前回のブログ『再投稿 ㉚後編-3 ツルマメと最古様式の銅剣と・・』より続きます

 

 

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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
令和二年七月の豪雨災害により、元気をなくしてしまったこの郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

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新型コロナウィルス(武漢ウィルス)の変異株が日本国内、世界中で猛威をふるっていますが
新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申し上げます

 

感染された方々が一日も早くお元気になられますように

さらに、この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

 

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9月に入り、毎年恒例になった幼なじみの農園ビニールハウスでのキュウリ収穫のお手伝いが始まりました😊

 

長雨の影響で、若干、収穫時期が遅れましたが、しかし

今年も見事にキュウリが育っています😊

 

朝 6:30からの作業です。

関東地方はだいぶ涼しくなったようですが、こちらは、連日最高気温が30℃を超える日が続いていまして・・ハウスの中で汗だくになりながら、収穫作業のお手伝いをしております。

でも、収穫が終わった後、帰宅してすぐにシャワーを浴びると、凄く気持ち良いのです。

今日も、良い汗かいたなぁ~と清々しい気持ちになります😊

 

山々の麓のビニールハウスで

自然の恵みに感謝しながらの収穫作業

 

収穫したキュウリは関西や関東に運ばれているようです。

皆様 (p_-) 「熊本県産のきゅうり」を見かけられたら、その中に・・・

私が感謝しながらチョキンと切って収穫したキュウリさんがあるかもしれません・・😊

 

キュウリの収穫以外にも最近所用が重なって、皆様方のブログを拝見出来ないでいました。

すみません <m(__)m>

 

これから、2日程は時間が取れましたので、じっくりと、ブログを拝見させて頂きます。

(^o^)/ 😊

 

 

自然・・山、川、海、大地・・

そこに付けられた球磨の河川名で最近気が付いた事があります。

 

前回の続きの前に 特別編 と題して

今回は 球磨の小纚川と対馬国 という内容を書かせて頂きます。

 

音楽と共にお付き合い下さい<m(__)m>

最近は負けんバイ!の気持ちで マタマタ頻繁にこの曲を聞いています😊

 

Two Steps From Hell - Victory

 

 

 

 

 

1..球磨の小纚川

 

主人が、宮崎県えびの市に通勤する際に、近道として利用している道路と

並行するように流れている小纚川。

 

小纚川 は こさで川 と読みます

 

実は、主人が小纚川(こさで川)周辺の風景が大好きで、

「あの川、ナントいう川??」

と聞くので、調べてみたら・・

小纚川(こさで川)と言う、とても難しい漢字の川・・

という事を知りました。

 

小纚川(こさで川)は

球磨郡と宮崎県えびの市との県境の山を水源として

球磨郡錦町西(旧西村)と人吉市上田代町、下田代町の間を通り、球磨川に合流する

球磨川の支流の一つです。

 

 

 

以前、ご紹介した、球磨の昔話

 「お龍っつあん」ご一行が水稲を古代の人達に教えた・・という伝承が残る

「田代村」を流れる川が「小纚川(こさで川)」です。

 

 

 

 

昔々、ず~っと遠いその昔、

人が未ぁだ米作りをば知らんじゃった

その昔の事じゃったげな。

お龍っつあんな此の田代村の人達に

稲作りば教えぎゃあ来ないたとげな。

いつの時代の昔話なんか~い!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

 

の・・あの話です(p_-)

 

 

 

 

凄く気になって、地図を見ていたら、

確かに!「小纚川(こさで川)」の近くに 龍神社様 がご鎮座でした😊

 

 

 

おおおおぉぉぉぉ・・と感動しました

 

 

小纚川(こさで川)と球磨川の合流地点。

実は、川辺川も球磨川と合流する・・

 

三つの川の合流地点でした!

