前回のブログ『再投稿③桜と市房山と神様に関わる言葉が残る国内唯一の地名

より続きます。

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。

 


度重なる自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
愛するご家族、親戚やご友人の方々に看取られる事なく、一人で旅立つ事をよぎなくされた
御方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

献身的な看護、そして治療に従事なさっていらっしゃる医療現場の方々の御苦労に

心から感謝致しております。 

感染なさった方々の早期回復をお祈りいたします。
この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

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約7300年前

喜界カルデラの爆発的噴火を逃れた高度な文化を持った

球磨を含む九州南部の縄文人の人達は・・

北へ東へと移動なさったのではないか・・!?

という 私の推論。

幾度となく拙ブログで書いてまいりました。

 

最近の投稿では ①始まり 太陽に向かって進む人達 でも 触れています。

 

 

 

 

私の推論・・・

故郷球磨の数万年に渡る人達が残された軌跡を勉強して、この地の地形等を勉強して

可能性がある と感じて今まで、何度もブログ内で書いてきた事でした。

 

しかし・・・

やはり 移動なさっていらしたようです!・・😊  (p_-)

 

形態人類学 によって 裏付けが行われました \(◎o◎)/!

\(^o^)/

 

皆様方に早く お伝えしたい!! ・・と

今回 早速ご紹介させて頂きます。😊

 

 

1.約7000年前の九州からの移動

 

ウィキペディアの記事は、最新のご研究が日々加筆されていらっしゃる事に感動致しました😊

かなり以前に読んで、そのまま・・の理解に留まっていたウィキペディアの「縄文人」のページに最新のご研究が加筆されていた事に数日前 気が付きました。

最終更新 2021年3月19日 (金) 21:28  と ありました😊

 

その中 に 

形態人類学によって裏付けされた約7000年前の九州から朝鮮半島へ移動なさった方々

の記述がありましたので ご紹介させて頂きます。

 

 

ウィキペディア 縄文人 より 抜粋して転記いたします。

 

 

 

 

※補足

 

轟式土器 ・・・ 

名称は熊本県宇土市にある轟貝塚で発見されたものが標式に設定されていることに由来する。作り手は南方性海洋性民族(南島系海人族)と考えられる・・

 

曽畑式土器(そばたしきどき)・・・

熊本県宇土市の曽畑貝塚からはじめて出土した土器である。

縄文時代前期(鬼界カルデラ大噴火後)の標式土器であり、九州や沖縄から見つかっている。

 

以上の土器の名称をしっかりとご理解して頂いた上で

ウィキペディアの記述をお読み下さい<m(__)m>

 

ウィキペディア 縄文人

九州島と南島・朝鮮半島間の交流 より 転記

 

九州島と南島・朝鮮半島間の交流
縄文前期には九州島を中心として轟式土器と呼ばれる土器が広く使用されるようになった。轟式土器は九州島周辺の他、種子島や屋久島、朝鮮半島南部にも分布しており、これらの島々・半島間を航行した縄文人集団が存在したことを伺わせる。

 

日本列島周辺や南西諸島周辺、朝鮮半島周辺の島々は国ができる以前からこれらの海域を行き来する海洋民族によって既知だったと推測される。

また轟式に続いて登場した
曽畑式土器も、奄美大島の高又遺跡、沖縄島の読谷村渡具知東原遺跡、朝鮮半島の慶尚南道にある釜山市の東三洞貝塚などから発見されている。

 

縄文人が黒潮本流を越えた例としては、この曽畑式土器を持った集団による縄文前期の

九州島・奄美大島間の航海が最も古く、関東における三宅島・八丈島間の航海よりおよそ800年早いものであるとされている。

 

東三洞貝塚では大量の縄文土器と北松浦半島産黒曜石が出土しており、縄文人がやってきた確かな証拠といえる。

なお、朝鮮半島では銛や鏃に最適な黒曜石が産出されない。

長浜浩明は、大阪市立東洋陶磁美術館名誉館長の伊藤郁太郎の見解として、「1969年から1971年にかけて東三洞貝塚の下層から尖底・円底無文土器が発見された。

 

これらの中には北松浦半島の泉福寺洞穴や福井洞穴などから発見された隆起線文土器と類似する土器、同じく北松浦半島の黒曜石と大形石斧(佐世保市相浦の門前遣跡製)も含まれていた。その他、慶尚南道真岩里や咸鏡北道西浦項貝塚などからも発見されている」と紹介し、縄文人は7000年前から無人の朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出していた、と述べている。

