地方都市は死なず! 滝沢いっせい ブログ爽創通信  *09016693890*kpissey@rf6.so-net.ne.jp* -3ページ目

地方都市は死なず! 滝沢いっせい ブログ爽創通信  *09016693890*kpissey@rf6.so-net.ne.jp*

上越市議会議員滝沢一成のブログです! 日々感じたこと、考えたことを、できるだけ素直に書いてゆきます。
滝沢一成のテーマは「雪」「老い」「貧困」、これらを追及します。

昨日「時は元禄15年12月14日」討ち入りの日、上越市議会は最終日でした。
市長提案の条例、補正予算等、一部の請願を除き、全ての案件が可決されました。

補正予算のほとんどは、エネルギー費高騰への助成で、それらはほぼ異議なく通っています。

そうしたなか議論となったいくつかを紹介します。

副市長(現行の2人)の給与の10%カットを行う条例案。賛成多数で(つまり反対少数)可決されました。人口減少対策に一定の効果が出るまで15%報酬をカットしている市長に合わせた措置と言えますが、そこに理はあるかが論点となりました。
市長からは「これから運命を共にする」副市長に就任要請時にカットをお願いし、本人たちからその旨申し出があったのでこの度の条例案提出となったとの説明がありました。
一方、一部の議員から「市長は政治家なので自分の報酬を自主的にカットするのは構わないが、副市長たちにまで押し付けるのは強権的だ」「副市長4人制が進まないなか、奮闘してもらわなくてはならない2人の副市長の給与をカットするのは、むしろ逆ではないか」との意見が出されています。
結果は、先ほど書いた通り賛成多数で可決されましたが、私は反対しました。

上越市個人情報保護に関する法律改正に伴う市条例の廃止を行いたいとする条例案が提出されました。
国が遅ればせながら全国共通ルールを定めた為、国に先行して個人情報保護の条例を定めてきた上越市はじめ多くの地方自治体が条例を廃止しなくてはならないという、言ってみれば本末転倒な事となりました。
議員からは「市の条例にある個人情報保護の水準が保たれるのか」との懸念も出されましたが、「『個人の尊厳を確保する』という基本原則は変えていない」「総務管理部長が統括保護管理者となるなど、安全管理を図っていく」との答弁がありました。
この条例は賛成しました。

さてこの度の議会では、宮越馨議員の一般質問を発端にひと騒動ありました。

「しがらみのない市政運営」を標榜している市長であるのに、特定の人物たちと「しがらみのある、ズブズブの関係」にあるのではないかという質問ですが、その際2人の固有名詞を挙げたのです。

それに対して議長は、議場での発言としてよろしくないと判断し注意をしましたが、宮越氏は「個人名を挙げなければ、質疑にならない」と反論、結果として議長はそのまま質疑を続けさせたのです。

その後議会運営委員会で、議長から宮越議員に自主的な発言の取り消しを求めましたが、宮越氏は拒否、議長は自治法に基づき発言の取り消しと議事録からの削除を命令しました。

さらに本会議最終日審査終了後、宮越氏が挙手。「個人名を挙げて良い悪いのルールが定められていない中で今回の発言取り消しをするのはおかしい」と主張。その上で「個人名の取扱いを定めるルールを作ること」を求める動議を提出しました。
2人以上でなければ出せない動議の取り扱い等で、議長の進行がややもたつき、議場から不規則発言(ヤジともいう)があがり、休憩を挟みます。

休憩後、動議提出にもう一人近藤議員が加わり、動議は正式に取り上げられます。
採決の結果、賛成少数で否決されました。

直後に、議長から閉会が宣言されたのですが、それと重なるように、宮越議員は「なんだこの議会は!」という罵声とも取れる大きな声をあげました。議場中継でも流れたでしょう。

私の考えです。
一般質問まで遡りますが、中川市長が一部の市民と深く関係し、それがはたからは、まさにしがらみに見えるのは否めないと私も思います。
しかしそれを癒着とみるか、信頼するブレーンとの関係とみるかは、微妙です。

