前回のブログ『㊴日本最古級の石器と世界最古の土器と世界最古級の土器』より続きます。

 

 

 

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2021/12/10 19:31 再投稿

2021/12/10 08:47投稿の拙ブログ、すでにご覧頂いた方々に

心からお礼申し上げます。

 

これから、ご覧頂く方、拙ブログに興味を持って頂き

ありがとうございます。

 

皆様方に衝撃のご報告があります<m(__)m>

当ブログを投稿した後、気になる事があったので、九州中央山地について調べていたら

驚愕の事実を知る事になりました。

 

我々、球磨・人吉の人達が愛してやまない市房山。

盆地の風景を代表する市房山ですが・・

 

ナント!あの伊能忠敬さんの地図では・・

市房山は 日向国の山

となっていました・・ガァ~ン 😱

えええ~っ!? \(゜ロ\)(/ロ゜)/  ガァ~ン 😱

 

確かに市房山さんは

熊本県水上村・宮崎県椎葉村・西米良村にまたがる山ですが・・

「米良三山」※市房山・石堂山と天包山のひとつであり、

球磨・米良地方における信仰の山ですが・・

 

市房山さんを江戸幕府は日向国の山と認識していた・・

でしたら

我が日本国において一体何時の時代から

市房山さんを日向国の山と認識していたのでしょうか!?

 

あ~球磨人 ショック~

うん (?_?) おやっ(?_?) あれっ・・(?_?) むむむっ (p_-)

 

あまりの衝撃に追記を書いてしまった ひろっぷでした<m(__)m>

 

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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
令和二年七月の豪雨災害に遭った郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

明るい道が見えて参りましたが・・

また新たな変異株が出現したようで・・

 

しかし、この2年近くで、私達は様々な事を学びました

だから、こそ

油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って

出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊



 

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おやっ?ひろっぷ 更新が早いな・・(p_-)

とお思いになられた御方

そうです! マタマタ物凄い事に気が付いてしまいました(^o^)/

 

球磨の考古学、特に旧石器時代から縄文時代全般にかけて真摯に向き合い

熱心な研究を行われていらっしゃる方々の調査結果を

全国の方々にお届けしたい!と強く感じ

ブログの更新をいつもより早く行いました😊

 

 

前回のブログ『日本最古級の石器と世界最古の土器と世界最古級の土器』では

日本最古級と言われる約30万年前の地層から出土した「石器」

さらに、11万年以前の「石器」を写真と共にご紹介致しました。

前回のブログを未だ、ご覧になられていらっしゃらない方はぜひご覧になられて下さい😊

 

ウィキペディアにも、”場所”は記載されていませんが、触れられています(p_-)

旧石器時代 ウィキペディアより抜粋致します。

 

 

日本における旧石器時代
日本における旧石器時代は、後期については、北海道から九州にかけて5000カ所を超える遺跡が確認される。

 

前期/中期についても、数こそ少ないがいくつか確認されている。 

 

前期旧石器遺跡については全て捏造であったことが判っている(旧石器捏造事件を参照)。

中期も多くが前期旧石器を捏造をした人物が関与していて否定的である。 

捏造事件発覚以後に新しく発見された遺跡については議論がある。


※中期についても、数こそ少ないがいくつか確認されている。 

 

中期・・30万年前から3万年前

ここですね😊

 

 

 

捏造事件発覚以後に新しく発見された遺跡については議論がある・・

 

かなり以前の過去ブログでも。書きましたように(p_-)

旧石器捏造事件に関わった方は球磨には一切入ってはいらっしゃいません(ー_ー)!!

 

さらに、この事件が起こった事で、その後、慎重に慎重を重ねて、球磨の遺跡調査が行われている事が球磨の遺跡調査に関わった御方のお言葉に記されております。

後ほどご紹介致します<m(__)m>

 

 

だから・・

「捏造事件発覚以後に新しく発見された遺跡については議論がある。」とは・・

私はど素人ですから、言いたい事を言えて良いな~と思われるかもしれませんが・・

慎重に慎重を重ねて調査した遺跡に関して議論がある・・とは

「この事件」が考古学会に与えた影響がいかに重大であったのかを考えると

非常に悲しくなりました

 

ただ・・私は今は球磨に戻った一主婦であり、ど素人で先祖や古代の球磨を勉強している身ですが、球磨に戻る前の『前々職、前職等』については・・

過去ブログでチラッと書いた事があります・・

 

気が付いた事はどんどん報告するように!と言われて、

膨大なデータを分析、直ぐに検討する世界にいたので・・

中々理解しがたいのですが、

しかし(ー_ー)!!

