前々回のブログ『再々投稿 ㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・』より続きます。

 

 

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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
郷土の方々が、そして故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

 

この波が最後の波になるように祈って

負けんばい!!

 

 

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先日の誤投稿のブログをご覧になられた方々

貴重な時間を使って下さったのに

申し訳ございませんでした

 

<m(__)m>

 

 

今回のブログ内容は

御投稿したブログ内容とは、大きく変わっております。

 

あらためてお付き合い下さい

<m(__)m>

 

 

 

前々回の予告編?で書いた事を数回に分けて精力的に書かせて頂こう(^^)/

と考えております。

 

今回はその前段階?として タイトルは

家の親戚の姓と弓の儀式と雲平さんと

 

 

今回は、球磨の歴史と言うより・・・

もしかしたら・・家の宮原家の事をもう一度見つめ直す事によって

何か見えて来るのではないか・・と

ふと 思い、今までブログでは書いていなかった事を含めて

記させて頂きました。

 

すると・・やはり、とても重大な秘密に気が付きました!

 

 

 

 

1.家の親戚の姓・・・

相良藩では勝手な姻戚関係を結ぶ事は禁じられていました。

藩主が認める「姓」(家)どうしでなければ結婚は許されなかったのです。

相良ご法度の名残があった明治以降の親戚関係には意味があったと考え

以下のお話を書かせて頂きます。

 

 

 

 

 

ブログ

『(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様』

を書いた後、今まで10年以上に渡って調べてきた事の数々の中から

色々、思い出した事がありました。

 

前々回のブログ『再々投稿 ㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・』でも

書かせて頂いたのですが

歴史に全くの無頓着だった私を、導いて下さった御方のお一人は

日本の苗字七千傑 サイト主様でした。

 

スレッドに、祖母方の「平河氏」の事を知りたい!と投稿した時に、直ぐに応じて下さり、

もうおひとかた(女性)とお二人で、私に様々な事をご教示して下さいました。

心より、感謝いたしております

 

 

2018年10月に書いたブログ

相良藩秘中の秘義と「おかはる村」』の中でご紹介した熊野国造家と橘氏の関係をご教示下さったのも日本の苗字七千傑 サイト主様でした。

 

 

 

『相良藩秘中の秘義と「おかはる村」』 より 転記

 

熊野本宮禰宜の職に就き、代々本宮を奉斎する「熊野氏」は物部氏の系でいらっしゃいました。さらに、橘氏とも「熊野氏」は縁戚関係になられます。

参考 日本の苗字七千傑様 サイトより 【熊野氏】(熊野国造) 姓氏類別大観

(現在 日本の苗字七千傑 サイト主様はサイトを閉じていらっしゃいます)

 

饒速日命(物部氏の祖)の後裔、大阿刀足尼(熊野国造)の後裔『多賀志麿』、この方の養子に『橘 島田麿』の子息『真主』と言う方が入られ、さらに、後裔の方(女子)は

物部氏「穂積氏」後裔の「鈴木氏」の「鈴木良氏」と言う方の妻となられています。

 

鈴木氏(物部姓)が全国に広がった理由は「熊野神社」が各地に勧請されたから・・と言う事は

系図を調べる方であれば周知の事でした。

 

つまり、【熊野氏】(熊野国造)の系を拝見すれば「物部氏」と「橘氏」の関係が一目瞭然で解るのでありました。

 

※当時の

日本の苗字七千傑様の【熊野氏】(熊野国造) 姓氏類別大観の一番下に記されている『掲載姓氏』の項内にあった以下の姓

 

【橘氏】【小池氏】【和田氏】【長田氏】【永田氏】

うちの(宮原家・平川家・深水家)の親戚にある姓でございます

 

 

『相良藩秘中の秘義と「おかはる村」』 より抜粋致しました。

 

 

 

確かに【橘氏】【小池氏】【和田氏】【長田氏】【永田氏】といった熊野国造裔の姓と

同姓の方々が、親戚に揃っているということ事態・・

冷静に考えると・・不思議だ!偶然ではない!と考えるのが当たり前の事なのですよね・・

 

