前回のブログ『⑩肥人書と久米郷のコサンの味噌汁』より続きます。

 

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。

 


度重なる自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
愛するご家族、親戚やご友人の方々に看取られる事なく、一人で旅立つ事をよぎなくされた
御方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

献身的な看護、そして治療に従事なさっていらっしゃる医療現場の方々の御苦労に

心から感謝致しております。 

感染なさった方々の早期回復をお祈りいたします。
 

この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

 

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先週は梅雨入りして、直ぐに豪雨・・

20日には土砂災害警戒情報も出て「警戒レベル4」になり、私が住むあさぎり町内の

深田・須恵地区では避難指示「全員避難」が発令されました。

球磨川が球磨村渡地区で氾濫水位を超えて、緊張した夜になりましたが

ありがたい事に雨はおさまり、翌朝には発令されていた全ての警報は解除となりました。

 

22日、23日と久しぶりの晴れ間が見えましたので、雨により伸びてしまった庭の草むしりや花壇の手入れをしました😊

 

花壇の花々は大雨で花が散って可哀そうな状態でしたが、23日には、少しづつまた花が開き始めて自然の力ってお日様の力って 凄い!と感動いたしました。

 

大雨の中、知人の方に頂いて大事に育てていた植物が花を咲かせていました!

(お花の名前を聞いているのですが・・・珍しい名前で憶えていません トホホ)

 

雨の中でも咲く花

凄い生命力です。

久しぶりのお日様の下で花を見ながら パワーを感じました😊

 

 

 

 

1.竹藪の役割と 蛍

 

前回のブログで「コサン」のお話を書かせて頂きましたが、

家の前の竹藪の写真が一部のみだったので、イメージがお解りになりづらいと思い

あらためて 旧久米川(現井口川)※鶴の川 の土手に生えるコサンの竹藪の写真を

撮りました😊

 

 

旧球磨郡久米郷宮原村と岡本村の間を流れる旧久米川(現井口川)の土手

 

 

下の川が見えない程、竹(コサン)が生い茂っています

 

 

 

 

 

家から少し離れた(下った)橋の上から見てみると・・・こんな感じです😊

 

ここから上流に向かって数百メートルに渡って竹が生い茂っているのですが・・・

不思議な事に 

この竹が生い茂っている数百メートルの区間は、国土交通省公開のハザードマップでは

浸水想定地域から外れているのです。

 

50年近く前の河川工事により

写真を撮った橋から下流になると竹藪が消えるのですが・・

実は「そこから」竹藪が消えた所から、ハザードマップ上の浸水想定区域に入るのですよね・・

 

竹は根が張るので、土手が崩れる事を防ぐ役割があります。

 

私は・・この竹藪が古(いにしえ)の人達の治山治水に関わる知恵ではないのか!?

と考えています。

 

 

実は、旧久米川(現井口川)や湯川(湧水 斎川※ゆがわ・ゆご)から流れ出し旧久米川(現井口川)にそそぐ小川は 蛍が毎年乱舞します😊

 

写真を撮った橋からはそれはそれは幻想的な蛍の乱舞を見る事が出来ます😊

夕方写真を撮ったのですが まだ 蛍は飛んでいませんでした。

 

 

しかし・・今年はその蛍が 

5月の初旬から 飛んでいるのです・・

毎年、5月下旬から6月の初め頃に 飛び始めるのに・・・

 

家の中で食事をしながら、庭に飛んでくる蛍さんを見るのはとても素敵なのですが・・

私には蛍さんが「何かを語りかけている」ように 今年は感じています。

 

早すぎるのですよね・・・

・・・・蛍さん

 

 

写真を撮った後、家に帰ろうとすると、お月様が出ていました😊

 

球磨郡久米郷の象徴とも言える黒原山とお月様です😊

 

 

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2.球磨弁での地名

 

前回のブログ『⑩肥人書と久米郷のコサンの味噌汁』 の中で肥人書と球磨弁について書かせて頂きました。

 

球磨弁?での地名や山の名前、川の名前には 意味がある・・と私は考えています。

 

ブログ『⑧アクソ山の アクソ・・』でもご紹介しましたが・・・

 

 

アクソ」という山の名前は縄文時代にこの地に渡って来られた方々が付けたのでは・・? と私は推測しています。

 

 

アクソ山やいいもり山、黒原山は球磨盆地のひむか(日向)※東 に位置しています。

 

 

 

 

 

 

いいもり山の麓の地名は 思川 (おめごう)

