前回のブログ『㊽家の親戚の姓と弓の儀式と雲平さんと』より 続きます。

 

 

 

2022/01/31 18:45 再投稿

 

2022/01/30 09:43 投稿の拙ブログをご覧頂いた方々へ

 

今回のブログを、ご覧頂き ありがとうございました。

 

本日、ブログ内に大切な追記を加えております。

 

 

追記内容

 

①麻郡神社私考を編纂なさった 青井大明神の大宮司青井 惟董公についての追記

 

青井 惟董公は

大宮司職を継ぎ采女佐を受領なさっていらっしゃいました

 

※采女佐に関連して

そもそも、采女の統括を担当した伴造氏族とは

穂積真津の次男・采女宮手を祖とする、穂積氏から分かれた氏族

采女氏であった・・

 

と言った内容を 2.球磨の神社の「輿」とは 内に追記致しました。

 

 

②次回の予告?

相良長頼公、球磨入部の際に

長氏 ※長谷部連 物部朝臣後裔 が、ご一緒に球磨に入られていました😊

と言ったお話も書かせて頂こうと思います。

 

 

この内容はおそらく非常に重要だと感じ、当ブログ内に追記として書かせて頂きました。

 

やはり、青井家は球磨の神社の宗社を御継になられるべき

凄い一族でいらっしゃる・・と感動致しております。

 

それと・・皆様

お気づきでしたか? 球磨郡久米郷宮原村竹野

竹野・・

ニコッ😊

物部氏に精通なさった方ならば一目瞭然ですね・・

 

曲を変えました。

「あの曲」の方が古代の球磨にピッタリ合っている・・と思いまして・・😊

 

以上 再投稿「追記」内容のご紹介でした<m(__)m> ひろっぷ

 

 

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
郷土の方々が、そして故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

 

この波が最後の波になるように祈って

負けんばい!!

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

今回のタイトルは

方解石は凄い!と「輿」と合祀になられた神社絵図 です

 

お付き合い下さい <m(__)m>

 

 

 

1.方解石について

 

拙ブログ『再々投稿 ㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・』でご紹介した方解石

 

 

皇紀2600年を記念して編纂された球磨郡誌に記されていた内容

 

私の住む、旧球磨郡久米郷宮原村宮麓(現あさぎり町岡原北)の

金山(かなやま・旧宮原銀山跡)付近で採取された石が鑑定を行ったら

方解石であった・・

 

 

 

 

marineと奈央様が

拙ブログをリブログしてくださり

この方解石についてより詳しく、検証して下さいました

\(^o^)/

 

 

 

バイキングの羅針盤 太陽の石 ってなに?

 

 

marineと奈央様の

非常に解りやすいご説明と共に、

方解石って凄い!!

と感動する動画をご紹介なさっていらっしゃいます。

 

ぜひ、ご覧になられて下さい😊

ビックリなさる\(◎o◎)/! と思いますよ!

 

 

方解石とは、どのような特徴を持つ石なのか

さらに

コンパスの無い時代、方解石を用いて太陽の位置を確認していたのか

とても良く解りました😊

 

 

古代の人達が、このような石を使用していた事に

感動致しました

 

 

marineと奈央様 ありがとうございました。

 

😀

 

 

 

私・・動画を拝見して、ふと考えたのですが

八角も十六角も

太陽の光を表しているのではないのかな・・

と・・・

 

 

妙な事を書きました<m(__)m>

 

 

 

実は、私、『再々投稿 ㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・』を書いたあと・・

そう言えば・・ばあちゃんの石・・あれって何だろう・・?

と、家にある石の事が気になってしまいました。

 

父は、火打石じゃないか? と言うのですが

火打石??とは思えず・・

 

祖母は、私が子供の頃から、その石をずっと持っていて

玄関に置いていたのですが、(今でも私は祖母の思い出として置いています)

 

気になりまして・・

あらためて、よ~く見ると、石の中に沢山のガラスのような物が見えるのです。

 

 

動画撮影してみました(p_-) 15秒程ですので、よろしければご覧下さい😀

 

 

 

これって、本当に火打石?なのでしょうか・・(?_?)

