前回のブログ『㊺今、強く感じる事と、新春の球磨盆地と旧久米村』より続きます

 

2022/01/14 12:18 再々投稿

2022/01/12 23:23投稿の拙ブログ、すでにご覧頂いた方々に

心から感謝申し上げます。

 

これから、お読み頂く方、拙ブログに興味を抱いて下さり

ありがとうございます。

 

以下、追記であります。

 

今回のブログ内で書いた重要な「言葉」

神託に随って とは

神のおつげ。神が人や物などを通してその意志を知らせること。

神宣。神勅。神言(かんごと)。

に随って という意です

 

 

さらに、前回のブログでもご紹介した、縄文晩期の球磨盆地の地層から大量に出土する

有肩打製石斧の用途を、私は今まで書いていませんでしたので、ここに追記致します。

 

有肩打製石斧とは、収穫した稲の今で言う所の脱穀、籾殻を穀粒からはずす籾摺り(もみすり)に使用した古代の石器です。

 

つまり

有肩打製石斧が出土した球磨で、古代、稲作が行われていなかった・・なんて

ありえな~い!

という訳です😊

 

 

以下、2022/01/12 23:23投稿のブログ内容となります<m(__)m>

 

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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
郷土の方々が、そして故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております
 

 

この2年近くで、私達は様々な事を学びました

さらに、2年前と違うのは、飲み薬や抗体カクテル等の治療薬が今はあります。

 

だから、こそ

油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って
出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊

 

私の住む地域でも感染は一気に拡大しています・・

 

でも!

負けんばい!!

 

あらためて

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております
 

 

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私のブログを続けてお読み頂いている、私の拙いブログに興味を抱いて下さる皆様方・・

 

もしかしたら・・

私、球磨の本質にようやく気が付いたのかもしれません・・

 

だから・・

今回のブログタイトルに「最重要」と付けました

 

前回、家の氏神様をお祀りの岡原霧島神社と戦艦球磨の艦内神社様の御繋がりにようやく気が付いたと書きましたが・・

前回のブログを書いた後に

今年早々、妙見山に登らせて頂いたのは、きっと何かのお導きだったのかもしれない・・

と・・考えるに至る所まで、気が付かせて頂きました。

 

その事にたどり着いた経緯を順を追って書きます。

(今回は顔文字を使って書く気分ではありません・・)

 

 

 

1.球磨盆地は全国1、2位の霧の発生地

 

独り言・・

ブログ『㉞再投稿 301回目 球磨の雲海と海を渡ったツクシイバラ』を書いた時から、おそらく今回に繋がるお導きが続いていたのかもしれません・・

 

 

 

ブログ『㉞再投稿 301回目 球磨の雲海と海を渡ったツクシイバラ』 より

 

ウィキペディアより

人吉盆地(ひとよしぼんち)は、熊本県南部において

東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの範囲に広がる盆地である

球磨盆地(くまぼんち)とも呼ばれる。

 

北部は八代・球磨山地、東部は九州山地、南部および西部は肥薩火山群(国見山地)に囲まれている。東から西へ向けて球磨川が流れる。

 

四方を山々に囲まれ外界から閉ざされた人吉盆地は内陸型気候で昼夜の寒暖の差が激しく、そのため秋から春にかけて盆地全体がすっぽりと霧に覆われてしまうことが多い。

年間100日以上も朝霧が発生し、発生頻度は日本で1、2位を争う。

良質な水に恵まれた米どころであり、日本の米焼酎の代表的生産地でもある。

 

 

年間100日以上も朝霧が発生し、発生頻度は
日本で1、2位を争う。

 

ブログ『㉞再投稿 301回目 球磨の雲海と海を渡ったツクシイバラ』でご紹介した

tararira taragi 様の たらぎ雲海ムービー

2分56秒の動画となります。

 

奇跡的にも・・奈良盆地と全く同じ大きさの

球磨盆地の雲海を皆様、もう一度ご覧いただけませんか・・

 

補足しますと

tararira taragi 様は 久米の妙見山から動画をお撮りになられていらっしゃいます

 

 

 

 

 

球磨盆地は日本で1、2位を争う 霧の発生地です・・・

おそらく・・古代からずっと・・

 

 

ここからは音楽と共にお付き合い下さい

 

Fearless Motivation - Why Do We Fall? - Song Mix (Epic Music)

