前回のブログ『アニミズム 強磁性と反磁性 球磨は何故祈りの地なのか』より続きます。

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。
 
度重なる自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、

愛するご家族、親戚やご友人の方々に看取られる事なく、一人で旅立つ事をよぎなくされた

御方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

 

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前回のブログに対して、堀ノ内様青い海様より、とても参考になるご教示をコメントにて頂きました。

 

お二人から頂いたご教示を元に私なりに勉強をさせて頂き、気が付いた事等を次回のブログにて書かせて頂こうと思っています。

あらためまして、お二人にお礼を申し上げます。

ありがとうございました。

 

前回のブログは

①磁気と人の関係

②球磨盆地(人吉盆地)の強磁性と反磁性

③アニミズム 花崗岩で形成された山田城

という形で書かせて頂きました。

 

磁気と古代の祈りは深い関係が存在している・・

と私は考えております。

花崗岩の巨石群の中にあった球磨郡旧山田村の山田城跡は、遡ると、縄文時代の祈りの地であったと推測するに至りました。

 

あらためまして

アニミズム(英語: animism)とは ウィキペディアより抜粋

 

生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという
考え方。
19世紀後半、イギリスの人類学者、E・B・タイラーが著書『原始文化』(1871年)の中で使用し定着させた。日本語では「汎霊説」、「精霊信仰」「地霊信仰」などと訳されている。

 

関連項目より 自然崇拝

 


自然崇拝(しぜんすうはい・英:nature worship/physiolatry)とは、自然物・自然現象を対象とする崇拝、もしくはそれらを神格化する信仰の総称。

「自然への崇拝」ではなく、「自然」という概念ができる以前の崇拝形態である。

自然崇拝は世界各地に見られ、また各地の神話にも自然物・現象を神格化した神が登場することから、古くは普遍的であったと思われる。万物に宿る精霊を崇拝対象とするアニミズムとも関係が深く、その原初的な形とも捉えられる。しかし自然崇拝では精霊でなく自然物・現象そのものを崇拝対象とする(自然と超自然的存在を区別しない)場合も多く、またしばしば特定の自然物・現象だけを尊重する点で区別される。

対象としては
天空
大地、山、海
太陽、月、星(星辰崇拝)
雷、雨、風などの気象
樹木、森林 (神奈備)
動物(特に熊、狼などの猛獣)
水、火、岩石

 

などが代表的。

これらのうち共通の属性を持つ複数のものを一体として神格化する崇拝(例えば天空と雷など)もある。神道では、巨木、巨石(磐座)、山などを御神体とする神社も多く、これらへの自然崇拝を色濃く残している。ユーラシアの多くの牧畜民族では天空(テングリ)崇拝が重視され、シャーマニズムとも結び付いており、また中国の「天」観念との関係も指摘される。太陽崇拝が多くの民族で重視される一方で、月崇拝を重視する民族もある。

火は人工物としての側面も強く、いろいろな宗教の儀式に取り入れられている。巨石崇拝も人工物(巨石記念物)への崇拝に転化しうる。

以上 ウィキペディアより転記致しました。

 

※神道では、巨木、巨石(磐座)、山などを御神体とする神社も多く、これらへの自然崇拝を色濃く残している。

 

神道・・・

 

1.神道について少しだけ勉強しました・・

うちの親戚には多くの神社宮司家がいらっしゃるのですが、今まで、神道についてちゃんと勉強した事はありませんでした。非常にお恥ずかしい限りです。

いまさら・・・親戚の方々に色々お話をお聞きする訳にもいきませんので😥

あらためて、神道についてウィキペディアの記述を拝見させて頂きました。

 

神道 ウィキペディアより 不勉強な私ですがとても関心を持った箇所を抜粋させて頂きます。

 

神道(しんとう、しんどう)は、日本の宗教。惟神道(かんながらのみち)ともいう。

教典や具体的な教えはなく、開祖もいない。神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム的・祖霊崇拝的な民族宗教である。

自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。

 

概要
神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教である。宗教名の多くは日本語では「○○教」と呼称するが、宗教名は神教ではなく「神道」である。

伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。

また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である。

神道には確定した教祖、創始者がおらず、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランにあたるような公式に定められた「正典」も存在しないとされるが、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『先代旧事本紀』『宣命』といった「神典」と称される古典群が神道の聖典とされている。

森羅万象に神が宿ると考え、また偉大な祖先を神格化し、天津神・国津神などの祖霊をまつり、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする。

他宗教と比べて現世主義的といった特徴がみられる。

神道とは森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(かんながらのみち、神とともにあるの意)」であるといわれる。

教えや内実は神社と祭りの中に伝えられている。『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる。

 

由来と教義

神道の起源は非常に古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念である。このためキリスト教、仏教のような開祖が存在せず、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている。

「神道」という名称については「かんながらの道(神道)」と言う意味である。

中国の『易経』や『晋書』の中にみえる神道は「神(あや)しき道」という意味であり、これは日本の神道観念とは性質が異なる別個のものである。

同様のケースに、卑弥呼の時代の宗教感に対し鬼道という表現がなされるが、これは当時の中国における鬼道が異国の諸宗教に対して用いられていた。このことからも、日本での呼称とはまったくの別物であることが分かる。

日本における「神道」という言葉の初出は『日本書紀』の用明天皇紀にある

「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが、このように外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった。

解釈は多様であり、仏教や儒教に対して日本独自の宗教を神道とする説、稲作のような自然の理法に従う営みを指して神道とする説などがある。

 

神道における「神」

神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強い。

気象、地理地形などの自然現象に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める。

いわゆる「八百万の神々」である。アイヌの信仰にも共通点があり、アイヌ語の「カムイ」と「神(かみ)」という語の関係も深いと考えられている

 

戦前の教科書の神と神代
戦前は、学校の教科書などに、「神」についての認識の仕方の説明が載っていた。

尋常小学校の歴史や修身の教科書などには、少年少女向けの歴史物語として、神話の説明が記載されている。神話の世界はとても人間的な世界で、そこには「神」と「人」を隔てる断絶は存在しない。神もまた、人間のように仕事をし、生活をしている。

昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に、

「どこの國でも大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、

神代の事から始まる日本の歴史について「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである」と説明されている

以上 ウィキペディアより 抜粋させて頂きました。

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抜粋の初めに

※不勉強な私ですがとても関心を持った箇所を抜粋させて頂きます。

と書きましたが、あえて、「人」・「抗争」・「中世以降の流れ」等については抜粋をさせて頂きませんでした。

その理由は・・・

純粋に古代の方々が感じていた「神様」を

私も感じてみたい 知りたい

と考えたからです。

 

 

昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に、

「どこの國でも大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、

神代の事から始まる日本の歴史について「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである」と説明されている

 

心に響きました。

昭和8年の子供達が理解していた事を、私は解っていなかった・・・

凄く恥ずかしくなりました。

 

※伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。

祖霊信仰・・・

中央や地方の政治体制・・・

この部分は、古代の歴史を考えるにあたり、非常に重要であり、尚且つ

慎重に理解、勉強する必要がある!

と考えます。

人の移動に伴い祖霊信仰の地も移動するはずです。

末孫の移動に伴い移動した「祖霊信仰の地」に最初から『我が國の大昔に相當の身分であつた方たち』がいらした・・とはならないからです。

私もこれからは、「この部分」には 慎重な考えをもちたい

と考えました。

 

※神道とは森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(かんながらのみち、神とともにあるの意)」であるといわれる。

 

惟神の道

神とともにあるの意

 

やっと理解出来ました!!!!

家の親戚多数の家々。代々宮司家を務める親戚のご先祖様方の通字「惟」

どうして・・「惟」の文字を多くお見かけするのか

宮司家・・神とともにある

惟神の道

神とともにあるの意

そういう意味だったのですね!!