日本の考古学により、世界の通説が変わる可能性がある!事を考えれば

慎重であり「こうだ!」と直ぐには言えない事も解ります・・

 

余談が過ぎました<m(__)m>

 

 

では早速、球磨の考古学、特に旧石器時代から縄文時代全般にかけて真摯に向き合い
熱心な研究を行われていらっしゃる方々の調査結果を拝見して勉強させて頂き

気が付いた事を書かせて頂きます😊

 

 

 

その事に気が付いた経緯を順を追ってご紹介致します<m(__)m>

今回も長くなりましたので(^▽^;)

音楽と共にお付き合い下さい <m(__)m>

 

Fearless Motivation - Stand Up Again - Song Mix (Epic Music)
 

 

 

 

 

 

1.「彫器」って何だろう?から勉強した事

 

前回のブログにて井頭山人(魯鈍斎)様からコメントを頂き、

ナイフ形石器のお話を頂いた事により、

返信をかかせて頂く上で12月8日の朝、私は新たな事実に気が付きました。

 

井頭山人(魯鈍斎)様、お導き頂き

ありがとうございました。

 

 

私はマダマダ勉強不足です😥

前回と同じく調査報告書を拝見して、転記していた内容の重要性が全く理解出来ていませんでした<m(__)m>

 

以下の文章です<m(__)m>

 

熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 2歴史的環境 からの転記より

球磨郡山江村狸谷遺跡で見つかった狸谷I石器文化

 

ナイフ形石器、掻器、削器挟入石器、彫器、磨石・敵石等の多くの石器が出土した。

出土層位が入戸火砕流の直下にあり姶良T、火山灰降灰(以後、ATとする)直前の段階である。

この他、球磨村久保遺跡など盆地内でも数遺跡がみつかっている。

その意味で、人吉盆地は、AT直前の様相を知る上での貴重な資料を提供する地域の一つに数えられる。

 

以上 熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 2歴史的環境 からの転記より

 

 

※補足

先土器時代 ※旧石器時代

 

AT 以前とは

※AT = 入戸火砕流(いとかさいりゅう、いりとかさいりゅう)、約2万5千年前に姶良カルデラの大噴火で発生した大規模な火砕流

つまりAT下の地層とは約2万5千年以上前の地層

 

 

約2万5千年以上 前の地層から
『ナイフ形石器、掻器、削器挟入石器、彫器、磨石・敵石等の多くの石器が出土した』

という事になります。

 

 

ど素人の私は上記に記された石器全て意味が解らなかったのですが・・(?_?)

まず・・彫器って何だろう??と考えました(p_-)

 

でっ!直ぐに調べたのですが・・

その結果・・

 

日本国内での旧石器時代の彫器の普及は

「古い」と言われている遺跡でも神山遺跡は、約23,000年前にあたる後期旧石器時代の活動痕跡 つまり「23000年」前とあり、

文化遺産オンライン様のサイトでも

 

 

 

彫器


出土地:新潟県長岡市 荒屋遺跡出土
旧石器時代(後期)・前16000年
石製(頁岩)


旧石器時代の終わりになると、道具を作る技術が高度になり、そのメンテナンスの仕方もシステム化されていきます。

この石器は彫器(ちょうき)といい、狩りに使う槍などを作るための工具です。

加工されたエッジを刃のように使って削る、つまり現代でいう小刀のような役割をしていたと考えられています。当時の槍は骨や角で作られた槍先の側面に溝を彫って、石器を埋め込む植刃槍(しょくじんやり)でした。彫器はその槍の先端をとがらせたり、柄の部分を加工したりするために使われました。

とあります。

 

ナイフ形石器、掻器、削器挟入石器、彫器、磨石・敵石等の多くの石器が出土した 

狸谷I石器文化(球磨郡山江村)
25000年以上前

 

