前回のブログ『㊶ー1 古代湖と日向國真幸院と中世のご先祖様』より続きます。

 

 

 

2021/12/21 23:30追記

2021/12/20 18:46投稿の拙ブログ、すでにご覧頂いた方々に
心からお礼申し上げます。

 

これから、ご覧頂く方、拙ブログに興味を持って頂き
ありがとうございます。

新たに気が付いた事がありますので、今回のブログに特記として書かせて頂きます。

 

今回のブログでは、古事記、日本書紀のお話に触れさせて頂きました。

 

古事記の編纂に関わった御方 稗田 阿礼 (ひえだ の あれ)

 

姓稗田、名阿禮

稗田氏は『弘仁私記』に天鈿女命の子孫と見え、『西宮記』から猿女君を輩出する氏族の一つであったと見られる・・とありますが諸説を拝見しました。


前回のブログでご紹介した『相良定頼并一族等所領注文』

 

相良定頼并一族等所領注文をあらためて見ていて初めて気が付きました。

相良定頼并一族等所領注文7

 

薭田了仙房 分

日向国真幸院西郷吉田村田地拾町

 

こちらの

薭田氏(稗田氏)は相良定頼公の一族でいらしたようです・・

 

上記の稗田氏がどちらの系でいらっしゃるのか、今は解りませんが、

あえて今回、特記として追記させて頂きました。

 

以下12月20日に投稿した内容となります

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 

すでに、前回のブログをお読み頂いた皆様

ご覧頂きありがとうございました。

 

前回、

とても長くなりそうですので

『本日12月19日 続けて今回と次回のブログを 投稿いたします。』

と書きましたが

間に合いませんでした😥😥

申し訳ございませんでした

 


本日、12月20日

昨日のブログ投稿内容の続きを投稿いたします。

 

未だ、前回のブログ『㊶ー1 古代湖と日向國真幸院と中世のご先祖様』を

ご覧頂けていない御方は、貴重なお時間をかけて頂き、大変申し訳ございませんが

ぜひ、前回のブログをご覧頂いた上で、「続き」となる今回のブログをご覧頂きたく

心よりお願い申し上げます<m(__)m>

 

前回のブログ『㊶ー1 古代湖と日向國真幸院と中世のご先祖様』をお読み頂かなければ今回、書かせて頂く内容に、何故?私が気が付いたのか、何に導かれているのかが

お解り頂けない・・と思います<m(__)m>

 

貴重なお時間を申し訳ありません<m(__)m>

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

先に投稿したブログでも書きましたが・・

 

この数日

信じ難い事件

そして、昨日12月19日は早朝から

信じ難いニュースを目にしました

 

心が痛いです

 

失われた多くの方々の御霊に

心よりご冥福をお祈り致します

 

残された方々のご心境を考えると

お気の毒で

心が張り裂けそうになります

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

前回は

1.超古代の方々の御魂
2.古代の古加久藤湖
3.中世の日向国真幸院

 

という内容を書かせて頂きました。

 

早速、上記に続けます。

 

音楽と共にお付き合い下さい<m(__)m>

 

前回と同じく・・

World's Most Heroic Emotional Music | by Sky Mubs

 

 

 

 

 

 

 

 

4.市房山は日向の山・・

 

 

前々回のブログ『再投稿㊵8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡から見えた事』に追記

 

市房山は実は江戸時代まで日向の山と

幕府は認識していた・・

 

というお話を書きました<m(__)m>

 

 

でっ(p_-) ここで椎葉のおじ登場

実は・・私の父の従兄である椎葉のおじと、奧さん。

二人はいとこ同士で・・

二人のおじいさんは、大正時代に市房山本宮の宮司をお務めになられていらしたのです(p_-)

※本姓大神氏の尾方氏

 

椎葉のおじに「江戸時代まで市房山は日向の山と認識されていた」という話を伝えると・・

「あっ!じゃっよ!そげん聞いた事がある😊・・😤 」と・・

(訳 あっ!そうだよ!そういう風に聞いた事がある)

 

えええ~っ

\(◎o◎)/!