ちなみに・・家の宮原家の親戚である「小池家」との関係・・

かなり複雑でいつか必ず書こうとは思っています。ただ、非常に近い関係であります。

 

親戚の小池家は、湯前町の明治・大正・昭和初期にかけての実業家として名高いお家で

当時の当主の方は、行政にも関わっておられ

村会議員四期・郡会議員を二期、務めていらっしゃいます。

 

※その小池家を継がれたのは、私の祖父の父違いの姉の方です・・

かなり複雑なので・・いつか・・ここで書くとは思います・・

 

 

 

物部氏「穂積氏」後裔の「鈴木氏」

鈴木氏(物部姓)が全国に広がった理由は「熊野神社」が各地に勧請されたから

 

球磨地方に鈴木姓が少ない事を挙げて

古代、物部氏は球磨にはいらっしゃらなかった・・

とお考えになられる方々がいらっしゃるようですが

 

確かに、球磨地方に鈴木姓は電話帳検索システムを見ると15軒程で少ないです。

ただ・・穂積氏はいらっしゃいますよ😊

 

 

うん🙄 マタ私、ひろっぷミニミニ衝撃波?を皆様のハートにギーンと発射しましたでしょうか

(?_?)

 

でも、不思議ではないと思います。

 

何せ、この地には熊野別当家の新宮家の方も南北朝時代に入られて系を繋げていらっしゃいますので・・😊

 

マタ、さら~っとそう言う事を書く!とのお声が聞こえたような・・🙄・・ニマッ😊

 

それに、この地、球磨の多良木町には、断絶したと言われていた宗像大宮司家の後裔の方が、ちゃんと系を繋いでいらっしゃいますし・・😊

 

マタマタ、さら~っとそう言う事を書く!とのお声が聞こえたような・・🙄・・ニマッ😊

 

 

さて(p_-) ここからが、ですが・・

長くなりますので、音楽と共にお付き合い下さい

Fearless Motivation - The Universe In Me - Song Mix (Epic Music)

 

 

 

 

ブログ

(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様

の最後に書かせて頂いた事・・

 

2017年の10月に書いたブログ
『天子神社の御神紋について』の内容と今回のブログ内容の接点とは・・

 

 

天子神社の御神紋は、太陽と月の部分を表している・・・

 

さらに・・

『六芒星』(籠目)について
『元伊勢籠神社の絵馬には籠目の中、中央に「太陽」と「月」が描かれている』

と言う記述を多数目にした事・・

 

 

元伊勢籠神社様のお話は

このように2017年の10月に書かせて頂いていたのです・・

 

だから・・

ブログ
(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様

を書いた事によって・・

お導き頂いているな・・

つくづく、私は感じているのであります

 

 

親戚の姓で、実は、今まで書いていないお家が数軒・・

 

元伊勢籠神社様・・

「籠」の文字

 

実は、平川家(平河家)繋がりの遠縁にあたるお家の姓に

「庄籠家」(しょうごもり家)

がいらっしゃいます

 

「籠」の文字が凄く気になり始めています

 

 

何せ・・

郡内各地に点在してご鎮座の天子神社様は

全て・・

元々は平河氏の所領地だった所ですので・・

(何故だろう・・?)

 

 

 

家の宮原家や、親戚一同に繋がる・・

相良氏族の姓である親戚、多数については今までブログ内で何度も書いていますし

※一例 久保田氏・新堀氏・深水氏・犬童氏・恒松氏・桑原氏 等・・

 

 

ただ、家の宮原家繋がりの親戚の特徴は、相良氏族の姓だけでなく

どちらかと言えば球磨に少ない姓がいらして

例えば

千葉家・畠山家 等・・

 

 

 

宮原家繋がりの

伊予橘氏に繋がる親戚の姓は

矢野氏から改姓した中村家や、橘薩摩一族の牛島家がありますので

明確なのであります。

 

 

 

特記

 