これって・・

物凄い事ではありませんか~!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

😱😱

 

と私は気が付いた訳です(p_-)

 

 

井頭山人(魯鈍斎)様へのコメント返信を書かせて頂いた後・・

昨日は数日続いた所用(ボランティア活動やお寺様のお手伝い等)も無かった事もあり

家事の合間に球磨で発掘された複数の遺跡調査報告書を次々と読ませて頂き

旧石器時代から縄文時代早期にかけての「道具」について勉強しました😊

 

そして・・・

球磨の旧石器時代中期の出土品

やはり・・何だか凄いぞ・・

という事に気が付きました(p_-)

 

 

 

2.8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡について

 

実は

前回のブログを書いた後、どうしても霧島連山を拝見したくなりました(不思議なのですが・・)

ですが、

私の家からは高千穂峰や韓国岳、夷守岳といった霧島連山までは

直線距離でわずか35km程なのですが、何せ山を越えなければなりません😅

 

そこで、主人におねだりして、熊本県人吉市と宮崎県えびの市にまたがる

矢岳高原に連れて行ってもらいました😊

 

 

 

矢岳高原から見える目の前の霧島連山

 

 

 

眼下に見えるのは宮崎県えびの市です😊

 

 

 

2018年の9月に書いたブログでも、矢岳高原での遠足写真を載せていました(^▽^;)

40年以上前の写真です😅

 

『シュメールと矢岳(神の峠)』

 

 

巨石の上でニコリ・・・ 😱 ・・・ 😅

 

 

 

物凄く大きな巨石の上でさらに ニコリ ・・・😱・・・😅

 

 

 

もちろん当時は磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とか知るはずもなく😅

お許しを <m(__)m>

 

人吉市矢岳町からは4万年前のハンドアックスが出土しています(p_-)

 

この矢岳高原に程近い場所が人吉市大野町 こちらも標高の高い場所で

高原となります。

 

その人吉市大野町で発掘調査が行われた大野C・D・E遺跡

 

 

調査報告書はダウンロードは出来ませんが・・

図書検索は可能です

 

 

 

 

調査報告書を読んでも

私のようなど素人は、重要な事を完全に理解せずスルーしてしまいます。😥

 

ですが・・・

私の手元にある「とても大切な資料」がありがたい事に、ど素人の私を考古学の世界に導いて下さいました😊

 

 

平成22年(2010年)から平成28年(2016年)にかけて

人吉市教育委員会の日本考古学協会会員でいらっしゃる

和田好史先生がお書きになられた

 

過去から未来へ・・・ふるさとを知る

人吉球磨トポスの考古学

 

です。

 

和田好史先生

人吉球磨トポスの考古学において

とても解りやすく、人吉球磨の旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡についてご紹介して下さっています。

 

 

大野遺跡については

人吉球磨トポスの考古学(十五) (六)人吉球磨地方の遺跡(続き)

③大野遺跡群(第一回)

 

人吉球磨トポスの考古学(十六) (六)人吉球磨地方の遺跡(続き)

③大野遺跡群(第二回)

大野C遺跡

 

人吉球磨トポスの考古学(十七) (六)人吉球磨地方の遺跡(続き)

③大野遺跡群(第三回)

大野D遺跡

 

人吉球磨トポスの考古学(十八) (六)人吉球磨地方の遺跡(続き)

③大野遺跡群(第四回)

大野E遺跡

 

人吉球磨トポスの考古学(十九) (六)人吉球磨地方の遺跡(続き)

③大野遺跡群(第五回)のまとめ

 

となります。

私はワクワクしながら 夢中で読みました・・・

 

 

人吉球磨トポスの考古学(十五) (六)人吉球磨地方の遺跡(続き)
③大野遺跡群(第一回)

において

和田好史先生は

発掘調査時には、東北地方の旧石器捏造事件が発覚し、研究者としても今まで以上の慎重な姿勢で調査に当たった・・

 

慎重に慎重を重ねた調査計画に基づき、発掘調査、報告書作成を粛々と進めて行き・・

 

と記されていらっしゃいます。

 

発掘調査にあたった方々が大変な神経を使って調査をなさった事

ご苦労が良く解りました。

 

