インタラクリ -1868ページ目

ゲドより。昭和天皇より。

もう1週間たってしまったが、、、最近の新聞で一番驚いたのが、

先週の木曜の朝の日経の1面だった。


「昭和天皇が不快感」、、デカデカと、1面いっぱいに。

朝、玄関で新聞を手にとり、一体何ごとか?と、珍しく全部読んでしまった。


tenno


まあ、要するに、A級戦犯合祀に関する、昭和天皇の述懐のA級史料が

見つかった、ということなんですが、、しかし、この扱いのデカさは一体?


日経新聞は、どういう判断で、これを1面トップにドカーンと載せたんだろう

とか、思いながら、会社に向かう道すがら、地下鉄の駅で広告を見た。


「ゲドより。」、、デカデカと、画面いっぱいに。


まあ、要するに、読売新聞が出しているジブリの「ゲド戦記」の広告である。

で、ちょろちょろボディコピーが入っている。

なんか、災いの時代に、広い世界にでて、よく生きろ、的なことが

書いてあったような気がするが、ちゃんと読まなかった。

で、最後に1行、カッコつきで、こう書いてあった。


(読売新聞は、おおむね、ゲドの意見に賛成です。)


この「おおむね」、とつける辺りに、、レイアウトでデカキャッチの「。」を半分で

断ち切ってるのと合わせて、80年代なニオイがした。(・・それは別にいいのだが、)


それを見た時、「ゲドって誰?」と思う以上に、

「読売新聞って誰?」と思ってしまった。


法人である読売新聞が、一個人であるゲドに賛同できるような

統一した1個の意見など持てるものなのか?


そこで、疑問は、朝見た日経の1面に還るのだ。

日経は、なぜこれをこんなにデカデカと載せたか?それは誰の意見なのか?


・・・・

ゲドより。

昭和天皇より。

読売より。

日経より。


どれが、一番リアル?
どの「より」が、一番、信じられる?


なんでか知らないけど、、まだ見ても、読んでもいないんですけど、
「ゲドより。」
が、一番、リアルな気がしてしまうんです。なんで、でしょう?


今時は、ホントに、名前がヘンチクリンでも、架空の存在からででも、
そこに「人格」さえ強く感じられれば、その「人」からの発信は、
強い共感を持って受け取ってもらえるんですよね。


「そんな人は、いないから・・」って、思われないんですよ。


何がしか、そこに、信じられる人格がある(気がする)、
ということに、皆、非常に嗅覚が効くようになっている気がします。
netが普及して、お互い、字だけの関係が増えるにしたがって、
ますます、その感覚が磨かれていると思います。
(または単に思い込みが強くなってきているのか)


だから、安直に「法人」からの発言をすると、
非常にシラケられてしまう。「法人」って誰だよ?って。


広告メディアでの発信も、ますます「人」から「人」へ、になっていくのでは?

netが普及して、ますます「個人発」がダイレクトに「個人着」に届くから。


オンラインならではの近しさで、ますます「人」は敏感に「人」を感じる。
広告発信者も、そこらへんのデリケートさが問われるようになると思います。

ウチとソト。 mixi と ブログ。

mixi での、キャンペーンを始めてから、mixi について時々考えるようになった。

キャンペーン開始と期を同じくして、自分の記述のベースをブログに

統合させてみた、というのも関係しているが。


mixi と ブログで、一番大きく感じる違いは、コメント書きコミの距離感

だと思う。mixi の書きコミは、基本的に知ってる人同士。

オフラインでの友人同士、であるケースが多い。だから、

言葉の略し方や、符号の使い方なども、友人から友人へ、メールを打つ

時の、言葉つかいに極めて近い。


対するに、ブログの書きコミは、一応、公の場というか、道路上くらいの

おおやけ感で、書かれている。友人や、オフラインの知り合い同士で

書いてるケースもあるから、一概に言えないのだが、おおよそ、そう。


mixi のプラットフォームは、技術的にも、気遣い的にも、

非常に良く出来ていて、皆がハマるのもよくわかる。


二重、三重に、「ウチ」というべき集合が、用意されている。

(まあ、コミュニティって、文字通り言ってますが。)

