前回のブログ『(再投稿)㊶-2 市房山の奇石 無上ノ霊地ナル 原初を見つめて・・』
より続きます。
2021/12/31 07:15再々投稿
今回の拙ブログ、すでにご覧頂いた方々に、心からお礼申し上げます。
※令和3年の最後に独り言・・ の項に
記紀編纂時・・日本国において、皆が理解していた倭人の定義とは何だったのだろうと
考えた、あくまでも私の推論を追記として書かせて頂きました。
2021/12/31 07:20 追記
もちろん 古渡才伎(こわたりのてひと)、諸藩といった言葉は存じています😊
お暇な時にでも御覧になられてみて下さい<m(__)m>
😊
あと・・音楽変えました😊
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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
令和二年七月の豪雨災害に遭った郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。
新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます
感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております
明るい道が見えて参りましたが・・
また新たな変異株が出現・・
しかし、この2年近くで、私達は様々な事を学びました
だから、こそ
油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って
出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊
🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼
皆様
今年も私の拙いブログにお付き合い下さり
ありがとうございました
コメント、メッセージにおいて、暖かいお言葉、とても勉強になるご教示を
沢山の方々から頂きました。
心から感謝いたしております。
ありがとうございます
タイトルは
㊸後編-5 無上ノ霊地と韓国岳と木簡と球磨の郡家
では以下は音楽と共に<m(__)m> お付き合いください😊
Fearless Motivation - Principles (Epic Music)
本題に入る前に<m(__)m>
実は、先日、あさぎり町で開催された
球磨郡あさぎり町免田(江戸時代中期まで面田)の本目遺跡の発掘調査にあたられた、
関西外国語大学の佐古 和枝教授の講演会にお伺い致しました。
大変貴重なお話の数々を聞かせて頂き、講演会中、終始、心がワクワク致しておりました😊
中でも、凄く心ときめくお話が
球磨の古墳に埋葬されていらっしゃる女性
装飾品以外に鉄剣、他、武器が副葬されているそうです!
他地域では女性の副葬品に武器は非常に珍しいそうで
うぉ~!!
かっこいい~!!
球磨の古代女性らしいなぁ~
と、私は感動致しました😊
講演会での質問の時間に
わたくしひろっぷ、僭越ながら質問させて頂きました<m(__)m>
多くの方々の前で恥ずかしかったけど、勇気を振り起しました
質問の内容は
人吉大野遺跡群をはじめ、球磨地方には旧石器時代から縄文時代全般を通して多くの遺跡が存在しますが、この方々とクマソと呼ばれた方々の関係をどうお考えになられますか?
でした。
佐古先生とご一緒にお越しでいらした「先生」(失礼ながらお名前を伺っておりませんでした)が、先にお話して下さいました。
人吉大野遺跡群は3万年以上前の旧石器時代の遺跡群です
しかし、国内では殆ど知られていません
旧石器時代の遺跡や縄文時代の遺跡が集中して存在するこの地域は非常に稀な貴重な地域であります
とのお話でした😊😊
上記の多数の遺跡との関係性について
佐古先生は
「年代が違い過ぎるので、はっきりとした事は解りません」
とおっしゃっていらっしゃいました。
国内では殆ど知られていない・・
そうだったのだ・・と
私は大変貴重なお話をお伺いする事が出来て光栄でした😊
1.無上ノ霊地 市房山から見える風景
前回のブログでご紹介しました。
麻郡神社私考からの一文
奇石ノ在ルヲ見
無上ノ霊地ナル事ヲ知テ
遂ニ小祠ヲ建立シテ安スニ・・
奇石は
巨石群の中の7~8メートル余りのほぼ垂直な立石
麻郡神社私考ではその立石を
石佛(石仏) を 御嶽 ミタケ
さらに
絶頂ヲ 扇嶽ト号ス
と記されています。
私は、御嶽 ミタケ (立石)を
磐座・・メンヒルではなかったのか・・?
と推測致しましたが・・
世界各国のメンヒルはいささか新し過ぎますねぇ(p_-)
紀元前3000年代後期・・
仮説でも今から6000年から7000年前・・
新し過ぎますねぇ(p_-)
例えば、前回ご紹介した球磨郡多良木町の立石さま・・
すぐ近くに存在する大久保台地遺跡群は
旧石器時代からの遺跡群であり・・
8000年以上前の地層から
日本最古の精巧な石人形や
多くの幾何学模様が施された土器が出土しています・・
こちらは8000年以上前・・・
世界各国のメンヒルは
紀元前3000年代後期・・
仮説でも今から6000年から7000年前・・
やはり、世界各国のメンヒルは新し過ぎます・・
どう考えても🙄
日本の立石さまの方が古いので(p_-)
私は今後、メンヒルではなく
(ー_ー)!!