やっぱりそうだったんだ・・(p_-)

知らなかった・・

 

 

「今の若っかもんは 知らんやろねぇ~ 」と、おじ・・

(訳 今の若い人達は知らないだろうねぇ~)

 

 

現代、市房山は熊本県と宮崎県にまたがる山

となっています😊

 

 

江戸時代だけではなく(ー_ー)!!

古代から現代に至るまで

市房山は球磨人にとって

とてもとても大切な心の拠り所でもあります😊

 

 

 

ブログ『再投稿㊵8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡から見えた事』で

書かせて頂いた事・・

 

 

 

いずれも『日本書紀』の記述を基に編纂された長暦である『日本長暦』に基づくものであり、考古学的知見に基づくものではない。

 

 

天祖 彦火瓊瓊杵尊

天神の孫(天孫)で、神武天皇の曽祖父。東征開始時(BC667=BJ7⊂甲寅年)の神武天皇の言葉によると、天祖降跡(天孫降臨)は次の9年間のいずれかの年に行われた。

 

西暦 BC179万3145年~BC179万3137年

皇紀 BJ179万2485年~BJ179万2477年

 

もちろん、神話のお話、内容とは全く繋がらないのですが

しかし、私は

旧石器時代の始まり約200万年前と

日本書紀から機械的に計算した瓊瓊杵尊様のご降臨の年が

とても近いという事が不思議でならないのです。

 

偶然ではないのでは・・と思います

と・・

 

さらに

私は九州中央山地の何れかの山の高さ

何かに関係しているような気がしていました・・

8世紀(西暦700年代)には、すでに山の測量技術は国内に伝わっていました・・

 

とも・・

 

九州中央山地の中で

標高の高い山は

祖母山 1756m

国見岳 1739m

市房山 1721m

 

 

九州中央山地ではありませんが

霧島連山で最も標高が高い山が

韓国岳 1700m 

 

 

皆様、何かお感じになられる事はございませんか・・・

 

8世紀(西暦700年代)には、すでに山の測量技術は国内に伝わっていました・・

山の測量を行う基点となる地は

郡家

 

詳しくは次回、ご紹介致します。

 

 

 

 

5.日向(ひむか)の襲の山

 

 

日向の襲の山

 

林兼明氏の「神に関する古語の研究」を拝読して

襲 = 背

と理解した私は

 

日向の襲の山 とは

その場所には何らかの伝承、もしくは何かが残されていた場所

記紀を編纂なさった方々が雄大な神話を描くためにお選びになられた場所

 

その場所の一つが

九州中央山地 ではないのかな・・?

と考えていました。

 

第三紀以降ずっと海面上に現れていた
日本最古の陸地の一つ
九州中央山地

 

 

以下 ウィキペディア 天孫降臨より 転記致します

じっくりと拝読して、私は初めて気が付いた事がありました<m(__)m>

 

 

日本書紀

(注)日本書紀の本文と一書(あるふみ)について:

本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。

本文と異なる異伝も併記するという編纂方針。

ここではまず本文を説明した後、各一書を説明する。

 

 

 

『日本書紀』の第九段本文

皇孫は天磐座(あまのいはくら)を出発し、また天八重雲あめのやえくもを押し分け、稜威(いつ)の道ち別き道別きて、日向(ひむか)の襲の高千穗峯に天降った

 

 

第九段一書(一)

皇孫は

天磐座(あめのいわくら)を脱離ち、天八重雲を押し分けて、稜威の道別に道別て、天降(あまくだる)。果して先の期ちぎりの如く、皇孫は筑紫の日向の高千穗の触之峯(くじふるのたけ)に到る。

 

 

第九段一書(二)

天津彦火瓊瓊杵尊は日向の日(くしひ)の高千穗の峯(たけ)に降り立ち、膂宍(そししの)

