コメとriceは? ムギとwheatは?
 
                                                       ◇まゆつば国語教室15
 
 
言葉は、各言語集団が世界を認識する手段だ、という話の第2弾です。
 
注; 「言語集団」て、こなれない表現ですね。日本の場合は「日本語を母国語とする人」と「日本人」がかなり重なっているから、「各民族」と言ってもだいたいOKかも……なんですが、世界ではまったく事情が違う。ここでは「イギリス人」の話ではなく、「英語を母国語とする人」(たくさんの国の人々です)の話です。
 
コメ、ムギの話の前に、まず前々回「水とwaterは違う」の補足ですが、
 
マレー語(マレーシア語、インドネシア語)では、
水もお湯も、氷までも、同じair(アイール)という言葉で呼ぶ
そうです。
氷まで同じ言葉! 驚きですね。
ただし、「熱い」とか「固い」とか、必要に応じて修飾語は後ろにつきますが。
 
で、最近では、英語を取り入れて,氷を「ais」と言うようですが。
 
しかし、われわれから見ると明らかに別物の「水」と「氷」でさえも、その区別は絶対的なものではないということですね。
 
日本語の分け方(水/お湯)は、主に
「用途」に視点を置いた分け方
英語、さらにマレー語は、
「存在自体の本質」に視点を置いた分け方、と言えるかも知れません。
 
つまり、どんな「視点」で世界を切るか、が言語集団によって異なっているわけで、どれが正しいとか間違っているとかいう話ではない。
視点、ものさしの違いにすぎないということですね。

「すぎない」という表現は誤解を与えるかも、です。
その違いこそが、文化の違いを形作る──ということです。
 
モノ自体の世界は「混沌」であり、中に区別など存在しない。
人間が言葉を使って、自分たちに都合のいいように区別を作り出している。
近代言語学はそう考えます。
どのようにその区別を作るかが、それぞれの「文化」なのだ──というわけです。
 
 
脱線ですが、老荘思想も同じように考えます。

世界は混沌である。人間が言葉を使い、こざかしい知恵で、くだらない区別を作り出している。
「善」を作るから、「善でないもの=悪」が生まれる。
「美」を作るから、「美でないもの=醜」が生まれる。
儒家(孔子の学派)の言うような善悪の区別など幻想だ、美醜の区別など根っこがない。
できうれば原初の混沌に返り、自然のままの生き方をすべきなのだ。
──というふうに考えます。
 
老荘思想は大好きなので、またいつか取り上げたいと思います。
 
 
ついでに、西洋の「二元論」についても、少し補足を。
 
二元論はキリスト教だけでなく、ギリシャ哲学にも色濃く流れています。
プラトンの「イデア」。
英語のidea(考え)、ideal(理想)の元になった言葉ですが、
たとえば「美のイデア」というのは、絶対普遍の美、「美とは〇〇である」の〇〇に当たるものです(と思いますが、違っていたらご指摘をよろしく(^^;))。
 
つまり、「絶対普遍のもの」が存在する──という前提ですね。
プラトンは、そして後世の哲学者の多くも、その絶対普遍の「真実」なるものを追い求めた。
これも〇✕式の二元論だと思います。
 
イデアにしろ、絶対神にしろ、「絶対普遍の真実がある」と考え、それを〇、そうでないものを✕とする二元論に変わりはない。
それに対して、言語論は、「絶対普遍の真実などない」と考えてしまうんです。
どんな切り口で世界を切り取ってもかまわない(それぞれの言語集団が納得して共有すればそれでよい)、切り取り方に優劣はない、と考える。
 
言語論が、西洋の長い長い伝統的思考法をくつがえす“爆弾”になったこと、なんとなくお分かりでしょうか。
(て、実はぼくも“なんとなく”しか分かっていないんだけど(;´Д`))
 
ついでに、この考え方、ここ20年くらいの大学入試評論文の定番です。この考え方が、言語論以外の分野にもものすごく影響を及ぼしているんですね。
基礎知識があるとないとでは、文章のわかりやすさが全く違う。──そういうジャンルの代表でもあります。
お子さんが高校生というブロ友様は、ぜひ、この間の記事を読ませてあげてください。
 
 
あれれ?
今回のテーマは、コメとムギの話でしたね。
疲れたので、それはまた次回……(;´Д`) <(_ _)>
お暇な方は、コメとrice、ムギとwheatの決定的な「違い」を考えといてください(^^;)