磐座
とお呼び致します
奇石ノ在ルヲ見
無上ノ霊地ナル事ヲ知テ
前回のブログを書いたあと、私は無性に市房山に登りたくなりました。
この目で、市房山山頂からの風景を見てみたい!
と・・・
しかし、皆様、ご存知のように、私は筋ジストロフィーのキャリアで、
稀に発症する心臓疾患があり、市房山の登山は叶いません・・
でも・・どうしても見たい・・
そこで、ネットで写真を公開なさっていらっしゃる方々をお探しした所・・
私が、見たかった風景をご公開の御方々がいらっしゃいました\(^o^)/
お写真をお借りするご了承は頂いておりませんので、
サイト様をご紹介致します😊
自然回帰 様 サイトより
県央の盟主、市房山
自然回帰 様 サイト 県央の盟主、市房山の中で
自然回帰 様がお撮りになられた2枚目のお写真
まさに、私が見たかった風景です😊
凄く嬉しくて感動致しました
無上ノ霊地ナル市房山の山上からは
霧島連山 が見えます・・
韓国岳 が見えます・・
その先には・・
遥か遠く・・
野間岬かな・・?野間半島かな?
陸地が見えます・・
無上ノ霊地ナル市房山に
登って見なければ決して解らない風景が
そこにあるのです・・
からくに が見えました・・
ちなみに、韓国岳から見える市房山の風景も見つけました😊
南天坊様 サイト 韓国岳
http://nantenbo.la.coocan.jp/shiki/Kirishima-20130111/index.html
南天坊様 サイト 韓国岳より
101 正面の山は市房山 の お写真
http://nantenbo.la.coocan.jp/shiki/Kirishima-20130111/101.JPG
韓国岳山上から見ると、正面の山は
市房山 なのですね!
😊
山に登る人しか解らない事・・
その風景・・
素晴らしい風景・・
私・・
ふと考えたのですが
山岳信仰の本幹は
遠い古(いにしえ)の方々が超古代の方々が
崇拝なさっていらした
日本の神々様への崇拝に繋がる
根源に繋がる・・
と・・
日本書紀では久米氏の祖となられる神様が記された内容
「第九段一書(四)」のみに
二つの頂のある峯
第九段一書(六)には
時に降り到りし所は、呼びて日向の襲その高千穗の添山峯(そほりのやまのたけ)と
言う。
林兼明氏の「神に関する古語の研究」では
二つの頂のある峯・添山峯(そほりのやまのたけ)に関して
添うように、たつ山がある場所であろう・・
とお書きになられていらっしゃいました・・
さらに
「代」(しろ)の文字は
添う 寄り添う の意である・・・
とお書きになられていらっしゃいました・・
『再投稿③桜と市房山と神様に関わる言葉が残る国内唯一の地名』
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12664418458.html
前回のブログでも書きましたが
日本書紀
第九段一書(四) 第九段一書(六)に描かれたその風景・・
天忍日命さまと天津久米命さまが武装して先導・・
(二柱の神)天孫(あめみま)の前(さき)に立ちて、進み降り、
日向の襲の高千穂の串日(くしひ)の二つの頂のある峯に辿り着き
と描かれたその風景・・
その場所には何らかの伝承、もしくは何かが残されていた場所
記紀を編纂なさった方々が雄大な神話を描くためにお選びになられた場所
その場所の一つは
九州中央山地内のこのような風景であったのでは・・・
江代山(日向では津野岳)と市房山です・・・
※江代山(日向では津野岳)
津野岳・・古事記や日本書紀、出雲神話を熟読なさっていらっしゃる方々は
背筋に何かピシっと走るような「山の名前」だとお気づきになられていらっしゃるのでは
ありませんか・・
臣津野 さま・・
実は、私も 同じです・・
詳しくは 今は書きません・・・・
ウィキペディアより
古事記 天孫降臨
邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
天忍日命と天津久米命が武装して先導した。
天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの、天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの、
それぞれ祖神である。
邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。
古事記 天孫降臨
天忍日命と天津久米命が武装して先導した。
