前回のブログ『㊲一歩前へ! くま川鉄道部分運行再開と球磨の紅葉』より続きます。
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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
令和二年七月の豪雨災害により、元気をなくしてしまったこの郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。
新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます
感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております
明るい道が見えて参りましたが
寒くなってまいりました。
油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って
出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊
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今回のタイトルは
上村麓城跡の紅葉と・・耳栓は日本列島を北上している!事・・
おやっ(p_-) マタマタ、ひろっぷ何か気が付いたなぁ~・・(p_-)
とお思いの方・・ そうです!また気が付きました(^o^)/
南九州の高度な文化を持った縄文時代の草創期の縄文人
喜界カルデラの大爆発によって全滅した・・と言われる人達・・
全滅などしていない(ー_ー)!!
という証明に気が付きました\(^o^)/
その前に・・
1.上村麓城跡の紅葉🍁
11月20日に球磨郡あさぎり町上(うえ)の麓城跡の紅葉を堪能して参りましたので
ご紹介させて頂きます(^'^)
上村麓城跡は、日本七大薬師様 谷水薬師堂から山道(遊歩道)を15分程登った球磨盆地中部から北部を見渡す事が出来る山の上にあります。
一昨年もこちらには伺ったのですが・・
今年は、テレビでの中継が行われた事もあり、ビックリ\(◎o◎)/!する程、多くの観光客の方々がお出でになられていました。
私が伺った20日以降も数日間、多くの観光客の方々が九州各地からお越しになられていたそうです😊
紅葉が
広大な城跡一面を覆う まるで天井のように見え
木漏れ日が紅葉を様々な色に変化させていました
スマホで撮影した写真や動画を組み合わせて
あまり上手ではありませんが、一つの動画に編集してYouTubeにアップしました(^▽^;)
遠くに住む、子供たちと、私を応援して下さる皆様方へ
感謝の気持ちを込めて作った動画です。
よろしければ ご覧下さい 😊😊
ご堪能して頂けましたでしょうか?
😊
谷水薬師様、上村麓城跡については、
後日、奈良時代以降の「中世のお話」をご紹介させて頂きます<m(__)m>
※縄文時代~弥生時代にかけての出土品が見つかる地域でもあります (p_-)
山を登る為、谷水薬師堂に竹で作った杖が沢山置いてあり、私も1本お借りして、山を登ったのですが・・登った時は、あまりの美しさに身体の事をすっかり忘れてしまっていたのですが・・
帰宅して、この数日間、PM2.5の影響も重なって
喘息が酷くて・・ちょっと無理したかなぁ・・🙄
でも、身体は少しだけきついのですが、素晴らしい景色を堪能して心が満たされているので、
満足しております😊
薬はしっかりと飲んでおりますので、大丈夫です!😊
ブログを書く元気も湧いて参りました😊
ブログを書く・・
そうです(p_-) いち早く皆様方にお伝えしたい!と考える事に
気が付きました\(^o^)/
順を追ってご説明致します (p_-)
<m(__)m>
ものすご~く長くなりましたので(^▽^;)・・
音楽と共にお付き合い下さい<m(__)m>
Fearless Motivation - A New Dawn | A New Beginning
2.アカホヤ(7300年前)下地層の遺跡
※アカホヤ=7300年前の喜界カルデラ爆発的噴火による火山灰
縄文時代の記述を見ると・・必ずセット?で書かれている事
それは・・例えばウィキペディアでも・・・
縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。
最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡で、
およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始された
と推測されている。
定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる。
植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。
中略‥
九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。
以上 ウィキペディアより抜粋致しました <m(__)m>
※最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡
※九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。
セット?ですね・・・
上記の
上野原遺跡とほぼ同時期の定住集落跡が遺跡が球磨盆地からも多数発見されています。
私は、過去ブログで何度も書いているように・・
全滅などしていないのでは!?
