北の大地で関西弁 | CAFE' 徒然

北の大地で関西弁




北海道、札幌圏ではほぼ標準語に近いイントネーションで皆様はお話をしている。
私の同級生は漁師町の出身で、高校卒業後、恵まれたルックスをいかしてファッションビルのエレベーターガールとなった。
ガキの時分から大酒のみで、自分の事を「オレよお~」とか平気で言っていたのに、「あら、お久しぶりねぇ」ときたもんだ。
まるで生まれた時から札幌の中央区に住んでいたみたいに変貌していた。
ただ、酒を飲ませてしまうと底なしで、ディープな浜言葉がコントロールできなくなって、誘った男が逃げ帰ったとか・・・・
「その顔で蜥蜴食うかやホトトギス」という言葉は彼女のためにあるんだろうなと、つくづく思った、何しろ、美人だったのだ。

地方出身者は、まず骨の髄まで染みついたなまりを克服するまでにかなり気をつかうらしい。
無口な奴だと思っていたらなまりを気にしておとなしかったり、ガールフレンドにイントネーションを治してもらったり、
しばらくすると札幌出身です、みたいな顔になっていく。
しかし、大阪出身の奴は違った、かたくな、いや、確固たる信念をもって関西弁をしゃべり続けた。

「DNAに刷り込まれてるねん」
「関西弁辞典もあるんやから、これは立派な言語じゃ」等々

確かに、ネィティブ関西人は言葉については臆する事が少ないようである。

私の父親は新潟県の出身であるが、高度経済成長期の日本で農家を継ぐことを拒み、親に勘当され、
どういう経緯かは知らないが17歳で家を出て大阪の下駄屋で働いた。
初めて出た社会はばりばりの大阪商人の世界、ここで生きていこうと思ったら大阪のテンポに順応するしかなかっただろう。
5年間、大阪の下駄屋で働いて、待遇の悪さにぶち切れて、父は叔父を頼って、当時景気のよかった北海道の某都市へやってきた。
倉庫会社のサラリーマンとなり、あちこち転勤し、私が幼稚園に入る前くらいに会社を辞めて北海道某市へ戻り商売を始めた。

私は幼稚園に入って初めて、自分の言葉が他の子供と全然違う事に気がついた。
「何故こいつらはみんなけんか腰なのだ、私が一体何をしたというのだ????」

どうやら私のイントネーションが人を小馬鹿にしているように聞えるらしい、なぜなら、幼児期を横浜、横須賀、鎌倉で過ごし、そこで言葉を覚え、
「~じゃん」などというこまっしゃくれた言葉をあたりまえのように使っていたからだ。
しかし、それだけではなかった。
私が生まれた頃、父親はネィティブと変わらぬ関西弁トーカーだったからである。
それほどしっかり身に付いていた。
かくして、私が某市の幼稚園に入る時点で、横須賀なまり、関西弁、新潟弁、当然母親からの浜言葉、北海道ネイティブランゲージ、
方言研究家が泣きをいれるような、何ともグローバルな状態になっていた。
それ故に、何故か私は関西弁の人に親近感を持ってしまうのだ。

関西弁は一度刷り込まれると生涯ついてまわる程強烈なのか、油断をしていると、私も今だに関西出身者かと言われることがある。
くせがあったり、早口を聞き取る能力にたけているので、時々その技能を生かして小遣いかせぎをする事もある。
そして、時々、我が子に向って、父と同じ言葉で怒鳴っていたりする。

「おらおらおらあ!どつかれんぞお、こらあ!!」などと。

子供に優しく、上品な母親になりたいと願ったのはいつのことだったろう。
父よ、草場の陰でわらっているのでしょうね。