橘姓「矢野氏」から中村になられた方の中で

戦国時代、岡本城の城主であった犬童頼兄(相良清兵衛)が津軽に配流となられた後

岡本城代となられた、中村氏は後に相良藩主から犬童姓を賜りました。

 

その後旧上村(現あさぎり町上)に移られたのですが、その犬童氏も、家の一族親戚関係にあります。

 

いつも、登場?する椎葉家のおじさんのお祖母さんは、その犬童家から椎葉家に嫁いで来られています。

「ツル」おばあさん です。

 

「ツル」さんの弟さんが・・

現在、熊本県内の小中学校で道徳の教科書として使われる

熊本の心に記載された「植林人生」の主人公

犬童敬太郎氏です

 

 

犬童敬太郎氏の「植林人生」について、記されていらした

国土とインフラについて学ぶ サイト様 をご紹介致します😊

 

 

 

 

 

犬童敬太郎氏のお姉さんでいらっしゃるツルおばあさんの写真がこちら😊

 

大正時代初頭に椎葉家で撮影された写真です

椎葉家

 

髭の男性が、当時の岡原村村会議員 議長を務めた

椎葉源一氏

 

明治時代中期から村会議員として旧宮原村と旧岡本村の合併、合併以降の調整等で

活躍された事が岡原村史に多数記されております😊

 

こちらの椎葉家は元は旧奥野村にいらっしゃいました。

 

江戸時代の末期、旧奥野村の白木妙見社の宮司家「椎葉家」の方が分家なさって

旧宮原村の宮麓へ

 

 

椎葉家に子供さんがいらっしゃらなかったので、深水家から養子に入られたのが

椎葉家の源一おじいさんです😊

 

 

深水家から祖母の実家「平川家」に嫁いで来られた、

私の祖母の母(曾ばあちゃん)の兄でいらっしゃいます😊

 

 

椎葉家と深水家の大正から昭和にかけての写真を紹介したブログです

お時間が有られる時にでも、ご覧下さい😊

 

大正~昭和初期の椎葉家と深水家

 

ここまで

特記でした<m(__)m>

 

 

 

話を戻します<m(__)m>

 

実は・・

昨年、元々旧宮原村宮麓に住まわれていらして、別地に移られた

相良氏族の姓の恒松家(親戚ではない)の方が

家に所用で来られた際に・・

 

突然・・

 

「ひろ〇さん(私)は知っとるね?」

 

「家の100歳で亡くなった義父は、昔の事に凄く詳しかったとよ」

 

「義父は、『宮原〇〇しゃん(私の祖母)方は、橘やったとバイ!』 って、

私に教えてくれてたよ」 ※方=家

 

 

と言われたのです・・

 

 

やっぱりなぁ・・

祖母も、私にずっとそう言っていたので

昔の人は、知っているのだなぁ・・

と感慨深い気持ちになりました・・

 

 

 

そう言えば・・以前ブログに書いたように

※本姓大神氏の代々宮司家でいらっしゃる親戚の尾方家の家紋は橘紋・・

 

 

補足・・

先に書いた椎葉家には、こちらの尾方家から次の代で婿養子が入られ

その次の代となられる

椎葉家のおじさんの奧さんもこちらの尾方家から嫁いでこられているので

二人は従兄妹どうし・・

椎葉のおばさんのお兄様は、平成12年まで、国宝青井阿蘇神社の宮司様をお務めでいらっしゃいました。

 

良く考えたら・・

国宝青井阿蘇神社の宮司様をお務めでいらした方と椎葉のおばさんのお母様は

先に書いた橘姓「中村家」から嫁いで来られています!

その方の妹さんが・・私の祖母の兄嫁なのです・・!(平川家とも繋がっている・・)

むむっ!(p_-)

 

 

橘一族と八角形の地

 

 

 

 

さらに・・家の宮原家は次の項で書きますが

同じく、宮司家を務めていらした本姓大神氏の「星原家」とも親戚・・

 

つまり、球磨では

伊予橘氏と大神氏の

姻戚関係がある

 

と言う事が解ります

 

 

「この関係」が凄く気になったのですが・・その事により

凄い事!に気が付きました!!

