今朝の新聞やニュースで学校内での「いじめ」「暴力」「中途退学」についての統計が報道されています。「小学校での暴力の件数は・・・・」とか「中退率は大幅に減少しました」という各局、各紙面の寸評が乱れ飛んでいますよね。子供たちはこのニュースをどんな思いで聞いているのだろう?たとえ、数は減ったとしても実態としてはあるわけで、その当事者の生徒にとっては10000件だったものが10件になったとしても関係のない話ではないだろうか。

そもそも、こんな統計を取る背景には役人の「対処療法」がある。何か問題が起こると「実数としてどれだけあるか調べろ!」という命令が発令され、各県の教育委員会は数の把握と、いかに少なく報告するための方策を必死になって考える。必死になって考えることは間違ってはいないが、これがまたまた「対処療法」なのである。

問題は何なのか、問題の根源は何なのかを追求してそれを解決していこうということではなく「数」を減らすためにはどうしたらいいのかを考える。それについて「朝日わくわくネット」では数の取り方は各県によって基準が違うとバッサリ。http://www.asahi.com/kansai/wakuwaku/info0915-3.html

私の県の地方紙がこの問題に見識者のコメントを載せていた。「小学校で暴力などの問題行動が多くなった背景には「勝ち組・負け組み」のストレスがある。子供たちは自分が勝ち組なのか、負け組みなのかの間で神経がぴりぴりしているところに、教員に強い指導をされると、「負け組み」を意識するがために暴力行動に出るのではないか」ということである。その通りだと思う。前回、書いたように小学校から「人生の勝ち組・負け組み」を決めるための教育が始まっている。いや、大人たちはそう感じてはいないが、子供は「このテストであいつに勝たなければ希望の学校には行けない」「親の期待に応えなくては」という凄まじいストレスと戦っている。これも、子供が悪いのではなく、大人たちが勝手に作った競争社会という虚像である。

私は海外旅行が趣味で海外に行く機会も多い。よく日本人は「アメリカでは・・・・」「欧米諸国では・・・・・」と比較級にアメリカや欧米諸国を意識した話し方をする。しかし、実態はまるで違う。私はアメリカがそれほど優れた教育をしているとは思えないし、ものすごいデメリットの部分もあると思っている。しかし、根本的に違うことは「意識」ではないだろうか。

私がホームステイしたヒューストンの近郊の町は森の中に町を作っており、庭に生えている木や屋根にかかってくる枝を勝手に切ることもできない。その町の交差点には信号機がほとんどない。しかし、交通渋滞が起こるどころか、非常にスムーズに交差点を車が通過している。なぜか?信じられなかったのであるが運転手は交差点に誰が先に侵入(停止線)したかを確認している。それで、交差点に入った順番に交差点を通過していくということが当たり前の決まりになっている。アメリカでは当然高校生も運転するので、高校生の車に乗せてもらうと、それはそれは冷や冷やする運転をするが、交差点では必ずこの光景が見られる。また、ショッピングセンターやスーパーマーケットなどでは必ず歩いている人を優先させる。これは、どんなことがあっても優先する。あまり不思議なのでアメリカ人に聞いてみると「心のゆとりではないでしょうか?」と平然と答えられた。

日本人に同じことができるか?

私はアメリカの教育がいいとは思ってはいない。しかし、この心のどこかにある「ゆとり」は何なのだろう?


今回の結果を間違ってとらえ「本県でも数を減らさなければ」などという役人が増えて、また子供たちが大人たちが作った「対応策」という「対処療法」の犠牲にならないことを祈るばかりである。