前回のブログ『あの日・・7月4日から1年たちました』 より 続きます。

 

 

再投稿 2021/07/06 18:51

当ブログ すでにお読み頂いた方々へ

 

拙ブログご覧頂き ありがとうございました。

読み返してみると誤字と表現不足のオンパレードでお恥ずかしい限りでした😥

 

文章の修正箇所 一例をあげます

①倭奴国からの朝貢 は
垂仁天皇さま 伊久米伊理毘古伊佐知命 さま の時代である
と記紀の編纂者の方々は お書きになられていらっしゃる

修正

と記紀の編纂者の方々は時代設定の上お書きになられていらっしゃる

 

でございます。

(このような修正が複数個所・・・お恥ずかしい限りでした 😥 )

 

ひろっぷ <m(__)m>

 

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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。

 

 

静岡県熱海市で発生した土石流

 

お亡くなりになられた方々の御冥福を お祈り申し上げます

 

いまだ行方不明の方々が一刻も早く救助され 愛する方々のもとにお帰りになられる事を

心よりお祈り申し上げます

 

被害に遭われた方々に お見舞い申し上げます

 

 

 

近年、盛り土を行い 人間が手を加えてしまった「古代からの とても大切な御山」

 

近年稀に見る 豪雨により

土石流の起点となった地の映像を見て

被害に遭われた方々のお気持ちを考えると

どれだけ 凄まじい恐怖でいらした事かと

お気の毒で 心が痛みます

 

 

島根県で線状降水帯が発生して被害が出ているとの報道を見ました。

 

どうか 皆様 ご安全に お過ごしになられて下さい

 

 

 

 

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今回のタイトルは 『記紀に描かれた約2000年前』 です😊

 

私のブログは長いですから 😅 音楽を聴きながらでも 

お付き合い頂ければ・・と  思います  <m(__)m> 😊

 

 


Studio Ghibli Music Channel  様

“Princess Mononoke” Soundtrack Collection

 

 

 

 

 

 

 

1.「熊襲」は 全くして天孫種族と同一

 

ブログ『①始まり 太陽に向かって進む人達』 で 私は

神に関する古語の研究 の 著者 林 兼明様 のお言葉の中に
 

今まで、私が先祖を調べるにあたって、さらに、
故郷の古代を調べるにあたって、普段から考えていた事に、共通するご意見がありました。

と書かせて頂きました。

 

 

 

 

あらためて ご紹介させて頂きます。

 

 

 

著者 林兼明氏 神に関する古語の研究 より

凡そ古典を審査批判するに一つの要訣あり。

曰く、無差別無条件に一切を肯信するは、これを妄信にして、結局その一切を肯信せざると同一結果と相成るなり。

またこの一切を否定的、非現実的に見る者は、これ誠に近眼にして、世に世界的事実ある事のみを知りて、宗教的事実、信念的事実、哲学的事実あるを知らざるものにして、そは結局歴史的事実も知らざると同一結果に陥るなり。

古典に、伝統そのまま、信念そのままを記述せるものは、その内容筋道の如何にかかはらず、単に素材そのままにて一個の偉大なる事実にして、また歴史的価値に於いても絶大なるものあり。

然るに、之に反して、この素材的事実に注釈を加えたる所謂説明神話は概ね荒唐無稽にして真相を逸し何等の価値をも存ぜるもの多し。

例えば風土記及び、風土記の原資料より採りたりと思はるる例の地名伝説、人名伝説・・略
即ちこれなり。

 


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古典 ・・・

「言葉は適切ではない」と思いますが至る所に「ヒント」が隠されている・・と

私は 感じています。

 

 

著者 林兼明氏 神に関する古語の研究

 

 

 


 

 

神に関する古語の研究 の中で 林兼明氏 は

熊襲(クマソ)の記述について以下のように お書きになられていらっしゃいます。

 

 

中略・・「高千穂」の名が事実上の固有名詞にあらざる事を知るべし。

 

襲山 ・ 襲

「そ」の義は如何、曰く地名に表れたる「そ」は全く「高千穂」と同義なり、然してその同義は

「背」にあり、「背」の本義を持ち、且つ更にこれを拡延して音の縦転したるもの即ち「そ」なり。

中略・・

 