と考えてまいりました・・
上野原遺跡とほぼ同時期の球磨盆地内の遺跡
多くの遺跡の中から数例をご紹介します
以下の球磨郡内の遺跡群は
石器時代の遺跡が縄文時代草創期以降にも継承された
つまり・・繋がりが見える遺跡です
11万年以上前からの人の営みに繋がる遺物が出土した球磨盆地ですが
今回は縄文時代草創期から早期にかけてのお話をクローズアップしてご紹介致します。
※ポイント
縄文時代
草創期: 1万5000年前 - 1万1500年前
早期: 1万1500年前 - 7000年前
球磨郡山江村の狸谷遺跡
人吉市の白鳥平遺跡
球磨郡あさぎり町深田(旧深田村)の灰塚遺跡
球磨郡多良木町の大久保台地遺跡群
狸谷遺跡・白鳥平遺跡・灰塚遺跡は
全国遺跡総覧様 サイトより調査報告書をダウンロードしてご覧いただけます。
狸谷遺跡
白鳥平A遺跡
白鳥平B遺跡
灰塚遺跡
各、膨大な調査報告書より 少しだけですが抜粋して転記させて頂きます
狸谷遺跡
狸谷遺跡出土の石器の中で、最も多いのは、黒曜石・珪岩・安山岩である。
黒曜石は、人吉市桑ノ木津留と球磨村黒白で産出が確認されている。
また、鹿児島県大口市日東の産出地も近距離にある。
珪岩は、人吉盆地の北側の山地に岩脈があり、その山地を流れる河川や川辺川の扇状地の操層中にも転石があり、入手が容易である。また、安山岩も同様に入手が容易で、盆地南西に広がる山地の表層を成しており、河川には、多くの転石がみられる。
これらの石材の他、石器として利用されている砂岩・千枚岩・花闇岩(盆地東側の市房山周
辺)も球磨山地中にみられる。
このように、遺跡の周辺には、多種の石材の産出地が分布し、しかも本流である球磨川には、転石として、すべての種類の岩石が流入している
先土器時代では、ナイフ形石器文化に属する二つの石器文化が確認された。この二つの文化は、入戸火砕流(シラス)によって、明確に分離されており、その問の混入は考えられない。
縄文時代では、細石器を伴う隆起線文土器、早期の集落と多量の遺物が検出された。
特に、隆起線文土器は、熊本県下では初めての出土例であり、注目される。
また、早期の集落は、その景観を含めた状態で検出されており、当時の集落を考える上での重要な資料となろう。
縄文時代早期の遺構としては、
竪穴式住居跡8基、集石(石組炉)9基、石皿を配した配石土坑4基、土坑10基が、
それぞれ分布の傾向を異にして検出された。
これらの遺構群は、それぞれに特徴がみられる。
それは、居住を主なる目的とした遺構の北群と、食物調理関係の遺構による南群である。
これをもって、集落内で、居住と食物調理の場が、明確に区分されていた事実が確認されよう。
さらに、石組炉の炊き口部が、北西方向に設定されている事実は、風上が北方となる冬を中心とした季節に、この集落が営まれていた可能性を示しているともいえる。
この推定は、集落内の遺構の配置において、住居が調理場の北側にみられるという事実からも間接的に導き出されよう。
このような集落構成は、東側丘陵においても同様と考えられる。
したがって、東側丘陵の北側未発掘部分に竪穴式住居跡などの遺構があるものと想定できそうである。
白鳥平B遺跡調査報里の城遺跡告書より
平成3年度の調査で、白鳥平B遺跡において草創期に属する爪型文土器が検出された。
この時期の遺跡は、近年南九州でも出土例が増加している。
熊本県内では、狸谷遺跡、里の城遺跡で隆起線文土器が、また無田原遺跡、白烏平B遺跡で爪形文土器が検出されている。
※里の城遺跡 球磨郡多良木町
中でも白鳥平B遺跡では、同一層から爪形文土器と共伴する石器群がまとまって検出され、同時期の南九州地方を考える上で興味深い資料である。
また、白鳥平A遺跡及び同B遺跡では、縄文時代早期に属する遺物が多く出土している。
中でも両遺跡から検出された、早期に属する耳栓は、近年鹿児島県で出土例が増加している資料で、人吉・球磨地方での初出の資料である。
①狸谷遺跡では竪穴式住居跡が発見された。
②狸谷遺跡、里の城遺跡で隆起線文土器が検出された。
③白鳥平B遺跡において草創期に属する爪型文士器が検出された。
④白鳥平A遺跡及び同B遺跡早期に属する耳栓が出土・・
①~④の時代は縄文時代草創期から早期つまり
草創期: 1万5000年前 - 1万1500年前