そうした中、公の場での公の発言として個人名をあげるのは、プライバシー侵害あるいは誹謗中傷の恐れもあり、いささか乱暴に過ぎたのではないかと考えます。
従って、議長の取り消し命令は正当な判断だと考えます。

他方、個人名を挙げて良い悪いのルールがないのがまずいのも確かです。「ルールづくりを」という動議の内容は賛成できるものです。
しかしこのルールづくりに関しては、先の議会運営委員会で進めることが確認されていると聞いています。そうであれば、敢えて本会議場で、閉会間際に動議提出する必要は無いと思います。

宮越氏の動議提出の本意は、ルールづくりではなく、議長裁定への抗議の意を示す事にあったと思わざるを得ません。
従って、私は動議の内容には賛意はありつつ、動議に賛成はしませんでした。

昨年の市長選での中川宮越両氏の「政策協定」なるものから始まった2人の対立、騒動は、お互いの意地もあるのでしょうが、上越市政に混乱をもたらしています。

こうなれば、2人で果たし会いを、もちろん話し合うという意味ですが、やってもらうしかないでしょう。2人に責任があります。

我々議会としても、この一年ほとんど成果を出せなかった中川市長との関係をどうしていくのか、真剣に考えなくてはなりません。

市長を支えていく(おこがましい言い方なら、育てていく)のか、対立を続け、場合によっては引きづりおろすのか。その両極のどのあたりを着地点とするのか…議員自身の責任も問われていることを自覚しなくてはならないでしょう。

市民から見れば、議会何しとるんか、という面も否めないのですから。
上越市議会12月定例会は、11月30日初日です。まず各常任委員会が、農政建設、文教経済、厚生、総務の順で行われます。
市長と議員が1対1で討論する一般質問は、12月7日から始まります。
通告の動向から、私はどうやら3日目、9日金曜日になりそうです。
まず「副市長4人制と政策アドバイザーに関して」。
この問題は多くの議員が質問するようです。私は少し角度を変えて、それらに正当性があるなら、理で示してほしいと迫ります。
もうひとつは「雪と生きる」ということについて。
「雪と生きるまち上越」は私の中核のテーマ。雪と向かい合わざるをえない上越市はいかに克雪利雪をすべきか、これも理で訴え理で答えてもらいます。

以下通告書(案)です。

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一般質問通告書(案)

1.副市長4人制と政策アドバイザーに関して

⑴なぜ副市長4人制に拘るのか。
現行の2人体制ではいけないと考える理由あるいは課題は何か。4人制で何が実現できるのか。
⑵なぜ政策アドバイザーの新設が必要と考えるのか。行政の根幹に係る政策形成に外部の専門家等を入れなくてはならない課題が現在の組織にあるのか。

⑴⑵いずれもバックキャスティングあるいはAs Is , To Beで説明してほしい。
[現在の状態/理想の状態/課題/アクション]

2. 「雪と生きる」ということについて

⑴第7次総合計画案に「上越ならでは」という言葉が出てくる。「ならでは」とは「他にない」を意味する。滝沢が考える上越の他にないことは「人々が多く住む都市(あるいは人口集積地)×平地から山間地まである市域×世界でも稀な豪雪」だ。
「雪と生きるまち 上越」を追求する事が上越しかない魅力を創成すると考えるがどうか。
⑵上越市における克雪利雪施策をバックキャスティング手法あるいはAs Is , To Beで説明してほしい。
[現在の状態/理想の状態/課題/アクション]
市長提案である「副市長4人制」と「政策アドバイザー」について、中川市長は記者会見で「延期する」と表明していますが、今ひとつ具体的にどうしたいのかはっきりしていないところがあります。

これまでの市長の言動、担当部署の説明などから類推し、私なりに(勝手に)まとめてみました。たぶん、こう言いたかったのだと思います。

(以下、滝沢の解釈)

「今年度12月に副市長4人制の条例改正案、3月にその人事案、またアドバイザー制度の人件費を計上した予算案を出す予定だったが、市民・議会等の理解を得られたとは言えず、今年度はやらないで延期する。