 

※1.大野C・D・E遺跡群の堆積層と出土石器

 

補足

姶良Tn火山灰とは

約2万9千年前~2万6千年前に姶良カルデラの巨大噴火で噴出した大量の火山灰

 

ATとは

入戸火砕流(いとかさいりゅう、いりとかさいりゅう)、約2万5千年前に姶良カルデラの大噴火で発生した大規模な火砕流

 

 

人吉球磨トポスの考古学(十六)~(十八)

③大野遺跡群(第一回)~③大野遺跡群(第四回)を拝見すると

 

例えば

大野C遺跡

堆積層は六枚

 

姶良Tn火山灰二次堆積層をⅧ層とし 上層から

Ⅰ層(表土及び旧耕作土層)

Ⅷ層(明黄褐色土層・・AT二次堆積層) ・・・約2万5千年前

Ⅸ層(褐色粘質土層)

Ⅹ層(褐色粘質土層)

Ⅺ層(赤褐色粘質土層)

Ⅻ層(風化安山岩層・・・基盤)


 

遺跡包含層はⅨ層

出土した石器資料は九五〇点

 

楔形石器、プロト・ピュリアン、ピュリアン、小型スクレイパー、チョッパー等が図示されていました。

 

 

他、

大野遺跡群D遺跡からの石器資料は一〇,三九〇点 (10,390点)

Ⅷ層(褐色粘土層)から出土した

石斧もしくはハンドアックス、スクレーパー、小型スクレーパー又はノッチ、小型スクレイパーが図示されています。

 

大野遺跡群E遺跡からの石器資料は二,六〇三点 (2,603点)

XIV層(褐色粘土層)から出土した

スクレイパー、小型スクレイパー、「背をもつ」小型スクレイパー、

小型スクレイパーもしくは石斧、小型スクレイパーもしくは小型ナイフ、

尖頭状石器もしくはピュリアン、が図示されています。

 

 

※2.大野C・D・E遺跡群の年代測定

 

③大野遺跡群(第五回)のまとめ を拝見すると

 

石器群を出土しているC遺跡Ⅸ層、D遺跡Ⅷc層・Ⅷe層、E遺跡XIV層の最下層は、

共に安山岩基盤層の上層にあたる赤褐色粘質土で、同時期に形成された層と考え、

その層の年代については、ルミネッセンス年代測定(OSL法)行った結果、

六万九千,三〇〇 ± 一万三千,九〇〇年という年代が測定されました。

とありました。

 

さらに

最も古く八三,二〇〇年、最も新しくて五五,四〇〇年前と考えられ、いずれにせよ

四〇,〇〇〇年を超えることから、後期旧石器時代以前の石器群と言及できるとも言えます。

とあります。

 

※最も古く8万3200年最も新しくて5万5400年前

 

 

凄い!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

😱

 

調査にあたられた和田好史先生、関係者の方々のご苦労、熱心な調査に

心から敬服致しました。

 

 

所で・・・

スクレイパー ・ ビュリアン ・ チョッパー ・ ノッチ・・・

って 一体何だろう (-_-)・・・(?_?)

 

となりまして・・勉強致しました(p_-)

と言っても・・ウィキペディアですが・・・(^▽^;)

 

 

 

3.スクレイパーって何だろう?

 

実は、大野遺跡群だけではなく・・他、球磨郡内の旧石器時代からの遺跡に関する調査報告書を拝見している際に、数回「スクレイパー」という文字を見てはいたのですが・・(^▽^;)

何だろう(?_?) とは思ってはいたものの・・勉強はしていませんでした。😅

 

今回、大野C・D・E遺跡群に関する和田先生の人吉球磨トポスの考古学

を拝見して非常に興味が湧きまして

勉強しなければ!