 

 

 

 

 

2.三日月の形をした球磨盆地

 

球磨盆地は三日月の形をした

東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの範囲に広がる盆地で

奈良盆地と全く同じ大きさ・・

 

 

前回のブログ、妙見山から撮影した動画と写真を投稿していました。

 

未だ、ご覧でいらっしゃらない方は、ぜひ、ご覧になられて頂きたいと願います。

 

 

 
 
球磨盆地は
標高1000メートル級の山々に囲まれた
標高200メートル近い平野部分が広がっています
 

 

 

 

私の住む集落が、妙見山の麓に見えます・・

 

 

 

 

私の住む集落に、明治時代初頭まで御鎮座であった稲積妙見・・

ここから・・真正面になる事に気が付きました・・

 

 

 

3.稲積妙見社

 

先に書いた稲積妙見は、家の宮原家が元々あった土地のすぐ近くにご鎮座でした。

 

ブログ『旧宮原村古地図と岡原村の神社様』で詳しく書かせて頂いております。

宜しければご覧下さい。

 

 

 

ブログ『旧宮原村古地図と岡原村の神社様』をご覧頂くとお解り頂けますが

 

家の宮原家と深く関わる「字」は

府本・府内・外園

馬場田・・

 

そして・・

この地の大字は

宮野

です・・

 

 

府内(馬場田)御鎮座 稲積妙見

稲積妙見

 

麻郡神社私考より(補足を加えながら・・)

 

稲積妙見 久米領稲積山 (稲積妙見は宮麓地区内にある旧久米領の飛地でした)
社人 椎葉久左衛門
八代郡白木社妙見同體
 

草創年紀未考 此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ
※球磨・人吉地方においての妙見宮勧請の最初となる社です。
 

明應五年(1496年) 藤原為續公同長輔公 御祈願トシ
※藤原為續・・相良為続 相良氏第12代当主(父:相良長続は球磨郡を統一)
 

代官 最所式部少輔綾(アヤノ)末繼 宮原出雲橘續久


宮守石井太郎兵衛 阿部貞豊等 再興

 

 

※草創年紀未考 此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ

 

 

府内(馬場田)御鎮座 稲積妙見

江戸時代に作成された宮原村古地図より 

 

黒原山と旧宮原村

 

良くご覧頂くと、山の麓に、人工的な違和感?を感じる場所がありませんか?

 

この地域です・・

枠で囲んだ部分が「馬場田(府内)」と「外園」です

 

 

この「府内(馬場田)」は、私が過去ブログで何度も書いたように、

家の宮原家の本籍地となり、今は、外園に住んでいますが、父曰く、

「宮原家の本籍地は馬場田から絶対に動かしてはならない!」という

掟(おきて?)をきつく言われております。

 

※父は祖母から聞き、祖母は亡くなった祖父から聞いていたようです・・

 

稲積妙見社

※此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ

 

※御祭神

八代郡白木社妙見同體

 

天之御中主神
国常立尊

 

 

稲積妙見社は、明治時代に旧宮原村、旧岡本村が合併して岡原村となった事を機に

其々大同元年に創建されたと記された

中嶋大権現(中嶋霧島神社)、大炊神権現(大炊霧島神社※おおい霧島神社)

切畑大明神(※切旗大明神 御祭神 阿蘇神社同體、合祀 平景清公母君)

さらに、旧宮原村、旧岡本村の各地にご鎮座であられた神社の神々様と合祀となり

岡原霧島神社が創建されました。

 

 

4.岡原霧島神社

 

先に書きましたように、明治時代に

旧宮原村、旧岡本村の各地にご鎮座であられた神社の神々様と合祀となられ、

創建された神社が岡原霧島神社 です

 

明治43年の記念式典での写真

 

 

 

頂いている資料より 御祭神

 

こちらの資料には続けて

『上記の他、葉山神、若山大神、豊嶽神の23柱を御祭神としています』と記されています。

さらに

『飛び地境内社として熊野地区の熊野座神社、伊勢元地区の皇太神宮、

檜山地区の天満宮、長岡地区の菅原神社、岡麓地区の諏訪神社があります』

と記されています。

 

岡原霧島神社 御祭神

天津彦火邇邇芸命
天津彦火々出見命
火闌降命
火明命
吾田鹿葦津姫命
伊弉美命
須佐能男命
大歳神
市杵島姫命
豊玉姫命
罔象女神
天照大御神
菅原道真公
天御中主神
級戸神
健磐龍命
阿蘇津比咩
国造速瓶玉神
大地主神
応神天皇
建御名方神
 

 

ずっと・・疑問だったのです

上記の資料・・

何故?