感動いたしました。

 

ここで、理解出来た事

神道とは

①神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム的・祖霊崇拝的な民族宗教である。惟神道(かんながらのみち)ともいう。

②神道の起源は非常に古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念である。縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている。

③伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。

④神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである

 

基本の基(きほんのき)が解っていなくて、歴史を理解しようとする事

最初の段階が完全に抜けていた自分自身を深く反省致しました。

 

2,球磨の熊津彦様のご先祖様と委奴国

ブログ『球磨と彦の漢字の成り立ちと熊津彦、難升米様親子』等でも書いていますが・・

 

 

 

松野連系図によれば、

球磨の熊津彦様の御子息として難升米様、掖邪狗様が記されています。

 

この系図から、球磨の熊津彦様のご先祖様は 

春秋時代の呉国国王夫差王となられる事が解ります。

※補足

太田亮博士著 姓氏家系大辞典 国立国会図書館デジタルコレクションより

 

 

前回のブログでも書いたのですが

球磨川下流には

「呉人呉人的来多」 オレオレデーライタ

「中国の呉の国からたくさんの人がやって来た」

と言う伝承が今でも残っています。

 

何故? 球磨川の河口に「呉人呉人的来多」 なのか・・・・?????

つまり

何故?呉人は球磨川河口に上陸する事を選んだのか!???

 

私の頭の中には

喜界カルデラの大爆発を逃れて大陸に渡った人達の子孫が、帰って来られたのではないか?

という考えが強くあります。

 

何故?呉人は球磨川河口に上陸する事を選んだのか!???

松野連系図には同じ名の方々があり、さらに記紀に基づく注釈にも混乱が見られます。

例えば 熊津彦というお名前は球磨の熊津彦様以外にもう御一方・・・

熊鹿文 姓姫氏 称卑弥呼  熊津彦

後漢光武中元二年正月 私通漢土受印綬僭称委奴国王

さらに、第一系図の注釈を良く見ると・・・

宇閇(うえ)という方も中元二年正月に印綬 とあります

 

印綬・・・委奴国王・・・

つまり

江戸時代天明年間(1781年~1789年)、※(天明4年2月23日(1784年4月12日)とする説がある)水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。

漢委奴国王印  ・・・・ですね

その後福岡藩主黒田家に伝えられたもの・・・・

 

江戸時代の事を書かせて頂きます。

不思議なことなのですが・・・

実は・・・球磨人吉と金印発見当時の黒田藩とは 深い繋がりがあったのですよね・・・

 

肥後国人吉藩の第11代藩主 相良 長寛(さがら ながひろ)公

宝暦元年(1751年)12月6日、備前岡山藩主・池田宗政の次男として生まれる。

外祖父(母方の祖父)にあたる御方は6代目筑前福岡藩主、黒田継高公

相良 長寛公は明和6年(1769年)3月5日、第10代人吉藩主・相良福将が死去した際に、末期養子として家督を継がれました。

 

金印発見当時の天明年間と言えば・・球磨人吉は

天明2年(1782年)8月、山田村伝助が真宗禁制の掟を破って信仰しているとして捕縛し、処刑するという事件が起こった。同年から天明5年(1785年)までは天明の飢饉に苦しんだ。

とありますから・・・

さぞや、人吉藩でも、御殿様のお母様の御実家黒田家の祝事に喜び溢れたでしょう・・・

 

あっ!でも当時の黒田家は・・・

御三卿・一橋徳川家の初代当主・徳川宗尹公の五男でいらした筑前国福岡藩7代藩主

黒田 治之公か、讃岐国多度津藩主・京極高慶の七男でいらした黒田 治高公が、筑前国福岡藩8代藩主でいらした時代なのかな・・・もしくは

徳川治済公の三男でいらした黒田 斉隆公の時代なのかな・・・・

徳川家か・・・(独り言です・・)

 

それでも

さぞや、人吉藩でも、御殿様のお母様の御実家黒田家の祝事に喜び溢れたでしょう・・・

・・・・・\(^o^)/・・・(^'^)・・・(^'^)・・・・(p_-)・・・・

 

池田家の血脈となられた人吉藩相良家ですが・・・

相良 長寛公(正室:五百姫 - 松平忠名公の娘様)のお孫様となられる

相良 頼之(さがら よりゆき)公、肥後国人吉藩の第13代藩主。

ウィキペディアの記述をご覧頂ければお解りになられると思いますが

次男:池田章政公(1836-1903) - 池田政善、池田茂政の養子

備中鴨方藩9代藩主、のち備前岡山藩10代(最後の)藩主。岡山藩池田家宗家12代当主

となられた御方です。

江戸幕府第15代征夷大将軍徳川 慶喜公の弟であられた池田茂政公の養子となられて

岡山藩池田家宗家を継がれていらっしゃいます。

 