とウィキペディアを見ました(p_-)・・・(^▽^;)

 

 

 

 

 

スクレイパー ウィキペディアより抜粋致します。

 

 

石器としてのスクレイパーには代表的なものにサイドスクレイパーとエンドスクレイパーがある。

旧石器時代から新石器時代に至るまで世界各地でこの石器が作り続けられた。

 

また、縄文時代になっても東北と北海道では依然として用いられており、最も新しい時期のものとしては8世紀初頭の北大式土器に伴出する黒曜石製の円形スクレイパーが知られている。

サイドスクレイパー(side scraper 仏語ではラクロワール:racloir)
日本語では削器(さくき)、横型削器、側削器とも呼ばれる。

薄片石器の一種。薄片の横に刃を付けたもの。皮を切ったり、木や骨を削るのに使ったと考えられている。

 

中期旧石器時代以降
 

エンドスクレイパー(end scrapers 仏語ではグラトワール:grattoir)
日本語では掻器(そうき)、削器(さっき)、縦型削器、端削器とも呼ばれる。薄片石器の一種。

 

薄片の端に刃を付けたもの。皮の裏側に付いた脂肪を掻き取る、皮なめしの道具であったと考えられている。

 

後期旧石器時代以降。その他に、皮剥・削道具(鳥居龍蔵)、石掻・石剥(大山柏)、堅型皮削(酒詰仲男)、横刃形石器・先刃形石器、削器型石器・掻器型石器(杉原荘介)などがある。

 

以上 ウィキペディアより抜粋致しました。

 


※サイドスクレイパー・・中期旧石器時代以降

 

※エンドスクレイパー・・後期旧石器時代以降

 

 

中期旧石器時代 約30万年前 - 約3万年前
ムスティエ文化(約30万年前 - 約3万年前)
アテリア文化(英語版)(約8万2千年前)

 

後期旧石器時代 約3万年前 - 約1万年前
 

 

ブログ前半でも書きましたように・・

日本における旧石器時代は、後期については、北海道から九州にかけて5000カ所を超える遺跡が確認される。

 

前期/中期についても、数こそ少ないがいくつか確認されている。

 

 

つまり(p_-)

大野遺跡群 C・D・E遺跡は・・

ルミネッセンス年代測定(OSL法)行った結果、
六万九千,三〇〇 ± 一万三千,九〇〇年という年代が測定された・・

最も古く8万3200年最も新しくて5万5400年前

 

 

うん(?_?) マテヨ・・

 

あさぎり町深田(旧深田村)の

加久藤火砕流(33万年前)の堆積時に由来すると思われる

大小多数の軽石円礫が混在していた砂礫層基部から出土した

深田小産旧石器

 

あさぎり町深田(旧深田村)の下里遺跡から出土した
11万年以前の剥片石器・・・

 

 

つまり 上記は

数こそ少ないが”いくつか”確認されている・・・中の

”いくつか” なのですね!
 

凄い!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

😱

 

 

 

 


1993年に発行された熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 には
 

ナイフ形石器文化では、人吉市血気ケ峯遺跡でみつかった石器文化がもっとも古い。
台形石器や刃部磨製石斧が伴うもので、今から3万年ほど前のものである。

 

とありますから・・

中期旧石器時代の晩期から後期旧石器時代の初頭・・

という訳ですね!

😊

 

 

 

前回も書きましたが

超古代の人類?「球磨超古代人?」は、様々な自然災害、
特に火山による多大なる影響を受けてこられたのは明らかです・・

シラス下の地層から多くの石器が出土した遺跡が球磨地方には沢山・・

 

ただし(p_-)・・😊

姶良Tn火山灰、姶良ATからの降灰から植生が復活すると

人はまた、旧石器時代においても「この地」に住み始めるのです・・

当時の遺跡も多数発掘されています

 

超古代人?にとって、住みやすい土地であったのでしょう😊

 

 

そして・・この地に

高度な文化と高い精神性を持った方々が・・・

来られたのか・・それとも旧石器時代の人達が進化を遂げられたのか・・

それとも・・DNAのハイブリッドが誕生したのか・・・?

 

 

 

 

 

所で・・

ビュリアン ・ チョッパー ・ ノッチって何だろう・・(?_?)

 

次回までに勉強致します😊

 

 

 

かなり長くなりましたが、どうしても今回書いておきたい事があります・・

 

4.瓊瓊杵尊様のご降臨の年

機械的に計算すると・・・

 

 

今回、旧石器時代の事を書きましたので・・<m(__)m>

 

旧石器時代とは、

ホモ・ハビリスなどヒト属による石器(打製石器)の使用が始まった時代で、

石器時代の初期・前期にあたる。

年代的には200万年前に始まる。

 

※200万年前に始まる

 

球磨が古代人吉湖となった時代です。

 

 

皆様は、日本書紀において瓊瓊杵尊様のご降臨の年をいつの時代と記されているのか

ご存知ですか?

