同苦力。 | 児玉あゆみオフィシャルブログ

同苦力。

最近、日常的に子供達と接する機会があり
やっぱ子供っていーなぁ。。って思ってしまう。
子供?というよりかは思春期ぐらいなので
私はもう立派な大人として認知しており
接する際もそのように接してます。



バカじゃーんクソじゃーんウザイーアゲぽよー。



比較的こんなことを日常会話?として使っている
彼女たち彼らたち。
けどこちらが、
『では、次に ~して頂けますか?』
『もしそうなら差し上げますけども~』
『できた?素晴らしいじゃないですか!』
など、丁寧な言葉を織り交ぜてゆくと
彼女ら彼らも
『はい、どうもありがとうございます』
『それって素晴らしいじゃんか!』
など、自然と無意識のうちに美しい日本語になってゆく。
それってスゴイな、っていつもおもう。
若者は柔軟性が備わっていて
こと"最近の若者"は、今までの世代にはなかったような
独特な、強烈な、共感力があり、
デンデンムシのツノや昆虫類の触角や猫のシッポなどのように
つねに独特のアンテナのようなものを立たせていて
それにひっかかれば瞬時に吸収する、そして興味がわけば激しく感銘し共鳴する。



・・・・それってすごいなと思う。
きっと私にはまずないアンテナだし
私以上の世代にはもしかしたら
なかなかみかけないぐらいの高性能アンテナで
それを当たり前のようにみんな着けているような気がしてならない。
でもきっとデメリットもあって、
高性能アンテナなので感度がよすぎて
いいものも吸収するけれど、
同じくらいかそれ以上に、嫌悪を感じる"負"の部類のものも自分の意に反して
キャッチしてしまうので
時折、すごくいらだったり辛そうにしたりする。
苛立ちの理由は本人たちにもわかっていない。



けど、その、苛立っているんだということ
辛いんだということを
ただ、心からわかってあげたいと思う。
わかる?というのは語弊があるかもしれないけれど
そうなんだねと共感というか、
そっとただ寄り添ってあげたいなといつも思う。
私は彼らの音波や光のような独特の周波数でつながりあうキズナやなわばりに
"大人"を振りかざしてぬけぬけと土足で入るような真似はしたくないといつも細心の注意を払っている。
だから、そっと寄りそうというか
相手のお部屋にお邪魔させて頂く気持ちで
同じ空間に居させてもらう。
そして彼らはアンテナをもっているので
こちらの心や自分に対する見方をすぐに察知する。
だんだんと同じ空間にいることに、同じ空気になれてくると
少しずつ少しずつ仲間にいれてくれようとする。
素晴らしい共感力だ、といつも愕然とする。
けど、土足で人のエリアにはいったり初めから年齢や地位や職業や肩書でみくだすだなんて
子供、とか、大人、とか、年齢、とか関係なく
やってはいけない礼儀?節度?じゃないかと思っているから。
だから立派な一人の人格として尊敬しているし
そもそも、こんな時代をあえて選んで望んで生まれてきたということ自体、
自分なんかよりはるかにはるかに偉く尊い、と思ってしまう。
私なら、こんな大変な時代に思春期を迎えるような時を選びたくないと思ってしまう。




と同時に、彼らへの敬意を込めて
彼らが誇ってゆけるなにかを
少しでも残してゆける大人になりたいと日々強くそう思います。




本当ならそのいらいらや辛さをかわってあげたいなと思う。
だって彼らのアンテナは
高性能なのだ。
そんな高性能では生きづらいことも多いでしょう。
辛くもなるでしょう。




大人になるにつれ生き方や慣れ方を覚えてずいぶんとラクになる。
実際私も歳を重ねるごとにラクになっている。
それは自分を知りはじめてから段々と他人というものの位置をわかりはじめたからだと思う。
けどそれがわからなくて
全身アンテナみたいな私の思春期は
自意識と他人の間で揺れ動いて
辛くて仕方がなかった。
だから私はもう二度と絶対あの頃に戻りたくないし若返りたくない。
いまのほうが悠々自適だ。



彼らのアンテナは
私の思春期のアンテナよりはるかに高性能であると感じる。
その理由を考えてみた。
それはきっと、時代にフィットしてるんではないかと思った。
いや、時代にフィットしなきゃいけないからそのように改良され自然と身につけた。
んじゃないかと今のところ思っている。
昔よりもいろんなことの移り変わりが早いと感じている。
それはきっと私の父や母、祖父や祖母の時代からみれば
さらに歴然だと思う。
激動の時代の中で彼らに必要だったのは
そこに必死にしがみつくこと。
しかしそれすらままならぬほどのスピード。
だから横列を強力にすることで
しがみつくこと、しがみついていくことを
可能にしてるんじゃないかという気がしてならない。



だから、みんな偉いとおもう。
世の中はすごいスピードで加速していくばかりだし
不景気だし
変な大人いっぱいいるし
そんななかでちゃんとしがみつこう、ついていこうと
本能的にしてる。
それってもう、本能で感じてやってるとしたら、
彼らは全員、細胞単位で優秀ということで
もはやかなわないと思ってしまう。




だから今日いらついていようと暴言をはこうと
しなきゃいけないことにみがはいらなくとも
私は、全然いいよ、と思ってしまう。
彼らには本来、才能と集中力が備わっている。
だからアンテナの具合がよくなれば
明日にでも明後日にでも一ヶ月後にでも
とにかく、よくなるのだ。



だから激動に立ち向かう彼ら彼女らに
最悪だと思ったときでもいつでもそれが底辺であって
それ以上に悪くなることはもうきっとなくて
これからさきはあがるだけなんだ、希望なんだと
毎回いって何度も信じさせてあげたくなる。




もちろん、そんなこと真剣にいっちゃったら響かないかもしれないし
そもそもきっと私が泣いてしまうので
言わない。。
言えない(笑)
けどガーン




だからとにかく、
イマドキノワカモノはすごいのだ。
今時の若者は・・・・ってニュースでもなんでもかんでもいうけど
言葉だけが独り歩きして
そんなものそもそも存在しないんだって思う。
大人達が作り上げた自分たちにとって心地好い比喩。
ではないかとたいがい思ってしまう。
きっと言語がちがうのだと思う。
もちろん、私とて彼らとはもう言語はちがいます。
だから本当になりかわってあげることはできないし
本当にイーブンに話すこともできない。
でも、私自身が自分の言語を彼らの言語へ変換したり翻訳することで
すこしは彼らの耳に入りやすくなる。
そういうことなんだと思う。
もちろん、年下の人と話すときのみならず
年上の人と話すときも同年代も等しく、
自分以外の人間と話すときは
多かれ少なかれ翻訳作業をします。
それはもはやネイティブの外人さんと話すような心がまえや気持ちです。
"きっと私の言葉は伝わらない"という大前提で言葉を変換していきます。
そうすることで自分の傲慢さが消え
相手に合わせたい、相手の気持ちをわかりたいという気持ちが芽生え
それを相手もキャッチし
心地好くかんじてくれるはずだ・・・・・と勝手に思ったりしています。




イマドキノワカモノや本当にまだ小さな幼児の子供達など含めて
みんなに希望を見出だしてあげれるオトナになりたいし
オトナ、でありたいと、そう、切に思います。