前回のブログ『(番外編)私の失敗 父の発熱』より続きます。
私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
元気をなくしてしまったこの郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。
新型コロナウィルス(武漢ウィルス)の変異株が日本国内、世界中で猛威をふるっていますが
新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申し上げます
この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。
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今回のブログは再々投稿 ㉖番外編 聖火を見ながら気が付いた石のビーナスの事
からの続きとなります。
先日、旧岡原村(現あさぎり町岡原)の村社『岡原霧島神社』から
不思議な虹がかかっている写真を主人が偶然撮りました。
まずはご紹介致します。
写真右側の建物の奥に岡原霧島神社がご鎮座です😊
それにしても・・凄く低い位置の虹で、主人も「こういう虹は初めて見た!」と驚いていました。
父はお陰様で、だいぶ元気になりました😊
熱中症は怖いとつくづく実感しています。
熱が平熱に下がってからも、80歳になった父には高熱が身体に響いたようで、数日間はきつそうにして昼間もベッドで横になっていました。
しかし、昨日から体調もだいぶ良くなったようで朝からリビングでずっと起きていました😊
今は、普通のおじいさんになりましたが、この父、実は空手の有段者です。(p_-)
銃剣道の有段者でもあり、現役の頃は、大会で何度も優勝した強者です(p_-)
そうです(p_-) 父は元気になって、テレビで空手の競技を食い入るように見ておりました😊
実は(p_-) 私の曾祖母(平川家の)は薙刀の名手と言われた人で、若い頃は様々な大会で優勝した事もある、女性でした。
そう言えば・・🙄
宮原の曾祖父は弓道の名手だったと聞いていますし・・
私の従弟も剣道と空手の有段者で・・父の従兄弟やふた従兄弟妹の人達も弓道の有段者、空手の有段者、剣道の有段者、多いですね・・(p_-)
祖母の従弟は剣道の大会で審判を務めていました(p_-)
何だか・・・時代が変わっても・・皆、何かしらの
武道の心得があった
と言う事に今更ながら気が付きました😊
さらにそう言えば・・😊
我があさぎり町にある熊本県立南陵高校の馬術部は
全国大会に何度も出場する強豪校です
実は(p_-) 相良藩の騎馬隊はめちゃめちゃ強かったのですよ~!!
現代の若人にも、古(いにしえ)の方々の魂がしっかりと受け継がれています😊
相良藩の戦国時代、八代を含む、熊本県南部を領土としていた相良藩ですが、島津との戦で当時の球磨郡と現在の宮崎県椎葉村・米良地域を除く、大半の領地を失いましたが
盆地に他から攻め込まれた事は一度もありません (ー_ー)!!
それだけ・・この地は要塞のように強固な地でありました(p_-)
古代からの祈りの地であり武(もののふ)の故郷・・・
がっ・・しかし・・
この地は・・他国から日本で初めて空からの攻撃を受けた地でありました・・
私はその事を初めて知りました・・
終戦から76年をむかえる前に
このお話を中心に今回の後編-2を書かせて頂きます。
かなり長い文章となりましたので、音楽と共にお付き合い下さい<m(__)m>
HAVASI — Prelude | Age of Heroes (Official Concert Video)
1.昭和13年5月20日マーチンが球磨上空へ!
古代からの祈りの地であり武(もののふ)の故郷・・球磨
今年92歳になる椎葉のおじが、私に戦争の話をする時に度々、
「子供の頃、戦闘機のマーチンが来た」と話していたのですが、私はその「マーチン」が何の事やら、よく解らずに、第二次世界大戦時の話かな・・?と思っていました・・
所が・・
先日、ツイッターで球磨の海軍基地、陸軍基地について情報を発信なさっていらっしゃる「球磨りん」様の記事を読んでいて、その「マーチン」がいったい何者であったのか、
ようやく知る事が出来ました。
「球磨りん」様のツイッターアドレスをご紹介致します。
ご興味のおありになられる御方はぜひご覧になられて下さい。
https://twitter.com/search?q=%E7%90%83%E7%A3%A8%E3%82%8A%E3%82%93&src=recent_search_click
「球磨りん」様は当時の福岡新聞の記事も発見なさっていらっしゃいます。
私は、大変なご苦労をなさっていらっしゃる「球磨りん」様を敬服致しております。
ネット上に この情報が公開されていないか!? 私も調べてみました。
すると・・ありました!