後ほど<m(__)m>

 

 

 

色々考えていたら

今まで、ブログに全く書いた事が無い姓の親戚も気になり初めまして・・

渕田家(淵田家) 白川家 出口家 さらに 石川家

 

渕田家(淵田家)は、1600年代の宮麓集落に建立された庚申塔にも

姓が刻まれているので、おそらく戦国時代くらいに、

長崎方面から来られているような気がするのですが・・

(何せ有馬氏の名も集落の庚申塔に残っていますので)

 

淵田氏は松浦一族「値賀氏」の家臣・・
値賀氏も、江戸時代、宮原村の宮麓に住されていますし・・

渕田氏は橘姓とありました

 

 

波多三河守の家臣 
※淵田祐四郎秀里 橘 秀里  立川村(西松浦郡立川)三百石 ※東松浦郡史より
※野田祐四郎橘秀里  立川村   三百石 ※松浦古事記より

 

 

親戚の淵田家(渕田家)は、後に旧多良木村(現多良木町)に移られています

 

 

出口家は長崎繋がりなのかな・・?

 

 

石川氏も分限帳に記されているので、かなり以前から球磨に入られているようです。

 

※と書いていた所におちゃも様から、コメントが入りまして・・

おちゃも様のブログ「村上水軍」を拝見して、ビックリ致しました!。

 

 

 

石川氏・金子氏・・

やはり、四国繋がりだったようです

 

さらに

野島氏は、私が住む集落にいらっしゃいます!

 

うわぁ・・・

宮原家の親戚関係は・・

やはり、四国繋がりだったのだ・・

 

と、強く感じました

 

 

 

 

ただ・・白川家や出口家は

私の推測では・・神社仏閣に関わっていらっしゃるのでは・・

と勝手ながら考えております

(あくまでも、私の勝手な推測なので、相良藩史を熟読しなければ解りませんが・・)

 

 

神社仏閣と言えば・・

 

 

 

2.弓の儀式と曾じいちゃん(曾祖父)

 

ブログ

(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様

内 7.岡原霧島神社に伝わる神事と伝承 で書いた事・・

 

 

免田郷土研究会 郷土 第二号 昭和49年2月発行より

 

(岡原村)民族資料 横瀬安住氏談
 

 

①子供名付けの儀式
嬰子に手箕をかぶせ、弓に麻殻の矢をつがえて、嬰子の男女の性別を聞いてから短い言葉を唱えて(唱え言葉を失念)手箕を射た。
 

②七夕の日に詠う
「七夕さん七夕さん、月に三反、七苧桶、紡いで織らせて下しゃんせ、下しゃんせ)

 

③弓引きの式
子供名付けの悪魔祓いの作法が宮中にては親王、内親王御命名の時 鳴弦の儀とて、弓弦を鳴らす儀式があるが、岡原地区には昔弓引きの式が あった。

明治四十年頃、横瀬氏はその席に列席したことがある。
 

他、家の棟上げに弓矢をつくり、鬼門、鬼門裏に立てるのも同じ趣旨と思う。

 

 

免田郷土研究会 郷土 第二号 昭和49年2月発行より 抜粋

 

 

 

 

弓・矢のお話が多数あるのですが・・

 

私・・思い出したのです

(今まで、あまり重要だと考えていませんでした😥 )

 

 

まず、その話の前に

家を取り巻く?簡単な概要を<m(__)m>

 

陸軍士官候補生学校を卒業した祖父は、しばらくして祖母と結婚。

祖父の任務の為に、二人で大陸に渡っていました。

※ハルビンです


 

祖父は、大陸に渡る事で「宮原家」には「曾祖母」を残す事になる為

 

すでに星原家の本家の次男の方に嫁いでいた祖父の義理の姉

(宮原家の養女だった方。実は祖父の従姉の娘)と夫の方に、

 

曾祖母をみて頂く代わりに、宮原家の全て(家・田畑・山等)を託しておりました。

 

※星原家に住んでいたお二人は、その事で、宮原家に住まわれる事になりました。

 