🙄

 

石繋がり?で、家にある石をご紹介致しました

<m(__)m> ・・・ 😊

 

※おんやっ(p_-)

爪が凹んでいますね(p_-)・・実は先月の上旬、サッシに挟んでしまったのです痛かった・・

おっちょこちょい😔

 

 

 

ここからは 音楽と共にお付き合い下さい

この曲は、私の中の古代の球磨のイメージに最も合っているのです・・😊

 

Thomas Bergersen - Rada (Illusions) Extended

 

 

 

 

2.球磨の神社の「輿」とは

 

 

2020年1月に書いたブログ

(再追記あり)神事『御神体の御更衣』と御拝殿内の八角形と白髪神社様の鶏さん

 

 

(再追記あり)神事『御神体の御更衣』と御拝殿内の八角形と白髪神社様の鶏さん

でも、ご紹介した

球磨の神社の「輿」とは

 

麻郡神社私考平成復刻版の巻末に 神道大系 月報69 昭和62年11月 に記載の

佐藤光昭氏 「麻郡神社私考」について と言う文書が添付されています。

 

拝見すると 輿(与)について詳しくお書きになられていらっしゃいました。

 

 

佐藤光昭氏 「麻郡神社私考」について より 抜粋致します

 

本書(麻郡神社私考)は、相良家二十二代藩主相良頼喬の命により、

球磨郡の宗社であった青井大明神の大宮司青井 惟董(これただ)が調査研究して

元禄十二年十二月に完成し献上したものである。

 

 

2022/01/31 18:45 追記

 

補足

青井大明神の大宮司青井 惟董 公  ウィキペディアより

 

青井 惟董(あおい これただ、寛文2年(1662年) - 享保9年(1724年))は第51代青井阿蘇神社大宮司。

 

惟治の嫡子として生まれ、天和元年(1681年)20歳の時に惟治が没したために

大宮司職を継ぎ采女佐を受領

 

元禄12年(1699年)、藩主頼喬の命を受けて『麻郡神社記』(まぐんじんじゃき)を著した

 

以上ウィキペディアより 転記致しました

 

 

※大宮司職を継ぎ采女佐を受領

 

※采女佐

 

※采女佐 関連項目

ウィキペディアより 采女氏

采女氏(うねめうじ)は、「采女」を氏の名とする氏族。

姓(かばね)は始め采女臣、後に采女朝臣。
穂積真津の次男・采女宮手を祖とする、穂積氏から分かれた氏族である。

采女の統括を担当した伴造氏族

 

・・

采女氏とは

采女の統括を担当した伴造氏族

で・・いらっしゃる物部氏本流「穂積氏」の一族

 

以上 2022/01/31 18:45 の追記でした。

 

 

 

以下 佐藤光昭氏 「麻郡神社私考」について より 抜粋続けます。

 

二、 本書の特色より

 

相良藩の神社行政は、

慶長元年、青井大明神の球磨宗社昇格により改革されたといってよい。

 

以前は、

青井宮は下球磨五与(くみ)三十五社を支配し、

上球磨は南は宮原の中嶋大権現、

北は黒肥地の王宮大明神、

中は上村の白髪大権現の支配であった。

 

与は十四与、二三四社、別当与二十社は寺院に付属していたのである。

寛文十二年に初めて寺社奉行が任命されているので、「私考」の出来た元禄十二年頃は寺社奉行の支配下にあった。

 

この与は行政機構につながるもので、藩命を伝達したり、祭や神楽奉納等はこの与の協力によって執り行われたものと思われる。

 

 

以上 佐藤光昭氏 「麻郡神社私考」について より

 

 

 

以前は、

青井宮は下球磨五与(くみ)三十五社を支配し、上球磨は南は宮原の中嶋大権現、

北は黒肥地の王宮大明神、中は上村の白髪大権現の支配であった。

 

 

 

麻郡神社私考原文の巻末には

青井大明神の青井 惟董大宮司の編纂後の謹書がつづられています。

 

漢文なので、じっくりとは読めていないのですが、中に、驚きの言葉が記されていました。

 

又昔年 南ハ中嶋 北ハ王宮ヲ以て

宗社トスル事アリ

 

※補足

王宮大明神 大同元年草創 御祭神 神武天皇

 

宗社・・

驚きました・・・

 

 

この与は行政機構につながるもので、藩命を伝達したり、祭や神楽奉納等はこの与の協力によって執り行われたものと思われる。

 

元禄十二年(1699年)には輿・与は十四与に増えていて調査の神社は二三四社、さらに

別当与二十社は寺院に付属

 