火明命様が海の神様と記されているのか・・

ずっと疑問だったのです

 

しかし、その答えが見つかりました。

後ほど、ご紹介致します・・・

 

 

令和四年1月3日

主人が早く帰宅出来たので、二人で岡原霧島神社に初詣に出かけました。

 

 

 

御拝殿

 

新年を無事に迎える事が出来きました

お見守り頂き真にありがとうございます

 

 

と新年のご挨拶を申し上げました

 

 

 

 

 

こちらが八角形の形をした ヤツジメです

 

 

ヤツジメとは

過去ブログ『(速報!追記あり)大宮司様が見た「月と日と星が煌めく」球磨盆地内』でも

ご紹介致しました。

 

 

 

 

 

 

 

ブログ『まにまに。~心のままに神社巡り~』 の佐月様からコメントにて、

球磨神楽が奉納される御拝殿・神楽殿内の八角形について、とてもありがたいご教示を頂き、ご紹介させて頂きました。

 

 

天井から延びている8本の細い縄は
 

「ヤツジメ」と呼ばれ、その中心は北極星を現し
 

【陰陽】月・日
【五行】火・水・木・金・土の意味があるそうです。
 

御幣は稲妻を表し、
 

天井の白い船のようなものは「ゆきふね」と
いうそうです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

私はこちらのご教示を頂いた時に、まず頭に浮かんだ事がありました。

【陰陽】月・日

陰が月で陽が日(太陽)

 

陰と影は同意語です。

陰はつまり影である・・

 

球磨郡あさぎり町上(うえ)に聳える白髪岳の頂上付近には

狗留孫神社様がご鎮座

 

「麻郡神社私考」には

「影向之神三座(よごうの神)」

と記されていて
 

東ハ霧島神 
中ハ狗留孫権現
西ハ阿蘇神

と記されています。
 

 

「影向之神(よごうの神)」  
どう言う意味だろう ・・・・ずっと解らないでいました・・・

 

 

その影の意が理解出来たブログ

『源流を知る為の必読書より 肥は日なり 涙が溢れ・・』

 

 

林兼明氏 著書 神に関する古語の研究 

第二節 神の語義
第三項 神の語義に関する結論の中に
私がずっと疑問であった 日と影の関係 その意味が記されていました。

 

 

「日」こそ隋ひて「日(ひ)―火(ひ)―霊(ひ)」こそ

実に日本民族の一切信念、一切習俗の

・・・大本源なりしものなり

 

「かみ」(神)は「かひ」の転ぜる語なり・・・・

 

 

「かげ」(景・影) (名詞)

「かが」(赫)※あかい・輝く の転語なり

「日」の輝きをいふ

 

従来の学者は・・・多くこれを「曇る」意に解したけれどそれは明らかに誤謬なり

 

 

古代の言葉としての

「影(かげ)」とは 

「日」の輝きの事を指していたのです・・・

 

 

 

5.ご神託に随って創建された二社

 

 

岡原霧島神社の由来 一部写真

 

 

 

岡本村の大炊神権現(大炊霧島神社)と

宮原村の中嶋大権現(中嶋霧島神宮)は

大神惟基、この方がご神託に随って創立した二社となります

 

大炊とは

おおい

と読みます

 

そうです・・

おおい神権現

おおい・・

だったのです

 

さらに、中嶋大権現は中嶋霧島神宮と記されていた事に今まで全く気が付いていませんでした・・

 

 

とても大切な事を完全に忘れていました・・

 

ブログ『橘一族と八角形の地』で書いていた事です・・

 

 

霧島神宮古宮址 後方に聳える高千穂峰

 

 

 

高千穂峰と 御拝殿址

 

霧島神宮元宮と霧島神宮古宮址の位置関係の写真に記されていた内容・・

 

霧島神宮元宮

初代の霧島神宮は元々、高千穂峰と御鉢火山の鞍部にあったとされていますが788年の御鉢の噴火で焼失しました。現在、その場所には神社の跡を示す鳥居と石碑が建てられています。