 

 

ウィキペディアの

機械的に西暦に置き換えた年代について「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照すると・・

 

 

 

いずれも『日本書紀』の記述を基に編纂された長暦である『日本長暦』に基づくものであり、考古学的知見に基づくものではない。

とありますが・・

 

 

天祖 彦火瓊瓊杵尊

天神の孫(天孫)で、神武天皇の曽祖父。東征開始時(BC667=BJ7⊂甲寅年)の神武天皇の言葉によると、天祖降跡(天孫降臨)は次の9年間のいずれかの年に行われた。

 

西暦 BC179万3145年~BC179万3137年

皇紀 BJ179万2485年~BJ179万2477年

 

もちろん、神話のお話、内容とは全く繋がらないのですが

しかし、私は

旧石器時代の始まり約200万年前と

日本書紀から機械的に計算した瓊瓊杵尊様のご降臨の年が

とても近いという事が不思議でならないのです。

 

偶然ではないのでは・・と思います

 

不敬だとお考えになられる御方もいらっしゃると思います。

申し訳ございません。

 

ただ・・

神話の部分ではなく、「ご降臨の年」のみに焦点をあてると・・

 

もしかしたら・・日本書紀の編纂者の方々は何かご存知だったのでは?

と考えた事もあるのですが、その事が・・

日向の襲 つまり、日本最古の陸地の一つである

現在の九州中央山地に何か関係しているのでは?と

 

ブログ『(再)⑭日本列島最古の陸地の 高原と神殿原』を書いた時から考えていました。

 

 

 

第三紀以降ずっと海面上に現れていた

日本最古の陸地の一つ
九州中央山地

 

 


これらの地域は激しい構造運動を受けたあと、いったん準平原化し、再び急激な上昇をおこして山脈化した・・
 

人吉盆地(球磨盆地)はこの上昇運動に取り残された断層角盆地で、盆地東部には複合扇状地が作られている・・

 

 

私が住んでいる地域は第三紀以降ずっと海面上に現れていた
日本で最も古い陸地の一つの上下運動に取り残された
盆地

 

私は九州中央山地の何れかの山の高さ

何かに関係しているような気がしていました・・

8世紀(西暦700年代)には、すでに山の測量技術は国内に伝わっていました・・

 

詳しくは後日 そう・・後半の続きで <m(__)m>  

 

 

そうです 球磨は・・

平安時代から鎌倉時代初頭にかけて

治天の君が荘園領主であられる

天皇領 球磨御領

でした・・

 

 

 

妄想・・

前期旧石器時代の遺跡は日本には無いと言われているようですが・・

九州中央山地の何れかの山に・・前期旧石器時代の石器が・・

遺跡が・・隠れていたりして・・

 

 

(独り言)

今回、過去ブログ「シュメールと矢岳(神の峠)」のお話をチラッとご紹介しましたが

私・・以前は「あちら」から来られたのかな・・と思っていたのですが、最近は・・

こちらから「あちら」に向かわれて、帰って来られたのでは・・?と考えています・・・

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

今回は

1.「彫器」って何だろう?から勉強した事

2.8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡について

※1.大野C・D・E遺跡群の堆積層と出土石器

※2.大野C・D・E遺跡群の年代測定

3.スクレイパーって何だろう?

4.瓊瓊杵尊様のご降臨の年 機械的に計算すると・・・

 

と言った内容をご紹介させて頂きました。

 

 

 

皆様
最後までご覧頂き ありがとうございました。


 

 

油断は禁物です(ー_ー)!! 

毎回書きますが<m(__)m>
お国がもう大丈夫です!と言われるまで、
 

お身体十分にお気を付けになられて下さい。
😊

 

 

 

 

私には 球磨の自然が教えてくれます

それは・・

ここに居るから解る事・・

なのだと 思います

 
始まりは 数万年前・・・

😊

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『㊶ー1 古代湖と日向國真幸院と中世のご先祖様』に続きます。