前回のブログ『(再投稿)⑯次回を書く前に・・』 より続きます。

 

 

 

2021/07/01 16:30  再追記

 

豪雨にみまわれている地域の皆様

 

どうか ご安全にお過ごしになられて下さい。

 

 

すでに、拙ブログをご覧頂いた皆様方へ

ご覧頂きありがとうございました。 

 

拙ブログ内 下部に記した

クマソの方々は滅ぼされてなどいない・・・・ の後に 

 

何故?クマソの方々を朝敵として記さなければならなかったのか!?

 

私なりに考える その理由 を 追記致しております。

 

宜しければ ご覧下さい <m(__)m>

 

再追記 でした ひろっぷ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。

 


自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
愛するご家族、親戚やご友人の方々に看取られる事なく、一人で旅立つ事をよぎなくされた
御方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

献身的な看護、そして治療に従事なさっていらっしゃる医療現場の方々の御苦労に

心から感謝致しております。 

感染なさった方々の早期回復をお祈りいたします。
 

この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

 

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前回のブログ投稿より かなり早い段階での当ブログ投稿となりました。

私の心の内を書いた 前回のブログ『(再投稿)⑯次回を書く前に・・』を未だ

ご覧になっていらっしゃらない御方は ぜひ ご覧頂いた上で 今回のブログをご覧頂ければと願います。

 

 

 

前回とは異なり、今回は史実に基づくお話・・・かなり時代は下って飛鳥時代くらいからの

新しい時代のお話になります。

(新しい・・? そうなのです 最近の私は飛鳥時代は凄く新しい時代、最近のように感じてしまうのです・・・  大丈夫かな🙄・・・ 大丈夫です😊😊 はい (^▽^;)  )

 

 

実は、昨日 本来知っておかなければならない事に気が付きました。

前回のブログ最後に書いた事に必ず繋がる事だと確信します。

早速 <m(__)m>

 

1.橘氏の母系には大伴金村公が・・・

 

①大伴金村公は橘諸兄公のご先祖様

 

前回のブログを書いた後・・・私の姓は「宮原」だけれども本姓は橘氏・・

多くの橘一族「宮原氏」は江戸時代末期まで球磨に系を繋げて来られた・・

という事を考えていました。

同じく橘一族「宮原氏」は戦国時代まで肥後国八代郡宮原の城主であられた方々がいらっしゃいます。

肥後国八代郡宮原・・現在の氷川町宮原

つまり・・火の君の本拠地 と言われた場所です・・

 

百済姓「宮原氏」・・百済姓の方々と橘氏・・そして球磨・・さらに氷川宮原・・

つまり 火の国(日の国)

何かが繋がっているのでは・・? と 考えながら橘氏の祖となられる御方の記述を

ウィキペディアでぼ~っと見ていた時・・・

気が付いたのです・・・

 

 

橘諸兄公の父君は敏達天皇さまの後裔「美努王」さまのご子息であられ・・

母は    県犬養三千代 さま・・・

 

最近、私の意識が少し進化?したのかな・・??

実は、今まで全く気が付いていなかった事が「とても大切な事」をようやく理解しました・・

 

美努王 ウィキペディアより 抜粋致します

 

 

 

美努王(みぬおう/みのおう)は、敏達天皇の後裔で、四位・栗隈王の子。

官位は従四位下・治部卿。表記については『六国史』にて弥努王・美奴王・美弩王・三野王など様々な記載がされており、人物比定にも問題がある

 

各種史書において、いずれも敏達天皇の後裔とされるが、その系譜に関しては以下相違がある。
『日本書紀』『古事記』『新撰姓氏録』では三世王とする。
敏達天皇-難波皇子-栗隈王-美努王
『尊卑分脈』では四世王とする。
敏達天皇-難波皇子-大俣王-栗隈王-美努王

 

経歴
天武天皇元年(672年)6月に壬申の乱が起こった際に、大友皇子側の近江朝廷の命令を受けて軍兵を徴発するために佐伯男が筑紫に下向してきたが、筑紫大宰・栗隈王は外敵への備えを理由に徴発を拒否した。

