前回のブログ

再投稿㊵8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡から見えた事』から続きます。

 

 

 

 

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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
令和二年七月の豪雨災害に遭った郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

明るい道が見えて参りましたが・・

また新たな変異株が出現・・

 

しかし、この2年近くで、私達は様々な事を学びました

だから、こそ

油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って
出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊



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この数日

信じ難い事件

そして、本日は信じ難いニュースを目にしました

 

心が痛いです

 

失われた多くの方々の御霊に

心よりご冥福をお祈り致します

 

残された方々のご心境を考えると

お気の毒で

心が張り裂けそうになります

 

 

 

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はじめに<m(__)m>

 

最近、朝の氷点下から日中は暖かい・・の繰り返しに身体が慣れてしまっていたのか・・

今回の寒波に身体が驚いてしまったようです😥

 

庭掃除をしていたら、急に胸がキリキリっと・・

大事をとって少し安静にしていたら、治まったのですが、無理しないでおこう・・と

18日は楽しみにしていた郷土研究会の例会もお休みさせて頂き😥 凄く残念

さらに、色々お話を伺いたかった方とのお約束もお断りさせて頂き😥😥 凄く残念

 

身体のリズムって急な気温の変化等には中々すぐに適応しないのだなぁ・・と

痛感いたしております。

 

皆様もご無理なさらないように<m(__)m>

 

 

 

 

私・・9月の末から「思考の休憩期間?」に入っていたのですが、その期間に気が付いた事と最近、勉強させて頂いた事が「思考の休憩期間?」に入る前に考えていた事に繋がっていると今回、ブログを書く為に用意した資料や事前に理解していた情報をみると強く感じています・・

繋がっている・・そう感じた事を今回以降数回に分けて書きたいと思います<m(__)m>

 

今回と次回のブログ内容は

超古代 ⇒ 鎌倉時代 ⇒ 南北朝時代 ⇒ ・・と

超古代 ⇒・・・・

時間が遡って、下るり、さらに遡る・・と言った内容になります<m(__)m>
 

 

とても長くなりそうですので

本日12月19日 続けて今回と次回のブログを 投稿いたします。

お付き合い下さい<m(__)m>

 

音楽と共に・・・

World's Most Heroic Emotional Music | by Sky Mubs

 

 

 

 

1.超古代の方々の御魂

 

 

前回のブログで

 

旧石器時代の始まり約200万年前と
日本書紀から機械的に計算した瓊瓊杵尊様のご降臨の年が

西暦 BC179万3145年~BC179万3137年
皇紀 BJ179万2485年~BJ179万2477年

とても近いという事が不思議でならないのです。

 

と書きました。

 

実は、私、ずっと感じていた事があります。

 

例えば旧石器時代のウィキペディアの記述をみても・・

現代人の言葉には当時を生きた人達の心が見えないのです・・

 

 

旧石器時代(きゅうせっきじだい、英語: Pal(a)eolithic Age)とは、ホモ・ハビリスなどヒト属による石器(打製石器)の使用が始まった時代で、石器時代の初期・前期にあたる。年代的には200万年前に始まる。旧石器時代は石器の出現から農耕の開始までの時代(完新世)をさす。

 

区分法
通常、旧石器時代は以下の3つに区分される。

前期旧石器時代
ハンドアックスがひろく用いられた時代。この時代の人類はホモ・ハビリスおよびホモ・エレクトスが主流であった。
 

中期旧石器時代
剥片石器が出現した時代。
ネアンデルタール人が広がった。

極東アジアの中期石器文化の特徴から、ヨーロッパから来たネアンデルタール人に依ったものではなく、アジアの原人から進化した古代型新人によって形成された可能性が大きいとされる。
 

後期旧石器時代
石器が急速に高度化、多様化した時代。このような技術革新の原動力を言語に求める説もある。クロマニヨン人(ホモ・サピエンス)が主流となり、他の化石人類は急速に姿を消した。

 

 

凄く学術的な記述であるのは十分解るのですが・・これらの記述からは

その時代を生きた「人類」に対しての「温かみ」とか「心」を全く感じる事ができないのです・・

 

 

前回のブログを書きながら、私は当時、超古代を生きた「人」たちの

文化や、心、生きた証、魂を感じていました。

調査を行われた方々のお言葉にも、当時の方々に対する崇敬の心を感じました。

 

 

しかし、多くの現代人の「言葉」には当時の人達に対する崇敬の心を全く感じません

 

 

ただ

日本書紀の編纂者の方々は

遠い遠い時代の日本に生きた、多くの自然災害の中、逞しく生きて来られた方々への

一つ一つ新たな文化を創り出して来られた方々への

崇敬の心をしっかりとお持ちになられていらした!

