ららら主義 | 真実は人を幸福にするか?

真実は人を幸福にするか?

桑田義雄が、うかんだり、もぐったりするブログ

$真実は人を幸福にするか?



たまにブログの主旨に立ち返らないと、わけがわからなくなるので、再び「真実は人を幸福にするか」というテーマで話をしてみたい。


みなさんは、自分の枕にダニがいることを意識して寝ているだろうか?
自分のフトンにダニがいることを意識して寝ているだろうか?
時々、寝ている時に身体が痒くなるのは、ダニが身体を這っているのだと自覚しているか?

今、日本では、子供の数よりも犬の数のほうが多い。
犬は散歩させなければならない。
犬を散歩させると、クソや小便をする。
クソは飼い主が拾って持ち帰るのがマナーだが、持ち帰らない人も多い。
だから、そこらに犬のクソが転がっているのだ。

犬のクソは乾燥すれば空中に粒子として飛散する。
我々は道を歩く時に、知らず知らずに、粒子として飛散している犬のクソを吸っている。

トイレは現在は水洗であるが、それでも前の人の尿を完全に洗い流せるわけではない。
かなりの前の人の尿が残っている。
人が尿をすれば、大なり小なり跳ね返りというものが必ずある。
つまり、自分が尿をすると、便器についていた前の人の尿も一緒になって跳ね返って来る。

上記のことを、いちいち考えていると、強迫性障害という病気になり、日常生活がままならなくなる。
だから人は、考えないようにする。


祭りでかつぐ「お神輿」というものがある。
あれはもともと、神社のご神体を持ち運ぶ道具だ。
「お祭り」とは、「神様を祭る」という意味だ。

どっかから神様のご神体を神輿に載せて運んで来て、新しい神社に祭るのだ。

今、お祭りのたびに、ご神体を神輿に載せ、街を練り歩くが、あれはお祓いの意味だ。
街の邪気を祓っているのだ。
それで、あのような神輿で練り歩く、という習慣が出来た。

だから、喧嘩神輿のように、神輿と神輿をぶつけ合ったり、神輿の上に男が乗っかったりというのは、とんでもない話である。
お神輿で練り歩く時は、馬鹿騒ぎせず、静かに、巫女の笛の音で歩く、というのが正しい。

話は反れた。
神社のご神体というのは、多くは鏡だ。
丸い鏡である(画像)。
これは何を意味するかと言えば、「ありのままの現実を見よ」という意味である。
神道では、ありのままの現実を見なさい、そうすれば幸福になれると教えているのだ。

大乗仏教における最高の悟りを「大円鏡智」と言う。
「大円鏡智」とは丸い鏡。
これも神道と同じメッセージであり、ありのままの現実を受け止める智慧を意味する。
それほど、人は、ありのままの現実を受け止める智慧にとぼしい。
ありのままの現実を受け止める智慧が生まれたら、それは仏陀なのだ。

しかし、肉身を持つ以上、大円鏡智など難しいと俺は思っている。

徒然草だったと思うが、こんな話がある。
ある偉い坊さんが、晩年、鏡で自分の顔を見る機会があった。
「俺はこんなに老いてしまったのか」と、あまりの自分の醜さに嫌気がさした。
それ以降、その坊さんは奥の間に引っ込んで、人前に顔を出さなくなった。
ありのままの現実を、その坊さんは受け容れた。
だが、それによって、社会性を失った。


太っている女性に対し、男性の側が「太っていますね」と言えば、そこで関係は完全に終わる。
女性だって、自分がやせているとは思わない。
毎日、ことあるごとに、その現実に直面せざるを得ない。
そのたびに、耐え難いショックを受ける。
その上、男性からの「太っていますね」の一言は、ダメージの上乗せでしかない。
それが善意からの一言であったとしても。


ヤッターマンの中で使われたギャグの一つに「豚もおだてりゃ木に登る」というものがある。
成績の悪い子供でも、ほめてあげると、どんどん成績は伸びるものだ。
大した美人じゃなくても、もし、周囲から、「お美しいですね」と日々、連発されたら、たぶん、本当の美人になるだろう。

現実とは異なっていても、真実とは異なっていても、ありのままじゃなくても、嘘でも、それを100回繰り返すと本当になるのだ。
逆に、ありのままの現実を受け容れることによって、それを機に奮起努力することもあるが、多くの人は落ち込んで、余計に事態を悪化させる。

新約聖書に「あなたの隣の人を愛しなさい」(汝の隣人を愛せよ)とある。
赤の他人をどうやって愛せるものか?
現実ばなれしている教訓ではないか。
聖書なんて、嘘っぱちだ。
だが、その嘘も100回繰り返すと本当になる。

