前回のブログ『(再)㊿人吉遥拝神社さまとナマズと鹿とひとんぎ餅』より続きます

 

 

 

2022/02/06 13:45 再投稿

すでに、拙ブログをご覧頂いた方々へ

ご覧頂き ありがとうございました。

 

 

大切な言葉を書いていなかった事に気が付き、😔

 

『今回のブログ内容をお読み頂いた方々でなければ

お解り頂けない事を最後に書きます』

の最下部に以下を追記致しました。

 

 

天火明命さまの御陵は

冠山です

 

彦火々出見命さまの御代は500年

複数の彦火々出見命をお名乗りになられる御方がいらっしゃったのだと

私は考えます

 

と・・・・

 

毎回、追記ばかりで申し訳ございません

 

ひろっぷ <m(__)m>

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 

球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
郷土の方々が、そして故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

皆様

あらためまして、拙ブログをご覧下さり

ありがとうございます

 

 

私は、おそらく、今まで、どの学者様もお書きになられた事がない

「この地」に居るから解る事、知る事が出来る事を書いているのだと思います。

 

ですから、その事を「知って頂く」皆様方には

とても深いご縁を感じております 😊

 

 

妙な事を書きますが

 

知りたいという方々だけに、

お教えしてあげなさい・・

と言われているような気がしているのです・・

 

最初から不思議な事を書いたので、「もう読むのはやめよう・・🙄 」 って

言わないで下さいね 😥

 

 

 

では、いつものひろっぷしゃんに戻って

早速(p_-)

 

 

前回のブログ『(再)㊿人吉遥拝神社さまとナマズと鹿とひとんぎ餅』では

今、私が書きたいと思っている事を「複数」挙げました😊

 

※今回は更新が早かったので未だご覧ではない御方は、お時間があられる時にでも

前回のブログをご覧下さい。<m(__)m>

 

 

前回、書きましたように・・

 

しとんぎ餅・ひとんぎ餅

 

球磨弁・・😊

ではなく

(ー_ー)!!

 

古語でした!

 

 

 

ここで、前回の補足を<m(__)m>

 

球磨郡誌 663ページ

 

小野高尚の夏山雑談の巻之五には「西国邉土には古き詞遺れり」という一項があって

「薩摩国、肥後国球磨郡などの人の言葉は

多くは、うつぼ、竹取、源氏物語、清女枕草子、四の鑑、大和物語等 にある言葉なり・・・ 中略

それは・・  古きことば猶のことたり」

という記事があるさうである。

 

 

 

小野高尚 コトバンク様より

 

 

 

小野高尚 おの-たかひさ
1720-1800* 江戸時代中期の国学者。
 

享保(きょうほう)5年生まれ。幕臣。明和2年大番となる。

史学にも造詣(ぞうけい)がふかく,おおくの著作をのこした。

寛政11年12月16日死去。80歳。

 

初名は高格。通称は忠左衛門,直十郎。号は竹叢,飯山,佚泰子。

著作に「古今類聚(るいじゅう)名諱伝」「中興武林雑説」など。

 

以上 コトバンク様より転記致しました。

 

 

何故?小野高尚、この方が

「薩摩国、肥後国球磨郡などの人の言葉は」と地域を限定してお書きになられているのか・

 

 

それは、全く不思議な事ではないのです。

 

不思議とお感じになられる方は、

おそらく、今からご紹介させて頂く事を全くご存知無いからでしょう・・

 

皆様方は、もちろんご存知でいらっしゃる😊と思います。

 

 

音楽と共にお付き合い下さい

Two Steps From Hell - Heart of Courage Extended

 

 

 

 

 

 

1.天津日高彦火邇邇杵尊 御陵

 

僭越ながら、若輩者のわたくしがご紹介させて頂きます。

 

 

 

新田神社 (薩摩川内市) ウィキペディアより 抜粋させて頂きます

 

 

 

新田神社(にったじんじゃ/にいたじんじゃ)は、鹿児島県薩摩川内市宮内町にある神社。

 

薩摩国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

 

社殿の背後にある墳墓は、1874年(明治7年)の宮内省により、

皇孫・天津日高彦火邇邇杵尊の陵墓とされる可愛山陵であると治定された。

 

社伝によると

「鹿児島県の加世田市(現南さつま市)から川内の地に到来された天津日高彦火邇邇杵尊(ニニギノミコト)は、この地に千台(センノウテナ)すなわち高殿(高城千台の宮)を築いてお住まいになった。