 

霧島神宮古宮宮址

祭壇は2代目の霧島神宮の社殿がここに存在した事を今に伝えています。

 

以上 霧島神宮様 公式ページより

社殿の創建

中略・・旧記によると、元宮はもと高千穂峰と御鉢「火山口」との中間 脊門丘に奉斎されていましたが、御山の噴火の為に悉く炎上し、村上天皇の天暦元年(950年)天台宗の僧である性空上人が高千穂河原に再興奉還しました。

 

以上 霧島神宮様 公式ページより

 

つまり

霧島神宮元宮 様が788年御鉢の爆発により、御神殿が焼失して天暦元年(950年)天台宗の僧である性空上人が高千穂河原に再興奉還されるまでの間に

大同元年(806年)ご神託に随って大神惟基により

肥後国球磨郡久米郷宮原村と岡本村(岡許村)に創立された二社が

 

大炊神権現(大炊霧島神社)

中嶋大権現(中嶋霧島神宮)

 

であった・・

 

という事になります・・

 

 

さらにもう一つ気が付いた事がありました。

 

拝殿へ登る階段の石塔です

 

 

 

 

御大典記念

大正四年十二月 建設

 

 

私は不勉強なので、すぐに調べたのですが

こちらは

御大典記念碑

であり

大正天皇即位の礼を記念して

岡原村の有志が建立させて頂いた事が解りました。

 

 

何故?大正四年なのか それは・・

weblio辞書 様の 大正の即位の礼 をご覧頂くとお解りになれます

 

 

weblio辞書 様の 大正の即位の礼より

 

大正天皇の即位の礼
旧皇室典範・登極令制定後、初めての挙行となった第123代・大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われた。

 

本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期された。明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調された。

 

この時に帝国議会上院の貴族院書記官長を務めていた柳田國男も大正天皇の御大礼に出仕しており、後に大嘗祭についての提言を残している

 

以上 weblio辞書 様の 大正の即位の礼より抜粋させて頂きました。

 

 

 

ああ・・・私は地元の、氏神様をお祀りの神社様の事をまだまだ全く解っていなかった・・

猛反省しました・・

 

 

 

先に書いたように

火明命様が海の神様と記されているのか・・

ずっと疑問だったのです

 

しかし、その答えが見つかりました。

 

 

6.軽巡洋艦球磨の艦内神社

 

昭和9年、湯前町の市房山神宮里宮神社の創建に

私の曾祖父の弟、湯前町の村長、初代町長も務めた、平川源市氏が携わった事は

 

過去ブログ 平川家の一族 曾祖父の弟の方 でご紹介させて頂いております。

 

 

『市房山神宮里宮社』完成式での平川源市村長の「祝詞」です。

 

 

 

 

 

 

半年以上前

おちゃも様より、湯前町にご鎮座の市房山神宮里宮神社様の境内に作られた

軽巡洋艦球磨の記念館を運営なさっていらっしゃる御方のホームーページをご紹介して頂きました。

 

大変なご苦労をなさって、軽巡洋艦球磨に関する資料等を御集めになられ、研究をなさっていらっしゃる御方です。

 

ぜひ、皆様にご覧頂きたく願い、ご紹介させて頂きます。

 

私は軽巡洋艦球磨に関して、マダマダ不勉強で、拙ブログに書かせて頂く事は分不相応だと自覚致しております。

 

軽巡洋艦球磨記念館 様 のホームページです

あらためまして、ぜひ、ご覧頂きたいとお願い申し上げます

 

 

 

 

御苦労をなさって御集めになられた資料の中に

大正時代に発行された呉新聞の記事が記載されていました。

 

 

呉新聞の記事

そこに、私が最も驚いた記述があるのです

 

呉新聞の記事、文字が大きくご覧になれますので

軽巡洋艦球磨記念館 様 のホームページ内でご覧頂く事をお勧めしますが

画像を勝手ながら別ウィンドウで表示させて頂きました。

皆様、ぜひ、ご覧頂きたいとお願い申し上げます

 

https://cdn.peraichi.com/userData/60337c77-e594-4913-b79f-0c250a00006f/img/603423c75a28d/original.png

 

 

 

呉新聞より

抜粋させて頂きます

 

此の高速艦の守護神として艦内に祀ってあるは、熊本県の郷社市房山神宮で、

其の御神霊記にはこう記されている。

 