 

また、朝鮮半島南部の煙台島貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は縄文人の特徴と多くの点で一致しており、現代韓国人とは似ても似つかぬ形態であり、最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられたとしている。

また長浜は、朝鮮半島の櫛文土器文化の土器は九州の曽畑式土器(縄文前期)そのものであると述べている。

 

以上 ウィキペディア 縄文人 より 転記致しました。

 

 

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やっ・・・やった~!!\(◎o◎)/! \(^o^)/

 

縄文人が黒潮本流を越えた例としては、曽畑式土器を持った集団による縄文前期の
九州島・奄美大島間の航海が最も古い

 

縄文人は7000年前から無人の朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出していた

 

朝鮮半島南部の煙台島貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は

縄文人の特徴と多くの点で一致しており、現代韓国人とは似ても似つかぬ形態である。

 

最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられた

 

上記の記述を拝見した時

あまりにも嬉しくて 涙が出ました。

 

 

 

私が以前ご紹介していた 球磨川と対馬の関係。

球磨川の水は海流に乗って対馬に・・

 

 

 

 

縄文人が朝鮮半島に渡っていた事の裏付けの一つとして

ウィキペディア 縄文人 の記述 最下部近くに 外部リンクとして紹介されている記述は 😊

NBCニュース (2020年10月30日).

 “7月豪雨で流された熊本の看板が対馬に漂着” . 長崎放送

でした。

 

 

ブログ『(再)球磨には本当に熊がいた!さらに麻斯登登は球磨弁 そして球磨川と対馬』 

でも書いていた事 球磨川と対馬の関係・・

 

球磨村消防団の看板は豪雨により激流となった球磨川を下り
海流に乗って 対馬最北端の海岸まで 流れていった

 

やはり・・・ 

この出来事は 考古学上でも とても貴重な情報だったのですね・・

 

 

ブログ『(再)球磨には本当に熊がいた!さらに麻斯登登は球磨弁 そして球磨川と対馬』 

にも書きましたが・・・

悲しみの中で・・
球磨川は 教えてくれた

 

私はあらためて、 そう感じています・・

 

 

朝鮮半島南部の煙台島貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は縄文人の特徴と多くの点で一致しており、現代韓国人とは似ても似つかぬ形態であり、最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられたとしている。

 

現代韓国人とは似ても似つかぬ形態であり・・・

 

という事は・・・

ブログ ①始まり 太陽に向かって進む人達 の最下部 で

図 と共に書いていた事・・

小文字で書いていた事・・ 以下

 

古代南九州(喜界カルデラ爆発的噴火まで) → 大陸 → 日本 ⇔ 朝鮮半島

日本 ⇔ 朝鮮半島 この事は 

半島の各国々が滅びた後、王家の方々、高官の方々
さらに高僧の方々が日本に来られている事が何よりの証ではないか・・と考えます。

戻って来られた・・

もちろん、半島に残った方々もいらっしゃるとは推測します。(DNA解析の結果から)

しかし、大半の方々はDNAが異なるのも事実です。

この方々は元々半島におられた「古の半島の民族」でいらっしゃるのではないのでしょうか・・

この部分・・

推測が間違っていたようです。

 

 

氷河期と縄文海進・・・

※縄文人は7000年前から無人の朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出していた・・

 

つまり・・

元々半島におられた「古の半島の民族」 とは日本から渡った縄文人 となり

現代韓国人とは似ても似つかぬ形態であり・・・

 

現代韓国人の大半の方々とはDNAが異なる・・

この方々が 後に半島に入って来られた方々の後裔 と なる訳ですね・・・

 

そう言えば・・・

父が現役の頃、韓国に出張した際、現地の方から

「あなたのお顔は日本人だとすぐ解ります」

と言われた・・

という話をしていた事を思い出しました。

 

父の顔 (当ブログでは おなじみ? となりましたが・・😅 )

 

 

 

この父 (p_-) もっと若い頃は かなり西洋顔?だったのですが

アメリカでは スペイン人と間違われたのですよね・・(p_-)

 

父現役の頃 1990年代・・

日本国内から集結された精鋭の一人として アメリカで行われた ASP に参加して

日本チーム?が世界一となった時のメンバーの一人なのであります・・

(ブログで 初めて書いちゃいました・・ 父には内緒 しぃ~👆・・)

 

※ASP とは  アメリカ 年次射撃競技会 の事です <m(__)m>

ご興味がおありになられる御方は お調べになられて下さい <m(__)m>

 

その時 アメリカ軍の人から

Are you Spanish?