 

川内(センダイ)の名は、この千台→川内から来ているとされる。

 

やがて、ニニギノミコトが亡くなられたのでお墓が造られたがそれが今の可愛山陵で、そのニニギノミコトの御霊を祀ったのが新田神社の創始である。

 

なお当神社の“新田”という名称には、ニニギノミコトが川内の地に川内川から水を引いて新しく田圃をお作りになったという意味が込められているとされる。

 

 

山陵
明治7年(1874年)7月10日、明治天皇の裁可を経て可愛山陵(えのやまのみささぎ)が

「邇邇芸尊陵」の指定を受け、大正3年(1914年)に宮内省直轄となった。

 

新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で、

現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ内閣府事務官が陵墓守部として管理している。

 

陵墓と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。

大正9年(1920年)3月30日・昭和天皇(当時の皇太子)参拝、

昭和37年(1962年)明仁上皇(当時の皇太子)及び上皇后美智子(当時の皇太子妃)

参拝、など皇族の参拝は9回にも及んでいる。

 

 

以上 ウィキペディアより抜粋致しました

 

 

 

※ニニギノミコトが川内の地に川内川から水を引いて新しく田圃をお作りになった

 

 

補足させて頂きますと・・

川内川は、球磨盆地、球磨郡あさぎり町上(うえ)に聳える白髪岳を源流とする川であります

😊

 

 

球磨郡あさぎり町から見た 白髪岳

孝霊天皇様後裔の方と白髪岳 と パイプ状ベンガラのプレゼント | ひろっぷ 古代・中世・近世の繋がり 先祖について

 

 

雪化粧の白髪岳

動画 8000年前の石製「人形」が出土していた多良木町 菱形文等は縄文時代早期から | ひろっぷ 古代・中世・近世の繋がり 先祖について

 

 

補足でした <m(__)m>

 

 

 

さらに

可愛山陵  ウィキペディアより

 

 

 

 

可愛山陵(えのみささぎ)は、日本書紀に現れるニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵。

 

高屋山上陵(たかやのやまの えのみささぎ)、吾平山上陵(あひらのやまの えのみささぎ)とともに神代三山陵の一つ

 

 

形態
現在、可愛山陵と治定されている新田神社では、神亀山の5分の4が御陵の領域となっている。御陵と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。

神亀山は、火山活動によってつくられたシラス土壌が一般的な土地に粘土質の岩盤から出来ており、川内平野にぽつんと孤立した山塊であることから、一説には人為的に築かれたものではないかともいわれている

 

陵墓参考地
上記の治定に強い反論があり、宮崎県日南市宮浦には鵜戸神宮もあることなどから、明治29(1896)年、宮内省は宮崎県北川町俵野可愛を「御陵伝承地」西都市西都原を「御陵墓参考地」と定めた。

日向の埃の山陵は日向国臼杵郡長井村俵野門(かど)にある。

 

「可愛山陵」は神代、ニニギノミコトの崩御で、筑紫の日向の可愛(可愛は埃(え)と読む)の山陵に葬ったもので、「諸陵式」には日向国にあって、陵戸(墓を守る人)はない、とある。日向の人々より日向国臼杵郡長井村俵野門に1つの古墳があって、これが御陵に「射当(あたる)」と反論があった。

 

 

以上 ウィキペディアより抜粋致しました。

 

 

 

※神亀山 

一説には人為的に築かれたものではないかともいわれている。

 

 

まるで、日本のピラミッドのようですね!

 

 

 

球磨人の私がとても興味深い事は

薩摩川内市も日向国臼杵郡長井村俵野門(現在の宮崎県延岡市北川町)も

九州中央山地から降りられて向かう事となられる地である・・

という事です

 

 

宮崎県と鹿児島県の相論は、不勉強な私には良く解りませんが

 

しかし

 

皇族の方々の御参拝は9回にも及んでいる

内閣府事務官が陵墓守部として管理している

神亀山の天津日高彦火瓊瓊杵尊さまの御陵

「邇邇芸尊陵」

 

日向国臼杵郡長井村俵野門の

「御陵伝承地」

 

 

もっと、多くの日本人は、知っておかなければならない

 

と私は強く感じております

 

 

 

いずれにしても

古代の日向なのであります

 

 

 

 

2.天孫 火闌降命、天火明命 御陵

 

新田神社 (薩摩川内市) ウィキペディアより転記致します

 

