前回のブログ「源流を知る為の必読書より 肥は日なり 涙が溢れ・・」より続きます。

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。

 


度重なる自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
愛するご家族、親戚やご友人の方々に看取られる事なく、一人で旅立つ事をよぎなくされた
御方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

献身的な看護、そして治療に従事なさっていらっしゃる医療現場の方々の御苦労に

心から感謝致しております。 

感染なさった方々の早期回復をお祈りいたします。
この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

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明日から週末以降 時間が取れないようですので、

今日(3月18日)と明日早朝投稿?(3月19日)に分けて 2回続けてのブログ投稿を

行わせて頂きます<m(__)m>

 

 

 

はじめに

前回、ご紹介させて頂いた 著者 林兼明氏 神に関する古語の研究

 

 

 

 

 

 

林 兼明様のお言葉の中に

今まで、私が先祖を調べるにあたって、さらに、

故郷の古代を調べるにあたって、普段から考えていた事に、共通するご意見がありました。

ご紹介させて頂きます。

 

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著者 林兼明氏 神に関する古語の研究 より

 

凡そ古典を審査批判するに一つの要訣あり。

 

曰く、無差別無条件に一切を肯信するは、これを妄信にして、結局その一切を肯信せざると同一結果と相成るなり。

 

またこの一切を否定的、非現実的に見る者は、これ誠に近眼にして、世に世界的事実ある事のみを知りて、宗教的事実、信念的事実、哲学的事実あるを知らざるものにして、そは結局歴史的事実も知らざると同一結果に陥るなり。

 

古典に、伝統そのまま、信念そのままを記述せるものは、その内容筋道の如何にかかはらず、単に素材そのままにて一個の偉大なる事実にして、また歴史的価値に於いても絶大なるものあり。

 

然るに、之に反して、この素材的事実に注釈を加えたる所謂説明神話は概ね荒唐無稽にして真相を逸し何等の価値をも存ぜるもの多し。

 

例えば風土記及び、風土記の原資料より採りたりと思はるる例の地名伝説、人名伝説・・略

即ちこれなり。

 

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古典 即ち 古事記、日本書紀を拝見すると、「言葉は適切ではない」と思いますが至る所に「ヒント」が隠されている・・と私は感じていました。

 

古代に遡って歴代天皇様のご年代を現在の西暦対応表と照らし合わせてみると、

天皇様のお名前を拝借して、「当時」の日本のどの地域にどういった方々がいらしたのか

描かれていると考えると・・とても良く解ります。

 

この事は、記紀の編纂者の方々が、当時すでに世に出ていた他国の史書をも

しっかりと熟知なさっていらした証だと思います。

 

日本国の成立に遥か数千年の日々が描かれている事は、当たり前の事だと考えます。

何故ならば、国内各地の少ないながらも旧石器時代の遺跡や、縄文時代の膨大な遺跡を残された方々は確かに、日本列島に住まわれていた「他国にはない発達した文化」を持った方々だったからです。

 

縄文時代の事を勉強すればするほど・・

 

私は個人的に、

日本列島の縄文文化は「日本縄文文明」と呼ばれても

良いのではないか!?

 

と考えています。

しかし・・そう出来ない理由が 75年程前から続いているのでしょう・・・

 

 

ありがたい事に私の住む「球磨地方」には旧石器時代から縄文時代を通しての遺跡が多数存在しています。

 

縄文時代の遺跡数は熊本県内でも最多。

九州内でも佐賀県の唐津伊万里地方に続いて2番目の多さです。

 

そういった環境が身近にある事は感謝すべき事なのだ・・

と書籍を拝見して強く感じています。

 

 

 

一例を書いたブログ

 

 

 

上記のブログではご紹介していない、まだまだ多くの旧石器時代から縄文時代晩期にかけての遺跡が球磨には多数存在しています。

 

(再)球磨には本当に熊がいた!さらに麻斯登登は球磨弁 そして球磨川と対馬 

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12659017467.html

 

でご紹介した人吉市大野地区

 