胸副国(むなそうくに)を頓丘(ひたお)から国覓(まぎ)行去(とおりて)、浮渚在平地(うきじまりたひら)に立った。

 

 

第九段一書(四)

大伴連の遠祖である天忍日命(あまのおしひ)が、来目部(くめべ)の遠祖である天串津大来目(あまのくしつのおおくめ)を率い、背そびらには天磐靫(あまのいわゆき)を背負い、腕には稜威高鞆(いつのたかとも)を著け、手には天梔弓(あまのはじゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)を取り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を副え持ち、また頭槌劒(かぶつちのつるぎ)を帯びる

 

(二柱の神)天孫(あめみま)の前(さき)に立ちて、進み降り、

日向の襲の高千穂の串日(くしひ)の二つの頂のある峯に辿り着き、浮渚在之平地(うきじまりたいら)に立ち、頓丘(ひたお)より国覓まぎ行去とおりて、吾田の長屋の笠狭之御碕(かささのみさき)に辿り到る

 

 

第九段一書(六)

天国饒石彦火瓊瓊杵尊(あまつくににぎしほのににぎ)

時に降り到りし所は、呼びて日向の襲その高千穗の添山峯(そほりのやまのたけ)と言う。

 

 

 

 

ウィキペディアより

古事記 天孫降臨 

邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。

天忍日命と天津久米命が武装して先導した。

天忍日命は大伴連おほとものむらじらの、天津久米命は久米直くめのあたひらの、それぞれ祖神である。

 

邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。

 

 

🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸

 

 

 

こうやって、転記させて頂いて、初めて気が付いた事がありました・・・

 

不敬とおっしゃる方もいらっしゃるかと思いますが

ご了承下さい

 

 

 

私の住む地は、和名類において

肥後国球磨郡久米郷 と記されています

 

古代久米族の原初的な本拠地と言われる場所です・・

 

 

 

日本書紀

第九段一書(四) に
天忍日命(あまのおしひ)さまと天串津大来目(あまのくしつのおおくめ)さまのお話が記され

日向の襲の高千穂の串日(くしひ)の二つの頂のある峯に辿り着き

 

と記されています

 

二つの頂のある峯

 

 

天串津大来目(あまのくしつのおおくめ)さま

先に編纂された古事記では

天津久米命さま

 

つまり

日本書紀では久米氏の祖となられる神様が記された内容

「第九段一書(四)」のみに

二つの頂のある峯

 

とあるのです

 

 

さらに

第九段一書(六)には

時に降り到りし所は、呼びて日向の襲その高千穗の添山峯(そほりのやまのたけ)と言う。

と記されています。

 

 

 

林兼明氏の「神に関する古語の研究」では

二つの頂のある峯・添山峯(そほりのやまのたけ)に関して

添うように、たつ山がある場所であろう・・

 

とお書きになられていらっしゃいました・・

 

 

日本書紀

第九段一書(四) 第九段一書(六)に描かれたその風景・・

 

天忍日命さまと天津久米命さまが武装して先導・・

 

(二柱の神)天孫(あめみま)の前(さき)に立ちて、進み降り、
日向の襲の高千穂の串日(くしひ)の二つの頂のある峯に辿り着き

と描かれたその風景・・

 

その場所には何らかの伝承、もしくは何かが残されていた場所

 

記紀を編纂なさった方々が雄大な神話を描くためにお選びになられた場所
 

 

その場所の一つは


九州中央山地内のこのような風景であったのでは・・・

 

 

 

 

ブログ『(再)球磨には本当に熊がいた!さらに麻斯登登は球磨弁 そして球磨川と対馬

でご紹介した、人吉市大野町から少し下った大畑(おこば)梅園から見た

江代山(日向では津野岳)と市房山です・・・

 

 

 

 

 

市房山と江代山(日向では津野岳)は

添うように、たつ山です

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

6.市房山の奇石 原初を見つめて・・

 

