3万年前 - 約1万年前)
石器が急速に高度化、多様化した時代。このような技術革新の原動力を言語に求める説もある。
クロマニヨン人(ホモ・サピエンス)が主流となり、他の化石人類は急速に姿を消した。

 

 

日本における旧石器時代

日本における旧石器時代は、後期については、北海道から九州にかけて5000カ所を超える遺跡が確認される。

前期/中期についても、数こそ少ないがいくつか確認されている。

前期旧石器遺跡については全て捏造であったことが判っている(旧石器捏造事件を参照)。中期も多くが前期旧石器を捏造をした人物が関与していて否定的である。 捏造事件発覚以後に新しく発見された遺跡については議論がある。

 

人口
人類の生きた最古の時代である旧石器時代の人口推定値が、研究者によって算定した基準の違いがあるが、発表されている。

旧石器時代前期(400万〜20万年前)12万5千人、

同中期(20万〜4万年前)100〜120万人、

同後期(4万〜1万3千年前)220〜300万人。

 

以上 ウィキペディアより抜粋

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※前期/中期についても、数こそ少ないがいくつか確認されている。

 

えっ??? 数こそ少ない???

球磨の遺跡は・・・11万年以前 ・・・ 数が少ない???

ええええ~っ!?

ご安心ください<m(__)m> 捏造した御方は 球磨には来られていません・・(ー_ー)!!

 

※中期旧石器時代(約30万年前 - 約3万年前) 剥片石器が出現した時代。

球磨郡深田村下里遺跡 (現あさぎり町深田)今から11万年以前の剥片石器が採取された。

剥片石器 ここですね!

 

 

日本列島の旧石器時代 ウィキペディアより 抜粋

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%97%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

 

前・中期旧石器の発掘

日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく前中期の遺跡は発見が難しい。しかし、数は少ないものの、近年の考古学研究の発展により、岩手県遠野市の金取遺跡(9〜8万年前)から中期旧石器が、島根県出雲市の砂原遺跡(約12万年前)では前期旧石器などの遺物が発見されている。

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島根県出雲市の砂原遺跡(約12万年前)では前期旧石器などの遺物が発見されている。

岩手県遠野市の金取遺跡(9〜8万年前)から中期旧石器が発見されている。

 

ここまで、勉強してようやく気が付いたのですが・・・

球磨郡深田村下里遺跡 (現あさぎり町深田)今から11万年以前の剥片石器が採取された。

これって・・・実は 凄い事なんだ~!! \(◎o◎)/!

 

出雲はもちろん全国的にとても有名な地でありますが

皆様、球磨にも今から11万年以前の人の営みが見つかっていた事をぜひご記憶願います!

 

(?_?)・・・・

出雲と球磨の共通点を見つけたのかも😊😊

それは(p_-)  前期旧石器時代でございます (p_-)

ネアンデルタール人の時代ですね(p_-)

 

当時の世界の人口が気になったのですが、先に転記したウィキペディアの記述によると(p_-)

(20万〜4万年前)100〜120万人

世界中でわずか 100〜120万人!!

その時代の 出雲と球磨地方には 共通点があった・・・・ 

気が付きました・・・

 

 

免田町文化財調査報告書 第2集 本目遺跡 に記載の

※熊本県内では110か所程の旧石器時代の遺跡があり(1996年時点)その内の半数近い

52か所が球磨人吉地域に集中。

 

先にご紹介した遺跡以外に平成16年(2004年)から7次に渡って調査が行われた

球磨郡多良木町の大久保台地遺跡からも「頁岩製の角錐状石器」や

「阿蘇の黒曜石で造られた細石核」 そして

「球磨産の黒曜石で造られたナイフ形石器」が出土しています。

 

1993年に発行された熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 には

球磨・人吉地方の先土器時代遺跡は、今日までに42箇所が見つかっている(1993年当時)。

ナイフ形石器文化以前1遺跡(深田村中里遺跡)、ナイフ形石器文化27遺跡、細石器文化12遺跡、不明6遺跡がその内訳である。
ナイフ形石器文化では、人吉市血気ケ峯遺跡でみつかった石器文化がもっとも古い。
台形石器や刃部磨製石斧が伴うもので、今から3万年ほど前のものである。

と記されていました。

 

先に書いた球磨郡多良木町の大久保台地遺跡については、過去ブログ

 

 

でご紹介しています😊

 

今から8000年前に滑石で造られた日本でただ一つの出土品
石製品(滑石)の人形

が出土した大久保台地遺跡です。

この遺跡からの出土品で解った事は 菱形文様は縄文時代早期から球磨では使用されていた・・と言う事など驚きの数々でした・・・

 