佐伯男は命令に従わない場合は殺すようにも命じられていたが、王の2人の息子である三野王と武家王が太刀を帯びて近くに侍していたために任務を果たすことができなかったという。

天武天皇11年(681年)天皇の命令を受けて川島皇子らとともに『帝紀』及び上古における事柄の記録・校定に従事した。

 

持統天皇8年(694年)筑紫大宰率に任ぜられる(このときの位階は浄広肆)。

大宝元年(701年)大宝律令の施行により位階制が定められると正五位下となり、同年造大幣司長官に任ぜられる。その後、左京大夫・摂津大夫・治部卿などを歴任し、位階は従四位下に至る。和銅元年(708年)5月30日卒去。

 

系譜
父:
栗隈王
母:大伴長徳の娘
 

妻:県犬養三千代
男子:橘諸兄(684-757)
男子:橘佐為(?-737)
女子:牟漏女王(?-746)

 

以上 ウィキペディアより抜粋して転記致しました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

美努王

父:栗隈王(くりくまのおおきみ)
母:大伴長徳の娘

 

 

母:大伴長徳の娘 ・・・・あれっ!?・・・・

 

大伴長徳公 この方の系譜を順を追ってご紹介致します。

 

 

大伴長徳  ウィキペディアより

 

 

大伴 長徳(おおとも の ながとこ)は、飛鳥時代の豪族。姓は連。別名馬飼・馬養(うまかい)とも。大徳・大伴咋の子。冠位は大紫・右大臣。

 

舒明天皇4年(632年)第1回の遣唐使とそれに伴った唐使・高表仁(こう ひょうにん)を難波で出迎え、皇極天皇元年(642年)舒明天皇の殯宮では誄を蘇我蝦夷に代わって奏上している。

大化元年(645年)の大化の改新では中大兄皇子側であったようである。大化5年(649年)には大紫位・右大臣に任じられている。

父:
大伴咋
母:不詳
妻:不詳

 

 

父:大伴咋  ウィキペディアより

 

 

 

大伴 咋(おおとも の くい)は、飛鳥時代の豪族。名は噛、囓、咋子とも記される。

大伴金村または大伴阿被布古の子。

冠位は大徳。

 

経歴
用明天皇2年(587年)丁未の乱において、阿倍人・平群神手・坂本糠手らと共に物部守屋討伐軍に参加する。

崇峻天皇4年(591年)紀男麻呂・巨勢比良夫・巨勢猿・葛城烏那羅と共に任那再建のための遠征軍の大将軍に任ぜられ、2万余の軍勢を率いて筑紫まで赴く。

しかし、翌崇峻天皇5年(592年)崇峻天皇が暗殺され遠征軍の渡航は中止される。

その後も、推古天皇9年(601年)3月に新羅に侵略された任那の救援を命じるために高句麗へ派遣され、6月に百済経由で帰国するなど、軍事・外交分野で活動した。

推古天皇16年(608年)小野妹子に従って来日した隋使・裴世清が朝廷で国書を提出した際に、咋は国書上奏の任にあたった。推古天皇18年(608年)新羅・任那の使人が来朝した際、蘇我豊浦蝦夷・坂本糠手・阿倍鳥と共に四大夫の一人として対応している。

冠位は大徳に至る

 

父:大伴金村または大伴阿被布古(大伴金村 子息)
母:不詳
生母不明の子女
男子:大伴長徳(?-651)
男子:大伴馬来田(?-683)
男子:大伴吹負(?-683)
女子:大伴智仙娘 -
中臣御食子室
男子:大伴真広

 

以上 ウィキペディアより 抜粋致しました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

美努王
父:栗隈王(くりくまのおおきみ)
母:大伴長徳の娘

 

 

大伴金村 ⇒ 大伴咋 ⇒ 大伴長徳

 

 

あああぁぁぁぁ・・・・・・

 