やはり
天津久米命さま 久米族の祖神が登場なさるお話です
私は・・
古事記や日本書紀を編纂なさった方々は
九州中央山地や霧島連山
その周辺地域に
お越しになられていらっしゃる・・
と思います
林兼明氏は『神に関する古語の研究の中で』
蘇・襲 (そ) は
神々様をお祀りする神聖な山の連なり
という旨のお話をお書きになられていらっしゃいました。
遠い遠い時代の日本に生きた、多くの自然災害の中、逞しく生きて来られた方々への
一つ一つ新たな文化を創り出して来られた方々への
崇敬の心をしっかりとお持ちになられていらしたからこそ・・
天磐座(あまのいはくら)
日本の遥か遥か古代の方々が崇拝なさっていらした神々様を敬い
古の超古代の方々へ対する崇敬の心と、
我が国の超古代から綿々と受け継がれてきた文化に誇りを感じていらっしゃったから
こそ・・
と😊
平家の方々が九州中央山地に来られたのは・・
ここまで書いてきた事に繋がっているような気が致します・・
2.西大寺の木簡
超古代から8世紀辺りまで、時間を進めます😊
平安時代末期・・
天皇領 球磨御領・・
しかし
鎌倉時代以前の球磨の記録は殆ど残っていません。
ただ、平安時代に奉納された御仏像、さらに体内銘文から
当時の球磨にいらした方々の事が少しづつですが見え始めています。
8世紀後半から9世紀初頭、球磨の中山寺に奉納された聖観音菩薩様のお話
さらに・・・いまだに未発表ですが
平安時代作のあさぎり町の某お寺に奉納された御仏像の中から
発見された体内銘文に良峯氏の名前が・・・
何時、発表されるのでしょう・・待ちくたびれますねぇ・・
他にもどこかに
何か、記録が見つかっていないのか・・探していた時に
ようやく発見致しました\(^o^)/
奈良文化財研究所様の
古代地名検索システム
木簡庫
の中からようやく見つける事が出来ました。
https://chimei.nabunken.go.jp/
検出されたデータベースの中から一つご紹介致します。
URL https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK035014000050
木簡番号 049
本文 □□□万郡○可部○□
遺跡名 平城京右京一条三坊十三・十四坪(西大寺旧境内)
所在地 奈良県奈良市西大寺新田町
調査主体 奈良市教育委員会
国郡郷里 (肥後国球磨郡〈□万郡〉)
木簡・・
平城京右京一条三坊十三・十四坪(西大寺旧境内)から出土した
木簡・・
そこには
肥後国球磨郡に関する何か?が記されていました
奈良時代の事・・
平城京右京一条三坊十三・十四坪(西大寺旧境内)
西大寺旧境内・・・
西大寺 ウィキペディアより
西大寺(さいだいじ)は、奈良県奈良市西大寺芝町にある真言律宗の総本山。
奈良時代に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。
南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代に叡尊によって復興された。山号は勝宝山。
現在の本尊は釈迦如来である。
創建
宝亀11年(780年)の『西大寺資財流記帳』によれば、創建の経緯は以下のとおりである。
天平宝字8年(764年)9月、孝謙上皇は恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願した。なお、孝謙上皇は同年10月重祚して称徳天皇となった。
翌天平神護元年(765年)、前述の四天王像が造立され、西大寺が創建された。
この四天王像4体は西大寺四王堂に今も安置されるが、各像が足元に踏みつける邪鬼だけが創建当時のもので、像本体は後世の作に代わっている。
西大寺の創建当時は僧・道鏡が中央政界で大きな力を持っており、西大寺の建立にあたっても道鏡の思想的影響が大きかったものと推定されている。
護国のために四天王像を安置するのは『金光明最勝王経』に基づくものである。
「西大寺」の寺名はいうまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、奈良時代には薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院であった。
前述の『資財流記帳』の記載や、元禄11年(1698年)作成の伽藍絵図から復元される伽藍配置は以下のようなものである。