前回のブログ『㊶ー1 古代湖と日向國真幸院と中世のご先祖様』で書きましたが

 

磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。

あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。

 

神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。

 

時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが・・・

 

 

 

 

市房山三神宮パンフレット

 

 

 

 

市房山神宮(本宮)の御祭神

 

 

 

 

江戸時代中期に編纂された

麻郡神社私考より

 

 

 

 

私は麻郡神社私考に記されていた内容がとても重要な事であるにも関わらず

今まで完全にスルーしていたのです・・

気に留めていなかった・・・

 

 

しかし、前々回のブログ

再投稿㊵8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡から見えた事』の中で、

 

妄想

前期旧石器時代の遺跡は日本には無いと言われているようですが・・

九州中央山地の何れかの山に・・前期旧石器時代の石器が・・

遺跡が・・隠れていたりして・・

 

と書いた後に、前期ではなくても何か山にあるんじゃないのかな・・?

と考えた時に、「あっ!」と気が付きました。

 

 

 

市房山三神宮パンフレットに記されている内容と麻郡神社私考に記された内容を要約します

 

 

市房山神宮(本宮)

江戸時代まで市房大権現

 

大同二年鎮座

 

古老傳云 久米ノ城主 諱市房という人が狩りで山に登り大きな奇石を見て霊地であると感じ、此処に小さな祠を建立した・・

 

※奇石ノ在ルヲ見

無上ノ霊地ナル事ヲ知テ

遂ニ小祠ヲ建立シテ安スニ・・

 

市房山三神宮パンフレットには

 

奇石について

この奇石は仏石と呼ばれ、現在の神宮から350メートル程登った斜面に巨石群があり

その一つが7~8メートル余りのほぼ垂直な立石である。

 

後に社殿を現在の社地に移し御嶽といった。

 

と記されています。

 

 

麻郡神社私考には

石佛(石仏) を 御嶽 ミタケ

さらに

絶頂ヲ 扇嶽ト号ス

 

と記されています。

 

 

奇石ノ在ルヲ見

無上ノ霊地ナル事ヲ知テ

遂ニ小祠ヲ建立シテ安スニ・・

 

巨石群があり

その一つが7~8メートル余りのほぼ垂直な立石

 

立石(石仏) は 御嶽 ミタケ であり

絶頂ヲ 扇嶽ト号ス

 

立石(石仏) は

磐座 であったのでは・・・

 

7~8メートル余りのほぼ垂直な立石

メンヒルではなかったのか!?

 

と私は感じました・・

 

 

 

球磨郡多良木町にもメンヒルが残されていました・・

2020年の2月に書いたブログで、ご紹介しています。

驚きの球磨の昔話 石杵だけじゃない メンヒールと石幣等も・・

 

 

 

 

皇紀二千六百年記念事業として編纂された球磨郡誌より

 

メンヒール(立石) 多良木町字岩川内(いわんごち)にあり、「立石さん」と呼ばれ、小岳の突端に屹立つする凝灰岩の柱石である。

 

即ち高さ地上三米五十(3m50)、幅一米二十五(1m25)、厚さ一米六十(1m60)、周囲五米七十(5m70)許の一大板石の巨岩である。

 

古老の話によれば、明治初年頃まで、「立石さん詣り」と言って、方々から参詣人があったようで、現在(※昭和16年頃)でも立石の麓を掘ると寛永通宝を発見する事が出来る。

 

この立石は元は、もっと高いもう一つの巨岩と並んで立っていたと言うのであるが、今は此の大きな石の方は、付近の川の橋梁をする為に切り取られ、現在立っているのは、その小さいものの方である。

 

付近より献供用にせられたものと思はれる縄文土器が出土し、且つ石器を発見せるも、殊に興味をひいたのは、軽石製の扁平なる円形の有孔石器の発見せられたる事で、これは或いは賽銭として用ひられた當時の石貨(僞貨)であろうと言はれるが、又漁具とした浮子とも稱へられている。(高田素次氏調査)