これから一年かけて理解を得られるよう努力し、できればちょうど一年後に同様に提出したい。ただそれにあたっては現副市長・市長部局等と綿密に協議していくので、今から確約する事はできない。

いずれにせよ、自分(市長)は、副市長4人制も政策アドバイザー制度もこれからの改革に必要不可欠という考えに変わりはないので、ブレる事なく、しっかりと進めていきたい」

…と、言いたかったのではないでしょうか。

基本、市長はやりたいようにやれば良いと私は思いますね。大改造だからそれなりの責任は伴いますが。

この一年圧倒的に説明が足りなかったのも事実。「議会の理解を得られなかった」のではなく「この一年間市長から議会への説明がほぼなかったので、議会は判断のしようがなかった」というのが実際の姿です。

議員同様、市長もまた政治家。武器は「言論」です。しっかり説明責任を果たしてほしいと思います。
そうすれば、議員は単純な「わからんちん」(何がなんでも市長の足を引っ張り隊)ではないはずなので、動いていくのではないかなぁ…と思うわけです。
10月は、メンタル的に少しキツい1ヶ月でした。
新宿ゴールデン街でお世話になったしのさん、市政についてさまざまご教示をいただいた板倉のNさん、月末には映画「GOZE瞽女」の瀧澤正治監督…縁のあった方々が旅立たれました。
間に、七年前に死んだ妻の墓参りと、芸州に散った高田藩士の慰霊の旅にも行ってきました。

そんな10月が明けた今日、偶然NHKfmで国本武春さんの声が流れてきたのです。
「ザ忠臣蔵」切腹に向かう浅野内匠頭と家臣片岡源吾右衛門の別れの場、まさに滂沱の涙無しでは聴けない名シーンです。

国本さんは、10年前しのさんと私の共同プロデュースで浄興寺に来ていただいた稀代の浪曲師です。国本さんも、惜しいことに2015年50代の若さでお亡くなりになっています。

しのさんのお葬式から始まった10月は、しのさんと縁の深かった国本さんの名調子で締めくくられたのでした。

11月。元気で前向きな月にしたいと思っています。



人生で3回死にかけたことがある。
というか、死んでもおかしくなかった瞬間だ。

ひとつは25歳のとき。
朝の甲州街道千歳烏山あたりでのこと。バイクで走っていたら、突然横道から爺さんが運転する自動車が飛び出してドーンッ。吹っ飛ばされてどすんっと落ちたら道路の中央線、目の前10㌢を対向車線のクルマがズカッと通り過ぎていった。怪我は大した事なかったが、あと10㌢で間違いなく死んでいた。

2度目は、29歳新婚旅行でドイツに行った時のこと。
空港でレンタカーを借り、外のアウトバーンに乗り出した途端に、猛スピードのベンツにぶつかりそうになる。
相手がハンドルを切ってくれたから大事に至らなかった。ベンツの男性の鬼のような形相を今でも覚えている。

3度目は40歳ころか。
アメリカテキサスに動体の零戦とP51を撮影しにいった時のこと。
小さな空港でのいちにちがかりの撮影が終わった夕方、ベースのミッドランド空港に戻るパイロットが「ヘィ、ディレクター。乗って行くかい?」と誘ってくれた。
乗る!とホイホイ私は撮影機テキサンの後部座席へ。撮影用に座席が後ろ向きに付いている。キャノピーは外されてむきだしだ。
乗り込んで安全ベルトを締める段になってどう締めるのかよくわからない。もたもたしているうちに、タキシングが始まる。ええいままよ、こうだろうとはめていたら、あっという間に離陸。
パイロットは私を喜ばせようと?あるいはビビらせようと?撮影時にはしなかった宙返りを何度もする。後ろ向きなので逆G、体が押し付けられるのではなく、逆にシートから浮いてしまう。声もでない。胸のポケットに挿していたボールペンがピョーンッと飛んでいく。
もし安全ベルトをちゃんとはめることができていなかったら、間違いなく私の身体はボールペンと同じように空中に放り出され、あわれテキサスの土漠に落ちて肉袋になっていたことだろう。着陸後そう思い、血の気がひいた。

