前回のブログ『㉗保存版(後編-2)国内初、空から攻撃を受けた球磨と刻目突帯文土器

より続きます。

 

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
元気をなくしてしまったこの郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら

ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 
新型コロナウィルス(武漢ウィルス)の変異株が日本国内、世界中で猛威をふるっていますが
新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申し上げます

 

感染された方々が一日も早くお元気になられますように

さらに、この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

 

 

この時期としては稀な、前線が停滞しています。

 

私の住む、球磨郡あさぎり町では、8月11日の早朝から強い雨が降り始め、同日18:00に避難所が開設され、高齢者等避難が発令、今も続いています。

 

 

全国各地で豪雨

 

 

大雨は本当に 嫌です・・・

嫌でも自然の脅威と向き合う必要がある・・・

命を守る行動を心がける事が大切

 

浸水の被害も出ているようですが

大雨の特別警報が発表された地域の方々をはじめ

皆様、どうかご安全にお過ごしになられて下さい。

 

テレビの映像を見ながら、心がとても痛くなりました

 

どうか どうか ご安全に

 

 

私も、十分に気を付けます。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今回も長くなりましたので、音楽と共にお付き合い下さい<m(__)m>

 

秋山裕和氏 曲集

私は・・色々考え事をする時などに聞いております。

 

 



1.元気の秘密・・

 

お盆ですね

 

お寺様はお忙しくて、家には11日にお出でになり、お経をあげて下さいました。

 

仏壇には、季節の果物や落雁等をお供えして、ご先祖様をお迎えいたしました。

 

昨日は御煮しめを作って、お供えを致しました。

祖母は、お盆に盆鱈を作っていましたが、私は今まで作った事が無いので😅・・

大切な風習ですから、チャレンジしてみよう!と思います。

 

お盆だけではなくて・・

私は、毎日、朝夕と仏壇にお参りしながら、

いつも、祖父母やご先祖様を身近に感じています。

この世に生を受けた事はご先祖様方のお陰です。

感謝の心をお伝えしています。

 

夕方は、神棚、仏壇、そして家にお祀りさせて頂いている観音様に手を合わせて

今日も、一日、無事に幸せに過ごさせて頂きました

お守り頂きありがとうございます

と感謝の心をお伝えしています。

 

 

私は、御仏飯(おぶっぱん)をお供えしたら、しばらくするとお下げして、

必ず、ありがたく頂くようにしています😊

 

 

家族3人揃って食事をする時は、お茶碗に少しづつ小分けして、

その上にご飯をよそって食べています。

 

ほぼ毎日頂くのは私ですが・・

心臓病や喘息など、持病は持っていますが、球磨に戻って、御仏飯(おぶっぱん)を頂くようになってから風邪をひいて熱を出した事は殆どありません。

 

不思議ですね😊

 

 

椎葉のおじ(父の従兄)、御年92歳は、農業は引退されましたが、家庭菜園を作ったり

(といっても出荷出来るくらい沢山作っていますが)

お家のリフォームを自分で行ったり、凄く元気に過ごされています😊

集落でも超有名人

 

何よりも凄いのは、椎葉のおじは、毎朝、ベッドの下に足をかけて、腹筋を120回!

日課です\(◎o◎)/!

 

 

この椎葉のおじ(p_-)

毎朝、神様にお供えした御神水をお下げして、コップに移して頂いております。

 

お供えした御神水はありがたく頂くものだ😊」とおじは言います。

 

おじさんが、元気なのは御神水のお陰!

