愛と恋とloveと
 
                                                       ◇まゆつば国語教室22
 
 
言語学の話。
もう少しだけ話しておかねば……と思ったので、続きをちょびっとやります。
前回は「コメとrice」「ムギとwheat」の話でしたが、今回は小説書きの皆さんにも縁の深いテーマ、
愛と恋とloveと」──。(なんかかっこいい(^^;))
 
 
愛は中国語です。
これ、音読みです。
日本語で適当な言葉がなかったから、中国語の発音をまねて「アイ」と読んだんです。それがそのまま日本語として定着したんですね。
ちなみに訓読みは「めでる」「まな~」などなどと読みますが、「愛」という名詞とはちょっと意味が違います。
 
で、その「愛」。
今は「男女の恋愛」という意味が一番色濃く、それに「親子の愛」とか「人類愛」とか様々なイメージが加わっているようです。
 
元来の中国語で一番色濃いのは、孔子の言う「仁愛」のイメージだという気がしています。
「仁」とは、ひと言でいうと、思いやりの心でしょうか。
孔子が説く時、それは主に、上に立つ者(為政者)が下の者(民衆)を慈しむような感情を言うようです。
 
樊遲(はんち)、仁を問う。子曰(い)はく、人を愛す。
 
孔子が一番大切な徳目としている「仁」について、樊遲という人が問うと、孔子は「仁とは、人を愛することだ」と言います。
 
仁と愛の関係については、後世、儒者たちがいろいろ議論、解釈していますが、まあ、ざっくりいえば、同じようなものと考えていいと思います。
 
子曰、道千乘之國、敬事而信、節用而愛人、使民以時。
(子曰く、千乗の国を道びくには、事を敬んで(つつしんで)信(まこと)あり、用を節して人を愛し、民を使うに時を以ってす。)
 
戦車千台を持つような国(かなりの大国)を治めるには、(為政者は)自分がやることを謹み、うそを言わず、国家の資金を無駄遣いせず、人民を愛し、民衆を使役するにはちょうどよい時機を見計らって行う(土木工事などに徴用するのは農閑期に行う)ことだ。
 
「愛」にはもともと、より一般的な愛情の意味がありますが、中国で「愛」と言う時、そのような「上から下へ」というニュアンスが色濃いんですね。

で、そういう考え方自体が、もともと日本にはなかった──というのが大事な点です。だから「アイ」とそのまま読んだ。
 
 
では、今の「恋愛」に近い感情は、日本ではどう言ったのか。
万葉集などに出てくる言葉としては「こい(恋)」「こふ(恋ふ)」でしょうか。
これは訓読みで、もともとの日本語です。
では、「こい」「こふ」とはどんな気もちでしょう。いつものように、音をいろいろいじって想像してみてください。

 
  (・Θ・;)   "(-""-)"   (;´Д`)   (=^x^=)   ( ̄∇ ̄+)
 
 
はい。これは単純です。
漢字を当てると、「乞ふ」(欲しがる)から来た言葉ですね。
「物乞い」の「乞ふ」(笑)
前にあるものを欲しがるのが「こい」「こふ」です。
あの女が欲しい、あの男を手に入れたい──。
それが「恋」です。
 
我が背子(せこ)に 我が恋ふらくは
夏草の  刈り除(そ)くれども  生(お)ひしくごとし
 
あの方に私が恋する気持ちは、夏草を刈り取っても刈り取っても、どんどん生えてくるようなものです。
 
ああ、あの方が欲しくて欲しくてたまらない──。
孔子の「愛」とは、だいぶん違いますね。
 
 
 
さてさて、
これらは、西洋の「love」ともちょっとばかり違うようです。
 
「愛」と同様、「love」にも一般的な情愛の意味がありますが、西洋の「love」にはやはり、キリスト教の色がべったりとついています。
 
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません
                      (聖書・コリント人への手紙)
 
神のlove、人間同士のlove──そこにある大事な要素は、
「奉仕の心」「自己犠牲」だと思います。
 
イエス様が人間たちの罪を引き受け、ずっしり重いその罪を背負ってひとり処刑台へ歩いたように、「自分を犠牲にして他者に尽くす」というニュアンスが、「love」には濃厚に込められている気がします。
「献身」という言葉がぴったりかもしれません。
 
もちろん、ぼくらが今ふつうに使うloveの意味もあるわけですが、「あたし、カレシとラブラブなの❤」という軽さとは、やはり違うと思います。
(キリスト教に詳しいわけではないので、違っていたらどなたか指摘してください。)
 
 
日本語の「こい(恋)」と、中国語の「愛」と、西洋の「love」──
それぞれ意味の中心が少しずつ違っている。
どれが正しいとか深いとかいう話ではなく、「視点」が少し違うんです。
言語学の言葉でいうと、「世界の切り取り方が違う」ということですね。