早期: 1万1500年前 - 7000年前
の遺跡であります(p_-)
続けて 球磨郡あさぎり町深田(旧深田村)の灰塚遺跡については、
2019年6月に書いた 過去ブログでもご紹介させて頂きました。
熊本県教育委員会 2001 『灰塚遺跡2』熊本県文化財調査報告197 より
抜粋させて頂きます<m(__)m>
今回、 発掘調査報告書を刊行しました灰塚遺跡は球磨郡深田村に所在します。
球磨郡は県南に位置し、 悠久の流れを持つ球磨川はその文化を育んできました。
本書は平成5年度から9年度にかけて県営緊急畑地帯総合整備事業(須恵・深田地区)に伴って発掘調査を実地した報告書です。 調査の結果、 旧石器~近世の遺構・遺物が出土しました。今回報告するのは主に縄文時代の成果です。
約3万点を超える膨大な出土遺物の遺跡で、 特に彩色耳栓や異形土器・石器など、
当時の精神文化の充実を伺わせます。
今回の成果が学術のみならず、 県民の皆様をはじめ多くの方々に広く活用され、
埋蔵文化財に対する関心と御理解を深めていただく一助になれば幸いに存じます。
中略・・
灰塚遺跡の縄文時代早期包含層から出土した耳栓に、 赤色顔料と考え ら れる物質が塗彩されていた。
耳栓 は縄文時代後 ・晩期に盛行し赤色顔料が塗彩されたものが多いが、
縄文時代早期の耳栓としては、 鹿児島県 上野原遺跡出土の耳栓 と並んで貴重な資料である。
灰塚遺跡出土の耳栓に塗彩 されていたのはパイプ状ベンガラであることが判明した。
赤彩さ れた耳栓の類 例をあげる と鹿児島県国分市上野原遺跡 1)と福山町城ケ尾遺跡 2) しかなく、 南九州の縄文早期の特殊性と その広がり を示す好資料となった。
また耳栓は2点と も滑車状のタイプであるが 、 塗彩状況を観察すると片側の平坦面から中空の部分のみに ベンガラが塗彩されている。
ピアス式に耳に装着した場合、 外から見える部分にのみ赤色塗彩を施 し、 耳に はまる部分や外から見えない内側には塗彩されていない状況が伺える。
ベンガラが貴重であったとも考えられるし、 「見えると ころだけでよい」という装飾に対する縄文人の意識の一端とも受け取ることができる興 味深い資料である。
以上 熊本県教育委員会 2001 『灰塚遺跡2』熊本県文化財調査報告197 より
抜粋させて頂きました。
※約3万点を超える膨大な出土遺物の遺跡で、 特に彩色耳栓や異形土器・石器など、 当時の精神文化の充実を伺わせます。
⑤灰塚遺跡の縄文時代早期包含層から出土した耳栓に、 赤色顔料と考え ら れる物質が塗彩されていた。 ※パイプ状ベンガラ
⑥耳栓 は縄文時代後 ・晩期に盛行し赤色顔料が塗彩されたものが多い・・・
⑤・⑥に記されていた内容が如何に重要な事なのか・・
私は理解力に不足していました・・
アカホヤ(7300年前)以前の遺跡として
多良木町の大久保台地遺跡群もあります。
2020年の2月に書いたブログにて動画を付けて詳しくご紹介させて頂きました。
2021年3月に書いたブログ・・・
⑦球磨郡多良木町大久保台地遺跡群から出土した8000年前の石製(滑石) 人形
今から8000年前に滑石で造られた
日本でただ一つの出土品 石製品の人形 出土直後の写真
さらに、
⑧12000年前~8000年前に作られた土器に施された文様の数々・・
一例 菱形文様
ここまで
①狸谷遺跡では竪穴式住居跡が発見された。
②狸谷遺跡、里の城遺跡で隆起線文土器が検出された。
③白鳥平B遺跡において草創期に属する爪型文士器が検出された。
④白鳥平A遺跡及び同B遺跡早期に属する耳栓が出土・・
⑤灰塚遺跡の縄文時代早期包含層から出土した耳栓に、 赤色顔料と考え ら れる物質が塗彩されていた。 ※パイプ状ベンガラ
⑥耳栓 は縄文時代後 ・晩期に盛行し赤色顔料が塗彩されたものが多い・・・
⑦球磨郡多良木町大久保台地遺跡群から出土した8000年前の石製(滑石) 人形
⑧12000年前~8000年前に作られた土器に施された文様の数々・・
といったお話を書いて参りましたが、何度も書きますように、上記のお話は
縄文時代
草創期: 1万5000年前 - 1万1500年前
早期: 1万1500年前 - 7000年前
の遺跡について・・・でした
これらの遺跡を形成した人達が全て滅んだ・・とは
どうしても私には考えられない!