人吉市の遺跡について(球磨郡を除く)解りやすくまとめていらっしゃるサイト様をご紹介致します。

 

肥後国くまもとの歴史 様 サイトより

人吉の歴史 旧石器時代~弥生時代     2010年09月21日

 

 

 

人吉市の旧石器時代~縄文時代晩期にかけての遺跡(球磨郡をのぞく

上記サイト様から抜粋させて頂きます。

詳細はサイト様をご覧下さい<m(__)m>

 

2010年までの発掘調査によると

旧石器時代

 

※人吉市大野町の大野C・D・E遺跡で、年代測定の結果、今から8~5万年前のもので、小型の石器を主に使用

 

※次に古い遺跡は、人吉市鬼木町の血気ヶ峯遺跡で、今から2万8000年前のもの

今から2万2000年前に鹿児島県姶良火山の爆発により火山灰が降って堆積した『シラス層』の下から刃の一部を磨いている石斧、台形の形をしたナイフが発見

 

※シラスの降灰が終わり、植生が回復してきた、今から1万8000年前頃

城本町・村山闇谷遺跡、七地町・天道ヶ尾遺跡、鬼木町・血気ヶ峯遺跡、願成寺・鼓ヶ峰遺跡、願成寺町・石清水遺跡でき、狩猟に使われた『槍先』、ナイフ形石器などがシラス層の上から発見

 

※旧石器時代も終わりになると、組み合わせ石器として細石器が使用され始め、球磨村・久保遺跡、山江村・城馬場遺跡、七地町・原畑遺跡で確認

 

縄文時代

人吉市の縄文時代の遺跡

 

※最も古い草創期の遺跡として、赤池原町の白鳥平遺跡があり、

この遺跡は、今から約1万年前のもので、土器の表面に爪で文様をつけた『爪形文土器』が発見される。

 

早期(8000年前)の遺跡として、城本町の村山闇谷遺跡があり、押型文土器、塞ノ神式土器が発見される。

 

前期(6500年前)の遺跡として、願成寺町の鼓ヶ峰遺跡があり、曽畑式土器が発見されている。

 

※中期の遺跡は人吉市以外の球磨郡内で多数発見されている。

 

後期(4000年前)から晩期(2500年前)の遺跡の代表として、中神町の中堂遺跡がある。
この中堂遺跡は、球磨川の河川改修により大規模な発掘調査が行われ、

その結果、堅穴式住居61軒、赤ちゃんを埋葬した棺38基、石器を作った場所、土器の捨て場があるムラの跡が、景観とともに現代人の前に現れた。また、集落内からは、縄文時代晩期の土器、石斧、矢じりなどの様々な石器、翡翠製の勾玉、菅玉なでの装飾品が発見される。

 

以上 肥後国くまもとの歴史 様 サイトより

人吉の歴史 旧石器時代~弥生時代     2010年09月21日 より

抜粋させて頂き まとめました。

 

 

上記のお話は あくまでも人吉市内で発見された遺跡の数々であり、縄文時代の遺跡は球磨郡内には200か所近く 存在しています。

 

今まで、何度もご紹介してきた 日本最古のベンガラ彩色が施された耳栓(耳飾り)

今から約1万2千年前の出土品です。

あさぎり町深田から出土しています。

公開されていませんが 耳に大きな穴を開けてそこに耳栓を入れるタイプの耳飾りでした。

痛そう・・・😥

 

 

 

多良木町からは12000年前~8000年前の遺跡が発掘されています。

 

球磨郡多良木町大久保台地遺跡群から出土した

8000年前の石製(滑石) 人形

さらに、

12000年前~8000年前に作られた土器に施された文様の数々

 

 

未だ御覧ではない方はぜひじっくりとご覧頂ければと願うブログです。

 

 

 

 

 

 

上記ブログに載せた動画で ご紹介した

 

今から8000年前に滑石で造られた

日本でただ一つの出土品  石製品の人形

出土直後の写真

 

さらに動画でもご紹介しているように

菱形文様は 球磨では縄文時代早期12,000前~80000年前から

すでに使用されていました。

 

菱形文様の土器 一例

 

 

 

 

12,000年~8,000年前の球磨の人達が何処から来られたのかDNAにも言及して

検証したブログがこちらです。 

 

 

 

 

2019年の12月に書いた上記のブログ

当時の私は気が付いていました・・・

 

熊本県球磨郡あさぎり町深田(旧深田村)字灰塚の灰塚遺跡から出土した耳栓は
鹿児島県国分市上野原遺跡(現霧島市)と福山町城ケ尾遺跡(現霧島市)と並ぶ

日本最古のベンガラ彩色を用いた耳栓であった!