「襲国」の名は「そ」の本義を持ちて地名に定まれるものなり。

 

即ち山岳重畳の高峻地帯を指して普遍的に「襲」といひしが如し。

 

襲、噌唹、熊襲、阿蘇、祖母山、添山、曽戸茂梨、背振山、彼杵、木曽、蝦夷、層富(添)等の地、皆、何れも「そ」の原義を持ち、その実体に叶い、且つ「天孫神話」を伝承せり

 

即ち「襲山」と「高千穂峯」はその意義起原を同じくし、その地名に於ける具体化の相貌を等しくするものなり。

 

 

 

熊襲 くまそ 球磨噌唹

「くま」の語は、実に「かみ」の語の転ぜるなりき。 中略・・・

 

「くま」は「かみ」の原語より「かみ」てふ語の構成過程に於いて転生せしものの如し。

 

かくて「くまそ」の語は「襲山」の神性を修飾するの意に出てしものなりしに、後に「くま」と「そ」を観念分岐して、両地の地名に別立するに至りしに似たり。

 

「熊襲」の文字及び「熊襲」の種族によりて誤解すべからず、「熊」の字は「くま」の訓を借りたるのみ。

 

また「熊襲」てふ種族別にあるにあらず、こは全くして天孫種族と同一にして、単に「襲」の地方に居りたるが故に、その地名を冠せるのみなり。

 

以上 著者 林兼明氏 神に関する古語の研究より 抜粋させて頂きました。

 

 

林兼明氏 は 

妄信する事ではなく 一切を否定的する事ではなく

古典に、伝統そのまま、信念そのままを記述せるものは、

その内容筋道の如何にかかはらず、単に素材そのままにて一個の偉大なる事実にして、

また歴史的価値に於いても絶大なるものあり。

 

とおっしゃっていらっしゃいます が・・・

 

私は このお言葉を

林兼明氏ご自身の ご研究に対する

書籍を読む方々への 新たなヒントである・・・

と考えているのです。

 

自身の頭でしっかりと考えなさい

とおっしゃっていらっしゃるように・・・考えるのです

 

 

 

熊襲 クマソ に関わる 「襲山」 とは

日本最古の陸地 九州中央山地と霧島連山を指していらっしゃるのでは・・

と 考えます。

 

さらに

「熊襲」てふ種族別にあるにあらず、こは全くして天孫種族と同一・・

 

天孫種族と同一

 

とても大切な お言葉 です・・・

 

天孫種族と同一  このお言葉をどう理解するかは 個人個人で 異なると思いますが

私には とても大切な お言葉です

 

 

 

至る所に「ヒント」が隠されている・・・・

 

度々 ブログ内で書いていますが 私の考えは・・

 

記紀が描いた
球磨や球磨以南の南九州は
百済と新羅の確執が 関係している・・
熊襲 クマソの方々は滅ぼされてなど いない・・
百済と新羅の いえ 朝鮮半島の古代王家と
球磨や球磨以南の南九州が 繋がってくる事を
隠す為の・・・

です・・

 

 

 

古事記 ウィキペディアの記述から

古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、一般に現存する日本最古の歴史書であるとされる。

その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。

 

 

 

皆様

太安万侶 という御方の母方の伯母。 

ご主人は どなたかご存じですか?

 

百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子

扶余豊璋 (ふよ ほうしょう)

この方です・・・

 

太安万侶の伯母は扶余豊璋 の妻でいらっしゃいました・・・

 

 

 

 

ウィキペディアより 豊璋

 

 

『書紀』には既に孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に豊璋が出席している。

 

豊璋は日本と百済の主従関係を担保する人質ではあるものの、

倭国側は太安万侶の一族多蒋敷の妹を豊璋に娶わせるなど、待遇は

決して悪くはなかった。

 

 

 

様々な背景があるように 感じてしまいます・・

 

しかし、私は古事記、日本書紀をご編纂なさった御方々のご苦労に

とても敬服致しております。

 

コンピュータの無い時代・・・想像が出来ないご苦労であったと思います。

 

