前回のブログ『㊳上村麓城跡の紅葉と・耳栓は日本列島を北上している!事・・』より続きます

 

 

 

 

 

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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
令和二年七月の豪雨災害に遭った郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

明るい道が見えて参りましたが・・

また新たな変異株が出現したようで・・

 

しかし、この2年近くで、私達は様々な事を学びました

だから、こそ

油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って

出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊



 

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まず初めに<m(__)m>

今回のブログは旧石器時代から縄文時代早期にかけてのお話です。

 

現在の日本国内において

弥生時代、2000年程前から1700年程前の歴史にしか思考が向かない人達が多くいらっしゃいますが・・

だから!こんな論文が他国で書かれてしまうんだ!と私は強く思い

憤りを感じます・・

 

 

 

 

 

 

 

日本国内において

何でも・・例えば「文化も人も」半島から北部九州へ・・とお考えになられる方々にぜひお伝えしたい事があります。

(私のブログをお読み下さる方々にはそういう御方はいらっしゃらない(ー_ー)!! と思いますが)

 

移動してきた人達やその文化の

遠い遠い元祖となる方々、原初的な「本拠地」は一体どこであったのか!?

 

原初的な方々が住んでいた「本来の場所」が理解出来ないと、

たかだか2000年程から1700年程前の歴史なんて

到底理解不可能・・と私は考えます

 

最初からちょっと激しい ひろっぷしゃんでした <m(__)m>

上記の論文を偶然目にした11月のある日から・・私は無性に旧石器時代からの事を勉強しなきゃ!と思いました。そうしないと・・後編の続きを書けない!繋がらない!と・・

 

 

 

 

今回のタイトルは

日本最古級の石器と世界最古の土器と世界最古級の土器

 

ええっ!? マタマタひろっぷ何か気が付いたなぁ~(p_-) と

お思いの御方・・はい(^o^)/ 気が付きました~😊

 

 

いつもの如く 長い文章となってしまいました <m(__)m>

音楽と共にお付き合い下さい😊

 

Two Steps From Hell - Evergreen Extended

 

 

 

 

 

では、まず(p_-)

皆様にぜひご覧頂きたい写真から・・・・😊

 

1.11万年以上前の石器

 

2021年7月に書いたブログ『㉒保存版(中編)注目されない甕棺について』で

ほんの少しだけ触れたお話・・

 

 

 

平成15年度(2003年)に熊本県立装飾古墳館で開催された
肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 
の資料に記載されていたお話・・・

 

球磨郡深田村(現あさぎり町深田)で出土した30万年近く前ではないか!?

地質学者の方が推測なさっていらっしゃる石器です😊

 

 

 

※補足

肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料は

 

球磨楽展 と検索サイトで入力して頂くと、表示されますので、ダウンロードが可能です。

 

旧石器時代から弥生時代にかけての球磨地方で発掘された複数の「出土品」が写真で掲載されていますので(平成15年までの出土品)よろしければ、資料をダウンロードなさってご覧下さい。

 

夏女遺跡(なつめ遺跡)からの出土品の中にまるでお人形遊びに使う子供のおもちゃのようなミニチュア土器多数も掲載されています  補足でした😊

 

 

 

 

肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料は

トータル71ページ。

 

その中で私は、球磨地方の旧石器時代に関連するお話に心が釘付けになりました

 

56ページからの なぜ旧石器は残った~旧石器発見秘話~・の中で 

 

58ページに 日本地質学会会員でいらっしゃる原田正史先生

”深田小学校裏手崖産出の旧石器について” というお話が掲載されています。

 

 

原田正史先生 深田小学校裏手崖産出の旧石器について より抜粋させて頂きます。

 

シラスと加久藤溶結凝灰岩の科学的推測年代が、それぞれ2.5万年前より古く、30万年前より前とされることから、深田小産旧石器が2.3万年前より古く、30万年前より新しいことは当然のことながら、砂礫層基部からの産出であることを考慮すると、漠然としたものではあっても30万年前の方により近いとする判断が成立します。

 

なお砂礫層基部は、加久藤火砕流の堆積時に由来すると思われる大小多数の軽石円礫が混在しており、前記判断を側面的に補足するものと考えます。

 

いずれにしても、日本最古の可能性まで保有する旧石器が現存し得た偶然の重なりに、深い感銘を覚えずにはいられません。

 