寺域の中心には薬師金堂が建ち、その背後、通常の寺院では講堂のある位置には弥勒金堂が建っていた。これら中心伽藍の東には小塔院、その北に食堂院(じきどういん)、中心伽藍の西には正倉院、その北に政所院(まんどころいん)があった。
中心伽藍の前方(南)には東西2基の五重塔が建ち、これらの東に四王院、西に十一面堂院があり、四王院の南に東南角院(すみいん)、十一面堂院の南に西南角院があった。塔は八角形で計画されたが、途中で四角形に改められた。
『資財流記帳』によれば、これらの諸堂には密教系の像を含む多数の仏像が安置され、多くの鏡で荘厳されていた。
薬師金堂には、薬師三尊像を中心に計21体の仏像が安置され、中には密教系の孔雀明王像も含まれていた。弥勒金堂には計77体もの仏像が安置され、弥勒仏の兜率天浄土を表現していた。
しかし、寺は平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われ、興福寺の支配下に入っていた。
以上 ウィキペディアより抜粋致しました
天平神護元年(765年)
西大寺 創建
平城京右京一条三坊十三・十四坪(西大寺旧境内)から出土した
肥後国球磨郡に関する何か?が記された木簡・・
何が書かれていたのだろう・・
ただ・・言える事は
奈良時代においての中央と球磨
遠く離れた山奥の辺地と思われがちな球磨ですが
奈良時代においての中央と球磨
しっかりと繋がりが見える事を
木簡が語っている・・
と、私は嬉しくなりました
西大寺について、奈良時代だけではなく
平安時代の肥後に関わる事で気が付いた事はありますが
次回以降にご紹介致します😊
3.球磨の郡家は面田のクシカ
先月、求麻郷土研究会の例会において
律令制の中で条里制が確認できる、球磨郡の中心地
郡家跡となる
あさぎり町免田久鹿(クシカ)の前田遺跡に伺いました😊
出土した瓦
9世紀後半(西暦800年代後半)の瓦のようです
さらに、瓦を焼いていた
球磨郡あさぎり町深田の高山窯跡から出土した瓦です
9世紀前半(西暦800年代前半)の瓦のようです
郡家とは ウィキペディアより
郡衙(ぐんが)は、日本の古代律令制度の下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所である。
国府や駅とともに地方における官衙施設で、郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ・こおりのみやけ)とも表記され、考古学では郡衙、史料上(歴史学)では郡家と表記される傾向がある。
郡衙施設は郡司が政務にあたる正殿・脇殿のほか、田租・正税出挙稲を保管する正倉、宿泊用の建築などから構成される。
国司の所在する国府から間接支配程度の統制が行われ、郡司は旧国造などの在地有力豪族であることが多い。
国府が整備されるまでは、郡衙がその地域の行政の中心であった。
また、郡域が広域にわたる場合には別院の政治的拠点が存在していたと考えられている。
以上 ウィキペディアより 抜粋致しました
※郡司は旧国造などの在地有力豪族であることが多い。
そうなのですね😊
面田のクシカ は
郡家 跡
郡司は旧国造などの在地有力豪族であることが多い。
古代久米氏が継承されたのかなぁ・・?
それとも・・(p_-)
面田のクシカ
今から・・2000年程遡って・・
面田のクシカ
クマソ系図に見える・・
この御方の後裔が継承されたのかなぁ・・・?
クシカ也
永初元年十月 貢漢
そうであれば・・
この方々の後裔の方々は、やはり滅ぼされてなどいらっしゃいませんね!😊
クシカと言えば!
実は、多良木町の羅城跡周辺の地名も
クシカだったのです・・
今から2000年程前の球磨人にとって
クシカという地名、名前には
何か特別な意味があるのかもしれませんねぇ・・(p_-)
2000年程前の事は今は置いておいて
・・(ー_ー)!!
(お~い!置くな~!!との声が何処から聞こえてきたような・・🙄)
何はともあれ・・😊
面田のクシカには
郡家跡があります!
というお話でした
ただ・・・
奈良時代の西大寺さまと繋がりがあり
条里制が確認できる地の
郡家跡まで発見されている球磨ですが・・・
球磨郡内の神社様の創建の年
物凄~い数の神社様が
揃いもそろって・・大同年間(802年以降・・)
と言うのが
私には不思議でなりません・・
大同年間以前に、
奈良時代の西大寺さまと繋がりがあり
条里制が確認できる地の
郡家跡まで発見されている球磨ですが・・・
神社が無かった??