マイミクさん、αミクサーとでもいうべき人気の人の周りなど

いろんな温かく、甘い、「ウチ」がある。


対するに、ブログの方は、多層的にバラバラの「ソト」が集合していて、、、

なんというか、たとえると、、、


ブログは、外洋に一人、小舟を浮かべていて、

一見、水平線の果てまで、誰もいない海なのだが、

時々、ぽかっ、ぽかっと、水面下から同じような小舟が、

水面に現れて、一声かけては、またモグって消える。そんな感じ。


対するに、mixi は、防波堤で囲まれた「海水浴場」で、

海水の温度も、やや人肌にぬるみ、水に入っても冷たくない。

その「海水浴場」に、うにょうにょ人が集まっていて、

砂浜のいたるところに、いろんなひとんちのレジャーシートが

しかれている。そんな感じ。


mixi が、たぶん、日本において当分、無敵だろうなあ、と思うのは、

概念だけ同じ「SNS」、たとえばアメリカ資本のSNSなどが

上陸してきたとしても、この、mixi のような感覚、加入してる人同士の

この甘い近しさを、理解できないんじゃないかなあ、と思うからだ。


だから、今、mixi に場をお借りして、「広告キャンペーン」を

やっているが、とても、デリケートにオペレーションしているつもりである。


「ウチ」に、ヨソモノがいたら、皆イヤだろうし、しらけるだろうし、

心を開いてくれないだろうし、

「ウチ」に、商売の人が、づかづか上がってきたら、たぶん、皆

ウチの奥に隠れて、出てきてくれない、だろう。


mixi 本体の舵取りでも、広告をどこまで入れて、どこから入れないか、

というのは、重要な分水嶺ではないだろうか。


余談だが、先日、mixi とグリーの違いを考えた時、思ったこと。

mixi というのは、音感も、ルックスも非常によくできていて、

おっぱいの「M」ではじまる、やわらかい名前で、

あたたかいオレンジ色で包まれている。


対する、「グリー」は、申し訳ないが、「岩」っぽいというか、

ゴツゴツした硬い物、冷たい無機物を、想起させる音感だと思う。

ざっくり、理系っぽいつうか。。。すいません。


mixi は、「気遣い」という、運営者の意識・無意識が、

自然と、高度に、精錬させた、場なんじゃないだろうか。

netにあっても、そういうものって大事だと思う。

要するに、人が来てくれるか、来てくれないか、だから。

たった1ページなのに、オチを見せない。

歩くCGM。

mixi Wコミュ・キャンペーン

「余談」「雑感」ジャンルの開設に関しまして

あらためまして、sudaです。


今まで、mixiと併走するカタチで、記述し、

ブログは「原稿」、mixiは「日記」みたいな区分で

書きわけておりましたが、

思うところあって、いっしょくたにしてみることにします。


(思うところ=2つ書く時間がない、気張ってチャンとした原稿だけを

上げようとすると、エントリーがマメにできない、

もうちょっと軽く書いたものもあっていいのでは?と思った、など、です)


その際、本来のこのブログの設立趣旨である

「マス広告とインタラ広告の、よりよい関係のため」の論説・記述と、

はっきり区分けるために、

「余談」「雑感」というジャンルを、開設します。


「余談」は、インタラクリ以外での関心事。

「雑感」は、無関心事ですが、であったことや情報への感想。

という、分類です。


とはいえ、同じ脳の反応なので、

この「余談」や「雑感」から、次のテーマが育ってくることも、

大いにあるかと、思います。


忙中の閑を見つけて、マメにエントリーしますので、

今後とも、よろしくお願いいたします。

自分ごと化して、操縦するCM

新しい現実を、作る。

私が、今、身をおいている汐留のHDYの、新社長に就任されたT田さんの、言葉。
「広告会社は、自らの知恵で『新しい現実』をつくりだすべし。」


この前、たまたま、エレベーターでバッタリお会いしたので「新しい現実」という言葉はよいですねー、と声をかけてみた。


脳の中にあるもの=脳の中にしかないものが、「作る」という行為で「実体」=「現実」になってゆく。これ、茂木氏や養老氏が唱える「脳化する世界」という考え方だ。


発明は、これの最たるもので、輪ゴムでも、クリップでも、電球でも、電話でも、WEBでも。誰かが、それを思いついて、なんとか工夫して、それをこの世に産み出すと、そして、皆がそれを使いだすと、それまでの世界とはまったく違う世界になる。「新しい現実」が出来上がる。


大事なのは、「思いついたら、作る」ということだ、と思う。
しかも、思いついたら「スグ」作るということだと、近ごろ、つくづく思う。


思いついた時のエネルギーは、思いついた瞬間がMAXで、後は時間と共に減衰してゆくだろうから。


思いついたことを、作って「実体」にすると、脳がそこからインセンティブをもらい、「もっとやろうホルモン」が、ピュピュッと出る。


「できるかどうか、わからない」とか「できっこない」ではなく、「あ!それ、やったら、面白いじゃん!やろうよ!」である方が仕事は絶対面白い。


マス広告界から、インタラ広告界に来て感じるのは、皆が、新しい仕事で人を驚かしたい、人より先に新しいことをしたい、というモラルが非常に高いこと。企画打ち合わせでも、ごく普通に「新しくないですね、ソレ」と、言う。フカしではなく。(まあ、フカシの人もいるけど)