池田章政公の妹君でいらっしゃる於保様は・・・

宮原健之助(幼名) 後の 宮原健吉 と言う方の妻となられていらっしゃるのです・・・

宮原健吉 と言う方の宮原家は、以前から書いている岡原の豪族と球磨村のお堂に記された

相良家家老宮原公全という方の末孫でいらっしゃり、宮原公全という方の孫、もしくは甥となられる御方が旧久米郷宮原村の私の曾祖母の実家「新堀家」を継いだ宮原金兵衛こと

宮原公行さんです・・・

 

池田氏は、過去ブログ

3.(追記あり)速報!1200年程遡ると相良氏と伊予橘氏は血縁関係!!』で書いたように

※池田教依公は楠木正成公の嫡男正行公の遺児教正を引き取って育て、のちに池田氏の惣領としている。ここに、池田氏は橘姓になったことになる。

 

つまり・・・

池田氏と宮原氏は遡ると 全くの同族である

と言う事になります。

 

江戸幕府第15代征夷大将軍徳川 慶喜公の弟であられた池田茂政公の養子となられて

岡山藩池田家宗家を継がれた池田章政公の妹君でいらっしゃる於保様は宮原一族

宮原健吉 と言う方の妻となられていらっしゃる・・・

池田氏と宮原氏は遡ると 全くの同族である・・・

 

金印をめぐる 黒田藩黒田家と人吉藩相良家の関係・・・

徳川家・松平家・黒田家・池田家・相良家・・・

そして・・・そこに繋がる橘公長、橘公業の末孫「宮原氏」・・・

私の考え過ぎかな・・・でも・・・

全てこの繋がりが古代に関係しているような気がしてならないのですよね・・・

 

何故ならば・・・松野連系図・・・

松野連系図に見える「熊津彦」様は球磨にいらした御方で・・・

球磨には「上村(うえ村)」正式には「うえ(うえ)」があり・・・系図より宇閇(うえ)

 

旧面田村(免田村)には久鹿(クシカ)地名が残り・・・

系図より玖志加也 『クシカヤ』 もしくは 『クシカ也(なり)』・・・

 

「不土野(ふどの)」 は球磨郡水上村のお隣の椎葉村の地名であり、最近知ったのですが

水上村にも「不土野(ふどの)」 地名が残っていました・・・

系図より布怒之 『フドノ』・・・・

 

こんな偶然って あるのかな・・・????

参考ブログ 面田(免田)の「クシカ」と松野連系図 西暦と対照

 

(独り言)

もしも・・・金印が「別の場所」で見つかっていたならば・・・

ブログ『後漢書を読んで。奴国と狗奴国』で気が付いた・・・

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫倭国之極南界也 光武賜以印綬
建武中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。
倭国の極南界なり。光武は印綬を賜った。


つまり・・
倭奴國(委奴国)は倭国の極南界也 と記されている

この事と辻褄が合ってくるのですが・・・

(独り言でした・・・)

 

3.古代共通のアニミズム 古公亶父の妻は姜族の方

何故? 球磨川の河口に「呉人呉人的来多」 なのか・・・・?????

 

球磨はブログ11万年前以前からの球磨人と、超古代からの球磨のおさらいで書いたように

11万年以前の人の営みが見つかっていて、

縄文時代草創期からかなり発達した文化を持った方々が住されていた事が解っています。

その地に襲い掛かった喜界カルデラの爆発的噴火・・

 

先にも書きましたように球磨の熊津彦様のご先祖様は 春秋時代の呉国国王夫差王

太伯王には子供さんはいらっしゃらなかった・・・
「呉太伯世家」 とは 弟の虞仲(仲雍)王の系 を指す・・・・
つまり 夫差(フサ)王は 弟の虞仲(仲雍)王の系であり 「呉太伯世家」である・・・

 

太伯王、虞仲(仲雍)王の父であられる古公亶父

ウィキペディアより

 