時々思うのだ。いまこうして生きているのは本当のことではなく、あの三度のうちどれか一つが本物で、死にかけた自分が走馬灯のように「あったかもしれないその後の人生」を見ているだけではないのかと。

こう書きながら、少し戦慄する。書いたことで、その「現実の」瞬間に引き戻されるのではないか。
夢の終わり、である。
まだもう少し生きたいので、勘弁してほしい。
だいたい二日に一回午前7時ころ直江津の船見公園に🐕の散歩にいくのですが、毎回のように公園のゴミを拾っているご年配の女性に会います。



見れば少し脚がお悪いようで、ゆっくり歩きながら誰かが落としていったゴミを一つひとつ…本当に頭がさがります。
プライバシーがあるのでお名前は書きませんが、こういう方こそ、市民の鑑と言えるんじゃないかなぁ。



昨日某会議でのアーダコーダへんてこりんで不毛な発言に辟易した後なので、なおさらこうした篤志がこころに沁みます。
だいたい二日に一回午前7時ころ直江津の船見公園に🐕の散歩にいくのですが、毎回のように公園のゴミを拾っているご年配の女性に会います。



見れば少し脚がお悪いようで、ゆっくり歩きながら誰かが落としていったゴミを一つひとつ…本当に頭がさがります。
プライバシーがあるのでお名前は書きませんが、こういう方こそ、市民の鑑と言えるんじゃないかなぁ。



昨日某会議でのアーダコーダへんてこりんで不毛な発言に辟易した後なので、なおさらこうした篤志がこころに沁みます。
上越市議会。
今日7日の厚生委員会で、一つの請願が3:4で否決されました。

賛成者;鈴木めぐみ(政新)、牧田正樹(政新)、平良木哲也(共産党)
反対者;小山ようこ(創風)、中土井かおる(みらい)、ストラットン恵美子(久比岐野)、大島洋一(久比岐野)

「生活保護対象者の冷暖房機器(家具什器)購入費用の助成を求める請願書」と言います。

簡単に言えば、「生活保護を受けている市民が冷房を取り付けたいとき、平成30年4月からの新規の生活保護申請者には補助金が支給されるのに、それ以前から生活保護を受けているひとには補助金がでない。国の通達でそうなっているのだが、なぜそういう線引きをしているのか意味不明である。また市はその線引きを見直すように国に言ってはきたが、4年にわたり自ら救済しようとしなかった。国が改めるまで、市がその補助金を出すべきではないか」という請願です。

このどこがいけないのか、私にはよくわかりません。
委員会で反対する議員が「なぜ反対か」意見を述べましたが、私のヒアリング能力が低いのでしょう、さっぱり意味が分かりませんでした。

どなたか、どこがいけないかご指摘いただけないでしょうか。

以下請願です。

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請願 第4号
生活保護対象者の冷暖房機器(家具什器)購入費用の助成を求める請願書 (提出者;I.C.さん)

【請願要旨】

厚生労働省が平成30年6月27日付に通知した文書には、条件により家具什器(冷暖房機器)取得のための費用を支給できるという旨の記載があるが、平成30年4月1日以前から保護対象者となっている場合は支給ができない。

上越市では、生活保護制度は国の方針のためそれに倣って行われており、市として独自に支給することは現状行われていない。
冷暖房が使用できる環境の有無は「命に関わる問題」だと思う。

小さな子供や高齢者が酷暑により自宅内で命を落とすニュースは毎年見聞きするし、高齢者が施設に入所したくても現実問題として、すぐに入所できる訳ではない。これは生活保護世帯だけに限らず市政としても考えなければならない課題であると思うが、本件で述べることは控える。