2.縄文時代の球磨

 

免田町文化財調査報告書 第2集 本目遺跡より

日本列島では、今から1万3000年程前に人々が土器を使い始めました。

縄文時代の始まりです。縄文時代は、草創期(1万3000年~1万年前)、早期(1万年前~6000年前)、前期(6000年前~5000年前)、後期(4000年前~3000年前)、晩期(3000年~2300年前)と6つの時期に分けられます。

 

人吉・球磨地方には、草創期から縄文時代の遺跡があります。

※草創期(1万3000年~1万年前)

山江村狸谷遺跡と人吉市白鳥平Ⅱ遺跡などです。

続く早期は(1万年前~6000年前)、人吉・球磨地方で最も多くの遺跡が残される時期です。

 

山江村狸谷遺跡では、竪穴住居が8軒みつかりました。

この時代の竪穴住居は全国的にみても珍しいものです。

 

以上 1996年発行 免田町文化財調査報告書 第2集 本目遺跡より 転記

 

 

知らなかった・・・

山江村狸谷遺跡の竪穴住居・・・・

全国的にみても珍しいものだったのですね・・・(p_-)

 

縄文時代草創期からの球磨については 過去ブログ

 

 

でも詳しく書かせて頂いております。

 

人吉盆地では、草創期の遺跡が数遺跡見つかっている。
早期の遺跡では、球磨村大瀬洞穴遺跡と同村高沢洞穴遺跡が有名である。
出土した動物関係の資料には、鹿の骨の他、
アワビ・ハマグリなどの海の貝殻が発掘されている。このように、海との関係を示唆する貝殻が出土したことは、縄文時代早期社会を考える上でとても重要なデータである。

 

特に、『日本最古のベンガラ彩色耳栓・・呉人が見た球磨人』を書いた時に

非常に驚いたのは

熊本県球磨郡あさぎり町深田(旧深田村)字灰塚の灰塚遺跡に関する報告書でした。

 

①日本最古のベンガラで彩色された耳栓が見つかった 球磨

 

熊本県教育委員会 2001 『灰塚遺跡2』熊本県文化財調査報告197 より 抜粋

今回、 発掘調査報告書を刊行しました灰塚遺跡は球磨郡深田村に所在します。
球磨郡は県南に位置し、 悠久の流れを持つ球磨川はその文化を育んできました。
本書は平成5年度から9年度にかけて県営緊急畑地帯総合整備事業(須恵・深田地区)に伴って発掘調査を実地した報告書です。 調査の結果、 旧石器~近世の遺構・遺物が出土しました。今回報告するのは主に縄文時代の成果です。
約3万点を超える膨大な出土遺物の遺跡で、 特に彩色耳栓や異形土器・石器など、 当時の精神文化の充実を伺わせます

 

灰塚遺跡の縄文時代早期包含層から出土した耳栓に、 赤色顔料と考え ら れる物質が塗彩されていた。 耳栓 は縄文時代後 ・晩期に盛行し赤色顔料が塗彩されたものが多いが、 

縄文時代早期の耳栓としては、 鹿児島県 上野原遺跡出土の耳栓 と並んで貴重な資料である。

 

灰塚遺跡出土の耳栓に塗彩 されていたのはパイプ状ベンガラであることが判明した。 

赤彩さ れた耳栓の類 例をあげる と鹿児島県国分市上野原遺跡 1)と福山町城ケ尾遺跡 2) しかなく、 南九州の縄文早期の特殊性と その広がり を示す好資料となった。 

また耳栓は2点と も滑車状のタイプであるが 、 塗彩状況を観察すると片側の平坦面から中空の部分のみに ベンガラが塗彩されている。 ピアス式に耳に装着した場合、 外から見える部分にのみ赤色塗彩を施 し、 耳に はまる部分や外から見えない内側には塗彩されていない状況が伺える。 ベンガラが貴重であったとも考えられるし、 「見えると ころだけでよい」という装飾に対する縄文人の意識の一端とも受け取ることができる興 味深い資料である。

 

以上  熊本県教育委員会 2001 『灰塚遺跡2』熊本県文化財調査報告197 より 抜粋

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彩色耳栓や異形土器

彩色耳栓はベンガラで彩色されていました。

ベンガラと言えば、弥生時代以降古墳時代までの「彩色」のイメージをお持ちの方が多くいらっしゃるかと思いますが、出土した彩色耳栓は縄文時代早期の物でした!

 

※ 縄文時代早期の耳栓としては、 鹿児島県 上野原遺跡出土の耳栓 と並んで貴重な資料である。

 

鹿児島県霧島市にある上野原遺跡とは 鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)と同じく縄文早期、日本最古の定住生活が確認出来た 遺跡であります!