今まで、何度も書いてきた私の気持ちです。
その根拠と致しまして
※1.球磨盆地には火砕流は到達していない。
画像 ウィキペディアより
幸屋火砕流と鬼界アカホヤの広がり。九州南部・東部、四国、本州瀬戸内海沿い、および和歌山県で20cm以上あり、広くは朝鮮半島南部や東北地方にも分布する。
確かに火山灰(アカホヤ)が20㎝~30㎝堆積したラインに球磨盆地は入っていますが・・・
※2.球磨には、自然のシェルターとも言える鍾乳洞が各地に存在します。
熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 2歴史的環境 より
早期の遺跡では、球磨村大瀬洞穴遺跡と同村高沢洞穴遺跡が有名である。
いずれも石灰岩地帯にある鍾乳洞の遺跡で、骨や貝殻などの保存に適した条件を備えている。
出土した動物関係の資料には、鹿の骨の他、アワビ・ハマグリなどの海の貝殻が発掘されている。このように、海との関係を示唆する貝殻が出土したことは、縄文時代早期社会を考える上でとても重要なデータである。
ウィキペディアよりあらためて<m(__)m>
九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。
ほぼ全滅・・ ほぼ・・とは
完全に全滅・・では ない ・・とも受け取れます・・
完全に全滅・・では ない ・・ その根拠がきっと何かあるはずだ!
と私は考えてきたのですが・・
ついに 見つけました(p_-)
それは・・・アカホヤ下地層の耳栓(耳飾り)に意味があったのです!
3.アカホヤ前の耳栓は列島を北上している!
謎を解く鍵の一つが耳栓(耳飾り)にあった事をようやく理解する事が出来ました😊
とてもありがたい、とても大切な、重要な論文が公開されていました!
研究・紀要 年報
縄文の森から 第4号
です
https://www.jomon-no-mori.jp/old/jimages/mbn_kiyo/kiyo4/37-44.pdf
新東晃一氏
九州の縄文時代の二つの耳飾り
-九州の玦状耳飾と耳栓について一
皆様、ぜひご覧になられて頂きたい!と願います。
非常に重要なお話をご紹介なさっていらっしゃいます。
とても解りやすくご説明なさっていらっしゃる箇所を抜粋させて頂きます<m(__)m>
これまで,九州島内にみられる玦状耳飾と耳栓等のいわゆる縄文時代の二つの耳飾りは,
いずれも,中部・北陸地方あるいは関東地方の耳飾り文化が伝播したものとの考え方が一般的であった。
ところが,南九州で玦状耳飾がアカホヤ火山灰の下位から出土したことによって,
玦状耳飾の初源期の形態的位置づけ(編年)が明確になった。
さらに,南九州における耳栓等のアカホヤ火山灰下位の出士は,日本列島では考えられない事象であり,日本の縄文文化観の転換に迫る成果を提供している。
ここから・・僭越ながら私ひろっぷめが、要約しますと・・
今までは・・
「耳飾」が縄文時代前期に流行したあと,中期中葉頃には東日本を中心に「耳栓」が登場すると考えられていました。
「耳栓」は「決状耳飾」とは,その出現時期に隔たりがあることや両者の形態上の違いからまったく別系統の装身具と考えられているようです。
「滑車形耳飾」は,「耳栓」の大型化や装飾化によって出現したもので同種のものと考えられていたようで・・。
縄文時代中期中葉以降の「耳栓」との中間的なものから,後期後半には中心部に様々な文様を施した精巧な幾何学文を飾るものが多くなったそうです。
↓
その耳栓の文化が九州に到達していた・・と今まで考えられていた・・
※縄文時代前期 = 7000年前 - 5500年前
所が!!
その耳栓(決状耳飾)が球磨を含む九州南部地域の縄文時代早期の遺跡
アカホヤ(7300年前)の下の地層から出土していた!と言う事が
今までの推測を大きく覆す事になった!
という事なのです
新東晃一氏 九州の縄文時代の二つの耳飾り
-九州の玦状耳飾と耳栓について一 より
耳栓等は,北部九州の福岡県と佐賀県に前期以降のものが5遺跡5個体あり,
九州島の中央部に空白を作り,
南部九州の熊本県南部と宮崎県と鹿児島県に早期のものが19遺跡の68個体が出士している。
つまり,耳栓等の耳飾は,北部九州は日本列島の耳栓等の在り方と一致しており,
南部九州の特異性・先進性を際ださせている。
新東晃一氏
九州の縄文時代の二つの耳飾り
-九州の玦状耳飾と耳栓について一 より・・・・抜粋させて頂きました
※北部九州の福岡県と佐賀県に前期以降のものが5遺跡5個体
つまり、以前の推測通り、
これまで,九州島内にみられる玦状耳飾と耳栓等のいわゆる縄文時代の二つの耳飾りは,
いずれも,中部・北陸地方あるいは関東地方の耳飾り文化が伝播したものとの考え方が一般的であった。
と一致する・・・
しかし!