この思川周辺は湧水に恵まれていて、

かなり古代から水稲稲作が行われていたそうです😊

思川 (おめごう)には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡があります。

 

 

昭和18年発行の久米村史蹟には

思川には素戔嗚尊様を主祭神とされる通称「ゴッテン堂」と呼ばれた八坂神社様が

ご鎮座でした。

 

久米村史蹟 より 御祭神

 

牛頭天皇様とは素戔嗚尊である事は理解出来るのですが・・・

感神天皇 武塔天皇

私は勉強不足で ??? と理解出来なかったのです。

 

 

 

少しだけ 勉強させて頂きました・・・

 

 

ウィキペディアより抜粋 致します

 

武塔神(むとうしん、むとうのかみ)は、蘇民将来説話に登場する神。

武塔(むたふ)の神、武塔天神とも呼ばれる。

 

日本の文献に見出される初期のものとして、12世紀に著された『伊呂波字類抄』に、牛頭天王の別名として武塔天神の名が現れる。

 

牛頭天王は東王父、西王母を父母とし、天竺北方の九相国に城を持ち、8万4654の眷属神を従える異国神と説明されている。

 

『釈日本紀』では「祇園を行疫神となす武塔天神の御名は世の知る所なり」と述べられており、初期の祇園信仰の祭神は武塔天神であり、のちに牛頭天王と称されるようになったと考えられる。

 

その説話『祇園牛頭天王縁起』では武塔神の弟の巨旦将来は、夜叉国の巨旦大王(金神)になり、武塔神は「身の丈七尺五寸の大男・牛頭をした太子」牛頭天王へと変化し、巨旦大王と戦争まで起こしている。牛頭天王は、摩訶陀国(まかだこく)の王舎城(マガダのラージャグリハ)の大王とされる。

陰陽道の教典の一つである「刃辛(ほき)内伝」では天刑星(てんぎょうしょう)の神の転生で、吉祥天の王舎城の大王で商貴帝と呼ばれる。

 

自ら「吾は速須佐能神(すさのおのかみ)なり」と称していることから、スサノオ(『古事記』における呼称は建速須佐之男命)と照合される

 

陰陽道の教典の一つである「刃辛(ほき)内伝」では天刑星(てんぎょうしょう)の神の転生で、吉祥天の王舎城の大王で商貴帝と呼ばれる。

 

とありました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

まだまだ理解不足です・・ もっとしっかりと勉強致します<m(__)m>

 

球磨郡久米郷久米村の 思川 (おめごう) に ご鎮座の神々様をご紹介させて頂きました

<m(__)m>

 

 

所で・・・

黒原山といいもり山の麓、旧久米郷奥野村を流れる川に

伊良目 川

があります。

 

いらめ川 イラメ川

です。

 

イラメ とは 何だろう (?_?)

今後、調べてみよう! と 考えております (p_-)

 

 

 

他に私がとても気になる地名が

高柱 (たかはし)

です。

 

球磨郡錦町を流れる「高柱川」の上流域の地名で

高柱 は 現在 高橋 となっています。

 

2017年8月に書いたブログ『錦町高柱川遊泳場と山江村の万江川上流』でご紹介しました😊

 

 

 

高柱(たかはし) とは こういう場所です😊

 

高柱 たかはし・・・

私は高橋の原初的な地名 なのでは・・?

と考えています・・

 

 

 

さらに・・

球磨弁?の地名と言えば・・・

旧免田村(江戸時代中期までは 面田村) 現あさぎり町免田 には

築地

という地名があります。

 

築地 ついじ ではありません(ー_ー)!!

 

築地は ちぢ チヂ です。

 

チヂ(築地)には 家の一族の親戚があります😊

本姓大神氏の 尾方家です

 

ブログ『橘一族と八角形の地』でもご紹介した尾方家・・・

 

 

江戸時代1600年代に編纂された 麻郡神社私考 を読んで気が付いたのですが

チヂ(築地)には

天子神社様 が ご鎮座でした

 

 

チヂ(築地)にも 天子神社様 が ご鎮座であった事を私は全く存じておりませんでした・・

天子神社様 の宮司家は 家の一族の親戚「尾方家」のご先祖様のようです・・・

 

 

麻郡神社私考より


 

天子・・・

チヂ・・・

 

ここで ふ~っと 頭を過った神様がいらっしゃいます・・・

栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)様 でいらっしゃいます・・・

 

天火明命様と瓊瓊杵尊様のお母様 と記紀には記されていらっしゃいます・・

 

 

 

 