橘氏は 母系で 大伴金村公 に 繋がっていた・・・

 

初めて気が付いて 鳥肌が立ってしまう程 驚きました・・・

 

 

大伴金村公 ここで、芦北君 そして日羅 に繋がってくるのだ・・・

と・・

 

 

 

補足・・

所で・・・皆様 上記の系譜に記された

女子:大伴智仙娘 - 中臣御食子室

 

中臣御食子(なかとみ の みけこ) この方は・・・

中臣鎌足(藤原鎌足) の 父でいらっしゃる お方・・・

 

中臣御食子

父:中臣可多能祜
母:那爾毛古娘 -
山部歌子の娘(山部氏=久米族)
妻:智仙姫 - 大伴咋の娘
男子:藤原鎌足(614-669)

 

 

あああぁぁぁぁ・・・・・ 繋がってきた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

②火芦北国造と大伴金村公

 

日羅 ウィキペディアより

 

 

 

日羅(にちら、? - 583年12月)は、6世紀朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人。

 

父は火(肥後国)葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部阿利斯登

(ゆげいべのありしと)。

父阿利斯登は宣化天皇の代に朝鮮半島に渡海した
大伴金村に仕えた九州出身の武人で、日羅は百済王威徳王から二位達率(だっそつ)と極めて高い官位を与えられた倭系百済官僚であった。

 

敏達天皇の要請により583年日本に帰国し、阿斗桑市(あとくわのいち)の地に館を与えられた。朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上した。

その内容が 人民を安んじ富ましめ国力を充実したうえで船を連ねて威を示せば百済は帰服するであろうことや、百済が九州に領土拡大を謀っているので防御を固め欺かれぬようにすべきこと等の 百済に不利な内容であったため、同年12月に百済国役人の徳爾と余奴らによって難波で暗殺された。

 

物部贄子と大伴糠手子により小郡の西畔丘に埋葬され、後に葦北に移葬されたとされる。

 

以上 ウィキペディアより抜粋致しました ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

父阿利斯登は宣化天皇の代に朝鮮半島に渡海した大伴金村に仕えた九州出身の武人

 

 

私は・・・過去ブログで数回に渡り

葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部阿利斯登 公

日羅 公

のお話を 書かせて頂いておりました・・・

 

 

葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部阿利斯登 公  ウィキペディアより

 

 

火葦北阿利斯登(ひ の あしきた の ありしと、生没年不詳)は、日本古代(6世紀)の豪族。

刑部靫部阿利斯登(おさかべ の ゆげい ありしと)ともいう。姓は君。

 

記録
肥後国の葦北(現在の熊本県葦北郡および八代市)の国造であった有力な首長であり

(『先代旧事本紀』「国造本紀」によると、景行天皇の時代に、吉備津彦の子の三井根子命が、国造になった、とある)、
刑部(允恭天皇の皇后、忍坂大中姫にちなむ名代)の管理者であり、
靫負部(ゆげいべ)として、中央に出仕し、朝廷の親衛軍として宮廷の警備にあたる役目を負った一族の一員であった。

 

息子の日羅が来朝した際に、大伴金村のことを「我が君」と呼んでいるのは、靫負部を配下においた大伴氏との主従関係によるものである。

「阿利斯登」という名前は『日本書紀』巻第六の垂仁天皇2年の一書に登場する都怒我阿羅斯等、同巻第十七の継体天皇23年・24年に登場する加羅王阿利斯等などのように、個人名ではなく、首長の称号であったものと思われる。

『書紀』巻第二十の記録によると、宣化天皇の代に大伴金村の指示で、「海表」(わたのほか=海外)に渡海した、すなわち朝鮮半島への遠征軍に加わったとあるだけである

 

以上 ウィキペディアより抜粋致しました ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

③肥後国球磨郡久米郷と大伴氏の関係

※一族の一員であった。息子の日羅が来朝した際に、大伴金村のことを「我が君」と呼んでいるのは、靫負部を配下においた大伴氏との主従関係によるものである。

 