大陸で記された数々の史書を 徹底して熟読なさっていらっしゃる事が

ど素人の未熟な私にも良く解ります。

 

だからこそ、歴代の天皇さまの西暦対応表がとても重要になるのです。

 

 

 

上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧は、初代神武天皇から第25代武烈天皇までの天皇(摂政の神功皇后を含む)の在位年及び空位年と西暦ならびに皇紀、干支との対照表を列挙したものである。神武天皇については誕生からの各年のほか、東征の詔で言及される祖先の神々の年代を付した。この時代には元号は使用されていない。

いずれも『日本書紀』の記述を基に編纂された長暦である『日本長暦』に基づくものであり、考古学的知見に基づくものではない。

 

 

 

 

コンピュータの無い時代に

記紀をご編纂なさった方々は

コンピュータ並の頭脳をお持ちの

7世紀の天才集団でいらしたのだ・・

と私は考えています。

 

 

だからこそ

至る所に「ヒント」が隠されている・・・・ 

と考えるのです・・

 

 

 

 

2.古事記原文に記された 垂仁天皇さま

 

8世紀に編纂された 古事記 と 日本書紀

 

最近、私は多くの方々がお書きになられた解釈文ではなく

自らの目で原文を 読めないながらも 四苦八苦しながら一生懸命読んでいます。

 

ありがたい事に

以前もご紹介しましたが 原文を掲載されたサイト様がおありになります。

 

 

古事記

 

 

 

日本書紀

 

 

 

 

過去ブログでもご紹介致しましたが、

神に関する古語の研究 の中に記されていたお言葉

熊・球磨(クマ)と久米(クメ) は同意語である

クマとクメ は 神の意である

 

 

 

今から2000年前の時代

記紀ではどのように お書きであったのか・・・

 

上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧 ウィキペディアを拝見すると

 

垂仁天皇さま の時代

BC29年~西暦70年 までが時代となられるようです。

 

 

 

古事記の原文を拝見いたしました。

 

 

 

伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也。

此天皇、娶沙本毘古命之妹・佐波遲比賣命、生御子、品牟都和氣命。

次大帶日子淤斯呂和氣命

 

伊久米伊理毘古伊佐知命 さま

 

垂仁天皇さま

伊久米伊理毘古伊佐知命 さま

 

お名前が何年も前から非常に気になり、過去ブログでも何度も「その事」を書かせて

頂いておりました。

 

 

 

『後漢書』東夷列伝の中に記述されていて「魏志倭人伝」にない記述

 

建武中元二年(57年)に倭奴国が朝貢した

 

垂仁天皇さま  BC29年~西暦70年

 

 

倭奴国からの朝貢 は

垂仁天皇さま 伊久米伊理毘古伊佐知命 さま の時代である

と記紀の編纂者の方々は時代設定の上 お書きになられていらっしゃるのですね・・・

 

 

僭越ながら

本当の 垂仁天皇さま の御代は 200年~300年以上後の事かと

私は推測致しておりますので

 

 

伊久米伊理毘古伊佐知命 さまの御代は

大陸の史書に 倭国の方が初めてご登場なさった時代である・・

 

 

古事記より

 

又天皇、以三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。

 

自登下八字以音。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。

 

其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。

 

 

 

※三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國

 

 

多遲摩毛理 (田道間守) さま 御祭神 の神社様が

中嶋神社 様

 

奇しくも、私の住む 球磨郡久米郷宮原村の黒原山の麓にご鎮座であった神社様も

中嶋大権現 (中嶋神社)

 

 

御神託により 

中島大権現を創建なさった御方が

大神惟基 公 でいらっしゃいます・・

 

 

※其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。

 

・・・・・・・・・・・ 😐

 

 

 

 

多遲摩毛理 (田道間守) さま のご先祖様は

『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」

 

 

ウィキペディアより転記致します。

 

垂仁天皇3年条
『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記す。

 

7物
羽太の玉(はふとのたま) 1箇
足高の玉(あしたかのたま) 1箇
鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇
出石の小刀(いづしのかたな) 1口
出石の桙(いづしのほこ) 1枝
日鏡(ひのかがみ) 1面
熊の神籬(くまのひもろき) 1具