一, 祭神

創立大同二年十一月十五日(人皇五十一代平成天皇紀元一,四六七年)

天津彦火瓊瓊杵尊

豊玉姫命

 

火闌降命、火明命此の雨神は最も海に関し因縁深く、海幸を司り賜ふ

火明命は海幸により後に彦火々出見命となり給ふ

 

 

二, 祭日 公式例祭 十一月十五日

       臨時例祭■暦 三月十五日

 

三, 鎮座 熊本県球磨郡岡原村 同郡水上村鎮座郷社市房山神宮

 

四, 社司 横瀬 安治

 

 

 

まず、驚いた事は

岡原霧島神社が記されている事です

 

社司 横瀬 安治様は当時の岡原霧島神社の宮司様です

代々、宮司家であられた横瀬家の方々とは、祖母の実家の平川家は、親戚のように親しくさせて頂いておりました。

 

さらに、父に聞いたのですが

私の祖父が、陸軍士官候補生学校に合格した際に、球磨郡中の親戚が集まってお祝いをした際の写真にも、岡原霧島神社の宮司「横瀬」様が一緒だった・・そうです

※この写真は、祖父の義理の姉(宮原家の養女)の方の家に保管されています

 

呉新聞の記事に

何故?岡原霧島神社が記されているのか・・ずっと疑問だったのですが

気が付いたのです。

 

確かに、市房山神宮里宮神社の主祭神は天津彦火瓊瓊杵尊
 

しかし

市房山神宮里宮神社の創建は昭和9年

つまり、大正時代に建造された軽巡洋艦球磨の艦内神社として御祭神が分祀される事は

ありえません・・

 

さらに、市房山神宮の御祭神

 

 

 

主祭神は・・

 

 

岡原霧島神社の主祭神は

天津彦火瓊瓊杵尊

 

軽巡洋艦球磨の守護神は

二社合祀の神々様であられたのでは・・

と私は推測致しました。

 

軽巡洋艦球磨の艦内神社に地元の氏神様をお祀りの神社が関わっていらした事に

感慨深い気持ちになります

 

 

1943年1月11日

軽巡洋艦球磨がイギリスの潜水艦タリホーの雷撃に遭い、沈没した日でありました。

 

軽巡洋艦球磨と共に海に沈まれた御英霊のみたまに心から敬意を表し

ご冥福をお祈りいたします

 

 

 

 

7.岡原霧島神社に伝わる神事と伝承

 

2018年の10月に書いたブログです

御教示へのお礼 及び 弓を用いた旧岡原村での 儀式

 

未だ、お読み頂いていらっしゃらない方は、ぜひご覧になられてみて下さい。

 

 

御教示へのお礼 及び 弓を用いた旧岡原村での 儀式
を書いた事によって、私は地元に伝わる儀式や風習が物部氏の儀式に繋がるものではないのか・・さらに、天孫降臨の神話へとも繋がるものではないのか?

と考えるようになっていました。

 

 

免田郷土研究会 郷土 第二号 昭和49年2月発行より

 

(岡原村)民族資料 横瀬安住氏談
 

①子供名付けの儀式
嬰子に手箕をかぶせ、弓に麻殻の矢をつがえて、嬰子の男女の性別を聞いてから短い言葉を唱えて(唱え言葉を失念)手箕を射た。
 

②七夕の日に詠う
「七夕さん七夕さん、月に三反、七苧桶、紡いで織らせて下しゃんせ、下しゃんせ)

 

③弓引きの式
子供名付けの悪魔祓いの作法が宮中にては親王、内親王御命名の時 鳴弦の儀とて、弓弦を鳴らす儀式があるが、岡原地区には昔弓引きの式があった

明治四十年頃、横瀬氏はその席に列席したことがある。
他、家の棟上げに弓矢をつくり、鬼門、鬼門裏に立てるのも同じ趣旨と思う。
 

 

私はこの時・・

 

物部氏

★弓の弦を鳴らして鳴弦の呪術を行い

 

岡原村での儀式

★弓引きの式

 

江戸時代に編纂された『太宰官内志』に
久米郷 
和名妙に球磨郡久米郷あり・・・
久米物部の住めりし處なるべし。

 