西日本新聞社様サイト 2019/2/13 11:41付け 社説・コラム
「九州上空の怪飛行機」
「九州上空の怪飛行機」 より 抜粋してご紹介させて頂きます。
西日本新聞が前身の「福岡日日新聞」だった日中戦争の頃。
1938(昭和13)年の5月21日付朝刊に、5段抜きの見出しが載った。
「南九州の上空に怪飛行機現る 熊本、宮崎県上空四千米(メートル)から反戦ビラを散布す」
記事を要約する。
「20日午前4時ごろ、熊本、宮崎両県の上空に国籍不明の飛行機1機が現れ、太平洋の方向に消えた。直後に熊本県球磨郡四浦、多良木、黒肥地、宮崎県椎葉の山奥と富島付近で『日本労働者諸君に告ぐ』と題する反戦ビラが多数見つかった。
この飛行機は中国機とみられるが、徐州攻略戦の大勝に沸くこの地域では、子供じみた撹乱(かくらん)戦術を笑って人心に動揺はない」
記事が推測する通り、この飛行機は、中華民国軍の物だった。だが蒋介石の次男、蒋緯國将軍が著書「抗日戦争八年」で述懐するところでは、飛来したのは1機ではなく実は2機の編隊で、米国から供与されたマーチン社製の4人乗り爆撃機B-10Bを使った。中国語で「馬丁(マーチン)式重轟炸機」と呼ばれていた。
飛行準備には2カ月をかけた。停戦を呼び掛けるガリ版刷りのビラは、大分県出身のプロレタリア作家、鹿地亘(かじわたる)が書いた。鹿地は治安維持法違反で逮捕された後に転向して出獄したが、中国へ渡り、37年の日中開戦を機に国民党の支配地区で「日本人民反戦同盟」を結成していた。
爆弾の代わりにビラを積んだ2機は、5月19日に漢口(今の武漢市)を出発し、寧波で燃料を補給した後、同日午後11時48分に日本へ飛んだ。蒋緯國は「予定通り、長崎、福岡、久留米、佐賀及(およ)び九州各都市の上空で文告を散布し、かつ軍港と航空基地の状況を偵察した」と語っているが、実際にビラが見つかった地域とは、ずれている。
しかし片道約900キロの夜間飛行である。レーダーは装備しておらず、磁石と星を見て位置をつかむ航法で真っ暗な洋上を往復する命懸けの冒険飛行だった。この時は20日未明に江西省の飛行場に戻ったが、2度目の飛行ではついに帰還できなかったという。
以上 西日本新聞社様サイト 2019/2/13 11:41付け 社説・コラム
「九州上空の怪飛行機」 より 抜粋させて頂きました。
※米国から供与されたマーチン社製の4人乗り爆撃機B-10Bを使った
※中国語で「馬丁(マーチン)式重轟炸機」と呼ばれていた
※飛行準備には2カ月をかけた・・
※5月19日に漢口(今の武漢市)を出発し、寧波で燃料を補給した後、同日午後11時48分に日本へ飛んだ・・・
※磁石と星を見て位置をつかむ航法で真っ暗な洋上を往復
※熊本県球磨郡四浦、多良木、黒肥地、宮崎県椎葉の山奥と富島付近を飛行・・
椎葉のおじが言っていた
「子供の頃、戦闘機のマーチンが来た」
の意味がようやく解りました・・・
第二次世界大戦時ではない!
昭和13年5月20日の出来事だった!
私はこの記事を見て、えも言われぬ感情とそして激しい悲しみが、こみ上げて来ました
反戦のビラ!??
いったい、本当は何の目的で
ここに来た!!!?
※蒋緯國は「予定通り、長崎、福岡、久留米、佐賀及(およ)び九州各都市の上空で文告を散布し、かつ軍港と航空基地の状況を偵察した」と語っているが、実際にビラが見つかった地域とは、ずれている。
「球磨りん」様は、
ツイッターの方で、飛行ルートまでしっかりとお調べになられています!
蒋緯國 この人が記録した事と「やった事」は完全に違います
わざわざ、磁石と星を見て位置をつかむ航法で真っ暗な洋上を往復してまで
何しにここに来たんだ!