 

 

 

そして・・この合流地点のすぐ横が京峰

 

あの・・装飾の数々で有名な京が峰古墳群と

天下神社(アモイ神社)ご鎮座地であります(p_-)

 

 

 

 

 

 

ユギ(矢を入れて背負う道具)

 

謎の装飾・・・

 

 

 

 

お龍っつあん ご一行と・・京ヶ峰古墳群は・・

小纚川(こさで川)で繋がっていたのだ・・

と言う事に初めて気が付きました・・

 

天下神社・・アモイ・アモリ 神社・・・

 

うぅぅ・・ん ・・・

と考えながら、ふと

小纚川(こさで川)の「纚(さで)」ってどう言う意味だろう??

と考えたのです・・

 

 

2.小纚川の「纚」(さで)

※ 「纚(さで)」とは

 

 

漢字の「纚」

 

 

 

音読み シ ・ リ

意味は・・・

①束ねた髪を包む絹布。
②続く。連なる。
③縄。また、つなぐ。

 

 

束ねた髪を包む絹布

???

 

 

この段階で気が付いていたのですが

纚 の付く 地名、河川名等を調べた所

全国でただ一つ!

小纚川(こさで川) のみ でした!

\(◎o◎)/!

 

 

非常に興味が増し

さらに調べました (p_-)

 

 

すると・・・

國學院大學 古事記学センター サイト様

「纚」の意が詳しく記されている事に気が付きました!

 

 

 

國學院大學 古事記学センター サイト様

神名データベース より

天之狭手依比売

 

勝手ながら抜粋して転記させて頂きます<m(__)m>

 

 

天之狭手依比売 (あめのさでよりひめ)

 

別名 津島

 

伊耶那岐・伊耶那美二神の国生みによって誕生した神。

津島(対馬)の亦名として見える神。

 

名義については、「天之」は天上界(高天原)と関係を持つとされたものに冠する美称。

 

「狭手」は和名抄に魚取具として「纚(左手)」が見え、

万(1・三八、9・一七一七)に「小網(左提)」とあり、魚を獲る網のこととされる。

 

「天上界と関係のある立派な、叉手網に霊が依り憑く女性」と解する説、対馬の形が叉手網に似ていることから名付けられたとする説がある。

 

以上 國學院大學 古事記学センター サイト様
神名データベース 天之狭手依比売  より抜粋させて頂きました

 

 

 

「狭手」は和名抄に魚取具として「纚(左手)」が見え、

万(1・三八、9・一七一七)に「小網(左提)」とあり、魚を獲る網のこととされる。

 

天上界と関係のある立派な、叉手網

 

 

魚取具

魚を獲る網・・「纚(左手)」 さで

 

あっ・・ああああ~っ!!

繋がった・・・!!

震えがきてしまいました・・

 

五木村(斎村) の遺跡・・

繋がってしまいました・・・・!

 

 

 

 

五木村 頭地下手遺跡(頭地=とうじ)

 

頭地下手遺跡では縄文後期前半期の石錘が1,351 点出土し、

九州島で最多数の出土数である

種類は礫石錘の他、切目石錘(6 点)、有溝石錘

 

石錘の重量の統計処理から 210g を境として a類、b 類の 2 類に分かれる。

このうち a 類に漁網錘が含まれる可能性が高い

b 類は編物用の錘具と考えられる。

 


頭地下手遺跡はチャートの石材原産地及び石器製作址であり

漁網の材料となる大麻繊維の生産址でもあると推論されている。


沿海部と山間部の両集団はそれぞれの自律性を保持して、各個に特有の産品を移出入していた。

頭地下手遺跡を形成していた縄文人は
九州全域に点在した複数の遠隔地域と物流網を形成し、各地域の産品を得ていた。

 頭地下手遺跡は九州全域の複数地域と物流網を形成し、各地域の産品を資源として得ていた。この物流網は出土した鐘ヶ江式等の外来系土器が示すように、反復性、継続性をそなえ、さらに汎例島的な石器形成、土器組成に関わる情報網としても機能した複合構造を採っている。

頭地下手遺跡は、異なる地域文化と共存するしくみが縄文時代後期に存在していたこと、を実証する遺跡である。


以上 五木村 頭地下手遺跡(頭地=とうじ) 熊本県文化財調査報告書 より 
抜粋させて頂きました。 

 

 

※九州島で最多数の出土数を誇る 石錘

 

※石錘(せきすい)は、漁具として用いられた石器の一種。
平たい石の両方端に紐掛部として凹部を作り出す。
石材の凹部や溝部に漁網や釣り糸を結びつけ、錘(おもり)として網漁に使用した。

 

※魚取具
魚を獲る網・・「纚(左手)」 さで

 

 

 

そして・・ 先にもご紹介したように

小纚川(こさで川)と五木村 頭地下手遺跡近くを流れる川辺川は球磨川に同じ地点で合流しています・・!