※祖父の義理の姉の嫁ぎ先は本姓大神氏の星原家

ご先祖様は、大同元年草創の切畑大明神の社司でいらっしゃった御方です。

 

 

参考までに<m(__)m>

 

上記、写真の

切畑社人 星原権大夫大神惟吉

この方の直系の家が親戚の星原家です<m(__)m>

 

 

 

 

次にご紹介するのは

昭和12年、妊娠した祖母を祖父が大陸から故郷「岡原村」に連れて帰り、

その後、祖母を残し、祖父が軍に戻る際に宮原家で撮られた集合写真です。

 

すでに、この宮原家には、祖父の義姉夫婦が住まわれていました。

 

左側の写っていない家の中央部分が玄関で、椎葉家のおじ(現在92歳)の記憶では

古くて大きな家だったそうです

 

宮原家

 

ちなみに、2列目の右端に座る方が、

湯前村長、初代湯前町長を歴任した平川源市氏です

前にいる小さな男の子も、平成の時代に湯前町長をお務めになられました。

 

平川家の曾祖父の弟さん方がずらり勢ぞろい。

さらに、祖母の妹さんが嫁がれた

多良木平川家の方々もずらり勢ぞろい。

 

実はですね(p_-)

祖母方の岡原平川家を出自とする曾祖父と弟さん方

さらに、

祖母の妹さんが嫁がれた多良木平川家の方々・・

 

年は皆さん上なのですが

全員・・私の祖父の従兄姉(いとこ)の子供たちなのです

\(◎o◎)/!

 

ややこしいのですが(^▽^;)

 

宮原の曾祖父の甥や姪は

岡原平川家に嫁いだり、多良木平川家に養子に入られているのです

\(◎o◎)/!

 

だから・・この写真の多くの男性陣

殆ど 血が繋がっております (p_-)

 

ややこしいのですが(^▽^;)

 

 

 

もう一度写真を<m(__)m>

 

宮原家

 

帽子を被った二人が祖母の兄達です😊

 

他に、

中央に座る、祖父の斜め前に赤ちゃんを抱いている女性が、

宮原家の全てを託された祖父の義姉の方です

 

※先にも書いたように、この方も宮原の曾祖父の姪の娘さんですから・・

つまり(p_-)

平川家の男性陣とはナントいとこ同士になります!

 

 

軍服姿の祖父から見て、右に3人目の若い方が、

祖父の義姉のご主人(星原家の二男の方)で・・

後に(昭和40年代~50年代)岡原村村会議員議長を務めていらっしゃいます。

 

後方2列目の小柄な髭の方が、星原家の長男、白い髭のおじいさんが

お二人のお父さんでいらっしゃいます😊

 

 

祖父の義理姉に抱かれている赤ちゃんは、私のはとこになる方で(戸籍上はふた従姉)

今年で85歳になられます🙂

 

私と年が30歳近く離れたふた従姉さんです🙂

 

この方が唯一と言って良いほど、

昔の宮原家の事を祖父の義理姉の方から聞いていらっしゃって、

私は、今、この方から、沢山の事を聞きながら、私が祖母から聞いていた事と繋ぎ合わせております。(普段はおばさんと呼んでいるので、ここからはおばさんで<m(__)m>)

 

家を取り巻く?簡単な概要でした<m(__)m>

 

 

かなり長くなりましたので、次の曲を<m(__)m>

World's Most Heroic Emotional Music | by Sky Mubs

 

 

 

先程の続き・・

 

このおばさんから聞いていた話の中で、今回、思い出したのは

 

私の曾祖父が、

神社で弓を持って何か儀式を行っていた写真を見た事がある

という事でした

 

おばさんは、お母さん(私の祖父の義姉)から

「神社での儀式」

とちゃんと聞かれていらっしゃったそうです。

 

 

曾じいちゃん何をしてたのだろう・・?

