すべてのほんとうの対話は自分自身との対話すなわち独白(独語)の本質を中核にもつ、と、ぼくの敬愛する思索者のひとりが書いている。ぼくがこの自分自身への手紙を書き始めたのも、いまのぼくにできるかぎりで、この「孤独」のいとなみのなかで、ほんとうの対話を、つまり、自分との対話、先生との対話、識られざる友との対話、これらすべてが重なり合ったほんとうの対話を、ぼくも生きたいからなのだろう。「孤独」を通してのみ「普遍」へ。これがぼくの承認したぼくの道である。それ以外のことはぼくはやりたくない。ずっとそうだった。

 両親から頂いたぼくの名は正樹という。人はよく、いい名だと言ってくれるが、ぼくは自分の名を教えてもらった最初の瞬間から、まさき、へんな名だ。どうして太郎とか、なんとか、ふつうの男の子らしい名ではないんだろう、と、そのとき自分が何歳だったかの自覚もないくらい幼い頃だったはずだか、鮮明にその時の「違和感」を覚えて、つまり今でも感じている。こんど、自分に自分の名をすきにつくる機会をえて、信義という、それじたい「意味」のある名をなかなか気に入っているので、もっぱらその理由で、このままでゆきたいと思う。