球磨を含む、南九州のアカホヤ(7300年前)下の地層から出土した耳栓は
今までの通説を完全に覆すものであり
南部九州の特異性・先進性を際ださせている
という事になります!
ウィキペディアより 栓状耳飾り
栓状耳飾り(せんじょうみみかざり)は、日本の縄文時代中期(約5000年前)に隆盛したピアス式耳飾り(イヤリング)の一種である。
考古学界では「耳栓」(じせん)と呼ぶのがより一般的だが、いわゆる耳栓(みみせん)と字が同じのため、混同を避けるために本項では「栓状耳飾り」とする。
これはまた、縄文時代前期に現れた「玦状耳飾り」(けつじょうみみかざり)と分類上で対になる表記でもあるためである。小型のものを「耳栓」、大型のものを「滑車形耳飾り」(かっしゃがたみみかざり)と呼ぶ分け方もある。
栓状耳飾りは平たい円柱形をしており、円柱側面はやや窪んでいる。材質は土・木・石・骨角があるが土製が非常に多く、土製のものには、円柱形の内側に曲線的かつ立体的な装飾が施された作品が多い。また、東日本に多く分布する。
ウィキペディアより転記致しました<m(__)m>
球磨を含む南部九州の耳栓が日本最古
時系列で(p_-)
縄文時代早期
1万1500年前 - 7000年前
例えば球磨地方
④白鳥平A遺跡及び同B遺跡早期に属する耳栓が出土・・
⑤灰塚遺跡の縄文時代早期包含層から出土した耳栓に、 赤色顔料と考え ら れる物質が塗彩されていた。(パイプ状ベンガラ) ※耳栓は2点と も滑車状のタイプ
↓
東日本に多く分布する「耳栓」は日本の縄文時代中期(約5000年前)に隆盛した
これは・・どういう事なのか!?
それは・・耳栓(耳飾り)の文化を持った球磨を含む南九州の
喜界カルデラの爆発的噴火から助かったいずれかの地域の人達が
移動していた可能性がある!
という事になります!
九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。
ほぼ全滅・・ ほぼ・・とは
完全に全滅・・では ない ・・とも受け取れます・・
完全に全滅・・では ない ・・ その根拠がきっと何かあるはずだ!
その証拠が・・・
耳栓にありました!
嬉しいです・・・
良かった・・
やっと証拠を見つける事が出来ました・・
私はおそらく・・助かった人達は日本列島を東に北に進んだだけではなく・・
一部の人達は大陸にも向かったのでは・・!?と考えます
その証拠は・・・
にや~っ😉・・・
不気味な微笑み・・
もう一度・・
熊本県教育委員会 2001 『灰塚遺跡2』熊本県文化財調査報告197 序文より
3万点を超える膨大な出土遺物の遺跡で、 特に彩色耳栓や異形土器・石器など、
当時の精神文化の充実を伺わせます。
凄い・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回は
1.上村麓城跡の紅葉🍁
2.アカホヤ(7300年前)下地層の遺跡
3.アカホヤ以前の耳栓文化は列島を北上している・・!
というお話を書かせて頂きました😊
今回は、文章ばかりで物凄~く長くなりました。
申し訳ございません <m(__)m>
ただ、
アカホヤ下の耳栓文化は列島を北上している・・と言う事を
ぜひ皆様方に お伝えしたかったのです・・
皆様
最後までご覧頂き ありがとうございました。
油断は禁物です(ー_ー)!!
毎回書きますが<m(__)m>
お国がもう大丈夫です!と言われるまで、
お身体十分にお気を付けになられて下さい。
😊
私には 球磨の自然が教えてくれます
それは・・
ここに居るから解る事・・
なのだと 思います
始まりは 数万年前・・・
😊
全ての事に感謝の気持ちを込めて
だんだんなぁ~
そして・・・
負けんば~い!!
球磨の地より ひろっぷ でした😊
次回『㊴日本最古級の石器と世界最古の土器と世界最古級の土器』に続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12713252626.html