 

と私は強く感じます

 

遠い遠い時代を生きた方々の魂に対する

崇敬の心を

感じるのです

 

日本では

4万年〜3万年前には

世界最古の磨製石器が製作されていたのです!

すでに日本では独自の文化が形成されていた!

 

 

※ウィキペディア日本列島の旧石器時代より

 

 

前々回のブログ

『日本最古級の石器と世界最古の土器と世界最古級の土器』でも書きましたように、

日本の土器が世界最古なのです!

 

私は

日本書紀を編纂なさった方々が、これらの事を良く理解し、

そして、古の超古代の方々へ対する崇敬の心と、我が国の超古代から綿々と受け継がれてきた文化に誇りを感じていらっしゃった!

と考えます

 

もちろん

縄文時代後期から弥生時代、古墳時代にかけての出来事や儒教や道教、仏教が伝わった後の考えも神話の世界には盛り込まれている事は解ります。

 

ただし

古の超古代の方々へ対する崇敬の心と、

我が国の超古代から綿々と受け継がれてきた文化に誇りを感じていらっしゃった!

と言う事も、しっかりと現代人は理解しなければならないのでは!?

と最近強く感じるのです・・

 

私自身・・歴史の中の

もっと、深く様々な時代を生きた人達の「心の部分」を読み取る事が出来る人に

なりたい・・

そうしたら、私のご先祖様方も、きっとお喜びになられる

と感じるのです・・

 

 

 

例えば皆様

『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)

神様

 

天孫降臨の際に、邇邇芸命さまを道案内した国津神

猿田彦命さま

 

『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であられました。

 

 

背(そびら)の長さは七尺

 

尺をウィキペディアで拝見すると

 

日本では・・5世紀中頃には26cm代

 

つまり日本書紀では国津神であられる猿田彦命さまのご身長は

182㎝前後であった・・と記されているのです

 

 

鼻が高くて高身長であられた猿田彦命さま

 

私は・・

日本の古代に(旧石器時代~縄文時代全般にかけて)

そういう方が「どこかの地」にいらした

という伝承がどこかの地に残っていて

日本書紀の編纂者の方々が、その伝承をご存じでいらしたのでは?

と考えます😊

 

そして8世紀の時代において

敬っていらした・・と

 

 

 

 

2.古代の古加久藤湖

 

前回のブログで熊本県人吉市と宮崎県えびの市に広がる

矢岳高原から見た風景をご紹介致しました😊

 

 

 

 

 

ブログを書いた後、あらためて加久藤盆地のウィキペディアの記述を読んで理解した事があります。

 

 

 

 

ウィキペディア 加久藤盆地より 抜粋致します

約33万年前の大噴火で発生した加久藤火砕流は薩摩半島と大隅半島の中部以北と人吉市付近および宮崎平野にまで広がり、半径約50kmの範囲に溶結凝灰岩の地層を形成した。

 

加久藤カルデラに水がたまり、さらに霧島山西端にある栗野岳の溶岩によって水の出口を塞がれることによって古加久藤湖と呼ばれる水面標高約300mの堰き止め湖が形成された。

 

この湖の南部は霧島山の火山活動によって埋められ、残った北部も入戸火砕流などによって堆積が進み、最終的には川内川による湖口部の侵食が進んで排水され加久藤盆地が形成された。

 

湖底堆積物が加久藤層群と呼ばれる地層として残されており、湖の水位変化の痕跡が川内川の河岸段丘として残されている。

 

以上 ウィキペディアより抜粋させて頂きました。

 

 

理解した事(p_-)

※約33万年前の大噴火以降、加久藤カルデラに水がたまり古加久藤湖と呼ばれる水面標高約300mの堰き止め湖が形成された。

 

※湖の南部は霧島山の火山活動によって埋められ、

残った北部も入戸火砕流などによって堆積が進み、最終的には川内川による湖口部の侵食が進んで排水され加久藤盆地が形成された。

 

※入戸火砕流・・・(いとかさいりゅう、いりとかさいりゅう)

約2万5千年前に姶良カルデラの大噴火で発生した大規模な火砕流

 

約33万年前~約2万5千年(以降まで・・)存在した

古加久藤湖

 

勉強不足でした・・全く理解していませんでした・・

 

つまり(p_-)

前回のブログでご紹介した大野遺跡群を残した中期旧石器時代の人達は

矢岳高原から湖に浮かぶ霧島連山を見ていたのですね・・

\(◎o◎)/!

