七日七夜【6】 | 風の庵

七日七夜【6】

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 最後に抱き締めてもらったのはいつだったろうか
 ひとの温もりの幸せを感じたのは

 幼いころよく抱いてくれた母は、いつしかそれをしなくなった
 笑いかけてくれなくなった
 それが1人娘に、憎らしい男の面影を見出すようになったせいだと知ったのは、母が死ぬ少し前

 それでも母が好きだった
 愛してほしかった
 笑いかけて、抱き締めて欲しかった
 一心に母の求めに応じようとした
 母が望むように振る舞い、母が求めるように考えた

 結局望み叶うことなく、母は死んだ
 人間に殺された


***


 朝日が昇るより少し前、淵に沈んでいた意識が浮上した。それでもまだ目を開けるまでは行かず、ころりと寝返りを打つ。徐々に寒さを増す季節、温かい寝床に微睡むのは心地良い。まるで蜜のように甘い。微睡みながら再び夢の中へ誘われ、意識は浮き沈みを繰り返す。
 寝返りを打った拍子にとん、と何かにぶつかった。岩にしては柔らかく温かい。香り草の芳香と共に日向と干草のような仄かな香りがする。明け方の冷えた空気に掛布からはみ出た肩が震え、無意識にそれに身体を寄せた。すると静かに掛布が引き上げられ、次いで大きな手で背中がポンポンと軽く叩かれた。ほんの子どもの頃に添い寝をする母がしてくれたように―――
 安心と小さな幸せを感じて頬が弛んだ後――ふと、寝ぼけた頭に疑問が浮かんだ。

(母上は亡くなられた・・・ここにいる筈がない)

 デアノラの住処に住人はデアノラしかいない筈。

――誰だ?

 スッと冷めた思考に今度こそ目覚めた。ぱちっと目を開き視界に飛び込んできたのは―――

「おはよう」
「―――――!?」

 がばっと飛び起き、ずさささささーッと一気に壁際まで退いたデアノラに、今の今まで彼女の横に寝そべっていた黄金色の瞳の主はゆっくり身体を起こした。
 壁に背を張り付かせ口をぱくぱくさせているデアノラにさらさらの金髪を掻き上げたジルベルトはふ、と小さく笑う。

「そこまで驚かずとも良かろう」
「きッききき貴様何を――――!」
「言っておくが、昨日私の服を掴んだまま眠りこけ離さなかったのはそなたの方だ」
「・・・・・・・・」

 苦笑するジルベルトの顔をまじまじと見つめた若き水妖は徐々にその頬に朱をさした。

「安心しろ。何もやましいことはしていない」
「しておったら貴様の命はないわッ」

 膨れっ面でぷいっと顔を背けたデアノラに明るい笑い声を上げると、ふと声を低めた。

「まあ、私がせずともそなたの方から積極的に来てくれたお陰でいい思いをさせてもらったが」
「―――ッ」

 反射的にバッとこちらを向いた少女に意味ありげな笑みを送ると、デアノラはますます顔が赤くなった。「我ながら自制心の強さが悲しいくらいで」などと漏らす男に今度は違う意味で顔を赤くしたデアノラは憤りを募らせギリリッと歯を噛み締めた。

「ただの冗談だ」
「帰れ・・・今すぐ帰れッ」
「ご挨拶だな。帰らせてくれなかったのはそなたの方であるのにな」
「う、うるさいッ。早く妾の前から消えろ!」

 頭から湯気が出ていそうなデアノラに笑って肩を竦めると、それでもジルベルトは立ち上がって寝所の暖簾に手をかけた。

「どちらにしてもクロウが心配しているだろうから帰らねばならない。また、夕刻に来る」
「二度と来るな!」

 背中に怒鳴りつけると、振り返らないまま彼は手を挙げ、出て行った。肩で荒く息をしながら火照った頬に手を当てたデアノラは口をへの字に床を睨み付けた。
 今更ながら母とあの恥知らずの男を間違えたのが悔しい。しかも、よりにもよってあの男の腕の中で眠りについたとは。抱き締められて、頭を撫でられ感情的になって泣き、その後の記憶がないのだ。一生の不覚。

