竹内さん、命日② よく聞かれるんですよ。「宍倉さんがゴングに入ったとき、ほかにスタッフは何人、い | 生きているだけで十分 宍倉清則のいまのキモチ

竹内さん、命日② よく聞かれるんですよ。「宍倉さんがゴングに入ったとき、ほかにスタッフは何人、い

たのですか?」って。答えは簡単。「いません。誰もいません」。えっ!と思うでしょ。でも、いちばんビックリしたのは私自身ですよ。先にウォーリー山口雄介が仕事をしていたが、彼の場合は通訳とかで「誌面作り」には参加していなかった。

 

そうなんです。竹内さん、ひとりで作っていたんです。最初は信じられなかった。でも、明石家さんまが「寝ているところを見たことがない」と家族さえ言う。医者によると「ほとんど寝なくて平気な人」って、いるらしいです。ノースリープ人間。そのさんまより、ずっと前に竹内さんがそうだった。しかも、仕事だけではなく、趣味も多彩。帰宅しても、映画を見たり、いろいろ。「寝る時間が惜しい」としか思えない。

 

だから、私が入ったときは相当、助かったと思いますよ。前の記事のバイト代は原稿とは別に、あくまでも編集部で仕事をするお金。その代わり原稿は家で書きなさい、という。遭遇シリーズ、マニアックス特捜レポート、そして、一部のマニアで「これこそ宍倉さんの真骨頂」という言葉をいただく、ピンクのページ(付録)。ゴングの熱戦譜が遅れていたのは有名。当然、私、やりました。かなり遅れを取り戻したはず。もちろん、校正はするし、グラビアの写真説明はかなり書いていた。こういう編集部で仕事をする分がバイト代。そうだ、メールどころか、FAXもない時代だったので、大御所ライター陣の原稿取りもあった。東スポとか入れるのがうれしかった。

 

いや「助かった」は違うな。その分、ほかのことに時間を費やしていた。全日本のスタッフはよく出入りしていた。ポスターとか作っていたんですよ。ホント、雄介と話していたもん。「竹さん、いつ寝てるんだ?」って。

 

私が辞めたあと、清水君、小佐野君、小林君が入るので、そう考えると、私が「その後の道を切り開いた」のかな、といってもいいような気がする。