国民的関心事、だったそうで、新聞の号外まで出たそうな。そりゃそうだ、私のようなオジサンですら、以前は殆ど顔と名前は一致しなかったのに、今やトップ10人くらいの名前はなんとなく憶えてしまったほど。


総選挙、とは、良く出来たエンターテイメント・イベントであるが、せっかく『総選挙』として若い世代に浸透したので、ここから考察できることを書いておきたい。




先ず、何より政治家たちが猛省すべきなのは、彼女たちが1年毎に厳しい評価を突きつけられる、ということだろう。あっちゃん、が昨年トップを譲り渡して1年間、様々なことを経験して感じたろうし、相当な努力を払ったに違いない。それでも緊張した面持ちで、再びトップに返り咲き、結果が出た瞬間、溢れ出た涙はそれを物語る。それに比べて、国会議員は4年あるいは6年の地位が安泰だ。衆院議員は解散総選挙によって保証されている訳ではないが、それにしても緊張感が無さ過ぎる。政権を譲り渡した自民党の猛省ぶりも、恐らくあっちゃんのそれには劣るだろう。




CDを買えば1票を投じられる、というシステムで一人で何十枚も、あるいは何百枚、猛者においては千枚を超えた人もいるらしいが、個人、それも若い子たちにしてみれば大金を投じた筈である。これについては種々言われるようだが、物理的なCDというプラスティックなどが勿体ないな、という以外は、それはそれで一つのシステムである。



これに対する批判も踏まえて大島優子氏は「1票が愛だ」と、のたもうた。同じ大島、でも自民党・大島理森氏よりも言うことに含蓄がある。その通りである。資本市場社会においては、愛も金銭的に計量化される。政治家たちは投じられた1票に「愛」を感じているのだろうか?組織選挙が当たり前になっている現在、彼らは1票に掛かったオカネは感じても、愛は感じてないだろう。これも猛省すべきポイント。



翻って、有権者(ここでは、通常の意味の有権者。AKBのファンではない)も考えるべきことがある。オカネで買えない一人一票、というのが、当たり前のものではなく、いかに有難いものか?ということだ。国民であって成人すれば(そして技術的には住民登録されていることも必要だが)、誰しも1票が与えられる、そしてカネや地位を有していても、同じ1票しか与えられない、という「普通選挙」は長い歴史の中で、勝ち取られたものである。