以上

原田正史先生 深田小学校裏手崖産出の旧石器について より抜粋させて頂きました。

 

 

深田小産旧石器は砂礫層基部からの産出であり、

砂礫層基部には

加久藤火砕流の堆積時に由来すると思われる

大小多数の軽石円礫が混在していた

 

 

 

※補足 加久藤火砕流  ※加久藤盆地 ウィキペディアより

 

約33万年前の大噴火で発生した加久藤火砕流は薩摩半島と大隅半島の中部以北と人吉市付近および宮崎平野にまで広がり、半径約50kmの範囲に溶結凝灰岩の地層を形成した。

 

 

※加久藤火砕流 = 約33万年前

 

 

 

加久藤火砕流(33万年前)の堆積時に由来すると思われる大小多数の軽石円礫が混在していた砂礫層基部から出土した深田小産旧石器の写真を撮影してまいりました!

(^o^)/

 

あさぎり町文化財収蔵庫に保管されている原田先生があさぎり町に寄託なさった

日本最古級の石器です😊

 

もちろん、写真撮影もブログ掲載も許可を頂いております😊😊

 

 

 

 

黒色珪質頁岩の旧石器

 

 

 

原田正史先生 深田小学校裏手崖産出の旧石器について より

 

中略・・

岩片が深田村(現あさぎり町深田)に存在しない黒色珪質頁岩であって、自然状態での砂礫層への混入は地形的に絶対不可能であること、岩片の縁辺部に人為的な整形加工を意味する打撃痕が連続して明瞭に認められ、表面の一部にこれも人為的な加工と思われる平滑面が形成されていること、更には砂礫層が加久藤溶結凝灰岩上に位置し、砂礫層上部に姶良(入戸)火砕流堆積層であるシラスが存在するという地質学的事実から、この岩片を旧石器であると判定発表いたしました。

 

原田正史先生 深田小学校裏手崖産出の旧石器について より抜粋致しました。

 

 

 

 

ブログ『11万年前以前からの球磨人と、超古代からの球磨のおさらい』でご紹介したように

 

 


あさぎり町深田(旧深田村)の下里遺跡からは

今から11万年以前の剥片石器が採取されています。

 

肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料 56ページに

写真が掲載されています😊

 

そのあさぎり町深田(旧深田村)の下里遺跡にほど近い場所から出土した

11万年以前の剥片石器に石質・形状も非常に良く似た剥片石器がこちら・・・

 

 

 

 

 

凄いですね~ ちゃんと加工する技術が

11万年以前にすでに存在していたのですね・・・・!

 

 

 

 

ちなみに・・

「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料 56ページには

ブログ『11万年前以前からの球磨人と、超古代からの球磨のおさらい』でご紹介した

人吉矢岳遺跡で出土した4万年程前の握槌(ハンドアックス)

五本松遺跡から出土した頁岩製の石器 の写真も掲載されています😊😊

 

4万年程前の握槌(ハンドアックス)が出土した人吉矢岳遺跡

人吉市大野町の大野C・D・E遺跡『年代測定の結果、今から8~5万年前の遺跡』に

ほど近い場所になります。

 

 

1993年に発行された熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 には
今から約3万年以上前の遺跡 人吉血気ケ峯遺跡について紹介されていました。

台形石器や刃部磨製石斧が伴う遺跡です。

 

 

上記に書いた遺跡を形成した超古代の人類「球磨超古代人?」は、様々な自然災害、

特に火山による多大なる影響を受けてこられたのは明らかです・・

 

しかし、

この球磨の地は、超古代の時代毎に、必ず復活して人の営みが確認出来ます。

それだけ、住みやすい土地だったのでしょう😊

 

恩恵の一つは 球磨川にあるのでは・・!?

と私は考えます。

 

 

所で・・

今回、このブログを書くにあたって、あらためて

「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料

じっくりと拝見したのですが・・

 

非常に驚くべき記述に気が付きました!