古公亶父(ここうたんぽ)は、周王朝初代武王の曾祖父。周の先王の一人。公叔祖類(中国語版)の子。姓は姫(き)。先祖の后稷、公劉の業を納め、国人から慕われた。古公とも呼ばれる。詩経では大王。周が殷を滅ぼした後は太王と尊称される。

 

詩経の大雅の緜編には、姜族の妻と共に岐山の麓へやってきたこと、住むべき洞窟すらない岐山の麓で古公が一から国を建国する様子、その後の繁栄などがうたわれている。

以上 ウィキペディアより 抜粋致しました。

※姜族の妻と共に岐山の麓へやってきた

 

姜族の妻

姜族(羌族)を調べました。 ウィキペディアより抜粋致します。(ぜひ、じっくりとご覧下さい)

 

チャン族(羌族、ピンイン:Qiāng Zú)は、中華人民共和国の少数民族のひとつ。

人口は約30.6万人(2000年)。主に四川省アバ・チベット族チャン族自治州内の茂(マオ)県,汶川(ウェンチュアン、ウントン)県,理(リ)県及び松潘(ソンパン、スンチュ)県、更に綿陽(ミエンヤン)市内の北川チャン族自治県に集団で住んでいる。

 

チャン族(羌族)はシナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属するチャン語(英語版)を話す。チャン語には南北2大方言が存在する。

古代の羌人の中で最大勢力を誇り、西夏を建国したタングート族には独自の文字として西夏文字が存在し、そこから再現されたタングート語は、現代のチャン語北部方言に比較的近い。

 

チャン族は古代から中国史に名を残す異民族であり、古くは殷代の甲骨文字の中に、羌人に関する記載がある。古代の羌人は分布が広く、中国の西北,西南,中原の一部の地方にもその活動が見られた。その後、時代を経て古代羌人の一部は現在のチベット・ビルマ語族の中の各族に発展変化し、別の一部はその他の民族、とくに漢族と融合した。ただ、岷江上流域の渓谷に生活する一部の羌人はさまざまな要因によって今日までその姿をとどめている。

 

生活
チャン族はおもに農業に従事し、牧畜業も兼ねる。特に井戸掘りと石造建築物の構造技術に長じる。また伝統的な「
アニミズム」が信仰されており、宗教生活におけるタブーも存在する。

 

宗教
アニミズム
チャン族は古代羌族の時代から脈々と受け継がれてきた原始宗教である精霊・多神崇拝(アニミズム)を信仰している。

彼らの精霊・多神崇拝というのはいわゆるアニミズム的観念であり、全ての人間には霊魂が宿っていて、それが外界の物事に推し及ぼし、あらゆる物,場所に精霊が存在し、行動していると考えた。

彼らの宗教は多神教であるため、数多くの神が存在する。

その中でも彼らがもっとも崇拝してきたのは「天神(太陽神)」である。

天神は万物を主宰し、人間と家畜に禍福を及ぼす神であると考えられた。

この天神を主神として山の神,火の神,羊の神,水の神,土地の神と続き、全部で10数種類もの神が存在するが、「万物有霊」の考えから「着物の角」から「体の垢」、「吐息」にいたるまで、ありとあらゆる万物に霊が宿ると信じられている。

このように形あるものから形のないものまで崇拝するのであるが、形のない神々に対しては「白石神」といって石英をその神々に見立てて崇拝する。これは彼らの「白石伝説」に基づく考えなのであるが、伝説では強敵の戈基(ガァチィ)人を神の啓示によって倒したチャン族は戦勝を記念して神を祀ろうとしたが、神に形がなかったため、夢(神の啓示)で見た石英を神の象徴として崇めるようになったという。この「白石伝説」はチャン族の儀式で必ずシャーマンによって唱えられ、彼らの神話として語り継がれてきた。

チャン族の宗教で欠かせないのがシャーマン(巫師)である。

シャーマンはチャン族の言葉で「許(シュイ)」と呼ばれ、生産にも従事している宗教職能者であり、神と通交し、悪魔とも接触するので、人々が祀る神々以外に彼自身の保護神を持っている。彼は民族の歴史や伝説に通じ、さまざまな神話物語と故実の由来などを暗誦しており、各種の記録されていない呪文を唱えることができ、神通力を発揮する法器をもっていた。