と記された旧球磨郡久米郷の岡原村(おかはるむら)に伝わる「弓引きの式」と

物部氏の「弓の弦を鳴らして鳴弦の呪術を行う」・・と言う記述が

私には偶然だとは到底思えないのですが、皆様はどうお感じになられますか?・・・・

 

と書いていたのです。

 

 

しかし・・

先にご紹介した呉新聞には不思議な記述がありました。

 

 

火闌降命、火明命此の雨神は最も海に関し因縁深く、海幸を司り賜ふ

火明命は海幸により後に彦火々出見命となり給ふ

 

この地の神社様には、私達が全く知らない伝承が残っているのか・・

 

 

だからこそ、前回のブログで、私は

日本書紀では彦火火出見尊さまのご年代が500年続いた

との内容が記されています

 

私は、500年間の間に彦火火出見尊 と名を代々受け継がれた方々が

何名もいらっしゃった

と若輩者ですが受け止めております

 

と書かせて頂いておりました

 

 

 

8.天火明命さま・・

 

天火明命 ウィキペディアより 抜粋させて頂きます

 

天火明命の別名は次の通り。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 (『先代旧事本紀』)
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命 (真清田神社由緒記)
天照國照彦天火明尊
天照国照彦火明命 (『日本書紀』、真清田神社由緒記)
天火明命 (『古事記』、真清田神社由緒記)
彦火明命
火明命  (『日本書紀』)
膽杵磯丹杵穂命 (いきしにほのみこと)
天照御魂神(あまてるみたまのかみ、『神社志料』)

 

系譜
『古事記』及び『日本書紀』の一書によれば、天火明命は天忍穂耳命と高木神の娘万幡豊秋津師比売命との間に生まれた子とし、天火明命が兄で、邇邇芸命は弟とされる。

一方、『日本書紀』の別の一書では、天火明命は邇邇芸命の父(邇邇芸命は天火明命の子)とする。 

『先代旧事本紀』は、天火明命は穂積臣や物部連の祖である饒速日命の別名であり、饒速日命と同一神と記す。このことについて、世代関係や活動地域から疑問が大きいとする説もある。

一方、『播磨国風土記』では大汝命と弩都比売との子とする。

 

後裔氏族

『新撰姓氏録』では、天津彦根命、天穂日命、天道根命などの子孫と合わせて、天火明命の子孫を「天孫」と称している。天孫系は高天原から尾張国や丹波国にも移り尾張氏・津守氏 ・ 海部氏、丹波氏など多くの氏族の祖神とされ、『海部氏系図』(あまべしけいず)にも始祖としてその名が記されている。

 

穂積氏、物部氏の祖である饒速日命と同一ともいわれる

 

字義

「天照」の名があるが「天照大神」とは別の神である。元伊勢の籠神社では、主祭神を「天照国照彦火明命」とし、相殿神に「天照大神」としてそれぞれ別の神としている

 

主な神社
籠神社(京都府宮津市) - 「彦火明命」として祀られる。

その子孫とされる海部氏が、古代から現在まで宮司を世襲している。

 

 

 

ここまで、読ませて頂きながら非常に驚きました・・・

 

ブログ『源流を知る為の必読書より 肥は日なり 涙が溢れ・・』で書いておりました・・

 

神に関する古語の研究

平成12年の出版に際し 林 兼明様のご子息

海部直 八十二代 元伊勢籠神社様 宮司でいらっしゃる 海部光彦様のお話には

昭和19年に本来ならば出版されるべきであった林の彫心鏤骨の研究原稿が、永い歴史の眠りから清く醒めて、56年ぶりに今陽の目をみようとしている。

と書かれていらっしゃり、目頭が熱くなりました。

と・・

 

ブログ『源流を知る為の必読書より 肥は日なり 涙が溢れ・・

さらに

ブログ『①始まり 太陽に向かって進む人達

 

神に関する古語の研究を拝読して

ブログ内で、書かせて頂いた事

全てが、私の周辺の風習、環境、言葉・・等と一致して・・

感動した事をしっかりと記憶しています

 

天火明命さま・・

 

天火明命の別名は次の通り・・・

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 (『先代旧事本紀』)・・

 

 

どうなっているのか・・

不勉強過ぎて、私はマダマダ理解不足ですが

 

ただ、先代旧事本紀が・・

大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前の平安時代初期に成立したとされる

という事を知った時に、背中にズン!と得も言われぬ衝撃が走りました・・

 