 

 

美しい・・だけでは無かったと思います

 

おそらく当時の火山活動が活発な霧島連山は火山の神々様は

ちはやふる神々

当時の人達は恐れ敬われていたと推測致します

 

 

矢岳高原の巨石

 

 

前回のブログでもご紹介した

43年前に遠足で撮影した写真・・・・

 

 

人吉市矢岳町でハンドアックスを使用していた4万年前の人達や

大野遺跡群 C・D・E遺跡を構成した人達の時代を想像しながら見つめました。

 

当時の人達にとって、矢岳高原の巨石群は

やはり磐座(いわくら、磐倉/岩倉)であったのでは

と強く感じました・・

 

 

磐座 ウィキペディアより

 

 

 

磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。

あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。

 

日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)であり、基層信仰の一種である。

 

神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。

 

時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。

 

以上 ウィキペディアより抜粋して転記致しました。

 

 

 

時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが・・・

 

 

あっ!だからか・・・

 

3.中世の日向国真幸院

 

実は矢岳高原の直下、えびの市吉田、旧真幸院吉田郷の山中に

神社様がご鎮座でありました。

 

気になったので御由緒書きだけ、写真に撮っておりました・・

 

宮崎県えびの市吉田にご鎮座の

日枝神社(山王)の由来

 

 

永仁元年正月(1293年)

北原領主時代に、創建者「日下部貞継」氏が建てたと歴史に伝えられている。

 

御祭神は大山祇命神が祭られ軍神としても崇拝され、戦国時代は各武将が先勝の神として祈願や参拝なさっていらした と記されています。

 

 

 

あっ!? \(゜ロ\)(/ロ゜)/

 

日下部貞継・・・

 

日向日下部氏と言えば・・・岩切氏・・

 

父と母は私が8歳の時に離婚して私は父方の祖母のもと球磨で育ちましたが・・

私の母は岩切氏。母の実家は・・

宮崎県高鍋町蚊口にご鎮座の鵜戸神社宮司家(岩切氏)の一族です・・

 

両親は離婚していますので 詳しくはちょっと・・・<m(__)m>

 

 

岩切氏 ウィキペディアより

 

その祖は日向・日下部氏である。

日下部氏は古代より続く有力豪族であり、薩摩隼人の末裔とも言われ、

日向真幸院の郡司を務めた家である。

 

その日下部氏の系図に、血縁から発生した土持氏や八木氏・海江田氏ら約80の氏族の中のひとつとして「岩切」姓が記述されている。

岩切姓は上代から中古までは史料に見られず、一説によると、平安時代末頃から土持氏と縁戚関係を強めていた日下部氏が、戦国時代の黎明期に伊東氏の勢力拡大によって打撃を受け、日向国諸県郡国富荘本郷岩切(現在の宮崎県宮崎市郡司分岩切)へと移り、そこで「岩切」姓に改姓したのが始まりと言われている。

 

日向国諸県郡国富荘一帯を支配していた武家の岩切氏の末裔が宮崎県における「岩切」姓の起源であり(文明17年(1485年)に伊東氏と伊作家の合戦で戦死した北郷氏家臣の岩切信尚などが見える)

 

 

きゃぁ~

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

 

どげんしょう・・・私の矢岳高原への思い・・

こりゃぁ・・私に流れるどっち?の血がザワザワしよんなっとか 解らんバイ・・

思わず球磨弁・・

 

家は・・宮原氏 祖母の実家は平河氏 母の実家は岩切氏・・

※宮原氏・・ 本姓橘氏 平河氏・・本姓良峯氏 岩切氏・・日向日下部氏

 

 

真幸院と言えば(p_-)

南北朝時代、球磨の平河氏の所領地の一つ日向真幸院の一部が加わった時期がありました・・

 

過去ブログ 『相良定頼并一族等所領注文』

 

 

 

相良定頼并一族等所領注文 より 一部画像・・

 

相良定頼并一族等所領注文4

 

 

平河又三郎分

一所 日向國真幸院引田貮十町 頼尚跡

 

頼尚跡とは

南北朝時代から室町時代にかけての武将

少弐氏6代当主 少弐 頼尚公の跡

という意です

 

ご参考までに ウィキペディア少弐 頼尚 <m(__)m>

 

 

平河又三郎とは

平河師里という方で

日向国真幸院 馬関田荘(まんがた荘)の預所となります。

 

 

祖母方(平河氏)と母方(日向日下部氏族 岩切氏)・・

 

真幸院吉田村・・そう言えば!!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

 

平河氏は・・吉田村に攻め入った・・

との記録が残っています!!