 

御陵社より

 

中陵神社(なかのみささぎじんじゃ)
祭神:火闌降命(邇邇杵尊の皇子神)

 

神亀山の首部分に鎮座。祭神の御陵と伝わる。
 

この火闌降命の御陵と伝わる中陵古墳は、本格的な測量は実施されていないが、1986年に川内市歴史資料館により端陵古墳と共に現地踏査が行なわれ、こちらからも墳裾が確認されており、略測で直径約22mの円墳の可能性があるとされている。
 

文化3年(1806年)にここにあった古い松の木が枯れて、土地の人が切り除き根を掘りとった際、石榔に掘り当たりその中にあった石棺の蓋石を引き開いたところ、中から白煙が吹き出しその石棺の内部は青味がかった赤色であったという逸話が残っている。

 

 

川合陵神社(かわあいのみささぎじんじゃ)
祭神:天火明命(邇邇杵尊の兄弟神、もしくは皇子神)

 

神亀山ではなく五代町の冠山の麓に鎮座。

御陵殿(みささぎどん)とも称された。
 

はじめ社は、冠山の山上にあったといわれているが、その後陵が崩れたため冠山の麓に移したとされる。  
 

社殿のすぐ西側に祭神の墳墓と伝わるチョッポ岡という小丘がある。

 

 

以上 ウィキペディアより転記

 

 

 

 

火闌降命さま、天火明命さまの御陵

 

 

皆様、ご存知でいらっしゃるであろうと思います

 

 

 

 

私は、とても、気になる事があります。

若輩者の言葉で失礼致します <m(__)m>

 

 

火闌降命さま、天火明命さま

 

特に天火明命さまの後裔氏族の方々のご研究、さらに、天孫降臨に関わる神々様の後裔氏族のご研究をなさっていらっしゃる

一部の「学者様、歴史研究家、系図研究家の方々」のご研究を拝見すると・・

 

後裔氏族が「移動後」拠点となさった地域の事は重要視なさっていらっしゃいますが

 

その方々の祖となられる方々の御霊を

蔑ろ(ないがしろ)になさっていられるのではないのか

・・・と

 

私には感じるのです

 

だから

南九州を完全に無視なさっていらっしゃる方々を多くお見受けするのでは

 

と、私は強く感じております

 

 

 

古代の

尊い方々の御霊を

大切に崇拝するお気持ちを

研究者の方々にお持ち頂きたい

強く願います

 

 

 

所で・・・

 

私の住む、旧岡原村(現あさぎり町岡原)は、

何度も書きますように、古からの貴重な風習や祭祀が伝わってきた地です

 

免田郷土研究会 郷土 第二号 昭和49年2月発行より

(岡原村)民族資料 横瀬安住氏談
 

 

①子供名付けの儀式
嬰子に手箕をかぶせ、弓に麻殻の矢をつがえて、嬰子の男女の性別を聞いてから短い言葉を唱えて(唱え言葉を失念)手箕を射た
 

②七夕の日に詠う
「七夕さん七夕さん、月に三反、七苧桶、紡いで織らせて下しゃんせ、下しゃんせ)

 

③弓引きの式
子供名付けの悪魔祓いの作法が宮中にては親王、内親王御命名の時 鳴弦の儀とて、

弓弦を鳴らす儀式があるが、岡原地区には昔弓引きの式が あった。

明治四十年頃、横瀬氏はその席に列席したことがある。
 

他、家の棟上げに弓矢をつくり、鬼門、鬼門裏に立てるのも同じ趣旨と思う。

 

 

 

 

 

 

※ここからは独り言だとお思い下さい

 

この旧岡原村だけの方言があります・・

 

天火明命さまの御陵

 

※社殿のすぐ西側に祭神の墳墓と伝わるチョッポ岡という小丘がある。

 

チョッポ岡

 

 

 

旧岡原村だけの方言ですが

 

チョッポ

チョッポカスケ

 

 

チョッポカスケとは

梟の事

です

 

 

家の親戚の宮司家の方は、こうおっしゃいます

梟は熊襲の鳥である

と・・

 

 

林兼明様は

著書「神に関する古語の研究」の中で

熊襲とは天孫族なり

 

とお書きになられていらっしゃいます

 

 

熊襲と記された方々は

滅ぼされてなど いないのです

 

 

熊襲について

古事記、先代旧事本紀では、わずか数行の記述であった・・

 

