李厳さんの独り言

李厳さんの独り言

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諏訪「では、やるか」

ケン太「やはり連載始めたら、話はすぐ続けないとね」

神崎「先生は放っておくと、平気で年単位でサボりますから…」

岩田「中には年単位で放置した挙句、解決しなかった案件もあるくらいじゃからの」

諏訪「ハッハッハッ、もうそんな放置プレイなんかしてないよ絶対多分


岩田「多分?」

諏訪「…おそらく」

神崎「言い切ってください!」

諏訪「……ハッハッハッ」


犬千代「…ニャ…ニャー………」

岩田「す、諏訪君! まだカリカリやってないのか?」

諏訪「…いや…経費節減が…その…」

ケン太「っざけんな! 命かかってんねんで!」

神崎「もう、そういう放置プレイは止めてください!」














諏訪「さて、はじめよう」


ケン太「先生、犬千代にちゃんとカリカリあげたんだね?」


神崎「今回はまず、一般的に知られている斎藤道三の国盗りについて教えてください」



諏訪「了解。 そもそも道三の国盗りは道三一代か、親子二代かという2説がある」


岩田「現在はほぼ、親子二代説が主流を占めておるの」


諏訪「そう、現在は親子ニ代説が大半。 道三一代説は1970年代から廃れていった」


ケン太「なんで?」




諏訪「岐阜県が行った1960年代の『岐阜県史』編纂事業の折、親子ニ代説を示す史料が、新たに発見されたからだよ」


岩田「普通なら、そこで世間的にも親子ニ代説が浸透するはずじゃったが…」


神崎「じゃった…が?」



諏訪「当時、司馬遼太郎の小説で大河ドラマにもなった『国盗り物語』が道三一代説を採った為、あまり世間には大きく浸透はしなかったようだ」




ケン太「まぁそっちの方が夢があるもんね…で、その『国盗り物語』はどんな史料から説を取ったの?」


諏訪「お、良い質問だな」


神崎「たまにはね」

ケン太「うっさい!」


諏訪「直接古典史料を引いたかは判らないが、『美濃国諸旧記』という史料の説が大本なのは間違いないと思う」


岩田「…もっとも、ワシが若い頃の本は大同小異、道三一代説じゃったからの」



ケン太「…ちなみに、『美濃国諸旧記』はいつ頃の史料なの?」


諏訪「ウィキペディアでは寛永年間と書いているが、引用している種々の説などを見る限り、俺は18世紀(1700年代)に入ってからだと思う」



「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は、江戸寛永年間成立と見られる史書『美濃国諸旧記』 などにより形成され、坂口安吾・海音寺潮五郎・司馬遼太郎らの歴史小説で有名になっていた。
しかし、1960年代に始まった『岐阜県史』編纂の過程で大き く人物像は転換した。
編纂において「春日倬一郎氏所蔵文書」(後に「春日力氏所蔵文書」)の中から永禄3年(1560年)7月付けの「六角承禎書写」が発見された。
(Wikipedia『斎藤道三』より引用)





神崎「『美濃国諸旧記』は、国盗りをどういう風に書いているんですか?」


諏訪「うん、では『美濃国諸旧記』の道三の国盗りを、時系列で見てみようか。 名前は道三で統一するよ」



『美濃国諸旧記』による道三の国盗り


1504年(永正元)
 この年 斎藤道三、山城国乙訓郡西の岡で生まれる?

1515年(永正十二)
 六月 土岐盛頼、父政房より美濃守護と川手の城を譲られる

1523年(大永三)
 春頃  道三、土岐頼芸に仕える

1526年(大永六)
 12月  道三、土岐頼芸の妾深芳野を賜る

1527年(大永七)
 三月  土岐頼芸、大桑の城に居を移す
 六月  道三の子義龍生まれる
 八月  土岐頼芸、美濃守護の兄盛頼を攻め、越前へ追放

1530年(享禄三)
 正月  道三、長井藤左衛門長張を討つ
 この年 土岐頼芸の嫡子太郎法師生まれる

1538年(天文七)
 この年 美濃守護代斎藤利良、没す

1541年(天文十)
 三月  道三、頼芸の命と称し、頼芸嫡子太郎法師の籠る村山へ攻める
 五月  諸国の介入により道三窮す、土岐頼芸の子太郎法師が12歳で元服
 六月  道三、入道する

1542年(天文十一)
 五月  道三、土岐頼芸の居城大桑に攻め寄せ、頼芸を追放

1543年(天文十二)
 この年 道三、土岐頼芸の舎弟七郎頼光を婿として毒殺する

1544年(天文十三)
 八月  土岐盛頼・頼芸兄弟を擁した織田朝倉が稲葉山城を攻めるが敗北、土岐八郎頼香戦死

1547年(天文十六)
 八月  大桑に入った土岐兄弟と道三が激突、頼純と名を変えていた土岐盛頼が戦死






岩田「おお、なんか全体的に懐かしい説じゃな」


ケン太「先生、道三の生年に(?)がついてるけど…」


諏訪「あぁ…『美濃国諸旧記』には、道三の生年は永正元年とあるんだが…」


神崎「だが…?」


岩田「道三には、京の妙覚寺での修業時代、2歳下の南陽房という弟弟子がおった」


諏訪「その南陽房が永正三年、妙覚寺から美濃に戻って常在寺の住職になったという記事がある」


ケン太「永正三年というと…『美濃国諸旧記』では道三が3歳の時か」


神崎「だから、道三の生年に(?)がついてるんですね」


諏訪「うん、おそらくこれは『美濃国諸旧記』の著者の誤りだと思うが…」


ケン太「どうしたの?」


諏訪「私見だが、実際の斎藤道三の活躍時期や子供の誕生時期を見る限り、意外と永正元年説はいいセンいってる気もするんだな」


神崎「は~」












諏訪「さて、今回は道三一代説と親子二代説がある事…」

ケン太「それと、道三一代説の元は『美濃国諸旧記』だって事を解説したね」

神崎「次回は?」

諏訪「次回は、親子二代説の論拠となった史料から、土岐次郎がどういう存在だったかを見ていくよ」

岩田「遅れんようにな」

諏訪「へいへい」






犬千代「…ニャ…ニャー………」

ケン太「い、犬千代!」

神崎「先生! まだカリカリを与えてなかったんですか!」

諏訪「いや……経費節減が…だな…」

岩田「死にかけとるではないか!」

ケン太「先生、見損なったよ!」

神崎「先生! もう今日の晩御飯は抜きです!」

諏訪「っ!!!! …ニャ…ニャー………」

三人「やかましわ!」



~続~