大同年間(806年 - 810年)

球磨に球磨盆地を取り囲むように、次々と神社が建立された時期と

一致しています・・

 

あっ・・・

 

 

9.先代旧事本紀・・

 

多くの方々の解説を書籍やネットで拝見した事はありましたが

無性に原本が読みたくなりました。

 

ありがたい事に国会国立図書館デジタルコレクションに

寛永21年に発行された

前川茂右衛門の複写本が公開されていました。

 

読み始めて、すぐに、衝撃が走り・・涙が溢れてきました・・・

 

皆様方は先代旧事本紀の原文をご覧になられた事はおありになりますか・・?

 

 

 

10.日国禪(ゆずる)月国ノ狭霧尊・・

 

国会国立図書館デジタルコレクション

先代旧事本紀10巻はこちらになります。

 

 

 

私が衝撃を受けた内容は

神代本紀 陰陽本紀

 

コマ番号5 から記されていました。

 

 

あまりの衝撃で・・・画像を保存して加工しました。

皆様、ぜひ 赤いラインを付けた箇所にご注目して下さい。

 

 

 

 

 

 

 

以下の

赤い線を引いた箇所と、赤い線で囲った箇所をご覧下さい

 

 

天祖天譲日天狭霧国禪月國狭霧尊

天御中主尊

 

太神宮 秘文・・・

天御中主尊

 

中略・・

高天原ニ初出之故謂ウ之天譲日國禪月天狭霧國ノ狭霧尊

 

 

皆様・・

私が鳥肌が立つ程、驚いてしまった理由がお解りになられましたでしょうか・・

 

今回のブログ・・

1から9までを、じっくりとお読み頂いた皆様にはお解り頂けると思います・・

 

高天原 日國 月國 狭霧國・・・

天祖天譲日天狭霧国禪月國ノ狭霧尊

 

 

あの・・日本全国で月の形をした霧の国・・

イメージを描く事が出来る場所は・・どれくらいあるのでしょうか・・

 

あくまでも、私の推測にすぎませんがお聞きください

 

物部氏にとっての天の高天原を投影する事が出来る

地上の高天原は・・

もしかしたら・・「この地」だったのでは・・

ないでしょうか・・

 

物部氏だけではないのかもしれません・・

 

私は気が付いていました・・

2017年の10月に書いたブログ

『天子神社の御神紋について』の内容と今回のブログ内容の接点を・・

 

ご興味がおありになられる方はご覧になられて下さい。

今回は、あえて転記は致しません・・・

 

 

 

球磨・・

古代この地には

磐座・・巨石を崇拝する方々

九州島最大の漁具を造る人達・・

麻を植える人達

苧麻(ヲ)を植える人達

それらの繊維を精製する人達

玉を造る人達

(多良木町では直径8cmの勾玉が出土。他、玉の生産場跡が発見されています)

久米族

後の物部氏

といった方々が住まわれていたようです・・

 

さらに、球磨は

鉄鉱石・銀・銅等 多くの鉱物の宝庫で

さらに日本で3か所しか存在しない

水銀鉱床帯が存在します・・

 

 

 

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今回は

1.球磨盆地は全国1、2位の霧の発生地

2.三日月の形をした球磨盆地

3.稲積妙見社

4.岡原霧島神社

5.ご神託に随って創建された二社

6軽巡洋艦球磨.の艦内神社

7.岡原霧島神社に伝わる神事と伝承

8.天火明命さま・・

9.先代旧事本紀・・

10.日国禪(ゆずる)月国狭霧尊・・

 

という内容を書かせて頂きました。

 

 

皆様、最後までご覧頂きありがとうございました。

 

非常に長くなりまして、申し訳ございません。

私・・何か大きな力に背中をグイグイ押されるように、一気に書いてしまいました。

 

今回のブログを書きあげて、何だか、少しホッとしました・・

かなりパワーを使ったようです・・

しばらくは、ブログの更新は致しません。

 

皆様方のブログをじっくりと拝見する事を楽しみにしております😊

 

 

皆様、お身体十分に気を付けてお過ごしになられて下さい。

 

だんだんなぁ~😊

 

そして・・

負けんば~い!!

 

球磨の地より ひろっぷでした😊

 

次回『再投稿㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・』に続きます