 早まった鼓動は中々元には戻ってくれはしない。
 1人になり静かな宮の中、耳に音が大きく聞こえる。怒りのせいだ。きっとそうだ。

 邪魔者が消えて清々した。やっと1人になれた。
 それなのに頭の中には人騒がせな男の笑みが浮かび、再び落ち着かない気持ちになった。
 落ち着かないのは無礼者への怒りのせいだ。

 壁に背を預けたまま無意識に自らを掻き抱いて、デアノラは項垂れた。


***


 来るだろうか。いや、来ない。来るなと言った。来られてもムカつくだけでむしろ迷惑だ。来なければいい。
 そう自分の中で呟きながら、落ち着かない気持ちを誤魔化すために意味もなく泉の水面を叩いた。

「ふん」

 馬鹿馬鹿しいのだ。愛だの恋だの。

 きゅっと唇を引き結んですくっと立ち上がったデアノラは振り返った瞬間ぎょっとした。
 何故かと言うと、自分のすぐ後ろに子どもがいたからだ。しかも、今の今まで気配を感じなかった。仮にも長の身の自分が他者の気配に気付かないなど、あって良いことではない。――しかも2度目だ。

「誰だ、お前は!ここが妾の領分と知らないのか」
「はい、存じております。驚かせて申し訳ありません、水の君。」

 デアノラと変わらない身長で、浅黒い肌、緩く波打つ黒髪に金色の瞳の少年は穏やかに微笑んだ。その笑顔が誰かと似ていて妙な奇視感を覚えた。誰だったか――

「ん?お前は・・・」

 ふと気付いてデアノラは目を細めた。デアノラより少し年下に思える少年からは2つの気が感じられた。

「・・・クロウ、か?」

 少年は嬉しそうに笑みを深めた。

「はい。義父がお世話になっております」

 世話どころかいい迷惑だ、と言いかけてデアノラは口を噤んだ。あの軽い男と違い、礼儀正しく物腰穏やかな少年にあたるのは筋違いな気がしたのだ。

「妾に何用だ?・・・あの・・・男は、どうした」
「はい。今日はデアノラ様にお目通りの許可が下りたとのことで早速参りました。義父も共に来る予定でしたが、こちらへ向かう途中に急遽呼び出しを受けまして、後ほど遅れて来るとのことにございます」
「何だと?」

 お目通りの許可・・・?
 寝耳に水だ。そんな話は初めて聞いた。昨日クロウの話は聞いたが――と考えてから、デアノラは気付いた。
 あの男・・・!

 恐らくクロウはシロだろう。狸に騙され信じきっている少年を無下にできるほどデアノラは冷酷ではない。昨日クロウの苦労話を聞かされたばかりでもある。ジルベルトが謀ったに違いない。クロウを追い返せなければ必然的にその保護者であるジルベルトも追い返しにくくなる。

 チッと舌打ちしたデアノラを少し不安そうにクロウは見つめた。

「もしかしてご迷惑でしたか」
「そうは言っておらん。・・・お前も苦労が絶えんだろう、あのような男といては」
「いえ、義父は素晴らしい長です。確かに、少しノリが軽いかもしれませんがでも、僕のようなはぐれものも受け入れてくれました」

 クロウの言葉には妙に実感が篭っていて、デアノラは反論を躊躇う。

「僕は妖狼族の名汚しですから棄てられても文句は言えませんのに、義父は僕を疎みませんでした。非難されても、僕を棄てなかった」

 少年の言葉には確かに養い親に対する深い愛情と敬意とが含まれており、飄々としたあの男がこの少年の心の溝を埋めているのは疑いようがなかった。昨日の語りに感じたジルベルトの少年への愛情と少年のジルベルトへの愛情は相互通行のもの。
 デアノラと、デアノラを産んだ母とは違うところ。

「・・・生まれたお前には罪などなかろう。負うべきはその親、自分を卑下するのはやめよ」

 昨日ジルベルトに告げたのと同じことを少年にも告げると、少年は僅かに目を瞠った後に微笑んだ。

「義父以外で僕にそう言ったのは、あなたが初めてです」

 考えれば分かりそうなことだが、それに気付く者はいなかったのだ。まともな考え方をするのが自分を他にあの男だというのが癪だが・・・評価してやらなくもない。

「堅実な水狼からすれば風狼は愚かにも見えましょう。ですが義父は信頼を裏切らない人です。どうかあまり嫌わないでやって下さい。義父はあなたをとても気にかけています」

 嫌うな、とは難しい注文だ。事実自分はあの男が――・・・嫌い・・・なの、か?