※米国から供与されたマーチン社製の4人乗り爆撃機B-10Bを使った
やはり・・・
当時の米国の一部の人達と中国の一部の人達は繋がっていたのですね・・
私は、過去ブログで数回、祖父の事や、明治時代以降の海外と球磨の関係、戦争と球磨の事を書いてきました。
ただ、それらのブログを書いた後、祖父の事をもっと知りたくて、
教科書には決して書かれる事はない当時の「今まで、隠されている事がある」
と言う事も 知りました・・・
以下数例のブログをご紹介しますが、
ブログを書いた当時の私の知識と今の知識は 異なります・・・
ただ・・
「今まで、隠されていた事」を自分なりに頭の中で祖母から聞いていた話と照らし合わせながら理解している・・という状況です。
拙ブログ 戦艦球磨の艦内神社 球磨と戦争から抜粋
田中 賢道氏 岡原村史より
彼は熊本城下の山崎町に安政三年(1856年)に生まれた。
父は医者で田中維醫といった。
閔妃事件に関わった田中賢道の戸籍は最期まで岡原村にあった事は記録にとどめて
おかねばならない。
岡原村史を編纂なさった郷土史家の高田素次先生。
高田素次先生が何をおっしゃりたかったのか・・
今は何となく私の中では理解しております。
上記のブログを書いた後・・目を背ける事は止めて閔妃事件をあらためて、
教科書通りではない話も勉強しました・・・
続けて・・
他 多数・・・・
ただ・・・私の精神は以下のブログを書いた当時と変わりません・・
拙ブログ ①球磨と戦争 その『根源』より抜粋します
度重なる、自然災害を受けた時の『日本人の姿』は世界の方々から絶賛されています。
毅然とした態度
秩序に基づいた『高い精神』
平和な日常を取り戻すための祈り、迅速な行動
全て、古代からの其々の方々のご先祖様から受け継いで来られた、『日本人の心』を
世界の方々が賛美されていらっしゃるのだと思います。
悪い事、誤った事をした時には「ごめんなさい」と謝る。
謝られた時には許す心を持つ。
相手の事を思いやる。
平和を祈る。
家族を愛する。
高い精神を持つ。
毅然とした態度で不安を感じる事を払拭する。
尊い命の犠牲 の上で、今の平和がある事を十分に理解して
世界中の犠牲となられた方々の御霊に,「平和を継承する」事を誓う。
ただ・・ブログ『①球磨と戦争 その『根源』を書いた2019年8月とは、
明らかに今は状況が異なります。
今、世界は日本は 新型コロナウィルスという敵と戦っている・・
だからこそ、
毅然とした態度
秩序に基づいた『高い精神』
平和な日常を取り戻すための祈り、迅速な行動 が
とても大切なのだ・・とあらためて感じます
もちろん、私も人の事を言える人間ではありません。ただ・・最近
精神論では通用しない と何方かがおっしゃっていらっしゃいましたが・・
その精神論が何たるかを理解していない方々が「このような事」をおっしゃっているのは
私は不思議でなりません・・・
そういう方々は、人の揚げ足取りはお得意のようですね・・
もちろん
揚げ足を取られないようにする事がとても大事ではあります・・
私が何故?球磨を祈りの地だったのでは?と推測しているのか、
その理由を書いたブログです。
↓
①親王様からの令旨
②「勤王秘事」に関わっていた方々
③天瑞和尚について
④『天瑞和尚』御奉納の御神像
と言った内容を書いていますが、しかし・・④『天瑞和尚』御奉納の御神像に関しては、
当時の私が勉強不足であった為、御神像は女性でいらっしゃる・・と今は考えております。
古代からの祈りの地、江戸時代においても祈りは継承されてきた・・
その球磨の地に
マーチンは
本当は いったい、何の目的で
ここに来たのか !!!?
私は・・・
当時の米国の一部の人達と中国の一部の人達は繋がっていた・・という事をマーチンを介して知った後は「平和を願うためのビラをまく目的」であったとは
到底考えられません・・
記紀に描かれた熊襲の地に対して愚弄する行為であれば許せない
もしくは・・・
何かを見透かしたような行為であれば なおさら許せない
尚且つ
悲しい です・・
何を今更83年も前の事を言って悲しんでいるんだ・・!