 

と言っております。

 

 

 

さすが・・・・

私の祖母の姉が3歳で養女に入って継いだ椎葉家に

婿養子に入られた、椎葉のおじのお父さんは、

ご実家は代々宮司家を務める本姓大神氏の尾方家。

 

椎葉のおじの奧さんは、その尾方家から嫁いで来られて・・二人は、いとこ同士。

椎葉のおじの奧さんのお兄さんは、国宝青井阿蘇神社様の宮司をお務めになられた御方。

 

お供えした御神水はありがたく頂くものだ😊」

この風習?は、代々継承されている事なのかなぁ~🙄

と、椎葉のおじの元気の秘密を知る?私なのです😊

 

 

何事も感謝

感謝の心を持って

ありがたく頂く

大切な事だと思います😊



 

 6月初旬に種を蒔いた朝顔が綺麗に咲きました😊

 

 

 

 

 

季節の花を眺めると心が癒されます。

 

プランターに腐葉土を入れて種を蒔いたのですが

余った種が可哀そうなので、家の敷地内にある家庭菜園横のツツジの木の根元に、蒔いたのです・・・

そうしたら・・プランターの朝顔よりも、凄く成長が早くて、どんどん大きくなり、地植えの方が花が沢山咲いているのです。\(◎o◎)/!

 

面白いですね😊

 

 

朝顔の種を蒔いた同じ時期に、お隣からまだ小さかったコスモスを頂いて、こちらも家庭菜園の近くに植えてみたのですが、順調に大きくなりました😊

 

 

他の場所にも沢山植えたので、今年の秋は家でコスモスが楽しめます😊

 

後ろの草が気になりますが・・暑くて草むしりは・・トホホ (^▽^;)


 

 

 

2.次回以降に・・の続き 球磨の三善

 

最近のブログでは「次回以降に」と書いた後、触れていない事が多々ありますので

今回はその中から球磨の三善について書かせて頂きます。

※後編の続きを早く書かなければ!と思うのですが、何故か?「この事を先に・・」と考える事が次々と登場しまして・・申し訳ございません。

 

ただ・・この事も何かお導き頂いている・・と思う事に気が付きました。

お付き合い下さい<m(__)m>

 

 

ブログ『(再投稿)⑱記紀に描かれた約2000年前』で触れた三善氏

 

球磨の三善の地名・・・

 

 

上記ブログにて「詳しくは次回以降に <m(__)m> 」と書きましたが、

今回 ご説明させて頂きます。

 

 

平安時代から平河氏が所領していた領地

鎌倉時代に入り、再編成された 元王家領 球磨御領 内の 永吉庄は

永吉になるまでは
三善と 呼ばれていました

 

 

 

角川地名大辞典 永吉庄より

 

 

詳細は上記サイト様をご覧下さい<m(__)m>

私は、三善地名に関する記述のみを抜粋させて頂きます。

 

弘安6年7月3日の関東下知状案(平河文書/県史料中世3)によると,

 

広元(大江)の預所補任は建久3年8月であり,その時の下文には

「肥後国球磨庄安富領内三善并西村預所職事云々」

「永吉〈于時三善〉并西村可為預(衍カ)預職云々」とあったと見え,

 

当荘は三善とも呼称されていたことが知られる

 

※補足 建久3年 = 1192年

 

 

三善・・・三善と言えば三善氏・・・

 

 

三善氏は二系統あった・・という事を知りました。

 

 

 

三善氏(みよしし)は、日本の姓氏の1つ。元は渡来人系の一族であるが、実際には百済系の一族と漢族系の一族の2系統が存在する

 

ただし、後世において2つの系統が結び付けられているものがある。

 

百済系三善氏

『新撰姓氏録』によれば、元は百済の速古大王の末裔で錦部首、後に錦部連を名乗った。

延暦年間の桓武天皇後宮に、錦部姉継・同弟姉という女官がいた。

同24年(805年)頃にその一族が三善宿禰を授けられた。

 

醍醐天皇の時代に三善清行が大学頭・文章博士を務めて参議まで至り、延喜3年(903年)頃には姓を宿禰から朝臣に改められた。

 

子として文章博士文江や式部少輔文明、僧侶の浄蔵・日蔵が知られるが、文明の子・道統が文章博士になったのを最後に歴史から姿を消す。

 

 

漢族系三善氏

『類聚符宣抄』によれば、元は漢の東海王の末裔であった波能志(はのし)の子孫で錦部村首、後に錦宿禰を名乗った。

 

貞元2年(977年)頃に三善朝臣の姓が授けられ、その1人であった三善茂明が主税頭兼算博士に就任し、その子孫は代々算博士を継いだ。

茂明の孫の三善為長は、越中国出身の門人射水為康を養子に迎えた。

 