と聞かれたので

 

父は 

N0! (ー_ー)!!

I'm samurai

と答えたそうです。

 

お父さん 面白い (^▽^;)

 

今では・・

にゃんちゃ~ん 可愛いでしゅねぇ~ と 宮原にゃん子にメロメロの父ですが・・

 

 

にゃんにメロメロな じぃちゃん(父)は・・

実は もと 世界一の精鋭メンバーの一人だったのだ・・

と たま~に この話を思い出して

今の父とのギャップに 

驚く 娘であります・・(^▽^;)

 

 

 

 

2.うちのご先祖様・・ 顔立ち等 検証してみました・・・

 

アメリカ軍の人に

Are you Spanish? と聞かれた父ですが・・

 

皆様方 御存じのように

家の宮原家は 本姓 橘氏 でありまして

橘公業後裔の一系の中の一つ うちの宮原家を

相良一族久保田氏(窪田氏)であり縁戚関係にあった

久保田家から曾祖父が養子に入って継いでいます。

つまり コテコテの日本人ですねぇ~ (p_-)

 

 

 

 

 

祖母方は平河氏 本姓良峯氏

良峯氏 祖の良峯安世(良岑 安世) 公

 

ウィキペディアより

 

 

 

良岑 安世(よしみね の やすよ)は、平安時代初期の皇族・公卿。桓武天皇の皇子。

官位は正三位・大納言、贈従二位。

 

父母    父:桓武天皇、母:百済永継

※百済永継

百済の24代王である末多王(東城王)の末裔

 

人物

若い頃から狩猟を好んで、騎射を能くした。一方で書物の読解も得意とし、始めて孝経を読んだ際、儒教の教えここに極まると嘆息したという。また、歌舞・音曲など多くの伎芸も身に付けていたとされ、天長2年(825年)の嵯峨上皇の40歳を祝う宴では、中納言という高官ながら冷然院正殿の南階から降りて舞を踊ったという。

漢詩に優れ、作品が『凌雲集』に2首、『文華秀麗集』に4首、『経国集』に9首が入集している。また、
空海との親交でも知られ『性霊集』には安世に贈られた詩が多数収められている。

 

 

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★空海との親交でも知られ『性霊集』には安世に贈られた詩が多数収められている。

 

ばあちゃん(祖母)の ご先祖様は 空海様と お友達だったのだ・・

やはり この記述には

背筋がピン となります・・・

 

 

平安時代末期の球磨は王家領

球磨御領

開発なさった方々は 平頼盛公をはじめとする 平家一門の方々。

(お間違い無きよう<m(__)m> 平家領ではなく 王家領 です)

 

公(おおやけ)には 発表されておりませんが(ここだけの話・・)

平安時代末期に奉納された球磨郡あさぎり町の御仏像の体内銘文の中に「良峯氏良岑)」の名が残っていたそうです。

今後、公式発表が行われる時まで、報告書等の発表を心待ちに致しております😊

 

 

ただ・・球磨の良峯氏は 鎌倉時代初頭に 平家一門の何れかの系が御継になられた可能性があります・・

良峯師高 子息 字平 紀平次不実名 

(不実名・・本当の名前は不明)

 

 

 

良峯氏であれ、平家一門の方であれ、祖は桓武天皇様

 

桓武天皇(かんむてんのう、737年〈天平9年〉- 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)は、日本の第50代天皇(在位:781年4月30日〈天応元年4月3日〉 - 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)。諱は山部(やまのべ / やまべ)

 

白壁王(後の光仁天皇)の長男(第一皇子)として天平9年(737年)に産まれた。

生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。

※百済の第25代王・武寧王の子孫

 

 

桓武天皇様

諱は山部(やまのべ / やまべ)。

生母は百済系渡来人氏族

 

球磨は久米族の発祥の地 と言われる土地であり・・

久米族から 山部氏が派生・・

百済王家・・・

 

今回のブログ初頭で書いたように・・

最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられた・・

 

私は・・やはり 全てが繋がっているような 気が致します。

 

 

 

前回のブログでも書いたように

縁起 

すべてのものには、必ずそれを生んだ因と縁とがあり、


それを因縁生起いんねんしょうき=縁起という。

因と縁と果とが複雑に関係しあい影響しあって、もちつもたれつの状態をつくっている。

他の多くのものの力、恵み、お蔭かげを受けて、私たちは生かされているという、

仏教の基本的な教え

 

 

私は・・全てが繋がっているような 気が致します。

 