 

 

曾祖父の事は、2020年9月に書いたブログ

第一回国勢調査から・・うちの宮原家の事がまた少しだけ解りました

で、新しく解った事を書かせて頂いております。<m(__)m>

 

 

 

 

何度かブログ内でご紹介していますように

 

曾祖父は、何故か?遠縁の方々から

葦原様

と、手紙に書かれておりました・・

(?_?) ・・・(p_-)

 

先祖への手紙

 

 

今でも、私、この手紙を読んでも、漢字ばかりで、ナント書いてあるのか

チンプンカンプンでして(^▽^;)

 

ただ・・

数年前に古文書が読める方に見て頂いた時に

説明をせずに、まず見て頂いたところ・・

 

「この手紙を受けた方は、相当な力を持った方のようですね・・」

と言われて

 

私は「曾祖父です」と答えた所・・

 

「お宅の宮原家は、一体どういう立場の家だったのでしょうか!?」

と聞かれ・・

 

私は、全く解らず・・(?_?)

「解りません・・」とお答えして終わった事があります・・

 

(?_?) (?_?) (?_?)

何だろう・・・?????

 

あと・・

 

実は、家の宮原家を継いだ星原家

何故か?玄関にいつも注連縄(しめなわ)を飾っておられます

 

正月飾りじゃありません(ー_ー)!!

 

玄関の端から端に注連縄が結ばれて、中央に御幣が結ばれています

一年中、注連縄が玄関に結ばれているのです

 

しかし・・こちらの星原家の本家には、玄関に注連縄はされていません

 

ずっと何故だろう・・(?_?)

と不思議だったのです

 

しかし

最近、先に書いたおばさんに聞いて初めて知ったのですが・・

 

「宮原家がそうされていたからよ🙂」

「受け継いどっとタイ🙂」 (受け継いでるのよ)

 

私・・「何で ですか??」

 

おばさん・・私も詳しくは解らんねぇ~🙄

 

しかし・・

元々、家の宮原家があった場所は、地元の郷土研究家の方々が

江戸時代初頭に廃城になった宮原城城主の

居館跡

だろう・・と推測されていて・・

 

稲積妙見の社人でいらしたのは

奥野村の白木妙見社の宮司家「椎葉家」で・・

あれっ!?・・・

 

 

と・・考えながら、

うわぁ・・!!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

と・・新たに気が付いた事があるのですが

それは次回に <m(__)m>

 

 

チラッと予告を(p_-)

上記に書きだした親戚関係が・・

麻郡神社私考の原文に記された

江戸時代までの球磨郡内における神社組織

中嶋大権現(中嶋霧島神宮)の「輿」と

その配下となられる「

そのものだったのですよねぇ・・

 

麻郡神社私考には

昔は(上村白髪神社創建の前)

球磨郡の

南側は

中嶋大権現(中嶋霧島神宮)

北側は

王宮神社が

 

宗社であった

と記されておりました

(p_-)

 

※中嶋大権現(中嶋霧島神宮)の宮司家は

橘姓 宮原氏

でございます<m(__)m>

 

※岡原霧島神社の宮司家「横瀬家」は、岡原霧島神社が創建された後の宮司家です。

 

詳しくは次回にて<m(__)m>

 

 

 

3.雲平とは何だろう

 

弓の儀式に関わったり・・

葦原様と記されたり・・

かなり謎を秘めた?私の曾祖父 (p_-)

 

実は 雲平 と称していたのです・・

 

 

ブログ

『(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様』

で書きましたように・・

家の宮原家が代々所有した

「府内」(馬場田)

 

曾祖父は「府内」(馬場田)の畦補修の為の木材、さらに水田の用水樋木に使用する材木を村に出願する際に

明治時代(p_-) ※稲積妙見が、創建された岡原霧島神社に合祀となる前・・

 

久保田雲平

の名で出願を行っているのです・・

 

岡原村史より

 

 

 

 

 

久保田雲平とは何だろう??

 

 

先に書いた星原家の娘でいらっしゃる「おばさん」に聞くと

留蔵さんな、何か、妙な名前・・使いよんなったって聞いとるよ!

(私の曾祖父は妙な名前?を使っていたと聞いている)

と・・

「雲平」?と紙に書いて見せると

 

あっ!そうばい!😊

 

私は、曾祖父の実家久保田家を名乗っているのかな・・?