三善為康は算道・紀伝道に通じた学者として多くの著作を残している。

その子孫である三善長衡以後、代々西園寺家家司を務めた

地下官人の今小路家はその子孫とされる。

 

また、鎌倉幕府の初代問注所執事となった三善康信もこの一族とされ、子孫として町野氏・太田氏・飯尾氏・布施氏らが挙げられる。彼らは鎌倉幕府引付衆あるいは室町幕府奉行衆として活躍した。

 

以上 ウィキペディアより抜粋致しました。

 

 

 

球磨の「肥後国球磨庄安富領内三善并西村預所職事云々」の三善地名が

百済系三善氏、漢族系三善氏に関わる地名なのかは、私には今は解りません・・・

 

 

 

百済系三善氏

醍醐天皇の時代に三善清行が大学頭・文章博士を務めて参議まで至り、延喜3年(903年)頃には姓を宿禰から朝臣に改められた。

 

 

三善清行 この方は・・・

 

 

ウィキペディアより抜粋致します

 

 

陰陽天文に明るく、昌泰4年(901年)は讖緯説による辛酉革命の年に当たると指摘し、「延喜」への改元を提唱して革命勘文・辛酉改元の端緒を開く。

 

その後も、延喜4年(904年)従四位下、延喜5年(905年)式部権大輔、延喜14年(914年)式部大輔、延喜15年(915年)従四位上と文人として昇進を続ける。

 

この間、延喜5年(905年)より藤原時平らとともに『延喜格式』の編纂に参加したほか、延喜14年(914年)朝廷の求めに応じて『意見封事十二箇条』を上奏し、備中介としての経験を踏まえて、崩れつつある律令制の実態を述べ、主に地方政治と官人・学生処遇の改善を求めたが、もはや朝廷に国政改革の意志はなく、意見の大部分は採用されなかった。

延喜17年(917年)参議兼宮内卿に任ぜられて公卿に列した。延喜18年(918年)12月7日卒去。享年72。最終官位は参議宮内卿従四位上。

 

三善清行公

父母    父:三善氏吉、母:佐伯氏娘

 

 

以上 ウィキペディアより抜粋致しました。

 

 

陰陽天文に明るく、昌泰4年(901年)は讖緯説による辛酉革命の年に当たると指摘し、「延喜」への改元を提唱して革命勘文・辛酉改元の端緒を開く

 

 

 

 

革命勘文

 

 

革命勘文(かくめいかんもん)は、干支が辛酉である年に発生すると信じられていた革命を克服するために、日本の大和朝廷より大学寮の諸博士に対して、改元の是非を勘申させた意見書(勘文)である。後には甲子の年にも行われた。

 

概要
干支が辛酉である年は、讖緯説及び暦道で重視され、中国の『易経』の革卦ではこれは革命の年であるとされた。

 

すなわち「天命の革(かわ)る時で、社会に大きな変化が現れる時である」と説かれた。

 

 

日本
日本において、昌泰4年(901年)は辛酉の年で、三善清行は2月22日(3月15日)に

『紀伝勘文』を上書し、改元によって天道に応じ得る証拠4箇条を列挙し、改元のあるべきことを論述した。

この中で
三善は『易緯』に

「辛酉為二革命一、甲子為二革令一」(一、二は返り点)とあり、『詩緯』に「戊午革運、辛酉革命、甲子革令」とあるのを引用した。

この建議によって、この年7月15日(8月31日)、「延喜」と改元された。

これを機に、大和朝廷は辛酉の年に紀伝道、更に明経道や算道、陰陽道の諸博士に対して改元の是非を勘文として提出させた。更に後世には辛酉に次ぐ革命の年とされた甲子の年にも勘文が行われた。

 

中略・・・

明治維新の後はこの慣例は廃された。

 

 

神武天皇即位紀元について
三善清行は革命勘文の中で神武天皇の即位が辛酉の年であったことにも言及しているが、

この年は周の僖王の3年に当たるとし、斉の桓公が初めて覇者になった年だと述べている。

 