 

※赤彩さ れた耳栓の類 例をあげる と鹿児島県国分市上野原遺跡と福山町城ケ尾遺跡  しかなく

 

縄文時代早期(約1万2,000 - 7,000年前) 
ベンガラを使用する人々がいた
『灰塚遺跡』・『上野原遺跡』・『城ケ尾遺跡』 球磨・霧島市周辺 

南九州の超古代遺跡 

 

球磨と霧島の共通点は

ベンガラ彩色耳栓

 

 

 

 

ベンガラ 世界最古と言えば
フランス南西部のラスコー洞窟やスペイン北部のアルタミラ洞窟での赤色壁画は、
約 17000 年前(後期旧石器時代)に作られたもの
この事から考えてみても、
『灰塚遺跡』・『上野原遺跡』・『城ケ尾遺跡』 球磨・霧島市周辺 南九州の超古代遺跡 時代は縄文時代 早期(約1万2,000 - 7,000年前) から発見された日本最古のベンガラ彩色 耳栓がいかに重要な出土品であるのか! 私はあらためて、感動致しております!

 

ラスコー洞窟は20,000年前の後期旧石器時代のクロマニョン人によって描かれていた。

クロマニョン人とはコーカソイドの直接の祖先である可能性が高い。

コーカソイド (Caucasoid)とは、身体的特徴に基づく歴史的人種分類概念の一つである。これに分類される人々の主要な居住地はヨーロッパ、西アジア、北アフリカ、西北インドである。

 

ここまで、勉強して「おさらい」して 初めて気が付いた事があります!

出雲と球磨の共通点は 前期旧石器時代 (12万年~11万年前) 

ネアンデルタール人

 

霧島と球磨の共通点は 縄文時代早期 (約1万2,000 - 7,000年前) 

ベンガラ彩色 クロマニョン人

コーカソイドの直接の祖先ヨーロッパ、西アジア、北アフリカ、西北インド

 

出雲 ⇔ 球磨 ⇔ 霧島

気が付いてしまったかも しれません・・・・

 

ただ・・・言える事は

日本の歴史は弥生時代に始まったのでは 

な~い!! (ー_ー)!!

と言う事です

 

1996年発行 免田町文化財調査報告書 第2集 本目遺跡には

縄文時代早期の南九州は、ムラの規模や土器の作り方などから見て相当高度な文化をもっていたと考えられています。

と記されていました。

 

しかし・・・6300年前に喜界カルデラの大爆発が発生してしまった・・・

でも! 私は「相当高度な文化を持っていた」人達が、そう容易く全滅してしまったとは

到底考えられません!

大爆発の前に かなり前から 前兆があったはずです!

きっと、事前に脱出していた方々もいたはずです・・・

 

 

②縄文時代後期から晩期の球磨の遺跡

※2400年前が新たな転機・・・

 

 

 

 

『人吉市の中堂遺跡』 今から2400年前の遺跡
『BC400年(縄文時代晩期)』中堂遺跡には、竪穴式住居63基以上をはじめ、石器製場所、土器捨場があり、天城式土器、古閑式土器、黒川式土器が使用され、装飾品としてヒスイの勾玉、管玉が使用されていた・・・

免田町文化財調査報告書 第2集 本目遺跡には 他にも

人吉市の中堂遺跡から埋甕38基も見つかった事が記されていました。

 

『人吉市の中堂遺跡』 今から2400年前の遺跡がいかに凄い遺跡なのかと言いますと

ご紹介したブログでも書きましたが

 

広瀬和雄氏著 『 考古学の基礎知識 』 122ページより
前・中期でも(縄文時代)、環状を示さない大規模な集落もある。東北地方北部を中心に、多くの竪穴住居跡や大型住居跡、墓が発見されているにもかかわらず、住居跡や墓が塊状・列状をなす集落である。
青森県三内丸山遺跡はその代表例である。また、西日本では少数の例外はあるとして環状集落は確認されていない。
ただし、集落内群構造の認められる例があり、後期ではあるが、住居跡63棟が発見された熊本県中堂遺跡では、住居跡の列状配置が認められている。

 

★西日本では少数の例外はあるとして環状集落は確認されていない。
ただし、集落内群構造の認められる例があり、後期ではあるが、

住居跡63棟が発見された熊本県中堂遺跡では、住居跡の列状配置が認められている。

 

集落内群構造 住居跡の列状配置が西日本で唯一認められる遺跡が

『人吉市の中堂遺跡』 

九州で・・ ではないですよ!!(ー_ー)!!

西日本で唯一

です。 2400年前の遺跡です・・・

 

この事が如何に重要な事なのか! 何を意味しているのか!

