初瀬のお告げ……今昔の夢 3
   
                                                                          ◇まゆつば国語教室 45
 
 
有名な作品はいろんな本やブログで取り上げられているので、ここではあまり世間に知られていない小さなお話、かつ、できれば原文をコピペできるもの(笑)──というスタンスでやってるんですが、「夢のお告げ」を話題にする以上、やっぱり一度は触れなければならないのが「初瀬の観音様」です。
 
源氏物語、蜻蛉日記、住吉物語、更級日記などなど、いろいろな作品に登場します。
初瀬というのは奈良の長谷寺で、そこの観音はさまざまな願いを叶えてくれる霊験あらたかな仏様として古来厚く信仰されていました。
観音様のお告げは、参籠した人の夢に現れます。
そして、その夢を見せてもらうのが、参籠の大きな目的です。
今回は、更級日記から、その様子をちらりと覗いてみましょう。
 
源氏物語に憧れ、夢見る少女だった作者も、はや二十代後半に突入。
当時としてはほとんど婚期を逃しかけている娘の将来が、母親は心配でなりません。
で、初瀬への参拝を思いつきますが、いかんせん京都から初瀬は遠く、長い山越えを思うと山賊なども恐ろしい。
そこで母親は知り合いの僧侶を代理に立て、「夢を見に行ってもらう」のであります。

母、一尺の鏡を鋳(い)させて、え率(ゐ)て参らぬ(作者を連れて参ることができない)かはりにとて、僧を出だし立てて初瀬に詣でさすめり。
「三日さぶらひて、この人のあべからむさま
(将来のさま)、夢に見せたまへ」などいひて、詣でさするなめり(詣でさせるようだ)。そのほどは(作者に)精進せさす。
 
大きな鏡(銅鏡)が必要なアイテムのようです。
「え~ぬ」は「~できない」。
「あべからむさま」は「あるべからむさま」の略。「将来そうであるはずの様子」という意味です。
「詣でさするなめり」の「めり」は「~のようだ」という助動詞。母はちゃんと娘に説明しているだろうから、あえて「めり」と入れて、ちょっと距離を置いている感じを出しているのかなと思います。

母親の熱心さに比べて、当の作者は「はあ……」という感じか。
参籠は三日間。その間、作者は自宅で精進潔斎させられています。
で、まもなく僧が帰ってきます。
なかなか夢が見られず苦労したようです。
 
この僧帰りて、「夢をだに見でまかでなむが(夢を見ないで初瀬を退去するのが)本意なきこと。いかが帰りても申すべきと、いみじうぬかづきおこなひて(必死でぬかづいてお祈りして)、寝たりしかば、御帳の方より、いみじうけだかう清げにおはする女の(とても気高く清らかでいらっしゃる女性で)、うるはしくさうぞきたまへるが(立派に装束を着なさった女性が)、奉りし鏡(お前に奉納した鏡)をひきさげて、~
 
床に頭をすりつけてお祈りした甲斐あって、その夜の夢に気高く正装した女性が、例の鏡をさげて現れます。
観音様なんでしょう。
「いみじうけだかう~おはする女の」の最後の「の」は、例の「同格の『の』」というやつです。
また、「うるはしく」は、現代語の「麗しい」というより、「端正に、きちんと」という感じを表す語。
「さうぞく」は「装束をつける」という意味の動詞です。(授業うざい(`Д´) !)
 
『この鏡には、文(ふみ)や添ひたりし(願文が添えられていたか)』と問ひたまへば、かしこまりて、『文もさぶらはざりき(ございませんでした)。この鏡をなむ奉れとはべりし(鏡だけ奉れということでした)』と答へたてまつれば、
『あやしかりけることかな
(おかしなことだな)。文添ふべきものを』とて、
『この鏡を、こなたにうつれる影を見よ。これ見ればあはれに悲しきぞ』とて、さめざめと泣きたまふを見れば、臥しまろび泣き嘆きたる影うつれり。
 
願いを書いた文を鏡に添えるのが決まり……と言うのですが、そういうものなんでしょうか。
一応プロである僧侶も知らなかったようなので、初瀬だけの決まり事なのか、あるいは、この夢において唐突に語られたことなのか。

ともあれ、鏡には人の姿が映っているようです。
「あわれで悲しい」姿。
観音様はそれを見て泣いています。
鏡に映っているのは、伏せって泣き嘆いている女性の姿……。
見せて欲しいとお願いした、作者の未来の姿なのでしょう。
 
『このかげを見れば、いみじうかなしな。これ見よ』
とて、いま片つかたに(もう片方に)うつれるかげを見せたまへば、御簾(みす)どもあおやかに、几帳(きちょう)おしいでたる下より、いろいろの衣こぼれいで、梅、桜さきたるに、うぐひす木伝ひなきたるを見せて、
『これを見るはうれしな』 と、のたまふとなむ見えし」
と語るなり。
 
ところが、鏡の裏面を見よ、と観音様がおっしゃるのに従うと、
なんとこちら側には、美しくも華やかな情景が映っています。
宮廷の中宮のお部屋か、はたまた大貴族のお屋敷か。
着飾った女房たちがたくさんいて、庭には梅、桜。ウグイスが木の間を伝い飛びながら鳴いている。
「これを見るのはうれしい」と観音様。
 
「悪い未来」と「良い未来」の二つを見せられたんですね。
幸、不幸の両方が訪れる──というお告げとも取れるし、幸不幸のどちらの未来が訪れるかはお前次第だよ──というお告げとも取れる。
占いとしては、ちょっとずるい気もしますね(笑)
幸も不幸もあるよ、というのは人生ではむしろ当たり前だし、どちらになるかはお前次第、というのも何だか責任転嫁くさいですよね。
結局、お前の努力しだいだ──というのでは、お告げの意味がないような(^^;)
 
僧侶は、たんまりお金をもらって代理で夢見に来たのに、ほんとは夢を見られなくて、苦し紛れにウソの夢を創作したのかもしれません。
幸不幸どちらかの夢にするのは罪悪感がある(僧侶もたぶん初瀬を信じている)から、どっちつかずの、何とでも解釈できる夢を考えたのでは、と思います。
 
あるいは、すべて母親の指示かもしれません。
このままだとあんた、未婚のまま年老いて、経済的にも苦しい人生を送ることになるよ。
位の高い、裕福な男と結婚すれば、美しくも華やかな人生を送れるんだよ。
さあ、心を決めなさい。
──そう思わせるための大芝居を打ったのではないか、という気もします。
そのために初瀬信仰が利用された……。
 
作者は、この僧の報告を聞いて、次のように記しています。
 
いかに見えけるぞ、とだに耳もとめず。
 
どのように見えたのか、とさえ、耳にも止めなかった。
夢が意味するところはもちろん、夢の詳細についてさえ、まったく聞こうとしなかった。
まるで興味なし(^^;)
若気の至りだった……という感じで、年老いた作者はこの時のことを回想しているようです。