 

大伴氏 ウィキペディアより

 

 

 

大伴氏(おおともうじ)、のちに伴氏(ともうじ、ばんし)は、日本の氏族のひとつ。姓はもと連、のち八色の姓の制定により宿禰、平安時代中期以降は朝臣。

摂津国住吉郡を本拠地とした天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、佐伯氏とは同族関係とされる(一般には佐伯氏を大伴氏の分家とするが、その逆とする説もある)。氏の呼称は平安時代初期に淳和天皇の諱を避けて伴氏に改称。

 

職掌
「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む。また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。

 

なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた。

 

 

※祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。

 

 

天忍日命の子孫・・・  ウィキペディアより

 

アメノオシヒ(アマノオシヒ)は、記紀等に伝わる日本神話の神。

『古事記』・『日本書紀』では「天忍日命(あめのおしひのみこと)」、他文献では「天押日命」や「神狭日命」とも表記される。

大伴氏(大伴連/大伴宿禰)の祖神で、天孫降臨の際にニニギ(瓊瓊杵尊/邇邇芸命)に随伴したと伝わる。

アメノオシヒの系譜について、『古事記』・『日本書紀』に記載はない。

『古語拾遺』や『先代旧事本紀』「神代本紀」では、高皇産霊尊の子とする。なお「神代本紀」では、別名に「神狭日命」の名称を挙げる。

また『新撰姓氏録』では、高皇産霊尊の五世孫または六世孫とする(後述)。大伴連の系図では、高皇産霊尊の四世孫・天石門別安国玉主命が父としている。

 

父である天石門別安国玉主命の娘に興台産霊命の妻で天児屋命の母である己登能麻遅媛命がいるとされ、妹がいたことがわかる。子に天押人命がいるとされるが、『新撰姓氏録』の系譜記事から天押日命と天押人命は同人と見る説がある。

記録
『古事記』の天孫降臨(ニニギの降臨)の場面では、天忍日命・天津久米命(久米直の祖)の2人が、背に強固な靫を負い、腰に頭椎の大刀を佩き、手に天のはじ弓を持ち、 天の真鹿児矢をたばさんで、天孫の先導をしたとする。

『日本書紀』神代下第九段 一書第四の天孫降臨の場面では、天忍日命は天槵津大来目(来目部遠祖)を率いて、天磐靫を背負い、稜威の高鞆を腕に着け、天梔弓・天羽羽矢を手に取り、八目鳴鏑を添え持ち、また頭槌剣を帯びて、天孫の先払いをしたとする。

同様の伝承は『古語拾遺』、『先代旧事本紀』「天神本紀」、『新撰姓氏録』左京神別 天神 大伴宿禰条にも見える。


 

以上 ウィキペディアより 抜粋して転記致しました・・・・・

 

 

来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていた

過去ブログ『京ガ峰横穴群に伺いました』をご覧下さい。

 

 

 

ユギ(矢を入れて背負う道具)や、剣、盾、車輪状文 等 彫刻の数々

 

 

この装飾は いったい・・・

 

 

 

 

 

球磨郡久米郷は 古代元祖的久米族の本拠地と言われている地・・・

 

 

ご先祖様 久米氏をご研究なさっていらっしゃるyabutsubakime様

大伴氏と繋がる久米氏の系図をご公開なさっていらっしゃいます。

ぜひ、ご覧頂きたい!と願います。

 

私が今回書いている 火国芦北国造にも繋がる吉備氏と久米氏の関係を探求なさっていらっしゃいます。

 

 

 

yabutsubakime様 たいへん勉強になりました。 ありがとうございます。

私は・・今回のブログを書きながら・・鳥肌が立つ思いです。

 

 

 

④美努王と帝紀

①大伴金村公は橘諸兄公のご先祖様 の中で美努王さまの記述に以下の内容がありました。

 

※天武天皇11年(681年)天皇の命令を受けて川島皇子らとともに『帝紀』及び上古における事柄の記録・校定に従事した

 