 

 

神に関する古語の研究を 拝読して、勉強をさせて頂いているので 若輩者の私にも

解るのですが・・

「7物」 は 全て 日神を崇拝なさっていらっしゃるという 証

 

 

つまり・・・新羅王家と 倭国 は 同じ民族である・・

と いう 証 のように 感じてしまいました・・

 

 

 

 

①倭奴国からの朝貢 は

垂仁天皇さま 伊久米伊理毘古伊佐知命 さま の時代である

と記紀の編纂者の方々は時代設定の上お書きになられていらっしゃる

 

②垂仁天皇さま 伊久米伊理毘古伊佐知命 さま の時代

多遲摩毛理 (田道間守) さま は常世國に遣わされた

と記紀の編纂者の方々は時代設定の上お書きになられていらっしゃる

 

 

 

 

今回、古事記原文 垂仁天皇 さまの御代 を拝見して 新たに気が付いた事がありました。

 

3.祖母の言葉は間違っていないようです

 

 

故、大帶日子淤斯呂和氣命者、治天下也。御身長、一丈二寸、御脛長、四尺一寸也。

 

 

大帶日子淤斯呂和氣命さま とは 景行天皇さま でいらっしゃいます。

 

 

御身長、一丈二寸、御脛長、四尺一寸也

 

一丈二寸 とは 3m で 四尺一寸とは120㎝

 

えええっ! と驚きますが、おそらく それくらい

お背が高く 脛が長い方でいらした

という事だと考えました。

 

脛が長い方で身長がお高い・・・

 

 

祖母が伝えてくれていた事は本当だったようです😊

ブログ ⑥陸続きだった列島と島生みと だんだんなぁ~

 

 

祖母は私が子供の頃

脛が長いと背が高くなる  と言っていました。
 😊

 

 

 

ブログ『④球磨川が証明した7000年前の移動と中世のご先祖様・・』でも書いていますが

 

 

私は・・
古代からこの地は 高身長の方々と低身長の方々が
共存していらっしゃるのでは・・と考えていました。

 

 

 

4.景行天皇さま 日本武尊さまの時代の

面土国王帥升

 

 

景行天皇様の 御代に

『後漢書』東夷列伝の中に記述されていて「魏志倭人伝」にない記述

安帝永初元年(107年) 倭国王帥升等 献生口百六十人 ともあり、

永初元年(107年)に倭国王帥升 が人材(労働者か)を百六十人献上したと

されている・・・・

倭面土国王  帥升

となります。

 

 

 

※後漢書東夷伝の記述からは

この倭国の所在地は明確でないが、九州の可能性が高い。

 

 

ちょうど、景行天皇さま、日本武尊さま が 南九州や球磨にお越しになられた

「クマソ」と関わりになられる時代となるのですが

(と記紀の編纂者の方々は時代設定の上お書きになられていらっしゃる)

 

熊襲・・

熊襲は頭を渠帥者(イサオ)と呼び、2人おり、その下に多くの小集団の頭たる梟帥(タケル)がいらした・・・

 

倭面土国王 帥升

渠帥者(イサオ)

梟帥(タケル)

 

帥の文字・・・

 

熊縣(球磨縣) の 熊津彦 さま ・・・

 

 

『釈日本紀』「第一 解題」 より

後漢書に言われていることには、

云孝安皇帝永初元年冬十月倭面國が使を遣わして奉献した。 

註に、倭國ハ樂浪から万二千里のところ、とある。 

男子は皆面(顔)と身体に入れ墨をして、

その入れ墨の左右大小によって尊卑の違いを区別していた

 

 

 

・・・・ この続きは 次回に <m(__)m> 😊

 

 

 

所で・・・・

複数回に渡って触れていた 百済姓宮原氏についてですが

4.百済王家後裔 百済姓の方々の簡略・・・

 

 

平河氏のご先祖様は 良峯 安世 公

ご子息 良峯 宗貞 公の 妻は 宮原の娘也 けり 人・・・

 

 

私の解りづらい ややこしい説明より😥

とても簡潔におまとめでいらっしゃるサイト様をご紹介致します😊

 

 