 

 

2.文字の原型?線刻礫

 

「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料36ページ

祭りいろいろ の項に線刻礫のお話がありました。

 

 

線刻礫とは

石の表面に図柄や絵柄を刻んだもの です。

 

 

 

石に記された祭りの証し より

 

人は、祭りや祈りのために、身近なものに図や絵、文字を記します。

 

球磨ではそうした石に記された祭りの証しがみつかっています。

 

線刻礫は、平たい石の表面に図柄や絵柄を刻み込んだものです。

 

球磨郡山江村の大丸・藤ノ迫遺跡では、

表面と裏面に図柄を刻み込んだ線刻礫が見つかっています。

7000年前の縄文時代早期の終わり頃です。

 

球磨郡あさぎり町の別府遺跡では、鹿の絵柄が刻み込まれた線刻礫が見つかっています。

2000年前の弥生時代です。

 

以上 石に記された祭りの証し より 抜粋させて頂きました。

 

 

 

「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料36ページには

球磨郡山江村の大丸・藤ノ迫遺跡で出土した、表面と裏面に図柄を刻み込んだ線刻礫の写真が掲載されています!

 

 

よ~く見ると・・(p_-)

何だか・・・甲骨文字の原型?のようにも見えるのですよねぇ・・

 

縄文時代早期の終わり頃・・の 線刻礫・・・

 

ただ・・じっくり見ると・・人と人が何か棒?のような物を持って向かいあっている・・?

ようにも見えて・・

この線刻礫については、全国の方々にご紹介すべきだ・・!と考えました・・

 

 

 

勝手ながら「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料36ページ

球磨郡山江村の大丸・藤ノ迫遺跡で出土した、

表面と裏面に図柄を刻み込んだ線刻礫の写真をご紹介致します<m(__)m>

 

 

 

 

「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料36ページ より

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

じっくり見ると 平な石に沢山の描写が見えます・・・

 

絵がお得意な方がご覧になられると、私が感じた事以上の何かがお見えになられるのでは・・

と思うのであります・・

 

縄文時代早期後半の「絵」でした<m(__)m>

 

 

縄文時代
草創期: 1万5000年前 - 1万1500年前
早期: 1万1500年前 - 7000年前

 

・・・・・・・・・??? !!!!・・

 

 

 

先に書きました『甲骨文字』 ウィキペディアより

 

 

 

甲骨文字(こうこつもじ)とは、中国・殷(商)時代の遺跡から出土する古代文字。

古代中国でおこなわれた占卜を、当時の文字でカメの甲羅やウシの肩甲骨の上に刻みつけて記録したものである。

 

漢字の原初形態であり、現在確認できる漢字の最古の祖形を伝えている。亀甲獣骨文字、甲骨文ともいう。

 

甲骨文字は絵文字様であるが、文字としてすでに抽象性が高い段階に発達している。

 

以上 ウィキペディア甲骨文字 より・・・・

 

 

※中国・殷(商)時代・・紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年

紀元前17世紀・・今から約3700年前

 

 

線刻礫 例えば、先にご紹介した

球磨郡山江村の大丸・藤ノ迫遺跡で出土した線刻礫は

今から7000年以上前・・

 

 

※古代中国でおこなわれた占卜・・

※線刻礫は石の表面に図柄や絵柄を刻んだもの

石に記された祭りの証し

 

 

 

 

やはり・・

日本の線刻礫は 何だか・・・甲骨文字の原型?のようにも見えるのですよねぇ・・

 

なぜならば・・・

 

 

3.世界最古の土器と最古級の土器

 

前回のブログ『㊳上村麓城跡の紅葉と・耳栓は日本列島を北上している!事・・』でもご紹介致しましたが・・

 

 

狸谷遺跡調査報告書より

黒曜石は、

人吉市桑ノ木津留と球磨村黒白で産出が確認されている。

また、鹿児島県大口市日東の産出地も近距離にある。

 

 

 

黒曜石 ウィキペディアより

 

 

 

性質・特徴

外見は黒く(茶色、また半透明の場合もある)ガラスとよく似た性質を持ち、脆いという欠点はあるが、割ると非常に鋭い破断面(貝殻状断口)を示すことから先史時代より世界各地でナイフや鏃(やじり)、槍の穂先などの石器として長く使用された

 

極めて切れ味が良く、ナイフとして使った場合は厚い肉でも一発で両断することが出来る。

 

日本の鏃等は後期旧石器時代から使われていた。

 

 

皆様

世界の産出地 を見て下さい!

特に 東アジアを!