 

尚此の突き立つたる巨巖が、果たして欧州に於ける石器時代の所■巨石文化の遺物と稱せられメンヒルと同一なるや否やについては学者に於て異議あるものであるが、これは今後の学者の研究に任せて、唯々立石さんとして往時は尊崇したものであろうとの報告に留めておく。

 

以上 球磨郡誌より抜粋致しました

 

 

※付近より献供用にせられたものと思はれる縄文土器が出土し、且つ石器を発見せるも、殊に興味をひいたのは、軽石製の扁平なる円形の有孔石器の発見せられたる事

 

 

つまり!

球磨には「立石」・メンヒルを崇拝する方々が

縄文時代もしくは石器時代にいらっしゃった!

 

という事です

 

私は

市房山の奇石

立石(石仏)・・

御嶽 ミタケ は

古代の

磐座であり

メンヒルであった

 

 

と考えます!

 

 

実は、球磨郡の南に位置する白髪岳頂上付近、宮崎県との県境にご鎮座の

狗留孫神社様(くるそん神社)のご神体も

メンヒル

石卒塔婆(狗留孫岩)
 

です

 

 

 

狗留孫神社 伝承 ウィキペディアより

 

石卒塔婆(狗留孫岩)
ここには八大龍王の中の2龍王、健磐(たていわ)と娑伽羅(しゃがら)が住んでいた。

 

ある日のこと、健磐龍王は拘留孫仏に願って高さ十五尋(約二十二・七、または二十七・三メートル)、周囲二メートルほどある石卒塔婆を山中に建てた。

大変喜んだ娑伽羅龍王は観音菩薩にお願いして、高さも周りも同じの石卒塔婆を建てた

 

立石権現(立石神社)

 

拘留孫岩はずいぶん昔から有名だったとみえ、神武天皇も見物に行かれた。

そのとき「暫しこそ端山繁山茂けれども 神路の奥に道あるものを」という和歌を

お読みになられたという。

 

 

以上ウィキペディアより転記致しました。

 

暫しこそ端山繁山茂けれども 神路の奥に道あるものを

 

 

 

 

私はやはり

市房山の奇石は

古代の
磐座であり
メンヒルであった


と考えます

 

 

日本書紀の編纂者の方々は

この事をご存知あったのではないか・・

 

久米族の祖と言われる人達が住んでいた

 

久米族の原初的本拠地と言われた

球磨の地から

 

最も良く見える市房山の伝承、

 

そこに残る磐座を

※無上ノ霊地ナル事ヲ

 

日本書紀の編纂者の方々は

ご存知でいらしたのではないか・・

 

 

そう言えば・・

日本書紀編纂中の頃

こちらにお越しになられた御方がいらっしゃいました・・

 

長田王(攝津大夫) さまです

 

 

 

7.日本書紀編纂中にお越しになられた御方

 

 

2017年12月に書いたブログ

長田王(攝津大夫)がご覧になられた芦北の海

 

 

 

 

歌人として、

『万葉集』に伊勢斎宮に遣わされた際山辺の御井でおよび筑紫の水島へ派遣された際に詠んだ和歌6首が入集。

 

筑紫 = 九州

水島 = 球磨川に浮かぶ島

 

 

さらに

長田王(攝津大夫)の足跡 及び隼人の乱について

 

 

 

 

そう言えば・・・ 上記のブログを書いた時に、私は疑問を感じていました・・

 

「葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ」
「聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水島」
まさしく、上記の和歌は景行天皇紀そのものの歌である・・・?

日本書紀完成以前の和歌である事・・・?

