前回のブログ『(再投稿)⑱記紀に描かれた約2000年前』 より続きます。

 

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。

 

自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
愛するご家族、親戚やご友人の方々に看取られる事なく、一人で旅立つ事をよぎなくされた
御方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

 

献身的な看護、そして治療に従事なさっていらっしゃる医療現場の方々の御苦労に

心から感謝致しております。 

新型コロナウィルスに 感染なさった方々の早期回復をお祈りいたします。
 

この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

 

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今回の内容は、前回「次回以降に」と書かせて頂いた事ではありません。

お詫び 致します。

 

ただ、私の 今までの調査、勉強の中でも永久保存版になる内容だと確信しています。

お付き合い下さい。

 

未だ前回のブログ『(再投稿)⑱記紀に描かれた約2000年前』をお読み頂いていない方は

ぜひ、お読み頂いた上で、今回、私が書く事をご覧頂きたいと切に願います。 <m(__)m>

 

 

 

私のブログは長いですから 😅 音楽を聴きながらでも 
お付き合い頂ければ・・と  思います  <m(__)m> 😊


菅野ようこ さん 作曲 Jin Roh OST Grace Omega

 

 

 

 

 

 

 

皆様に、ご報告があります。

古事記に記された「一行」 の真意が球磨弁で読めました。

 

私がどのようにして「そこまで到達出来たのか」 経緯からご説明させて頂きます。

 

 

 

 

1.原義混迷せる時代の例 より・・・

 

 

 

 

書籍購入後

若輩者の私なりに 神に関する古語の研究 をじっくりと何度も・・何度も読んでいました。

 

そうする事によって「ある事」に気が付きました。

 

神に関する古語の研究 の 著者 林 兼明様の 

信念に基づく 全体的な流れとなっている・・・

 

そう考えながら、目次をあらためて 見ていると・・・

 

第六章 地名に表現せる「日」の信念

第一節 ひのもと

の中の 第五項が非常に 気になりました・・・

 

 

目次より 抜粋させて頂きます

 

第六章 地名に表現せる「日」の信念

第一節 ひのもと

 

第五項 原義混迷せる時代の例

(1)肥前風土記 ・・・

(2)日本書紀景行記 ・・・

(3)肥前風土記 ・・・ ※再びです(ひろっぷ)

(4)肥後国風土記 ・・・

(5)万葉集 ・・・

(6)古事記伝 ・・・・

(7)不知火考 ・・・・

(8)事蹟選考 ・・・・

 

 

こうやって見てみると・・・

私が故郷球磨の古代を調べるにあたって もっとも重要だと考える時期と一致している事に気が付きました・・・

 

そう・・・ クマソ の時代です

 

 

林 兼明様は

日本書紀景行記 での 日の国(火国)  熊縣・葦北・・海からの流れ等をご指摘の上

「日」の信念  が 原義混迷している・・ それ故に

荒唐無稽

というお言葉を何度も使用なさっていらっしゃいます。

 

 

古事記 特に日本書紀を編纂なさった方々は 

 

おそらく・・・何らかの伝承を元にした「お話」を

 

記紀編纂時の近隣諸国の状況を踏まえた上で、大陸の史書と照らし合わせながら

 

球磨 古代のこの地における勢力を如何なる人達であったのか・・・

 

隠そうとなさったのではないか・・

と私は考えました・・

 

 

 

2.天が熊襲の口を通じて・・・・

 

 

別の節の中で林 兼明様は

日本武尊さまに関して 以下のような事をお書きになられています。

 

 

日本武尊・・・

げに尊こそ、「天」が熊襲の口を通じて言はしめし如く

誠に「日本の武の権化」たりし命(みこと)なり。

 

と・・・・

 

 

 

「天」が熊襲の口を通じて言はしめし如く

 

どういう意味なのだろう・・・?

私は ずっと そのお言葉の意味が理解出来ないでいました・・・

 

 

しかし ようやく解ったのです!

そう・・球磨弁で・・・

 

 

 

3.球磨弁で読めた一行

 

前回のブログでも書いたように、

最近、私は多くの方々がお書きになられた解釈文ではなく
自らの目で原文を 読めないながらも 四苦八苦しながら一生懸命読んでいます。

 

 

上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧によると

景行天皇さま、日本武尊さま の時代を 記紀編纂者の方々は

西暦71年~西暦130年頃 と時代設定の上 お書きになられていらっしゃるようです。

 

 

 

古事記 景行天皇記 の中に

とても気になる一行を見つけました・・・

 

 

前回もご紹介しましたが 原文を掲載されたサイト様がおありになります。 

 

 

古事記 景行天皇記

 

 

 

気になった 最後の一行は 赤文字で書きます。

 

於是天皇、惶其御子之建荒之情而詔之「西方有熊曾建二人。是不伏无禮人等。故、取其人等。」而遣。當此之時、其御髮、結額也。爾小碓命、給其姨倭比賣命之御衣御裳、以劒納于御懷而幸行。故、到于熊曾建之家、見者、於其家邊軍圍三重、作室以居。於是、言動爲御室樂、設備食物。故遊行其傍、待其樂日。

爾臨其樂日、如童女之髮、梳垂其結御髮、服其姨之御衣御裳、既成童女之姿、交立女人之中、入坐其室內。爾熊曾建兄弟二人、見感其孃子、坐於己中而盛樂。故臨其酣時、自懷出劒、取熊曾之衣衿、以劒自其胸刺通之時、其弟建、見畏逃出。乃追、至其室之椅本、取其背皮、劒自尻刺通。