一目瞭然・・

 

 

 

画像 ウィキペディアより

 

 

日本55か所  中国1か所 朝鮮半島1か所

 

 

極めて切れ味が良く、ナイフとして使った場合は厚い肉でも一発で両断することが出来る。
日本の鏃等は後期旧石器時代から使われていた。

 

銅や鉄といった金属を人類が使用する前に、必要不可欠であった

 

つまり最先端の万能石が黒曜石である・・という事ですね😊😊

 

 

その黒曜石が日本国土の大きさから考えると・・

世界において断トツの産出地だった事が解ります。

 

 

 

所で・・<m(__)m>

前回のブログで私は

灰塚遺跡の調査報告書を中世以降の報告書と間違えてご紹介致しておりました。

 

申し訳ございません<m(__)m>

 

後で旧石器時代からの灰塚遺跡報告書と差し替えを行いました <m(__)m>

 

 

全国遺跡総覧様 サイトより調査報告書をダウンロードしてご覧いただけます。

 

 

 

こちらの報告書の表紙の土器が

縄文時代早期の地層から出土した壺型土器の写真です。

 

この壺型土器は地中にあえて埋められていたそうです。

 

 

「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料では

見事な壺型土器の写真と共に

 

『壺型土器は、穴の中からまとまって見つかりましたが、

何らかの目的で埋められたものと考えられます。

ムラの中で行われた祭りの道具に違いありません。

また、耳栓や石製品も身体を飾るもので、特別な意味があると考えられます。祭りの原型を示すものでしょう。』

 

と記されていました。

 

 

 

 

本題に入ります(p_-)

前回のブログで、ど素人の私は、その重要性を理解せぬまま以下の文章を報告書から転記致しておりました。

 

 

狸谷遺跡 遺跡調査報告書より

 

縄文時代では、細石器を伴う隆起線文土器、早期の集落と多量の遺物が検出された。
特に、隆起線文土器は、熊本県下では初めての出土例であり、注目される。

 

 

 

白鳥平B遺跡 調査報告書より

平成3年度の調査で、白鳥平B遺跡において草創期に属する爪型文土器が検出された。

この時期の遺跡は、近年南九州でも出土例が増加している。

熊本県内では、狸谷遺跡、里の城遺跡で隆起線文土器が、また無田原遺跡、白烏平B遺跡で爪形文土器が検出されている。
※里の城遺跡 球磨郡多良木町

中でも白鳥平B遺跡では、同一層から爪形文土器と共伴する石器群がまとまって検出され

、同時期の南九州地方を考える上で興味深い資料である。

 



隆起線文土器と爪型文土器

 

調べてみて・・・ビックリ致しました \(◎o◎)/!

 

 

書籍 図解 日本史 Googleブックで公開なさっている以下の

21ページをご覧下さい。

 

年代別 縄文土器

 

 

 

 

年代別 縄文土器

紀元前12000年頃~(草創期)  ※今から14000年程前

 

特徴

豆粒文、貝殻でつけた爪形文、縁に粘土のひもをはり付けた隆起線文など文様をつけるのが特徴。

 

長崎県の泉福寺洞窟から出土した豆粒文土器は世界最古の土器

 

 

 

 

世界最古の土器

 

\(◎o◎)/! \(゜ロ\)(/ロ゜)/

😱

 

 

 

縄文時代
草創期: 1万5000年前 - 1万1500年前

 

長崎県の泉福寺洞窟から出土した豆粒文土器は世界最古の土器。

さらに

隆起線文土器と爪型文土器は世界最古に続く土器・・

 

 

 

\(◎o◎)/! \(゜ロ\)(/ロ゜)/
😱

 

 

凄~い!!

 

皆様 日本って

凄い!と思いませんか~!!!?