つまり 偶然とかタマタマとか は無い・・

全て縁起に基づく事・・

だからです・・

 

 

 

DNA・・・・

父の顔

 

祖母の次兄のお顔

 

椎葉のおじの若い頃

 

彫りが深いですが・・・

皆・・ ようは 皇統 と言われた方々の後裔 なのですよね・・・

この顔立ち・・と 背が高い一族でもあります・・・

 

球磨の人達は 高身長の人が多く

さらに

ハーフのような顔立ちの人が多い・・

とよく言われます。

 

熊本県内 特に 球磨郡は 
驚かれるかもしれませんが高身長の方が非常に多いのです。
コンビニやスーパーに行けば
一目瞭然で、さらに顔立ちがハーフのような人が多いので
球磨に戻ってすぐ、福岡県北九州市生まれの主人は特に驚いていました。

 

 

球磨人?のイメージ 代表的な方と言えば
パリコレやミラノコレクションの専属モデルとなられた球磨郡水上村出身の

樅木英介様 でしょうか・・

 

 

おちゃも様がよくご存じの御方

球磨郡水上村ご出身のモデル樅木英介様は 

球磨人の代表的なお顔立ち

球磨の方の雰囲気を感じて頂ける

代表的な風貌をなさっていらっしゃる と思います😊

 

樅木英介様はパリコレクション、ミラノコレクション等に出演なさった

日本を代表する国際的なモデルの方です😊

 

 

 

海外モデルプロデューサーのSHOKO様のブログに

樅木英介様をご紹介の記事がありました😊

 

 

 

 

樅木英介様・・SHOKO様のブログ内の

一番上のお若い頃の写真は 到底日本人には見えないと思います。

しかし・・(ー_ー)!!

球磨郡水上村 ご出身の コテコテ?の日本人(球磨人)でいらっしゃいます(p_-)

 


 

 

樅木氏(もみのき氏)

球磨の樅木氏は 千年以上遡る事が出来る家系です。
 

球磨郡五木村のすぐお隣五家荘の左座(蔵座)家、樅木家は
菅原道真公のお二人の遺児が来られて「その姓」を名乗られました。

 

樅木家も蔵座家も 球磨に降りてこられていました。
江戸時代の国学者「伊藤 常足」が福岡藩主・黒田長溥に献上した
『太宰管内志』全82巻にも この事が記されています。

 

 

実は・・

本姓良峯氏 である 平河氏 が江戸時代に継いだ一系が樅木氏(もみのき氏)

でもあります。

 

平河氏系図 より

keizu3

 

長雄 という御方の注釈に

樅木伊左衛門 樅木家相続

 

とあります。

 

つまり・・球磨の樅木氏は

菅原道真公の「菅原氏」の後裔であり

良峯姓の平河氏の後裔でもある

御方々 なのであります。 <m(__)m>

 

 

当ブログではあまり容姿については ともすれば差別にあたるかと思い、書いた事は無かったのですが・・・古代を考えるに凄く大事な事のような気がして あえて書きます<m(__)m>

 

もう一つの 球磨人?の特徴として 不思議なのですが
高身長か低身長の方に分かれるのですよね・・

 

ちなみに 叔父(父の弟)は180㎝(若い頃は184㎝程 あったようです)

私の従弟は 196㎝ 191㎝ 186㎝ とこれまた 高身長

親戚には180㎝以上の身長の人達がずらり・・

 

球磨の平河家(平川家)の娘である うちの祖母は大正4年生まれですが、身長は161㎝ と

当時としては高身長でした。

 

私は 日向日下部一族と言われる母方の女性人の系を身長が引いているようで

152㎝です。

母も叔母も 身長は140㎝台です。

 

球磨に帰ってから直ぐに気が付いた事なのですが

球磨には私と身長があまり変わらない男性の方々も多くいらっしゃいます。

 

 

 

私は・・

古代からこの地は 高身長の方々と低身長の方々が

共存していらっしゃるのでは・・と考えていました。

 

 

縄文人のDNA に関して 「こうだ!」 と決めつけるのは 私は危険だと考えます。

 

母系と父系 

複数の

ミトコンドリアDNAハプログループ と

複数の

Y染色体ハプログループ とが

複雑に絡み合った 縄文の人達である・・

と考えるからです。

 

つまり ハイブリッド ・・・

 

古代からこの地は 高身長の方々と低身長の方々が

共存していらっしゃる・・

 