それは8世紀における熊襲と記された方々の後裔の人達にとっては

義の範囲だったのでしょう・・

 

しかし・・日本書紀は、いささか誇張し過ぎてしまわれた

 

熊襲と記された方々の後裔の人達にとっての

義の範囲を大きく外されてしまわれた・・

 

 

それは・・

おそらく、当時、権力を拡大していた「某氏」が関わっていらっしゃるのかも

しれません

 

 

気が付いていたのです

 

 

父はいつもこう言っております

「藤原氏。元々藤原は他の方々が他の系の方々が名乗っていた姓だ・・」

 

私、物部氏をあらためて勉強して、初めて知ったのですが

 

 

中臣鎌足、この方よりず~っと以前

そう・・ずっと古代

初めて 藤原を名乗った方は

物部氏 でいらした

という事を・・

 

 

皆様はご存知でしたか?

 

詳しくは、後日、書きたいと思っております

 

 

 

義の範囲を大きく外されてしまわれた・・

 

先代旧事本紀の原文を読んで感じたのです

 

編纂者の

やるせない怒りを・・

対抗する気持ちを・・

私は・・感じたのです

 

 

でも・・私にも藤原氏の血脈は流れております

多くの方々と同じように・・

 

ご先祖様方が

藤原氏の系の方々との姻戚関係を持たない武士の後裔など

殆ど・・いらっしゃらないと

思います

 

そうです😊

多くの数え切れないご先祖様方のおかげで

私達はこの世に生を受ける事が出来たのですから

 

全てのご先祖様に

感謝

💐

 

 

 

独り言でした・・・

 

 

 

 

3.球磨の鉾立山と鏡山

 

ここまで、書いて、とても気になる球磨の山の名を思い出しました

 

 

人吉市の鹿目(かなめ)近隣の山々です

 

鹿児島県伊佐市と宮崎県に隣接する地域の山々です

 

 

鉾立山・・・

 

 

 

 

鉾立山に連なる 鏡山

 

 

 

鉾立山と鏡山は

セット?のような気がするのです・・

 

 

草津川・・

私は

草は、日の意だと思います

(植物ではなく・・)

 

何故ならば、

草津川の源流は

日当山(ひあて山)

 

日下部(くさかべ)

日(くさ)

と同意語となります

 

日・鉾・鏡・・・

そして球磨

つまり

玉(球)

 

 

日・鉾・鏡・玉(球)

 

球磨の古代のキーワードなのかもしれません・・

 

 

そう言えば・・

あさぎり町深田の天子神社さまのご鎮座地は

草津山

 

つまり

日をシンボルとする山

なのだ・・という事に ようやく気が付く事が出来ました

 

 

 

今回のブログ内容をお読み頂いた方々でなければ

お解り頂けない事を最後に書きます

 

ブログ

(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様

で書いた事

 

 

 

 

呉新聞より

 

 

此の高速艦の守護神として艦内に祀ってあるは、熊本県の郷社市房山神宮で、

其の御神霊記にはこう記されている。

 

一, 祭神

創立大同二年十一月十五日(人皇五十一代平成天皇紀元一,四六七年)

天津彦火瓊瓊杵尊

豊玉姫命

 

火闌降命、火明命此の雨神は最も海に関し因縁深く、海幸を司り賜ふ

火明命は海幸により後に彦火々出見命となり給ふ

 

 

上記のお話は・・

古代のいにしえの・・・

そう・・当時の・・

歴史の中心域に含まれる球磨の

御神霊記

である事を

あらためて、ご理解頂きたい・・

と願います

 

天火明命さまの御陵は

冠山です

 

彦火々出見命さまの御代は500年

複数の彦火々出見命をお名乗りになられる御方がいらっしゃったのだと

私は考えます

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

今回は

1.皇孫 天津日高彦火邇邇杵尊 御陵

.2.天孫 火闌降命、天火明命 御陵

3.球磨の鉾立山と鏡山

 

という内容を書かせて頂きました。

 

 

 

 

 

皆様、最後までご覧頂きありがとうございました。

 

 

お身体十分に気を付けてお過ごしになられて下さい。

 

 

 

 

感謝を込めて

だんだんなぁ~😊

 

そして・・

負けんば~い!!

 

 

 

球磨の地より ひろっぷでした😊

 

次回『52.大神惟基公、再興の天岩戸神社さまと創立の神社さまと 免田式土器』に続きます