時代は縄文時代早期(約1万2,000 - 7,000年前) 
 

 

シュメール文明 シュメール都市文明の成立
ウバイド期に続く次の時期をウルク期(
紀元前3500年-紀元前3100年)と呼び、この時期は都市文明の開始期である。都市文明の担い手はシュメール人だった。

球磨・霧島市周辺の超古代遺跡、

日本最古のベンガラを使用する人達が住んでいた時代の方が

シュメール文明より、 遥かに古い・・

 

と言う事をです。

 

詳細は上記のブログをお読み下さればお解り頂けると思います<m(__)m>

 

 

 

 

理解したからこそ

古代南九州(7,300年前 喜界カルデラ爆発的噴火まで) → ・・

・・ → 大陸 → 日本 ⇔ 朝鮮半島

 

こういう移動経路の推測が可能だと強く今でも考えています。

 

 

 

 

縄文時代早期の南九州は、ムラの規模や土器の作り方などから

見て相当高度な文化をもっていたと考えられている。

 

何故?球磨に多くの遺跡が存在するのか・・

それは当時の地球環境を考えれば一目瞭然だと思います。

 

氷河期と縄文海進です。

 

 

最終氷河期

7万年前に始まって1万年前に終了した一番新しい氷期

 

さらに

 

縄文海進 

 

ウィキペディアより

 

 

縄文海進(じょうもんかいしん)は、最終氷期の最寒冷期後(約19,000年前)から始まった海水面の上昇を指し、日本など氷床から遠く離れた地域で100メートル以上の上昇となり

(年速1 - 2センチメートル)、ピーク時である約6,500年前 - 約6,000年まで上昇が続いた

日本では縄文時代)。現在はピーク時から海水面は約5メートル低下した。

 

 

 

地球の環境変動に伴って旧石器時代から縄文時代全般にかけて多くの方々が

日本列島に上陸なさったのだと推測します。

 

 

最終氷河期の移動 に関わった旧石器時代や縄文時代の人達の気持ちを考えればよく理解出来ます。

きっと 太陽に向かって 進んでこられたのでしょう。

太陽が昇る東には温かい世界が広がっている・・

そう考えられたのでしょう・・

 

 

 

こういう風に考える事が出来るようになったきっかけは

著者 林兼明氏  神に関する古語の研究 を拝読したからです。

 

 

林兼明様は 東西南北について以下のようにお書きになられていらっしゃいます。

 

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「影面」は文字通り日光の指す面をいふ。南に日光の多く輝き指す所以は、日本は赤道よりも遥かに北緯に位するが故なり。
山蔭を背面(そとも)といふは前述の義によりて、山の北は天日に背を向くる面なるが故なり。

略して書かせて頂きます


「ひむかし」 → 「日向し」 → 「ひがし」 → 「東」

「ひいなし」 → 「日住し」 → 「にし」 → 「西」
※「日住し」・・住なす(いなす)
つまり 日が行きて隠るる所を「にし(西)」と名付けたるなり。

「ひたかみ」 → 「日高見」 → 「きたかみ」 → 「きた」 →「北」

「ひなのめみ」 → 「日斜見(ひなのめみ)」 → 「みなのめみ」 → 「南」

左と右は
「日足り」 → 「左」
「みぎり」 → 「目切り(まぎり)」 → 「右」

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

 

※「ひむかし」 → 「日向し」 → 「ひがし」 → 「東」

漢字など存在しない時代の方々の気持ちを考えれば、先に書いた

 