これは現代の歴史学では紀元前679年に当たり、神武天皇即位紀元とは19年の差があるが、当時の計算を示す史料として注目される。

 

 

以上ウィキペディアより抜粋致しました。

 

 

日本において、昌泰4年(901年)は辛酉の年で、三善清行は2月22日(3月15日)に

『紀伝勘文』を上書し、改元によって天道に応じ得る証拠4箇条を列挙し、改元のあるべきことを論述した。

 

 

三善清行公

この方の論述が平安時代から江戸時代まで

「天命の革(かわ)る時で、社会に大きな変化が現れる時」から日本国を安泰に導く改元(革年改元)の基となっていたのですね・・

 

 

参考 改元 ウィキペディア

 

 

 

革年改元

三革を区切りと見なして行われる革年改元(三革とは、革令〈甲子の年〉・革運〈戊辰の年〉・

革命〈辛酉の年〉)に分類される。

 

 

 

 

不勉強な私は、こういった事は全く存じ上げておりませんでした。

球磨の三善から、三善氏を勉強して初めて知りました。

 

そして・・強く感じた事があります。

三善清行は革命勘文の中で神武天皇の即位が辛酉の年であったことにも言及している

 

 

 

神武天皇即位紀元

日本国が安泰であり続ける為には、神武天皇さまのご即位紀元はとても大切な事だと

強く感じます。

 

 

神武天皇さまのご即位紀元は

考古学的なお話とは切り離して考えなければならない・・!

強く感じます。

 

 

日本国が安泰であり続ける為には

日本国にとって とても大切な事!です

 

強く感じます。

 

 

お盆だからかな・・・(不思議な独り言でした)

 

 

 

3.三善氏と佐伯氏の関係・・

 

所で・・・

 

三善清行公

父母    父:三善氏吉、母:佐伯氏娘

 

 

お母様は 佐伯氏の娘

あっ・・!!!

 

 

ブログ『再々投稿 ⑰橘氏の母系には大伴金村公と焼失しなかった国紀』で

私は佐伯氏について触れていました。

 

 

 

 

大伴氏

摂津国住吉郡を本拠地とした天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる

天神系氏族で、佐伯氏とは同族関係とされる

 

 

祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。

 

 

記録
『古事記』の天孫降臨(ニニギの降臨)の場面では、天忍日命・天津久米命(久米直の祖)の2人が、背に強固な靫を負い、腰に頭椎の大刀を佩き、手に天のはじ弓を持ち、 天の真鹿児矢をたばさんで、天孫の先導をしたとする。

 

 

大伴氏と佐伯氏は同族関係・・・

球磨郡久米郷は古代久米族の元祖的本拠地と言われる場所・・・

 

三善清行公

父母    父:三善氏吉、母:佐伯氏娘

 

 

私が気になる事は どうして・・

こんなにも繋がってくるのだろう・・・・

 

がしかし・・先にも書きましたように

球磨の「肥後国球磨庄安富領内三善并西村預所職事云々」の三善地名が
百済系三善氏、漢族系三善氏に関わる地名なのかは、私には今は解りません・・・

 

ただ、鎌倉時代の鎌倉幕府の初代問注所執事となった三善康信、この方の系は漢族系三善氏になられるようですが、この方々の系は三善清行公の後裔を自称なさっていらしたようで・・

 

平安時代末期「三善」と呼ばれた地は、その当時 王家領 球磨御領であった

という事は、忘れてはならない と私は思います。

 

 

一つ気になる事があります

 

 

5.球磨郡久米郷に奉納された聖観音菩薩様

 

 

三善清行公

日本において、昌泰4年(901年)は辛酉の年・・

建議によって、この年7月15日(8月31日)、「延喜」と改元された

 

延喜5年(905年)より藤原時平らとともに『延喜格式』の編纂に参加したほか・・・

 

 

三善清行公のお話に延喜年間の事が多数記されている事により

気が付いた事があります。

 

 

旧肥後国球磨郡久米郷の久米奥野村の 中山観音堂様 です。

 

最近の研究により中山観音堂は、

久米奥野村中山にご鎮座であった正八幡宮の

別当寺中山寺跡であった事が解ってきました。

 