と言うのが
私には不思議でなりません・・
所で・・
実は、私、最近強く考える事があります・・
※令和3年の最後に独り言・・
今年・・海外の「かの国」で3000年程前の遺跡が発見されましたが・・
かの国は 多騒動でした・・
ようやく発見された!・・みたいな・・
その時、実は感じた事があります
海外の「かの国」の統一を果たしたと言われる方
紀元前213年頃から焚書を行っていますね・・
かの国の多くの系譜が燃やされてしまったとか・・
つまり、かの国に現在伝わっているお話は
焚書以降にあちらの正史として残された、作られたもの ですね・・
例えば・・たとえばですが・・①
もしも・・「かの大陸」に倭人が建国していた国があったとしても
海外のあの「かの国」で焚書以降に造られた歴史からは
おそらく・・その事実は消された事でしょう・・
例えば・・たとえばですが・・②
超古代の日本列島から、大陸を経由して 西アジアで倭人が文明を起こし
その後、大陸経由(しばらくいて・・)で後裔の方々が日本列島に戻って来られていたとしても
海外のあの「かの国」で焚書以降に造られた歴史からは
おそらく・・その事実は消された事でしょう・・
私達・・
あまりにも、かの国の焚書以降の歴史を基準に・・
参考に・・し過ぎていませんか・・?
自らの愛する国家の歴史には耳を傾けず
日本の正史が語る「真意」を紐解こうともせずに
海外の・・かの国の焚書以降に造られた歴史を信じる・・
私、以前はそういう人だったのですが
今、考えると、冷静に考えると
滑稽です・・
前回・・
後漢書や魏志東夷伝などが無かったら
存在しなかったら・・
熊襲討伐や東国征討などという作り話を
記される事は、その必要は無かった・・
と書きましたが・・
我が国の正史における「真意」は
日本国、北から南、東から西まで
全て倭人の国である!
と、そう海外に知らしめたかったのでは・・
しかし、
焚書を行った方の後裔の方々も、後に日本に入って来られていますね・・
不思議です・・
2021/12/30追記
記紀編纂時・・日本国において、皆が理解していた倭人の定義とは何だったのだろうと
考えました。
私は・・
4万年〜3万年前に世界最古の磨製石器を製作して日本独自の文化を形成した人達
1万5000年程前に世界最古の土器を製作していた人達
といった超古代の流れを父系であれ、母系であれ、何等かの形でひいている方々の事
日本の旧石器時代から縄文時代にかけての文化、魂を受け継いでいる方々の事
ずっと、日本列島に居た人達はもちろん、海外に移動した人達も、日本に戻ってきた後裔の人達も含めて・・
全て 倭人 だったのでは・・
記紀編纂時・・日本国において、皆が理解していたそれが「倭人」の定義 だったのでは
と考えました。(あくまでも、私の考えです😊)
霧島連山の夷守岳
「夷守」・・「夷」の文字の真意は「ひな」つまり太陽
日本列島、北から南、東から西「日」・「夷」の文字は至る所に地名や名称でも残っています
そして海外でも・・
2021/12/31 07:20 再追記
もちろん 古渡才伎(こわたりのてひと)、諸藩といった言葉は存じています😊
追記でした<m(__)m>
詳しくは来年、追々書かせて頂きます😊
以上 令和3年の最後の独り言でした・・
来年の本音独り言も お楽しみ?に・・😊
今年の締めくくりは 球磨川の風景で
神様の川 球磨川
🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼
今回は
1.無上ノ霊地 市房山から見える風景
2.西大寺の木簡
3.球磨の郡家は面田のクシカ
※令和3年の最後に独り言・・
という内容を書かせて頂きました
あっ!そうです(p_-)
お知らせ<m(__)m>
来年の大河ドラマ・・
宮原一族の母系のご先祖様を、中村獅童さんが演じられるようですねぇ・・😏
(p_-)
むむっ・・楽しみです😀
意地悪な役だったら国営放送さんに抗議の電話を入れます(--〆)
嘘です😎
皆様
今年一年、私の拙いブログにお付き合い下さり
ありがとうございました
来年も、
伝承や資料、遺跡等のお話
ど素人ながら、自らが考えた事などを
皆様にお伝えしていこう!と思います😊
今後ともよろしくお願い致します
良いお年をお迎えください
私には 球磨の自然が教えてくれます
それは・・
ここに居るから解る事・・
なのだと 思います
始まりは 数万年前・・・
😊
全ての事に感謝の気持ちを込めて
だんだんなぁ~
そして・・・
負けんば~い!!
球磨の地より ひろっぷ でした😊
次回『新年のご挨拶と共に 鏡餅と霧島連山と矢立と世界最古の稲作と・・』に続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12718871679.html