 

帝紀 とは ウィキペディアより 抜粋

 

 

 

帝紀(ていき)とは、歴代の天皇あるいは皇室の系譜類、あるいはそれらをまとめた分野のこと。また特に『古事記』や『日本書紀』以前に存在したと考えられている日本の歴史書の一つ『帝紀』を指すが、古くに散逸して現在には伝わっていない。

 

681年(天武天皇10年)より天智天皇2子の川島皇子と忍壁皇子が勅命により編纂し、皇室の系譜の伝承を記したという。『旧辞』と共に天武天皇が稗田阿礼に暗誦させたといい、のちに記紀の基本史料となったという。

 

以下 非常に気になる所が続きますが 抜粋させて頂きました ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

ここまで・・様々な事を勉強しながら・・

ようやく理解出来た事・・・

それは・・・

 

橘諸兄公の 父君 美努王さま は 大伴氏と深く繋がっていらした と いう事

大伴氏 は 高皇産霊尊さま の後裔 ・・・・

 

橘諸兄公の 母君 県犬養三千代さま

県犬養氏は 神皇産霊尊さま の後裔 ・・・・

 

天皇家と 高皇産霊尊さま 神皇産霊尊さま の後裔一族である「橘氏」・・・

 

 

その橘氏の一系である「宮原氏」は

火君の本拠地であった 肥後国八代宮原 現在の氷川町宮原に系を繋ぎ・・

同じく

橘氏の一系である「宮原氏」は

久米族の古代元祖的本拠地であったと言われる 肥後国久米郷宮原 に系を繋げた・・

 

橘諸兄公のご先祖様でもいらっしゃる 大伴金村公と百済の関係・・

大伴金村公に仕えた 葦北国造の一族の方々 と 百済の関係・・・

 

天皇家と 高皇産霊尊さま 神皇産霊尊さま の後裔一族である「橘氏」・・・

 

そう言えば・・・・日本書紀 景行天皇紀には

球磨や芦北の事が 詳しく書かれていましたね・・・・・・

まるで・・とても その地をご存じかのごとく・・・

 

 

 

帝紀・・・

2.焼失しなかった国紀

 

船 恵尺 この方のウィキペディアの記述をご覧下さい・・・

 

 

船 恵尺(ふね の えさか)は、飛鳥時代の人物。名は恵釈とも書かれる。

姓は史のち連。王辰爾の曾孫で、船龍の子とする系図がある。冠位は小錦下。

蘇我蝦夷の自害の現場に居合わせたことで知られる。

 

 

皇極天皇4年(645年)に発生した乙巳の変において、蘇我蝦夷の自害に居合わせ、その現場である焼け落ちる邸宅にあった『天皇記』『国記』のうち『国記』を火中から取り出して持ち出したという。

 

のちに、焼失を免れた『国記』は中大兄皇子(後の天智天皇)に献上したとされるが、現存していない。

 

『天皇記』『国記』編纂のため日頃より蝦夷邸に出入りしていた恵尺は、クーデター派の命令で密偵的な働きをしていたのではないか、という説も存在する。

 

このエピソードから船恵尺が当時、蘇我氏の下で『国記』など歴史書の編纂に当たっていたと考えられる。

 

天智朝以降に冠位は小錦下に至った

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

王辰爾の曾孫

今でも鳥肌が立っているのですが・・

この方は ・・・ 以前もご紹介致しました・・・

 

 

 

王辰爾(おうしんに、生没年不詳)は、飛鳥時代の人物。名は智仁とも記される。

氏姓は船史。第16代百済王・辰斯王の子である辰孫王の後裔で、塩君または午定君の子。渡来系氏族である船氏の祖。学問に秀で、儒教の普及にも貢献したとされる。

 

欽明天皇14年(553年)勅命を受けた蘇我稲目によって派遣され、船の賦(税)の記録を行った。この功績によって、王辰爾は船司に任ぜられるとともに、船史姓を与えられた。