内(うち)

中嶋輿 が二十社

切畑輿 が六社

 

を支配していたようです

(支配という言葉は・・好きじゃありません)

 

 

麻郡神社私考内では「各与」ごとに、神社の説明がなされているのですが

本文内では

中嶋輿

切畑組

と、分けて記されておりました。

 

大炊神権現(大炊霧島神社)、稲積妙見は当時

中嶋輿 の中に組み込まれていました。

 

大炊は

おおい

と読みます

 

 

特記

旧、宮原村・岡本村

久米村・旧奥野村・旧槻木村(現在の多良木町 久米・奥野・槻木)

殆どの神社中嶋輿に組み込まれていました

 

 

※驚いた事に

久米熊野座神社は 中嶋輿 であり

宮司家は 宮原氏 でした・・

 

 

切畑組は、

切畑大明神配下のグループ?という意で

実は、宮麓切畑地区は

明治初頭まで 旧湯前村の飛び地だったのです・・

 

切畑組には

旧宮原村宮麓の天満天神社 2社

旧久米村の天満天神社 1社

旧湯前村の

稲荷大明神社 熊野権現 の2社が

組み込まれていました

 

 

私の住む、旧宮原村宮麓(現あさぎり町岡原北)には

二つの輿と与があった事になり

 

当時の球磨郡内(現在の人吉市を含む)では、

特異な地

であった事は間違いない・・と思います

 

 

元禄十二年(1699年)当時の社人(宮司)様は

 

中嶋大権現(中嶋霧島神宮)が

宮原 主馬 (シュメ)

 

切畑大明神が

星原 内記

 

という方々でした。

 

 

詳しくは、後日書かせて頂きますが

元々、

中嶋大権現(中嶋霧島神宮)と

大炊神権現(大炊霧島神社)は

大神惟基がご神託に随って創建された神社です

 

 

私は、1200年代中期以降に橘薩摩一族がこの地に入るまで

「大神氏」が祭祀を行っていらしたのでは・・

と推測しているのです

 

 

そう・・

西園寺公経 と 橘公業(宮原氏の祖)が

球磨郡久米郷と伊予宇和島を替地して

橘一族が入部するまでは

「大神氏」が祭祀を行っていらしたのだろう・・と

 

 

 

実は・・橘薩摩一族の中で

宮原氏を含む「橘公員」の系「大崎の一族」と言われた人達は

元々・・祭祀を担当?する系ではあったのですよねぇ・・(p_-)

 

詳しくは 後日 <m(__)m>

 

 

独り言

私の祖父は、上記に書かせて頂いた事を

よ~く知っていたのでは・・

祖父は、大陸に渡る際に、敗戦の事など考えるはずもなく

だからこそ・・

本姓「大神氏」の親戚に

あえて・・宮原家が継承してきた「物」を・・・?

 

 

 

 

3.合祀となられた神社の絵図

 

ここ数回、ブログ内でご紹介致しております岡原霧島神社

 

明治時代に旧宮原村、旧岡本村が合併して岡原村となった事を機に
 

其々大同元年に創建されたと記された
中嶋大権現(中嶋霧島神宮)、

大炊神権現(大炊霧島神社※おおい霧島神社)
切畑大明神(※切旗大明神 御祭神 阿蘇神社同體、合祀 平景清公母君)

 

3社合祀となられて創建された岡原霧島神社。

 

その後、稲積妙見を含む各村内にご鎮座であった神社も合祀となられました。

 

 

岡原霧島神社 御祭神

 

天津彦火邇邇芸命
天津彦火々出見命
火闌降命
火明命
吾田鹿葦津姫命
伊弉美命
須佐能男命
大歳神
市杵島姫命
豊玉姫命
罔象女神
天照大御神
菅原道真公
天御中主神
級戸神
健磐龍命
阿蘇津比咩
国造速瓶玉神
大地主神
応神天皇
建御名方神

 

頂いた資料には続けて

 

『上記の他、葉山神、若山大神、豊嶽神の23柱を御祭神としています』と記されています。

 

さらに

『飛び地境内社として熊野地区の熊野座神社、伊勢元地区の皇太神宮、

檜山地区の天満宮、長岡地区の菅原神社、岡麓地区の諏訪神社があります』

 

と記されています。

 

 

過去ブログでちょっとだけ書いた事があるのですが

実は、私

合祀となられた神社の複数枚の絵図を持っているのです。

 

 

私に絵図を渡された方から、先日

「本来、この絵図は2部しかなかった物です」

「1部はあなたに差し上げて、もう1部は行方不明となっています」

 

と言われました。

 

 

\(◎o◎)/! え~っ!!