爾其熊曾建白言「莫動其刀、僕有白言。」爾暫許、押伏。於是白言「汝命者誰。」爾詔「吾者坐纒向之日代宮、所知大八嶋國、大帶日子淤斯呂和氣天皇之御子、名倭男具那王者也。意禮熊曾建二人、不伏無禮聞看而、取殺意禮詔而遣。」爾其熊曾建白「信、然也。於西方、除吾二人無建強人。然於大倭國、益吾二人而、建男者坐祁理。是以、吾獻御名。自今以後、應稱倭建御子。」是事白訖、卽如熟苽振折而殺也。故、自其時稱御名、謂倭建命。

然而還上之時、山神・河神・及穴戸神、皆言向和而參上。

 

 

 

 

熊曾建白「信、然也。於西方、除吾二人無建強人。然於大倭國、益吾二人而、建男者坐祁理。是以、吾獻御名。自今以後、應稱倭建御子。」・・・

故、自其時稱御名、謂倭建命。
然而還上之時、山神・河神・及穴戸神、皆言向和而參上。

 

 

日本武尊・・・

げに尊こそ、「天」が熊襲の口を通じて言はしめし如く

誠に「日本の武の権化」たりし命(みこと)なり。

 

 

 

然而還上之時、山神・河神・及穴戸神、皆言向和而參上。

 

 

皆言向和而參上・・

 

どう読むのか 解らず様々なサイト様を拝見したのですが・・

多くの方々は

言 向かわす

(こと むかわす)

 

と解されていました。

 

さらに この言葉を 出雲に向かう途中

神々様を 平定 と理解されている方々が殆どでした・・・

(日本書紀もそう意するような 書き方をなさっていらっしゃいます)

 

 

人間が神様を平定など ありえない!

と私は考えました!

 

 

 

言向和而

言 向かわす

 

いうむかわす・・

・・・!

あっ!!

 

 

言向和而

 

いうむかす いうむかわす

 

むかす むかわすは

球磨弁です!!

 

 

 

球磨弁で 例えば 何かが出来た事を

 

しむかす

 

と言います。

 

 

何かが出来なかった事を

しむかさん ・  しむかさわん

 

と言います!

 

 

つまり

言向和而

いいむかわす

 

 

球磨弁で

いいむかす

言う事が出来た

 

となります!!

 

 

山神・河神・及穴戸神、皆言向和而參上 は

 

 

山神・河神・及穴戸神 様かたは

皆 言う事がお出来になられた

 

 

山神・河神・及穴戸神 様かたは

皆 そう言われた

 

となります!

 

 

 

 

あっ・・・・!!!!!!!

この事に気が付いた時に 涙がバ~ッと溢れてきて

止まらなくなりました・・

 

 

 

日本武尊・・・

げに尊こそ、「天」が熊襲の口を通じて言はしめし如く

 

 

やっと・・やっと 意味が解りました・・

ようやく 理解する事が出来ました・・・

 

 

球磨弁であれば 読めるのです・・

 

 

 

山神・河神・及穴戸神 様かたは

皆 そう言われた

 

 

山神様 河神様 が いらっしゃる「その地」に

及穴戸神 つまり穴戸神様もお越しになられて

日本武尊さまに 天からの言葉が熊襲の方の口を通じて

伝わった・・

 

という意味でしょう・・

 

 

 

不思議な事を書きますが・・

ここまで 若輩者の私が理解出来た事は

山神様 河神様 の ご意思?だったような

お導きだったような・・

気が致しております・・・

 

 

学者の方々は 球磨弁がお解りになられないので・・

「平定」 と いう風にお考えになられたのでは ないでしょうか・・

 

さらに・・日本書紀編纂者の方々も 球磨弁は全くお解りではなかったようです・・

 

 

先述した通り

古事記 特に日本書紀を編纂なさった方々は 

おそらく・・・何らかの伝承を元にした「お話」を

記紀編纂時の近隣諸国の状況を踏まえた上で、大陸の史書と照らし合わせながら

球磨 古代のこの地における勢力を如何なる人達であったのか・・・

隠そうとなさったのではないか・・

と私は考えました・・

 

隠そうとなさった・・・「球磨の、南九州の勢力の方々」は

絶え間なく後世に繋がっていらっしゃるのでしょう・・

 

 

 

大陸の史書と照らし合わせながら・・・

だからこそ、 日本書紀 景行天皇記 には 

東夷 の言葉

連発しているのでしょう・・

 

 

この続きは次回以降に<m(__)m>

 

 

 

 

 

今回は 私の拙いブログの中でも 永久保存版と自認する内容となりました。

 

学者様でもない私を ずっと応援して下さって頂いている 皆様方へ

心から感謝申し上げます

 

 

皆様方にご覧頂けている という事が

私の心の励みとなっています。

 

だからこそ 頑張る事が出来ているのです。

 

ありがとうございます

 

 

 

書籍を出したりした事もない ただのど素人である私のブログは

閲覧して下さる方は少ないですが

 

応援して下さる皆様がただけへの

私の 発見を 最初にご紹介させて頂きました

<m(__)m>  😊

 

 

 

 

1.原義混迷せる時代の例 より・・・

2.天が熊襲の口を通じて・・・・

3.球磨弁で読めた一行

 

という内容を書かせて頂きました。

 

 

私が理解した事を皆様にお伝えした事で

この地の神々様が とてもお喜びになられていらっしゃる・・

 

そう感じます😊

 

 

 

皆様 最後までご覧頂きありがとうございました。

 

お身体十分にお気を付けになられてお過ごし下さい。

 

梅雨はまだ明けていません

どうか どうか ご安全にお過ごしになられて下さい

 

 

 

黒原山にかかる虹は今回の発見を事前にお知らせくださったような

気がしております😊

 

 

球磨の地より 心を込めて

 

皆様 だんだんなぁ~

 

ひろっぷ でした 😊

 

 

次回『⑳保存版 (前編)リセットされた歴史・・・』 に続きます。