「・・・・・」

 どちらにしろ馴れ合うのは御免だと言いたいのに、デアノラはクロウの金色の瞳を見た途端に言葉が継げなくなった。彼の眼には並大抵の苦労をしていない者独特の静けさと幾らかの哀しみ、穏やかさがあり、それを自分の意思を押し通すことにより乱すのは賢明ではないように思えた。まして、群れに馴染めない――馴染むことを許されないクロウの境遇は、同族に心を開けないデアノラと似ていたため。

「・・・努力はする」

 結局そんな言葉が出てきたが、クロウはまた穏やかに微笑んだ。

「義父は、最初に結婚した女性と一生涯共に過ごしたいと願っているんです。遊び人な噂ばかりですがそういうところはロマンチストというか」

 朗らかに笑って言うクロウを直視できない。ジルベルトとは儀式のための婚姻を結ぶ。それは愛情からのものではない。

――愛すればいいなんて、夢の中の言葉
 愛って、なに?

「あなたが・・・義父にとってその女性だといいな、と思います。そうしたら僕の義母上ということになるんですよね」

 少し照れたように言う少年にハッとした。彼はほんの幼い時に両親を亡くしているのだ。群れで爪弾きにされている少年にはせめてもの温かい家庭がなければならないだろう。だが――

「あの男ならお前に相応しい母親代わりを見つけ出すだろう」

 言外にそれは自分ではないと告げるとクロウは少し表情を曇らせた。

「デアノラ様は義父を好いてはおられないんですね」
「好くも好かんも儀式には関係ない。斑婚はただの儀式だ」

 だから家庭など築くことはない。それが事実だ。そうだ。デアノラは斑子を産んだらもう用済みなのだから。水狼族にとっても風狼族にとっても・・・

 そういえばあの男、デアノラがあの男を愛するようにならなかった場合、斑婚そのものを無効にすると大言を吐いたな。

「でも・・・斑子が生まれるには時間がかかるんですよね?」

 まるでデアノラの心を読んだかのようにクロウは呟いた。

「せめてその間だけでも・・・義母上と呼ぶことを許して頂けませんか」

 そんなことをしたら、情が移りそうだ。もしやこれもあの男の戦略か。
 と、腹立たしく思ったデアノラは、すぐにその考えを打ち消すこととなった。何故なら、地と風に属する斑子が酷く寂しげで、小さく見えたから。それは愛されることに飢えた子どもの姿で、やはりそれは覚えのある感情であったから――

「・・・好きにすればいい」

 断れなかった。会ってまだ5分だが既にデアノラはこの斑子に自分は弱いらしいと気付いた。それでも不快に感じないのは彼があの男と違って図々しくもなければ、他の狼と違って媚びることをしないからだろう。誰でも自分に重なる境遇の者には同情しやすくなる。早い話が気に入ったのだ。

 立ち話も何なのでジルベルトの時とは正反対に中へ入ることを勧めた。その直後、あまり嬉しくない気配がやって来るのを感じ・・・

「義父上!」
「遅くなってすまない、クロウ。私がいなくて寂しかったか、デアノラ?」
「たわけがッ」

 疾風と共に現れたジルベルトは、少し嬉しそうな顔をした養子と、仏頂面の年若い水妖の長に迎えられることとなった。
 それでも、朝と違って帰れとは言われなくて、ジルベルトは自然に笑みを浮かべた。
 すると、途端に何故かデアノラがサッと顔を赤くして顔を背けた。その反応におや?と思いつつ、数歩で石段を駆け上がって彼女の側へ行くと、いつも通りからかい混じりの愛を囁きはじめた。返ってくる反応が予想通りだとしても、いくらか棘が和らいでいるのを確かに感じる。

 やはり、クロウを先に行かせたのは正解だった。

 今日はお土産がある、と耳元に囁けば、嫌がって振り払おうとしていた手が一瞬止まる。
 そんな素直ではないところを愉しく思いながらジルベルトは自分を警戒混じりに見上げる青い瞳を見返した。



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