この事は

記紀をじっくりと拝読すると ちゃんと記されている事にどなたもお気づきになられる

はずです・・・

詳しくは 次回以降で<m(__)m>・・

 

 

 

 

3.夷 = ナマズ

 

最近、新たな考えが芽生えて参りました。

以前から何度も書かせて頂いている モン・クメール系 倭人の方々・・・

 

モン・クメール系 倭人の方々・・・

出発地は やはり 縄文時代の球磨を含む南九州ではなかったのかな・・と

ハイブリッドとなられ・・大陸に渡って・・・南西に向かわれた のでは・・と。

7000年前・・・ の出来事・・

 

メコン川周辺には ナマズをお祀りする風習が今でも残っていますが・・

最後に 一大発見を ご報告いたします。

 

 

和名類聚抄、本草云 には
鮎 本草云、[夷]魚 とあり

 

「[夷]魚一名鮎魚」は、

すなわち上文に載る「鯰」なり

 

見つけました(p_-)・・

夷 = ナマズ です

 

 

詳しくはこちらも 次回以降で<m(__)m>

 

 

 

 

4.今昔物語 と うちのご先祖様

 

古代縄文時代と朝鮮半島が見えた所で・・

最後に皆様へ ご覧頂きたい 古いお話があります😊

 

良峯安世公の ご子息 良峯宗貞公

後の 遍照様ですが・・

※平河氏は遍照様の後裔 を称されています・・

 

遍昭(へんじょう、弘仁7年(816年) - 寛平2年1月19日(890年2月12日))は、平安時代前期の僧・歌人。俗名は良岑 宗貞(よしみね の むねさだ)。大納言・良岑安世の八男。官位は従五位上・左近衛少将[1]。花山僧正とも号す。六歌仙および三十六歌仙の一人。

 

 

良峯安世公の ご子息 良峯宗貞公は 今昔物語にも登場なさいます<m(__)m>

 

 

やたがらすナビ様サイトより

巻19第1話 頭少将良峯宗貞出家語 第一

 

 

抜粋させて頂きます<m(__)m>

 

而るに、此の少将は宮原の娘也ける人を妻として、極て哀れに去り難く思ひ通(かよは)して過ける程に、男子一人、女子一人をなむ、産せたりける。

 

 

良峯宗貞公の妻は 宮原の娘也ける人

でありました・・

 

この事はご先祖様の調査を始めたばかりの頃 8年程前から気が付いてはいたのですが・・

私の苗字は「宮原」で・・祖母のご先祖様は良峯宗貞公で・・・

この事も 偶然では ないような気が一段としております・・

 

 

良峯宗貞公の妻は 宮原の娘也ける人

こちらの宮原氏 実は 菅原道真公にも御繋がりの宮原氏 なのですよね・・・

 

菅原道真公

室:宮原 - 宮原頴人の娘
男子:菅原旧風

 

 

うん(?_?) どなたですか?? 鳥肌が立ってきた…😣 と言われた御方は・・??

私は・・もう 慣れました😊

 

 

何せ・・うちの先祖様方は

球磨に系を繋げる人達 ですので・・・😊

何が登場しても もう あまり 驚きません (^'^)

なんちゃって・・最近は 新たに驚く事ばかりが登場致しますが・・

もっと 驚くお話を 次回 書かせて頂きます(^'^)・・・(p_-)

 

ひむか の 襲 の意味です

 

 

今回は

1.約7000年前の九州からの移動

2.うちのご先祖様・・顔立ち等 検証してみました・・・

3..夷 = ナマズ

4.今昔物語 と うちのご先祖様

 

と書かせて頂きました。(^-^)

 

長い文章となりましたが

最後までご覧頂き ありがとうございました。

皆様方 お身体十分にお気を付けになられて 春をお楽しみください。😊

 

 

私は農作業のお手伝いをさせて頂き、自然と触れ合って春を過ごしております。

がっ・・運動不足が影響して 家に帰ると筋肉痛で ヘトヘトです・・

家事を済ませるとバタンキューとなってしまい、

皆様方のブログをじっくりと拝見する事が出来ないでいます。申し訳ございません。 😥

今日、明日とお休みを頂きました(^'^)

1日の我家の習わしが終わりましたら、ゆっくりと拝見させて頂きます😊

 

しかし

日本の農業は 本当に凄いですよ!

祖母から教わった 頂きます の意味を 心から感じております。

 

 

今 聞きたい曲は・・

元ちとせ さんの 「語り継ぐこと」 です 😊

 

 

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『(再投稿)⑤球磨の 日が昇る 場所・・』に続きます。