 

場所は、私が住んでいる旧久米郷宮原村宮麓に隣接する奥野村で宮麓集落からはとても近い場所となります。

 

中山観音堂の聖観音菩薩様は

9世紀末から10世紀初頭に製作された事が解っています。

 

 

最近の研究で仏師は京都の有名な●●様ではなかろうか?と言われています。

※●●様 実は・・昨年、調査にお伺いした際にお名前を聞いたのですが、書類を見た所

メモを取っていませんでした\(◎o◎)/!(*_*) トホホ・・

今度、あらためてお聞き致します<m(__)m>

 

9世紀末から10世紀初頭に製作 という事が、凄く気になっていたのです・・・

 

 

中山観音堂様のお話を今までご紹介していなかった事には訳がありまして・・

とても不思議な話を叔父(父の弟)に聞いていたからです・・(詳しくは・・)

 

ご紹介を今まで躊躇していたのですが、

 

中山観音堂の御本尊様 は

慈悲の御心であらゆる人々の苦しみを救う 聖観音菩薩様

でいらっしゃいますので

 

今、国難の中、困難な状況にある多くの方々のお目に触れて頂く事に関して中山観音堂の聖観音菩薩様はお喜びになられるのではないか!?

 

と考えました。

 

 

以下写真は

昨年の春の彼岸の御開帳の際にお参りにおうかがいした時に撮影致しました<m(__)m>

 

 

中山観音堂 駐車場 案内板

 

 

 

 

 

参道  とても素敵な場所です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

観音堂正面から撮影

 

 

 

 

 

 

御本尊 聖観音菩薩様 像高 153㎝

 

慈悲の御心であらゆる人々の苦しみを救う 聖観音菩薩様

 

 

 

 

 

 

四天王像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

四天王像様は平安時代末期12世紀製作と推測されています。

 

 

球磨郡は 平安時代末期12世紀(1100年代)と言えば、

 

王家領 球磨御領 と呼ばれていた時期となります。

 

 

しかし、

ご本尊 聖観音菩薩様 像高 153㎝

製作時期は9世紀末から10世紀初頭

 

つまり西暦800年代の末から900年代の初頭・・・

 

 

私のようなど素人でも解りますが・・

御奉納された御方は余程の御力をお持ちでいらしたのでしょう。

 

 

当時の球磨の事は、全く歴史に残っていないのです・・

記録が無いのです・・

 

とても不思議な事ですが・・

それが、今の現実です・・・

 

しかし、各地の奉納されたご仏像の体内銘文により

記録の代わりに、真実が見え始めています・・

 

 

 

 

あらためて 

慈悲の御心であらゆる人々の苦しみを救う 聖観音菩薩様 

をご覧下さい <m(__)m>

 

 

 

 

 

 

新型コロナウィルスの感染拡大

多発する自然災害

 

国内における多くの方々の苦しみをお救い下さい

 

 

 

 

球磨郡久米郷は球磨川の南岸地域にあたりますが、

正確にはこの地域こそ

球磨の日向し つまり東の地にあたります。

 

 

私は・・もしかしたら、御本尊様の政策時期は延喜年間ではなかったのか?

と、球磨川北岸に残る三善地名を勉強した事によって、このような一つの推測が浮かびました

 

 

 

 

 

今回は 番外編と題して

1.元気の秘密・・

2.次回以降に・・の続き 球磨の三善

3.三善氏と佐伯氏の関係・・

5.球磨郡久米郷に奉納された聖観音菩薩様

 

というお話を書かせて頂きました。

 

 

中世の事をしっかりとご紹介していなければ、古代のお話に繋げる事が出来ない・・

そう強く感じ、今回のブログ内容となりました<m(__)m>

 

 

 

最後までご覧頂き ありがとうございました。

 

長引く豪雨、

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)感染症の感染拡大

皆様、十分にお気を付けになられて下さい。

 

ご安全に !

 

 

 

だんだんなぁ~

 

球磨の地より ひろっぷでした😊

 

次回『㉙保存版(番外編)魂の記憶』 に続きます。