と考えていました。

曾祖父は、子供がいなかった宮原家に11歳の時に縁戚の久保田家から養子に入っています

 

所が・・椎葉のおじが

お前んとこのおじゃんじ(お社地)には妙見様のすぐ下に窪地があったと。

 

窪地の田ん中は、肥料は絶対に使ってはならんで

採れた米は、神様にお供えしよんなったとげな

 

平川の曾ばあ様から聞いとった

そこば 久保田(窪田)と呼びよんなったとタイ

 

 

と言うのです

\(◎o◎)/! そうだったんだ!

 

御神田

久保田

 

 

久保田雲平・・

 

久保田の意味は解ったけれど・・

 

雲平とは 何だろう(?_?)

 

その後・・

八代氷川町の宮原町誌に「雲平」の記述を見つけていたのであります。

 

肥後国誌に記載・・とあったので、どうしても肥後国誌が見たくて探したのですが・・

その記述が、ようやく見つかりました😊

 

 

 

氷川宮原の宮原城主

宮原公忠公

 

子孫は尚、相良氏に仕えて、當今、

宮原雲平 と號すと云

 

 

宮原雲平・・?

雲平??

 

宮原公忠公の後裔の方から

明治初頭に作られた、宮原家の系図を頂いておりますので

あらためて、拝見したのですが宮原公忠公後裔の方々の中に雲平の記述は無く・・

※南北朝時代に宮原氏は分かれているようですが、岡原村の豪族と称された、

相良家家老宮原公全の系は、系図に「公全」以降の方々は記されていません。

 

他に頂いていた資料を拝見しても雲平の記述は見つからなかったので

系図に記された宮原公忠公の後裔の方々の「どなたか」が、肥後国誌が編纂された時に

雲平 と称していらしたのかな・・?

と推測しました

 

 

ただ・・気になるのは

肥後国誌に記された宮原三宮妙見社

 

氷川宮原城は三宮妙見社のすぐ側に築城されていた事です。

 

ご参考までに 肥後宮原城 城郭放浪記様 サイトより

 

 

※宮原城は三宮社(宮原三神宮)の南側一帯に築かれていた

 

 

妙見さまと宮原の一族は、凄く深い繋がりがあるように

強く感じます

 

と言う事は

雲平とは

妙見さまに関わる何か?かな・・

と(p_-)

 

雲平を調べたのですが

秋田県の郷土お菓子 しか登場しませんでした

(^▽^;)

 

ただ・・意味は

ひとひらの雲

という事は解りました

 

 

雲平さんの秘密 今後も調べていこう!と思っています😊

 

 

 

4.橘一族と八角形

 

最初に・・気が付いた事がある と書きました。

 

皆様、ここまで私が書いてきた事を、お読み頂きありがとうございます。

 

じっくりとお読み下さった方しか解らない事を書きます<m(__)m>

 

私は

稲積妙見の「稲積」と、物部氏の「穂積」は

同意語

だと考えています。

 

 

パソコンを使って、このブログをお読みの方々におやり頂きたい事があるのです

 

まず

ほずみ と入力して変換して下さい

候補リストを見て頂くと解ります

 

「八角」

が表示されていませんか!?

 

稲積=穂積=八角

 

なのでした・・

 

 

気が付いてしまいました😊

 

きゃ~っ😱 って 言わないで下さいね・・・・

 

 

 

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今回は

1.家の親戚の姓・・・

2.弓の儀式と曾じいちゃん(曾祖父)

家を取り巻く?簡単な概要<m(__)m>

曾祖父が行った弓の儀式

3.雲平とは何だろう

4.橘一族と八角形

 

という内容を書かせて頂きました。

橘一族と八角形の秘密が理解出来ましたので

家の家紋と八角形との関係もよ~く解りました。

次回に以降に😊

 

 

皆様、最後までお読み頂き
ありがとうございました
😊

お身体十分に気を付けてお過ごしになられて下さい

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

㊽+1 方解石は凄い!と「輿」と合祀になられた神社絵図 に続きます