 

 

私は、驚くと共に、貴重な絵図を蔑ろにしてはいけない!

 

と強く感じました。

 

 

多くの方々に御覧頂くべきであり

さらに、旧岡原村にご縁の方々にもご覧頂き

地域の方々のご先祖様方が大切にお守りになられ

崇拝なさった神社様の当時のお姿をご覧頂きたい

 

と強く感じました。

 

そこで、今回、絵図を写真に撮り、データとして保存しました。

 

ありがたい事に

私のブログをご覧下さっていらっしゃる皆様方に

ご縁を感じる皆様方に

ぜひ、ご紹介させて頂こうと思いました😊

 

 

大変貴重な絵図です

ご覧下さい

 

 

明治43年、岡原霧島神社創建 記念式典での写真

 

 

 

 

 

中嶋輿

旧宮原村宮麓 中嶋山御鎮座

 

中嶋大権現(中嶋霧島神宮)

 

 

 

 

 

麻郡神社私考より

 

 

 

 

 

 

 

切畑与

湯前領 切畑山 ご鎮座

(宮麓内 切畑地区は明治初頭まで、湯前村の飛び地)

 

切畑大明神

 

 

 

 

中嶋輿内

旧宮原村宮麓内

旧久米領 飛び地 稲積山 ご鎮座

稲積妙見

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧宮原村熊野御鎮座

熊野権現 (熊野座神社は現存)

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧宮原村竹野伊勢本ご鎮座

皇太神宮 (現存)

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村斎堂(ときどう)ご鎮座

※元禄十二年当時は岡本大炊神山 ご鎮座

(現存 しかし・・公民館の中) 

 

 

正八幡宮

 

 

 

 

 

中嶋輿内

岡本村福留御鎮座 (岡本福本山)

 

福神明神 (現存 公民館の中)

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村長岡御鎮座

 

藤崎八幡

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村長岡御鎮座

(現存 公民館の中)

 

菅原神社 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村長岡

 

若宮神社

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村岡麓 (岡本大炊神山)

(現存 岡本城跡に移る)

 

諏訪大明神 

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村岡麓

 

金毘羅神社 (現存)

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村岡麓

 

太 神宮

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村岡麓

 

祇園 社

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村岡麓 (岡本大炊神山)

 

熊野権現

 

 

 

 

 

いかがでしたでしょうか

 

合祀となられた神々様も、

皆様方が以前の神社の姿をご覧になられる事で

お喜びになられていらっしゃることと存じます

 

みたまのふゆ

 

でございます

 

 

 

 

ただ・・大炊神権現さま、大歳神さまを含む、残り複数の神社さまの絵図は

頂いておりません。

 

 

どこかに、残っていれば、それだけで

 

とても嬉しく思うのですが・・

 

 

 

 

実は

絵図をまとめている時に、御神紋が気になって、ネットを使って勉強していたら

頂いた資料にあった

 

『上記の他、葉山神、若山大神、豊嶽神の23柱を御祭神としています』

 

に記された

葉山神、若山大神

の意がようやく理解出来ました

\(^o^)/

 

 

古事記にちゃんと記されておりました。

 

しかし、全国でお祀りの神社様は非常に少ない事も解りました。

 

 

 

次回に記させて頂きます

<m(__)m>

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

今回は

1.方解石について

2.球磨の神社の「輿」とは

3.合祀となられた神社の絵図

 

という内容を書かせて頂きました。

 

次回は・・

相良長頼公、球磨入部の際に

長氏 ※長谷部連 物部朝臣 がご一緒に入られました😊

と言ったお話も書かせて頂こうと思います。

 

 

皆様、最後までご覧頂きありがとうございました。

 

 

お身体十分に気を付けてお過ごしになられて下さい。

 

 

 

感謝を込めて

だんだんなぁ~😊

 

そして・・

負けんば~い!!

 

 

 

球磨の地より ひろっぷでした😊

 

次回『(再)㊿人吉遥拝神社さまとナマズと鹿とひとんぎ餅』 に続きます