そして、後に吉田の預所となります・・

 

きゃ~😱😱😱😱

 

 

父と母は恋愛結婚の末に何故??・・・(ー_ー)!!

あまり深く考えないように致します😐😐

 

 

そう😊

私が矢岳高原に思い入れがあるその理由は・・

きっと・・私の父方、母方、双方のご先祖様方にとって

とても大切な地であったから・・

だと思います

 

 

余談でした<m(__)m>

 

 

ここまで書いてようやく理解出来たのですが・・(今更ながら・・)

 

通説で言うと・・

あくまでも通説で言うとですが<m(__)m>

 

私は・・

父方 

宮原氏(本姓橘)

祖母の実家 平河氏(本姓良峯)※祖 良峯安世 父君 桓武天皇

橘氏も良峯氏も平安時代までの皇統と言われる豪族集団で・・

 

つまり遡ると・・

瓊々杵尊と木花開耶姫の子であり、神武天皇(初代天皇)の祖父でいらっしゃる

彦火火出見尊様の後裔・・

 

 

母方 は日向日下部氏 隼人後裔と言われる豪族集団で・・

つまり遡ると・・

日本神話には海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり、

祖神火照命の末裔であるとされる・・

火照命(ほでりのみこと)は、『古事記』で

瓊々杵尊と木花開耶姫の第一子として登場する日本神話の神

火照命様の後裔・・

 

私は・・海幸彦様の後裔と山幸彦様の後裔の・・ハーフ?なんだ・・

あんにゃっ(?_?) 😱

古代系ハーフのひろっぷしゃん(*^-^*)

 

いえいえ(ー_ー)!!冗談は、さて置き・・

 

ここまで書いて今更気が付いたのですが・・(本当に今更ですが・・)

父方を辿っても母方を辿っても

どちらにしても・・通説で辿ると・・

ご先祖様 氏神様は

瓊瓊杵尊様と神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)、別名を木花開耶姫様

となられる訳ですね・・

 

うむむっ(p_-)

だから・・超古代が気になって仕方がないのか・・・

(今更!!? とのお声がいずこから聞こえてきたような・・(?_?) )

 

 

神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)、別名を木花開耶姫様の御父上は

大山津見神(大山祇神)様

 

先に書いた矢岳高原直下の吉田にご鎮座の日枝神社様

永仁元年正月(1293年)
北原領主時代に、創建者「日下部貞継」氏が建てたと歴史に伝えられている。

 

御祭神は大山祇命神

 

日向日下部氏が遡った母系の父神様をお祀りになられた・・

という事ですね!

 

あくまでも通説で言うと・・ですが・・

 

 

しかし・・今回中世の事、今まで調べていた事をあらためて書いて

頭が整理されました😊

 

どうりで、矢岳高原に行くと背中がうずうずしていたんだぁ・・

封印して頂いたお経のあたりが・・・ザワザワと・・

 

 

磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。

あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。

 

神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。

 

時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが・・・

 

 

 

この続きは市房山の奇石 原初を見つめて・・と題して次回に・・<m(__)m>

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

ここまで

1.超古代の方々の御魂

2.古代の古加久藤湖

3.中世の日向国真幸院

という内容でした

 

次回は

市房山の奇石 原初を見つめて・・と題して、本日中に投稿する予定です。

※只今、編集中・・お待ちください<m(__)m>

 

 

皆様
最後までご覧頂き ありがとうございました。


 

 

油断は禁物です(ー_ー)!! 

毎回書きますが<m(__)m>
お国がもう大丈夫です!と言われるまで、
 

お身体十分にお気を付けになられて下さい。
😊

 

 

 

 

私には 球磨の自然が教えてくれます

それは・・

ここに居るから解る事・・

なのだと 思います

 
始まりは 数万年前・・・

😊

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『㊶-2 市房山の奇石 原初を見つめて・・』に続きます。