 

 

 

繋がっています・・

全て・・繋がっている!

と 強く感じます!

 

 

天之狭手依比売 (あめのさでよりひめ)

津島(対馬)の亦名として見える神

「狭手」は和名抄に魚取具として「纚(左手)」が見え、
万(1・三八、9・一七一七)に「小網(左提)」とあり、魚を獲る網のこととされる。

 

球磨の小纚川(こさで川)

五木村 頭地下手遺跡近くを流れる川辺川

 

五木村(斎村) 頭地下手遺跡は

石材の凹部や溝部に漁網や釣り糸を結びつけ、錘(おもり)として

網漁に使用した石錘 九州島で最多数の出土数を誇る!

縄文後期前半期の遺跡!

 

沿岸部で使用する漁具の

縄文時代九州島最大の生産地 斎木(五木)

 

 

球磨と津島(対馬)が繋がりました!

おそらく・・間違いなく・・

古代の交流があった!

と私は推測致しました。

 

ただ・・小纚川(こさで川)が本当に魚を獲る網の「纚(さで)」の意に繋がるのか・・!?

さらに、調べました。

 

すると・・やはり繋がっていたようです!

 

九州の渓流 サイト様が 地元の伝承をご紹介なさっていらっしゃいました。

 

 

 

 

小纚(こさで)・・・とは珍しい名前ですが,

地元の方に伺うと,掬い取る漁具の一つである小網(さで)に由来するようです。昔の生活感の残る名称です。

 

と 九州の渓流 サイト様が ご紹介下さっています

 

 

やはり

小纚川(こさで川)は魚を獲る網の「纚(さで)」の意に由来していました!

 

 

先にも書いたように

纚 の付く 地名、河川名等を調べた所

全国でただ一つ!

小纚川(こさで川) のみ!

 

 

 

3.球磨と津島(対馬)・・

 

前回のブログでも書いたように、球磨川の水は海に出て海流により対馬に繋がっています

 

 

球磨川の水は海流に乗って対馬に・・

 

球磨村消防団の看板は豪雨により激流となった球磨川を下り
海流に乗って 対馬最北端の海岸まで 流れていきました

 

私は上記ブログを書いた当時、以下のような事を書いていました。

 

 

ただ・・・この時  悲しみの中で・・

球磨川は 教えてくれた

と私は感じました。

 

球磨川を下り

海流に乗れば 対馬最北端の海岸まで到達する事を

球磨川は 教えてくれた・・・

と私は感じました・・・

 

海流に乗れば 古代の球磨人は

朝鮮半島に さほど苦労する事なく

行けたのでは ないのでしょうか・・・

 

おそらく 対馬付近で一旦停留して

そこから 半島に渡ったのでは ないのかな・・・

と 考えております・・

 

と書いていました・・・

 

 

今回も 球磨川が小纚川(こさで川)が川辺川が・・

球磨の美しい河川が、私に教えてくれた・・

そう強く 感じました

 

 

 

対馬と球磨 ・・・肥人之書

肥人之書(こまひとのて)は神代の文字・・

 

 

 

 

日本書紀には「肥人肥書(*)」を有すとある。当時、今の漢字すなわち我々祖先の持っていたものと異なった古代の文字が九州地 方に存在していたことは明らかである。 

(*古代の肥後国球磨郡(球磨川流域)に住んでいた人(肥人:くまびと、こまひと)が 

使っていた文字とされることから肥人書(くまびとのて)とも呼ばれる。)