さらに長田王 (摂津大夫)は和銅4年(712年)に伊勢斎宮に遣された際に
上記の和歌をお詠みになられた・・・・

 

 

長田王(攝津大夫)さま が

こちらにお越しになられた事に関する疑問に関して

当時の私は、未だ旧石器時代や縄文時代まで意識を向ける事が出来ずにいた

勉強不足の時期でした

 

 

でも、今は・・・

 

日本書紀編纂中に

長田王(攝津大夫)さまが、ご一緒にいらした方々が

ご覧になられた風景を目に浮かべる事が出来ます・・

 

おそらく・・・こういう風景ではなかったのか・・

 

 

霧島神宮元宮

 

 

 

矢岳高原・・

 

 

 

 

 

市房山と江代山(津野岳)・・・

 

 

江代・・・

 

 

斎(五木)にて不知火海を望む・・

 

 

市房山の麓・・・

 

 

夕暮れ近くの芦北の海・・・

 

 

そして・・球磨川・・

神様の川・・

 

 

 

 

 

そして・・・

霧島や球磨盆地の雲海・・・

 

 

 

 

『日本書紀』の第九段本文
皇孫は天磐座(あまのいはくら)を出発し、また天八重雲あめのやえくもを押し分け、稜威(いつ)の道ち別き道別きて、日向(ひむか)の襲の高千穗峯に天降った

 

 

 

日本書紀を編纂なさった方々は

 

天磐座(あまのいはくら)

日本の遥か遥か古代の方々が崇拝なさっていらした神々様を敬い

 

古の超古代の方々へ対する崇敬の心と、

 

我が国の超古代から綿々と受け継がれてきた文化に誇りを感じていらっしゃった

 

と私は強く思います

 

 

 

もちろん、前回も書きましたように

縄文時代後期から弥生時代、古墳時代にかけての出来事や儒教や道教、仏教が伝わった後の考えも神話の世界には盛り込まれている事は解ります。

 

 

しかし

日本では

4万年〜3万年前には

世界最古の磨製石器が製作されていたのです!

すでに日本では独自の文化が形成されていた!

さらに

日本の土器が世界最古なのです!

 

日本の文化は弥生時代に始まった訳ではない!

 

 

 

独り言

では、何故?熊襲討伐や東国征討の話が記されたのか・・

それは、海外が関係しているのでしょう

やむを得ず・・書かざるを得ない状況があったから・・

 

もしも・・・

後漢書や魏志東夷伝などが無かったら

存在しなかったら・・

 

熊襲討伐や東国征討などという作り話を

記される事は、その必要は無かった・・

 

と私は思います・・

 

何せ・・球磨囎唹と記された『筑前国風土記』等は

記紀編纂後に造られたもの・・

ですから・・😊

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

前回のブログ

1.超古代の方々の御魂
2.古代の古加久藤湖
3.中世の日向国真幸院

 

に続いて、今回は

4.市房山は日向の山・・

5.日向(ひむか)の襲の山

6.市房山の奇石 原初を見つめて・・

7.日本書紀編纂中にお越しになられた御方

という内容を書かせて頂きました。

 

 

実は・・・「思考の休憩時間?」前に書いていた後編の続きは

7.日本書紀編纂中にお越しになられた御方 のお話を書くつもりでいたのです。

 

しかし・・その時点で、私はマダマダ勉強不足だったと思います

縄文時代や旧石器時代の事を勉強して

ようやく・・書いて良い と

言われたのかもしれません・・

 

無上ノ霊地・・

この言葉が頭の中でリフレインしています・・

 

 

次回は

球磨の郡家の所在地や・・・

奈良時代の西大寺跡から出土した木簡に記された

球磨郡について

等を書きたいと思います😊

 

 

 

皆様
最後までご覧頂き ありがとうございました。


 

 

油断は禁物です(ー_ー)!! 

毎回書きますが<m(__)m>
お国がもう大丈夫です!と言われるまで、
 

お身体十分にお気を付けになられて下さい。
😊

 

 

 

 

私には 球磨の自然が教えてくれます

それは・・

ここに居るから解る事・・

なのだと 思います

 
始まりは 数万年前・・・

😊

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『㊸後編-5 無上ノ霊地と韓国岳と木簡と球磨の郡家』に続きます。