そのため人々は彼が自然を自在に操る才能を備え、風雨を呼ぶことができ、家畜と作物を繁殖させ、運命の吉凶を変える能力をもっていると信じた。シャーマンはさらに医者でもあり、どのような病気も治療できるとされた。それゆえにシャーマンは長年にわたってチャン族の社会生活で重要な地位を占め、人々の精神上の指導者というべき存在であった。

シャーマンは徒弟制によって養成され、経典がなく、一切の呪文は師匠の口伝にたよる。

以上 ウィキペディアより抜粋致しました

 

宗教はアニミズムであり多神教である

神に形がなかったため、夢(神の啓示)で見た石英を神の象徴として崇めるようになったという。

 

石英については気が付いている事がありますが、次回以降に<m(__)m>

 

では、姜族(羌族)の方々のDNAはどうなのか・・? 調べました(p_-)

 

ハプログループD (Y染色体)

ウィキペディアより 抜粋致します。

 

分布
現在、このハプログループDは、日本列島・南西諸島やアンダマン諸島、チベット高原で高頻度に観察されるほかは、アジア、アフリカの極めて限られた地域で散発的にしか見つかっていない。

 

各地の詳細分布
チベット人
チベットでは、D1a1a-M15が15.2%、D1a1b⁻P47が31.4%、とD1a1-Z27276系統だけで少なくとも半数近くの47%を占めている。

チベット以外の中国より

2006年に発表された論文の補足データによれば、D-M15に属するY染色体が中国南部に居住する複数の民族の男性から見つかっている。

2006年に発表された別の研究では、DE-YAP(xE-SRY4064)に属するY染色体が

羌族6/33 = 18.2%、回族4/35 = 11.4%、甘粛省蘭州市漢族2/30 = 6.7%、新疆ウイグル自治区イリの漢族1/32 = 3.1%、満州族 1/35 = 2.9%、広西省河池市巴馬ヤオ族自治県ヤオ族1/35 = 2.9%、新疆ウイグル自治区イリのウイグル族1/39 = 2.6%、シボ族1/41 = 2.4%から見つかっている。

以上 ウィキペディアより 抜粋致しました。

 

ハプログループDは、日本列島・南西諸島やアンダマン諸島、チベット高原で高頻度に観察されるほかは、アジア、アフリカの極めて限られた地域で散発的にしか見つかっていない。

 

ハプログループD (Y染色体) 姜族(羌族) 6/33 18.2%

 

古公亶父の妻は姜族の方

姜族(羌族) ありとあらゆる万物に霊が宿ると信じられている

DNAは日本列島等で高頻度に観察される

ハプログループD (Y染色体) が33人中6人18.2%で確認された

 

何故? 球磨川の河口に「呉人呉人的来多」 なのか・・・・?????

私は太伯王、虞仲(仲雍)王の母であられる

御方に重要な「意味」が関わっているような気がしてなりません!

 

それに・・・

※特に井戸掘りと石造建築物の構造技術に長じる。

重要な「意味」が関わっているような気がしてなりません!

 

これからも、もっと姜族(羌族)の方々を深く勉強してみたい!

と私は考えています。

 

 

1.神道について少しだけ勉強しました・・

2,球磨の熊津彦様のご先祖様と委奴国

3.古代共通のアニミズム 古公亶父の妻は姜族の方

と続けて一気に書かせて頂きました。非常に長くなりまして申し訳ございません<m(__)m>

 

マダマダ気が付いている事は沢山あります(p_-)

しばらくは時間が取れるようになりましたので、この続きは出来るだけ早く書きたい!と

思っています。(^'^)

 

前回のブログでは柴咲コウさんの「ひとかけら」をご紹介致しましたが・・

今回は・・球磨は月の形をした盆地・・と言う事で 月繋がり?の

月のしずく をご紹介致します。

ライブ映像がとても素敵です。

私は月のしずくの歌詞も、とても素敵だと感じています(^'^)

 

 

 

 

最後までご覧頂き ありがとうございました。

皆様方、どうかお身体十分にお気を付けてお過ごし下さい。

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『番外編 負ける訳にはいかない・爪の裏側・・次回に続く前に独り言 ・・』に

続きます。