 

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

 

 

むむむ~っ(p_-)

どんどん見えて参りましたねぇ~

(p_-)

 

 

だからこそ!私は先に

※やはり・・
日本の線刻礫は 何だか・・・甲骨文字の原型?のようにも見えるのですよねぇ・・

 

と書いたのであります ニコッ😊

 

 

 

 

線刻礫と言えば・・

山口県立山口博物館様 サイト 線刻礫より

 

 

 

 

東北地方に多く、特に縄文時代晩期に著しい発展を遂げました。

 

多くは幾何学的な彫刻文様が描かれ、一般に表裏の区別さえ困難ですが、表面のみに「目」などを表現したものが存在することから、ヴィーナス等、特定の人神を意識した可能性が指摘されています。その大きさや単純な形態からみて、携帯用の護符のような意味合いも考えられます。

 

愛媛県上黒岩岩陰遺跡で発見された線刻礫も、広義の岩板といえるでしょう。

 

山口県立山口博物館様 サイト 線刻礫より 抜粋致しました

 

 

※東北地方に多く、特に縄文時代晩期に著しい発展を遂げました。

※ヴィーナス等、特定の人神を意識した可能性が指摘されています。

 

 

球磨郡山江村の大丸・藤ノ迫遺跡で出土した線刻礫は縄文時代早期後半

今から約7000年程前のもの・・

 

 

繋がりを感じます😊

 

 

 

 

 

 

 

 

所で・・・

 

前回のブログでご紹介した

研究・紀要 年報  縄文の森から 第4号

 

新東晃一氏
九州の縄文時代の二つの耳飾り
-九州の玦状耳飾と耳栓について一

 

 

拝見して、理解出来た事を前回

球磨を含む南部九州の耳栓が日本最古

 

というお話を書かせて頂きました・・・

 

新東晃一先生のお話、あらためて拝読して、私は以下のお話が日本の通説だけでなく

世界の通説をも覆す内容なのだ・・!と理解致しました。

 

これまで,九州島内にみられる玦状耳飾と耳栓等のいわゆる縄文時代の二つの耳飾りは,
いずれも,中部・北陸地方あるいは関東地方の耳飾り文化が伝播したものとの考え方が一般的であった。

 

ところが、南九州で玦状耳飾がアカホヤ火山灰の下位から出土したことによって,
玦状耳飾の初源期の形態的位置づけ(編年)が明確になった。
 

さらに,南九州における耳栓等のアカホヤ火山灰下位の出士は,日本列島では考えられない事象であり,日本の縄文文化観の転換に迫る成果を提供している。

 

 

 

 

南九州で玦状耳飾がアカホヤ火山灰の下位から出土したことによって,

玦状耳飾の初源期の形態的位置づけ(編年)が明確になった。

 

※南九州における耳栓等のアカホヤ火山灰下位の出土は,日本列島では考えられない事象であり,日本の縄文文化観の転換に迫る成果を提供している。

 

 

 

アカホヤ火山灰の下位 縄文時代早期 喜界カルデラ爆発的噴火7300年前より

以前!

 

 

つまり!

玦状耳飾も耳栓も

アカホヤ火山灰下位の出土は

日本最古!

 

となります

 

そして・・・はたして・・

 

日本最古・・だけかなぁ・🙄・・(p_-)

むむむっ・・にや~っ・・😏

 

そう言えば・・世界最古の土器

日本から出土していましたねぇ・・😏 にや~っ・・

 

 

 

でも・・どうして

この事をもっと日本は世界にアピール、

世界の土器の発祥は日本です!

と 発信しないのだろう・・(?_?)

 

理由は・・? (?_?)

(p_-) ・・

 

 

皆様 すでにお気づきかもしれませんが・・

 

旧石器時代から縄文時代早期にかけての

霧島(上野原遺跡)と球磨(※久米)・・

 

霧島と球磨(※久米)

 

11万年以前の日本最古級の石器の出土地

出雲と球磨・・

 

何か強く感じる事がおありになりませんか?

 

 

戦後76年間で消されようとしている事・・

 

私は

日本の神話の起源に近いお話を排除する動きには

断固として立ち向かいます😎

 

微力ですが、確かな情報を発信して参ります(^o^)/

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

今回は

1.11万年以上前の石器

2.文字の原型?線刻礫

3.世界最古の土器と最古級の土器

 

という内容を書かせて頂きました。😊

 

 

皆様
最後までご覧頂き ありがとうございました。


 

 

油断は禁物です(ー_ー)!! 

毎回書きますが<m(__)m>
お国がもう大丈夫です!と言われるまで、
 

お身体十分にお気を付けになられて下さい。
😊

 

 

 

 

私には 球磨の自然が教えてくれます

それは・・

ここに居るから解る事・・

なのだと 思います

 
始まりは 数万年前・・・

😊

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『㊵8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡から見えた事』に続きます。