『古事記』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、

『日本書紀』本文では栲幡千千姫命、一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)、火之戸幡姫児千千姫命(ほのとばたひめこちぢひめのみこと)と表記される。

 

萬幡豊秋津師比売命  「」の文字がお付きになられるのですね・・・

 

面田村の チヂ・・

師・・・

 

独り言・・  凄く気になります・・・ 

 

 

師の文字

師の通字と言えば 平河氏・・・

 

私の祖母の実家 平川家は江戸時代まで「平河」でした 😊

 

祖母の実家の敷地に 平川家の氏神様をお祀りのお堂

正式には 御神殿

 

お祀りの氏神様 神々様は

 

天照大神様

 

そして・・・

 

天津彦火瓊々杵尊 様

天津彦火火出見尊 様

月讀廿三夜比賣尊 様

 

 

 

裏面

 

 

こちらの木札をお書きになられた方こそ、先にご紹介したブログ『橘一族と八角形の地』の中でお話を書かせて頂いた 本姓大神氏 尾方家の おじ様・・

どういう御方でいらしたのか ご存じない御方はぜひブログの方をご覧下さい<m(__)m> )

 

 

月讀廿三夜比賣尊 様

全国の何処の神社様にもお祀りではない 神様・・

 

私は 築地 チヂ の天子神社様 について初めて知った後・・

月讀廿三夜比賣尊 様 ・・・ 

やはり、 ただ事では ない

と感じました・・

 

 

山江村歴史民俗資料館に展示の

南北朝時代の球磨の国人勢力図

 

南北朝時代に登場する国人と城館分布図

 

当時の国人衆
上相良氏(多良木氏)・ 久米氏 ・ 小田氏 ・ 奥野氏 ・ 宮原氏 ・ 岡本氏 ・
須恵氏・永里氏・平川氏(平河氏)・下相良氏(人吉)

 

平河氏(平川氏)の所領地 永吉庄。 鎌倉時代までは

面田村(免田)も深田村も含まれています。

(免田・深田は現あさぎり町 となります。)

 

つまり、球磨の天子神社様 ご鎮座の地 各地は

多くは 平河氏(平川氏)の所領地 なのです・・

 

 

深田村天子神社様 以前ブログでご紹介致しました。

 

 

ブログを書いた当時 気が付いていた事

 

六芒星』(籠目)について

『元伊勢籠神社の絵馬には籠目の中、
中央に「太陽」と「月」が描かれている』と言う記述を多数目にしました。

 

天子神社の御神紋は、太陽と月の部分を表している・・・

と言う事になります。

 

 

 

球磨には 23か所以上にも及ぶ 天子地名が あります・・・

 

日 と 月

日月

天子

 

 

日 と 月

日月

天子 ・・・・・

 

 

 

 

今回は

1.竹藪の役割と 蛍

2.球磨弁での地名

※思川(おめごう)・伊良目(いらめ)・高柱(たかはし)・築地(チヂ) そして・・ 天子

について 書かせて頂きました😊

 

 

平河氏は 本姓良峯氏

平河氏のご先祖様と 菅原道真公のおじい様との 繋がりについて 

気が付いております

😊

 

ここで ブログ『④球磨川が証明した7000年前の移動と中世のご先祖様・・』に繋がっていくのですが・・(p_-) ・・・

 

 

さらに百済姓 宮原氏 と良峯氏との関係

平河氏の先祖書に記されていた 良峯義方 と いう御方

 

経国集・今昔物語・大和物語 が 平河氏の謎を解くカギでした(p_-)

 

気が付いてしまいました~ !!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/   😊

 

詳しくは 次回 にて <m(__)m> ・・・・ 😊

 

 

 

 

 

今回は お月様が 沢山 登場? 致しました😊

 

 

ブログを書きながら 頭の中に

アニメ『∀ガンダム』挿入歌 「Moon」 が聞こえてくるようでした 😊

 

私は作詞作曲を手懸けた 菅野 よう子さん(Gabriela Robin) の「Moon」も

奥井亜紀さんが日本語で歌われる 月の繭 も

壮大で 大好きです・・

 

荘厳 過ぎて 涙がでます・・

 

 

 

月の繭

 

 

 

「Moon」

 

 

 

 

最後までご覧頂き ありがとうございました。

皆様、お身体十分にお気を付けになられてお過ごし下さい。

 

 

だんだんなぁ~😊

球磨の地より ひろっぷ でした 😊

 

次回『⑫斎川(湯川)のタブの木と経国集さらに・・・』 に続きます。