 

子孫・同族

子に那沛故が、孫に船王後がおり、子孫はのち連姓に改姓し、さらに一部は天長年間(830年頃)に御船氏(御船連・御船宿禰)に改姓している。

延暦9年(790年)に菅野朝臣姓を賜る事を請願した百済王仁貞・元信・忠信および

津真道らの上表によれば、

辰爾には兄の味沙と弟の麻呂がおり、それぞれ葛井連・津連の租である。

また、これに合致する形で新撰姓氏録において辰孫王の後裔に相当する氏族に、

右京の菅野朝臣・葛井宿禰・宮原宿禰・津宿禰・中科宿禰・船連のほか摂津国の船連

などがみえる

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

まだまだ 気が付いている事が沢山あります。

次回以降に続けて書かせて頂きます。

 

 

皆様 私の心が 考えが お解りになられますか・・

私は 本当の 日本の歴史のパンドラの箱を覗いているのかもしれません・・

 

何故?私は 旧球磨郡久米郷宮原村に住んでいるのか・・

 

クマソの方々は滅ぼされてなどいない・・・・

記紀にクマソと記された方々は 後に 「全く別の方々」 として描かれているようだ・・

 

クマソの方々は滅ぼされた と

そう・・後世の方々が信じているお話を記された方々は・・

全て 関係なさっていらっしゃる ・・ そう 私達に繋がっていらっしゃる方々だ・・・

 

百済と新羅の確執・・・

朝鮮半島の古代王家の 本当の出自・・・

 

そして・・記紀に記された ちはやふる神代の時代・・

 

 

2021/07/01 16:30 追記

 

何故?クマソの方々を朝敵として記さなければならなかったのか!?

 

その最大の理由は 日本国の正史に 
倭国 いえ 日本をあたかも古代中国の属国であったかのような「朝貢」を伴う記述を記す事など決して許される事ではなかったから・・

だからこそ 討ったと記して クマソの方々の事を隠す事にした・・
と私は考えるに至りました。
 

記紀の編纂時における朝鮮半島は目も当てられない状況でした・・

そう・・・唐の属国へと成り下がってしまっていた・・・

かの国は いつの時代も同じような事を繰り返す・・

だからこそ、大倭国は 属国ではない! という事を強く、
そう 強調する必要があったからだと 私は考えます。



その確固たる証が 聖徳太子さまの書

「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」

日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す



皆様は
593年に聖徳太子が建立した四天王寺(大阪市天王寺区)の南大門近くに,
たたみ1畳ほどの「礼拝石」が建立されている事を御存じでしょうか?

こちらの 「礼拝石」は 肥後国宇土から切り出された 
馬門石(阿蘇ピンク石)です。

 

詳しくは次回以降に書かせて 頂きます。

 

以上 追記でした <m(__)m>

 

 

最後にもう一つ 皆様にお伝えしておきたい事があります

蘇我蝦夷 公

 

奈良の旧久米川は蘇我川に名前が変わったのですよね・・

 

人吉市には

蘇我里

という 地名が現存しています・・・

 

 

 

今回は文章ばかりで申し訳ございませんでした<m(__)m>

 

1.橘氏の母系には大伴金村公が・・・

①大伴金村公は橘諸兄公のご先祖様

②火芦北国造と大伴金村公

③肥後国球磨郡久米郷と大伴氏の関係

④美努王と帝紀

 

2.焼失しなかった国紀

 

というお話を書かせて頂きました。

 

私の心はザワザワしています・・・

落ち着かなきゃ・・

 

今、とても聞きたい曲は 菅野ようこさんの曲 Moon です

落ち着かなきゃ・・・😐・・😊

 

 

 

 

皆様 最後までご覧頂き ありがとうございました。

お身体十分にお気を付けになられてお過ごし下さい。

 

だんだんなぁ~

 

今日は7月1日

午前中は朔日のお務めをさせて頂きます

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『あの日・・7月4日から1年たちました』 に続きます。