上越市においては生活保護対象者の生活状況を把握し、過不足なく生活が営めるように環境を整えてもらいたいと考える。

そこで今回は「上記厚労省通達の支給要件非該当者に対し上越市独自の支給を行う」ことを提案する。具体的には支給要件非該当者に対して、通達内容と同等の支給(費用・現物)をするということである。

通知文には最初に到達する夏・冬の条件があるが、制度の認知・生活状況の変化もあると思うので、柔軟な対応を望む。
加えて、知らなかったということで困る方が出ないよう、生活保護世帯に対し「必要と認められる場合に別途支給される制度」があることの周知も求める。

以上のことから、下記事項につき請願する。

【請願事項】
1.生活保護世帯の生活状況を調査し、国のガイドライン(厚労省平成30年6月27日通知文書)非該当者に対して、必要が認められる場合は上越市が独自給付を行うことを求める。
2.生活保護対象者に対し、生活保護制度を含む助成制度の周知の徹底を求める。
新潟日報が掲載している「あちこちのすずさん」に、私の母の投稿を小さな欄ですが載せていただきました。



終戦間際、長岡の空襲の思い出です。
以下は母が綴った原文です。
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昭和19年春、高田高女を卒業した私は、従軍看護婦になりたいと長岡の日本赤十字社新潟支部救護看護婦養成部(現在の長岡赤十字看護専門学校)へ入学した。
県内から30名の乙女が集まり、都会的な新潟出身の子から私のような田舎丸出しの子までさまざま。寮で生活し、戦時であったが、それぞれ親から送られてくる煎り豆や干し柿を分け合って楽しく過ごしていた。
昭和20年。夏休みで学生の半分が帰省していた8月1日日曜日午後9時過ぎ、いきなり空襲が始まった。信濃川の土手に逃げなさいという声が聞こえて、みな必死に駆けた。距離は1キロ以上あっただろうか。
ようやくたどり着いた土手では、一人二人と顔が揃ってきたが三人程足りない。どうしたかと心配する私たちの上にべたべたと生暖かい大粒の雨が降ってきた。
敵機から焼夷弾が落とされるたびに、風の向きで落ちる場所を測って、皆であっちへ行ったりこっちへ行ったりした。敵機が去ったあとも一睡もできないまま夜明けを迎えた。
朝になり日赤病院を見に行くと、コンクリートの建物は残っていたが、中は焼損していた。行方不明だった三人がひょっこりと顔を出し、みな手を取り合って泣いた。三人は大人の人たちと病院の地下に避難したという。少し熱くなったがビクともしなかったと勇ましい事を言っていた。
長岡市の中心にある平潟神社に逃げた人たちは大勢死んだとのちに聞いた。私たちの逃げた信濃川土手でも3人ほど直撃を受けて亡くなったという。
19歳の海兵隊さんが左手に直撃を受け切断しなくては命が危ないということになり、日越小学校の教室がにわか手術室となった。手術に必要な器具は病院の焼け跡から拾ってきた。どういう経緯か私が右足を押さえることになり、必死に力を入れた。少年はぐっと歯を食いしばり耐えていた。切断手術は無事に終わった。左手は校庭の桜の木の根元に埋められたという。その少年はその後長く生きられたと聞いている。
空襲の三日後、柿崎町米山寺(現在の上越市柿崎区)から、父が野菜を担いでやってきた。長岡駅で汽車を降りたというから鉄路は無事だったのだろう。父は私の顔を見た途端、お前はいつもちょろちょろして素早いから生きていると思っていたと言って笑った。わたしも同級生も笑った。
間もなく私たちは終戦を迎えた。
終戦から77年か。
そのわずか11年後、自分がうまれた。
子供の頃、戦争の影は微かにしか無かった。
仏壇の奥にあった見知らぬ軍服姿の青年の遺影と、玄関の柱に打ち付けられていた「靖国の家」という琺瑯の板である。
青年は祖母の連れ合いであった。
父は戦後当家の養子に入った。したがって私と遺影の祖父とは血の繋がりはない。
しかしご先祖さまであり、終戦の日の今日、この方にもそっと手を合わせる。