とお考えになられた方もしらっしゃるかと 思います。
しかし・・戦後76年経った今、尚も、この地の事に「バイアス」を働かして、貴重な遺跡等が無視されているような・・この地の歴史に触れようとしない傾向が強くなっているような気がするのは私だけでしょうか・・・
独り言
根底は全て同じ理由のような気がします
2.大量に出土していた刻目突帯文土器
球磨郡多良木町の大久保台地遺跡。
旧石器時代から弥生時代にかけての膨大な時を刻む遺跡です。
大久保台地遺跡からは、刻目突帯文土器が大量にまとまって出土していました。
縄文時代の要素を継承する鉢と共に出土しています。
刻目突帯文土器 をウィキペディアで拝見すると
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BB%E7%9B%AE%E7%AA%81%E5%B8%AF%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8
やはり、
朝鮮半島系の水稲耕作が始まった。この時の土器は刻目突帯文土器と、深鉢浅鉢からなる縄文土器だけである。この刻目突帯文土器に、数%、半島の技法を使う刻目突帯文土器が混じる。弥生土器が生まれるのは、その直後である。
と記されていますので、水稲稲作は朝鮮半島から伝わった・・という考えが、
根強いように感じますが・・・
この球磨では、以前から書いているように「縄文時代には無かった」と言われていた
有肩打製石斧が出土しています。
過去ブログでは大原天子遺跡をご紹介していましたが、実は郡内の様々な場所、例えば神殿原(こうどんばる)からも有肩打製石斧は出土していました。
大原天子遺跡をご紹介した過去ブログ
有肩打製石斧
マレー半島部のタイを除くタイ全域、ベトナム、カンボジア、ラオス、中国南部の水稲農耕文化発生地域に広く分布する新石器時代末の特徴的石器。
近年、西九州地方長崎県島原半島、熊本県南西部などで、縄文文化後期末ないし晩期の
遺跡から長さ10センチメートル前後の硬質な岩石でつくられた片刃変形有肩石斧が発見されており、稲のわが国への長江南部地方からの伝来も、ほぼこの時期であることが最近明らかになった。有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる。
以上 コトバンク様より 抜粋しました
※熊本県南西部 とは 球磨郡の事です
※球磨郡多良木町の大久保台地遺跡では刻目突帯文土器が大量にまとまって出土
※稲のわが国への長江南部地方からの伝来に鍵を握る有肩打製石斧が球磨郡内の各地から出土
常識を覆した球磨からの出土品 鳥が先か卵が先か・・ で書いたように
私は・・・
中国 ⇒ 球磨 ⇒ 古代朝鮮半島 ⇒ ・・・・
という事は 有り得る事だと推測しております。
中国から球磨に来られた方々、いえ戻って来られた方々こそ
古代の大陸にもいらした 倭人 と呼ばれた人達だったのだろう・・と
ど素人の独り言・・
その大陸にて倭人と呼ばれた人達と春秋時代の呉はおそらく深く繋がっている・・
それを・・「あの国」は隠したいのでは・・
さらにど素人の独り言は続き・・・
中国 ⇒ 球磨 ⇒ 古代朝鮮半島 ⇒ ・・・・
この事を、戦後の九州北部の学者様方は
完全に無視をされているような気がします。
それは、この方々が朝鮮半島の研究者の方々と共同研究をなさっていらっしゃるからではないのか・・?
ど素人の独り言でした・・・
ただ・・先のど素人の独り言は「あのマーチン」と何か関係しているような気がします・・
いったい何を知っていたのか・・・?
・・・・ (--〆)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回は
1.昭和13年5月20日 マーチンが球磨上空へ・・!
2.大量に出土していた刻目突帯文土器
と言った内容を書かせて頂きました。
何だか・・こういう事を書くと、
直ぐに陰●論とかフリー●●●●とか言われる方が出てきそうなので・・・
最後に(p_-) 私の周りでザワザワしている曾祖父をはじめとするご先祖様方のお言葉を代弁致します<m(__)m>
静まれ!
そぎゃんと関係なか!
ここは 倭国の祈りの地タイ !
・・・・😊 だそうです。
弓を持って曾じいちゃんが出てきそうなので・・この辺りで <m(__)m>
最後までご覧頂きありがとうございました。
今回書かせて頂いた事も伏線の一つとして、次回は必ず検証に入ります(p_-)
<m(__)m>
台風も近づいており
新型コロナウィルス感染も拡大しておりますが
皆様、くれぐれもご安全に
お身体十分にお気を付けになられてお過ごし下さい。
皆様 だんだんなぁ~😊
球磨の地より ひろっぷでした。
次回『㉘保存版(番外編)元気の秘密と球磨の三善、久米の聖観音菩薩様』に続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12691728187.html