「おとくに」  様 サイト

http://ek1010.sakura.ne.jp/logo22.gif

 

 

百済氏考

 

 

 

とても大切な事ですので

私の祖母方 良峯姓 平河氏 に繋がる お話 を 勝手ながら抜粋させて頂きます<m(__)m>

じっくりと お読み下さいませ<m(__)m>

 

 

 

<その他百済氏・船・白猪・葛井・菅野氏など>
 

百済王13代近肖古王の子供から派生したとされる錦宿禰の流れはその後三善朝臣姓となり、その裔に鎌倉幕府の初代執事になった「三善康信」がいる。

この流れから多くの武家が派生するが、これらは百済氏の一番古い流れである。詳細省略。
 

百済王16辰斯王の流れから白猪氏・船氏・津氏などが派生した。「船王辰爾」が有名である。津氏の流れから前述した桓武天皇の時参議となった「菅野真道」が輩出された。
 

白猪氏の流れから葛井氏が出、更に宮原氏となり、

宮原道依の娘藤子は51平城天皇の妃となり、「阿保親王」を産んでいる。 阿保親王の子供に「在原業平」が出る。
 

百済王24代東城王の子供の流れから飛鳥部氏が派生したとされている。

飛鳥部奈止麿という人物がおりその娘が「百済永継」であるという説がある。(異説もある)
 

この百済永継と藤原北家内麿との間に「冬嗣」が生まれている。即ち摂関家の祖である冬嗣も百済系渡来人の血を引いているのである。

 

永継がさらに桓武天皇の妃となり、「良峯安世」を生んでいる。

良峯安世の子供が歌人で有名な「僧遍照」である。
 

百済王25代武寧王の子供に「純陀太子」がおり、この流れから上述した、桓武天皇の生母「高野新笠」が出たとされている。その甥が「和家麻呂」である。

 

以上 「おとくに」  様 サイト 百済氏考より抜粋させて頂きました。

 

 

 

 

百済王13代近肖古王の子供から派生したとされる錦宿禰の流れはその後三善朝臣姓

なり、その裔に鎌倉幕府の初代執事になった「三善康信」がいる。

この流れから多くの武家が派生するが、これらは百済氏の一番古い流れである。

 

 

実は・・・平安時代から平河氏が所領していた領地

鎌倉時代に入り、再編成された 元王家領 球磨御領 内の 永吉庄は

永吉になるまでは

三善と 呼ばれていたのです・・

 

詳しくは次回以降に <m(__)m>

 

 

芦北には 百済木(久多良木 くたらぎ) 地名があり、

球磨には 多良木 さらに古多良木があり

 

さらに・・葦北には 白木(しらき)地名があり、 球磨にも久米郷奥野に白木地名・・

八代にも もちろん 白木(しらき)地名があり・・

 

さらにさらに お隣の鹿児島伊佐市大口にも 白木(しらき)地名があり・・・

 

 

しらき も たらぎ も・・

こっちから 行っちゃったかなぁ・・・・ (独り言・・)

 

球磨 久米 伊佐・・・・  (独り言・・)

 

 

 

外にも多々気が付いている事はありますが

次回以降にご紹介させて頂きます <m(__)m>

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

今回は

1.「熊襲」は 全くして天孫種族と同一

2.古事記原文に記された 垂仁天皇さま

3.祖母の言葉は間違っていないようです

4.景行天皇さま 日本武尊さまの時代の 面土国王帥升

5.百済王家後裔 百済姓の方々の簡略・・・

 

という内容を書かせて頂きました。

 

 

最後までご覧頂き ありがとうございました😊

 

 

 

 

先日、買い物の帰りに 黒原山に虹がかかっている事に気が付きました。

 

周囲は雨雲で薄暗かったのに ここだけお日様が指して 虹が出ていました。

とても 美しかったです 😊

 

あさぎり町の神殿原(こうどんばる)から撮った写真です😊

 

 

 

 

 

 

皆様 お身体十分にお気を付けになられてお過ごし下さい。

どうか どうか ご安全に <m(__)m>

 

だんだんなぁ~

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『⑲保存版 球磨弁で古事記が読めました!』 に続きます。