きっと 太陽に向かって 進んでこられたのでしょう。

太陽が昇る東には温かい世界が広がっている・・

そう考えられたのでしょう・・

この事が良く解りました。

 

 

前回のブログでご紹介した

天孫降臨

日向(ひむか)なる事は 天孫東遷の肇国史実を最も明快に、

最も力強く体証する「ことば」なり。

 

上記の日向(ひむか)とは 日向国の事を指しているのではなく

ある場所から天孫族(日神信仰)と言われる方々が

日向(ひむか)つまり 東に向かわれた

と言う史実を最も力強く大証する「ことば」である

とおっしゃっていらっしゃるのです。

 

ある場所・・

記紀の記述を読み解く為には

そのつど 話の中で 

視点がどこからどこを見ているのか・・

を理解するする必要があるようです

 

 

 

 

喜界カルデラの爆発的噴火・・

球磨では免れた方々 自然のシェルターに逃れていた方々がいらっしゃったようだ・・

と推測する「伝承」を先日、椎葉のおじから聞く事が出来ました\(^o^)/

このお話は 次回に<m(__)m>・・(^'^)

 

 

ここまで 書かせて頂いた事が

最初に書いた

※日本国の成立に遥か数千年の日々が描かれている事は、

当たり前の事だと考えます。

に繋がっているのです。

 

 

 

以前も何度かブログに書きましたが・・

日本の歴史は弥生時代に始まったのでは 
な~い!! (ー_ー)!!

 

でございます😊

 

 

 

所で・・・

最後に ぜひ皆様方にご覧頂きたい「図」があります。

 

喜界カルデラの降灰地域です。(ウィキペディアより)

 

画像①

 

幸屋火砕流と鬼界アカホヤの広がり。九州南部・東部、四国、本州瀬戸内海沿い、および

和歌山県で20cm以上あり、広くは朝鮮半島南部や東北地方にも分布する。

 

 

続けて・・

伽耶(加羅)および三国時代の朝鮮半島の図をご覧下さい。(ウィキペディアより)

 

画像②

三国時代の朝鮮半島 左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4~5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。

 

画像③

三国時代の朝鮮半島 左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4~5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。

 

 

さらに阿蘇カルデラの爆発的噴火時の降灰図をご覧下さい。(ウィキペディアより)

 

画像④

 

阿蘇4火砕流と阿蘇4テフラの広がり。火砕流は九州のほぼ全域に達し、火山灰は九州から北海道南部の広範囲で15cm以上堆積している。

 

 

 

画像①②③④ をご覧になられて 何かお気づきになられませんでしょうか・・

 

私は・・・

古代南九州(喜界カルデラ爆発的噴火まで) → 大陸 → 日本 ⇔ 朝鮮半島

この方々 土の見分け方も御存じでいらしたのだなぁ~ と感じました・・

 

日本 ⇔ 朝鮮半島 この事は 半島の各国々が滅びた後、王家の方々、高官の方々

さらに高僧の方々が日本に来られている事が何よりの証ではないか・・と考えます。

戻って来られた・・

 

もちろん、半島に残った方々もいらっしゃるとは推測します。(DNA解析の結果から)

しかし、大半の方々はDNAが異なるのも事実です。

この方々は元々半島におられた「古の半島の民族」でいらっしゃるのではないのでしょうか・・

 

もちろんシェルターから脱出して日本列島を

東にまたは北上された方々が殆どだと思いますが😊

 

 

 

卵はどうやら日の輝きに繋がるようです

ナマズは太陽が乗る船の案内をすると考えられていたようです

(次回 <m(__)m>)

 

 

最後までご覧いただきまして ありがとうございました。

週末から時間が取れないようですので、この続きは、明朝にでも急ぎ書かせて頂きます。

 

今は決して油断できる時ではありません。

どうか お身体十分にお気を付けになられてお過ごし下さい。

 

 

久しぶりに 自分で作った過去動画を<m(__)m>  😊

 

 

 

 

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回 『②太陽に繋がる日ノ国と洞窟と鯰と 新たに湧いた疑問も・・・』 に続きます。