何を考えるかで、良い世界にもなれば、悪い世界にも、なる。悪い想念に捕り憑かれれば、世界は悪くなって行くし、良いイメージを持ち続けられれば、世界はよくなって行く。


だから、いつも「いいこと、思いついた!」で、いきたいのです。それが、一番楽しいから。


やったことないけど「できる、気がする」のも大事。いつも、やったことないことを、やりたいのだから「できる、気がする」以外に頼れるものはないです。


考えてみると「この棒を、擦り合わせると、なんか、火とかでるんじゃないかなー」とか「後ろ足で立つと、前足が自由になって、物とか持てたりんじゃないかなー、ウッキィ」とか、そういう思いつきの実践から、始まった人類の歴史なわけですから、・・・だから、思いついたら、さっさと、作りましょう。

15秒で、入らない。

・・


(本文なし。追補公開@100503)

露出ではなく、関与にペイする。

(読者の皆様、毎度ありがとうございます。ものすごく、眠いのですが、エントリーをあげてから1回帰ります。なんかよくわからないくらい反響があって、ビックリしてます。ありがたいことです。)


アドイノベーターの織田さんが、5月下旬に「主協」主催のセミナーで行った基調講演。「欧米で広告の評価基準が変わりつつある」という話。その中で、一番瞠目したのが、下記の概念です。一昨日のH大での講演も、同じテーマだったそうで、今から、これから、しばらく重要なトピックになってくるはずです。それが、広告の新しい効果指標=エンゲージ、です。


「エクスポーズ(露出)から、エンゲージメント(婚約とか、関係成立とか)へ」


これ、考えてみれば、なるほど、当たり前だよな、と思うわけです。こんなに、情報が過剰に露出している昨今の世の中で、「広告を出稿しました。〇〇単位、露出しました。」だけじゃあ、広告屋として仕事になってない。今までも、たしかに、いわれはしました。CMを打ったのに売れないじゃないか!とか、調査しても好意度が上がらないじゃないか!とか、だから代理店変えるぞ!とか、制作変えろ!とか。。。


しかし、僕が、織田さんの講演から感じた、状況の「変化感」は、そういうことよりも、もっと「シビア」なものでした。それがタイトルの「広告露出にはペイせず、ユーザーと結ばれた関係にのみペイする」っていう考え方です。すでに、検索広告などは、こうなってますよね。クリックされなければゼロ円、クリックされれば〇〇円。


この感覚が、一般の人にあたりまえのものになり、そして、広告主にとってもあたりまえになってくると、マス広告に対する見方も、はっきり変わってくるでしょう。評価が変わり、ペイが変わるはず。ユーザーに届いてるかどうか、チェックできない広告に、莫大なお金を払うということに、得意先が疑問を持ち始めています。


インタラクティブな広告では、すでに、あたりまえに突きつけられてること(アクセス数とか)ですが、同じ「意識」で、非インタラクティブな広告も裁かれるようになると、キツいっちゃ、キツいですよ。ぶっちゃけ、広告主にとっては、エンゲージの方が絶対ありがたくて、広告会社+媒体社にとっては、エクスポーズの方が絶対ありがたいわけですから。


ただ、状況は激変しつつあって、欧米の人たちは、新しい国際基準を打ちたてようと、画策中だそうです。


この話を聞いた時に、なんとなく夢想したのが、バズやCGMの未来像でした。それは、従来の視聴率(=それ前提の課金)を信用できなくなった広告主にとって、CGMというモノが、逆向きに反射された「リアルな視聴率」みたいなものとして計測されて、それが広告会社がお得意先からお金をいただく際の、エビデンスのようなもの、になってゆくのかなあと、。


それがあって始めて、TVCMを打つことを、経営者に対して主張できる、っていうか。クロスメディアの、ひとつの、あんまり嬉しくない「完成形」として、の未来イメージ。(いや、すでに、そうなってるのかも、しれませんが)


マス広告制作者の方たちで、この迫り来る現実に、真剣に冷や汗かいてる人って、どのくらいいるんでしょうね?意識の高い人も、勿論多くいます。ただ、インタラのあたりにいると、こういう話がすごく多いのですが、場所が違うと、入って来ない情報もありますしね。、、意外と「そんなのは、営業が考えりゃいい」、、くらいにしか思ってないのかなあ。。。それだと、怖いなあ。