以上 経済野話(現代訳・抄訳)②「国字の経済的改良」 より抜粋・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

平田篤胤は『神字日文伝上』で、『釈日本紀』に「或乃川等字明見之」と述べられていた

「肥人之字」について、阿比留草文字に「乃川」に見える文字が存在することを根拠として


「神字の草書を肥國人の書るなること疑なく」と述べ、阿比留草文字こそが「肥人の字」であるとした。

 

いわゆる神代文字の中でも、神道界に強い影響を与えた文字の一つ

 

伊勢神宮に奉納された神代文字による奉納文の中では、最も多く用いられている。

 

対馬国の卜部氏・阿比留氏に伝わったといわれる文字「阿比留文字」と共に
「阿比留草文字(肥人書)」は阿比留家の文書に対馬文字と共に書かれている。

 

 

 

伊勢神宮に奉納された神代文字による奉納文の中では、最も多く用いられている。

鶴岡八幡宮のほかに鹿島神宮、大神神社、法隆寺、出雲大社など各地の寺社に伝えられるとしている。

『美社神字録』や、『かむことのよそあり』に採録される「大祓詞」では、阿波文字との混ぜ書きが用いられている。

 

 

「阿比留草文字(肥人書)」は神代文字の一つ

 

神代文字とは ウィキペディアより抜粋

神代文字とは漢字伝来以前に使用されたものであるという主張とともに紹介された多様な文字、文字様のものを指して用いられる名称で、神話や古史古伝に深く結びつき神代に使用された文字であると主張されているものと、後代になって神代文字の一種とみなされるようになったものとがある。

 

※神代文字とは漢字伝来以前に使用されたものであるという主張とともに・・・


※神話や古史古伝に深く結びつき神代に使用された文字であると主張されているもの・

 

 

肥人之書 は 対馬国 に伝わっていた・・

神代文字・・

 

神代・・

 

 

沿岸部で使用する漁具の縄文時代の九州島最大の生産地 斎木(五木)

 

五木村 頭地下手遺跡は 

縄文後期前半期の遺跡!

今から 約4000年前・・・

 

そう言えば・・・

小纚川 は 以前ご紹介した「高柱川(たかはし)」とも とても近いのですよね・・・

 

 

高柱・・・小纚・・・・

 

 

 

 

天上界と関係のある立派な、叉手網・・・

 

 

 

 

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今回は特別編 と題して

おそらく、とてつもない重要な事に気が付いた と私は感じる

お話を書かせて頂きました。

 

1..球磨の小纚川

2.小纚川の「纚」(さで).

3.球磨と津島(対馬)・・

 

と いう内容をご紹介させて頂きました<m(__)m>

 

 

 

所で・・・前回ご紹介した

球磨郡多良木町大久保台地遺跡群 槍掛松遺跡から出土した

我が国出土の舶載青銅製細形銅剣の中では最古様式とみる事が出来る

細形銅剣

 

 

BⅠa型に属する・・

 

BⅠa型とは何かな・・? と思い調べた所

 

朝鮮半島でも最古様式の銅剣のグループで

今から約2300年前に製造された銅剣グループでした・・

 

九州では 福岡県春日の須玖岡本遺跡からもBⅠa型の銅剣が出土しているようです・・

 

 

 

主人がずっと気になっていた風景・・

川の名前を調べた結果 様々な事に繋がっている事が

今回解りました。

 

おそらく・・・お導き頂いたのだろう・・

と感謝 致しております

😊

 

次回の後編の続きを書かせて頂く為のとても大切なお導きだったのだろう・・

と感謝 致しております

😊

 

 

皆様 最後までご覧頂き ありがとうございました。

まだまだ、武漢ウィルス(新型コロナウィルス)の変異株には油断出来ない状況が続いていますが、どうか、お身体十分にお気を付けになられてお過ごし下さい。

 

 

だんだんなぁ~

 

球磨の地より ひろっぷでした 😊

 

次回『番外編㉜球磨郡久米郷の秋(写真集?)と南北朝時代の事』 に続きます。