私自身も、ちゃんと理解出来ていなかった

と反省しています。

 

中堂遺跡と同じく今から2400年前の地層から発見された物と言えば・・・

有肩打製石斧

 

 

 

※大原天子遺跡では、それまで縄文時代には無いと考えられてきた有肩打製石斧が出土

 

有肩打製石斧とは コトバンク様より 抜粋

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

磨製石斧の頭部両側に肩部をつけた石器。硬質の岩石を選び板状につくられ片刃のものが多いが、肉厚な方柱状のものもある。マレー半島部のタイを除くタイ全域、ベトナム、カンボジア、ラオス、中国南部の水稲農耕文化発生地域に広く分布する新石器時代末の特徴的石器。本来のものは手斧(ちょうな)的な木工具と考えられる。

 

近年、西九州地方長崎県島原半島、熊本県南西部などで、縄文文化後期末ないし晩期の
遺跡から長さ10センチメートル前後の硬質な岩石でつくられた片刃変形有肩石斧が発見されており、稲のわが国への長江南部地方からの伝来も、ほぼこの時期であることが最近明らかになった。有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる。


以上 コトバンク様より 抜粋

 

熊本県南西部・・・球磨郡錦町大原天子遺跡 です。

 

後で解った事ですが同時代の有肩打製石斧は 球磨の色々な場所から発見されていました!

 

稲のわが国への長江南部地方からの伝来も、ほぼこの時期であることが最近明らかになった。有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる。

 

3.球磨の豊富な鉱物資源

球磨の至る所から 鉄鉱石が採掘されています・・・・

 

 

 

近年まで鉄鉱石の採掘は行われており、北九州市の旧八幡製鉄所には球磨産の鉄鉱石が送られていました。

 

鉄鉱石の他、豊富な鉱物資源には 銀・銅・水晶・黒曜石・翡翠含有鉱物 等 他様々な鉱物資源に恵まれた球磨の地です。

 

特に特記すべきは 水銀鉱床帯

 

 

 

辰砂(丹)は日本全国のどこでも採れる鉱物ではありませんでした!
辰砂は水銀鉱床群から産出されます。

 

※わが国の水銀鉱床群 の数は少ない
日本国内の水銀鉱床群は4か所

 

(1)大和水銀鉱床群(伊勢地方を含む)

(2) 阿波水銀鉱床群

(3)九州南部水銀鉱床群

(4)九州西部水銀鉱床群(
他 鉱種中の副産物 と して の水銀を産する鉱床)

 

水銀鉱床群分布図

水銀鉱床群分布図

 

球磨は九州南部水銀鉱床群がすっぽりと入る 地であります。

 

球磨郡久米郷 黒原山には 丹有り・・・

 

 

ここまで、自分自身の「おさらい」として旧石器時代から縄文時代晩期、弥生時代への突入直前の球磨について書かせて頂きました。

 

弥生時代に入ってからの遺跡については、追々「おさらい」させて頂きます😊

 

あらためて、理解出来た事が多数ありました。

特に

出雲 ⇔ 球磨 ⇔ 霧島

この事に気が付いた事は きっと 弥生時代以降を考えるにあたっても、

大切な意味がある!

と考えています。

 

皆様

鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない鍍金鏡の一つ
『鎏金獣帯鏡』や、1つの石室から出土したセット数としては、長野県本郷大塚古墳出土例などと並んで全国でも最多クラスを誇る馬具、それも『金や銀で彩色された馬具』を所有した方々が住んでいた
この球磨の地が元々どのような地であったのか、
お解り頂けましたでしょうか? 😊

 

日本最古が「重なる地」でもある

この球磨に残る「地名」・「山岳名」・「河川名」 には

私はとても意味がある と考えております。

 

と言う事で

次回は「地名」からひも解くお話を書かせて頂きます(^^)/

前回の予告編で書いた「地名」以外に

皇族以外は使用する事が出来なかった「櫛」の材料となる「木」の地名や(意味深ですが)

面田※免田と岡原地区に広がる地 「築串」 は ちくし と読む 

他、色々気が付いております😊

 

今回もとても長いお話となりましたが、

最後までお読み頂き ありがとうございました。

皆様、お身体十分にお気を付けてお過ごし下さい。

 

今日の動画は・・・

以前ご紹介した 私が作った動画とさせて頂きます。

縄文時代早期の土器の文様 ぜひ あらためて じっくりとご覧下さい😊・・(p_-)

 

 

 

今日も朝から きゅうりの収穫に行って参ります(^^)/

 

愛する球磨の地より ひろっぷでした。

 

次回『番外編 今年の正月に見た「あるお姿」』 に 続きます。