昭和二十九年の台風十五号で、青函連絡船洞爺丸転覆という大惨事があった。
この時、乗り合わせていたアメリカ人宣教師二人が、他の乗客に、自分の着ていた救命ジャケットを差し出して犠牲になった。

  船内はパニック状態で、急に騒然とした雰囲気になり、
  約1000人余りの船客は、恐れと慄きでわななきながら、
  懸命に救命胴衣を身に着けようとしていました。
  ストーンさんとリーパーさんは、あわてたり、
  泣き叫んだりする乗客をなだめ、
  励ましつつ救命胴衣の着用の手助けをしてやりました。
  その中で、一人の少女が自分の救命胴衣の紐が切れて、
  着けられなくなって泣きそうになっていたのですが、
  それを見たリーパーさんは、
  急いで自分の身に着けていた救命胴衣を外しながら、
  冷静沈着に「私よりもあなたの方が若い。
  これは、あなたが着けるべきです。
  私は泳ぎも出来るし、安心しなさい・・・・」と、
  手早く、その少女に救命胴衣を着けさせたのであります。
  何と驚くべき愛でしょう。
  http://www.geocities.jp/jesus_kohituji/message05_10/message2005_1018.html
  
目撃者によれば、リーパーさんはまったく泳げなかったそうだ。
「あなたの隣の人を愛しなさい」という嘘を、何度も何度も自分に言い聞かせるうちに、それが本物になってしまう。
良くも悪くも、それが信仰の力だ。
生活保護などの社会福祉制度が、このキリスト教の精神によるものだと知る者は、あまりいない。


ありのままの現実を見るよりも、何か他のものを見て生きたほうが、人生がより良きものになるということもある。
これは知りおくべき点だろうと思う。

最近、「女子力」という言葉に象徴するように、女性が強くなったと言われる。
だが、これはマスコミの影響が大きい。
事実を反映していない。
事実は、女でも、うつ病もいるし、ひきこもりもいる。

容姿に恵まれた若い女性は、周囲がチヤホヤしてくれるので元気だ。
逆に、誰にも振り向かれずに、部屋で始終、テレビを観てるような女性も多い。

男だって、ギラギラしているのはいくらでもいる。
若く、美しく、それゆえ元気な女性と、内向的な性格を有する男性を比較しているのがマスコミなのだ。

その女性だって、老化してくれば、誰にも相手にされなくなって来る。
自分で自分の醜さに驚くようになって来る。
そうなれば、かつての元気さが無くなる。
開き直り、羞恥心を捨てたオバタリアンにでもなれば別であるが。

美貌がそなわっているうちは、毎日でも鏡に己の姿を映す。
老いさらばえて来ると、鏡など大嫌いになる。
「ありのままの現実」に目を向けられるのは、「ありのままの現実」が素晴らしい時に限るのだ。


欲望を求めて生きる。
それは良いが、気づけば何も残らないというパターンだってあり得る。
結婚相手と別れたり、お金を失ったり。
美貌は確実に失われるし、病気にだってなる。

欲望、欲望でギラギラするのは若さの特権でもあるが、それだけではいつしか絶望の淵に立つだろう。
何か他のものを吸収せねばならない。

明治の女流歌人、与謝野晶子は、昔、坊さんとピュアーな交際をしていた。
ところが、その坊さん、仏教の話しかしない。
ついに、与謝野晶子はその坊さんと添い遂げることは出来なかった。
その時の歌。

  やは肌のあつき血汐にふれも見で 
  さびしからずや道を説く君

女の柔肌に触れもしないで、さみしくないのか、道を説く君よ。


その坊さんにしてみれば、人間など、いつかは老いるものなのだから、その準備を今からしておかねばならない。
老いても、楽しく生きて行けるための思想を持たねばならないと考え、色々、晶子に説法したのだろうと思う。
晶子は、若い今を楽しまずして、いつ楽しむのかという気持ちなのだろう。
未来と見ている坊さんと、今を見ている晶子との違いだろう。
だいたい、坊さんに対し、こういうことを期待していることが晶子の間違いだ。


若い今を楽しむ。
だが、それは長く続かない。
年をとった時のことは、年をとった時に考えれば良いと思うかも知れないが、そうして、みんな失敗している。
自分が人から、女性として見られなくなった時、その衝撃に、生きる希望すら見失う。

だから、現実だけ見てたんじゃいけない。

逆に、今、引きこもっている人も、現実を見すぎなのだ。
自分を鏡で見すぎなのだ。
体重計に乗りすぎなのだ。
だから、死にたくなるのだ。

寺本らららという人は、脳性マヒによる両上下肢機能障害を抱えながら、15歳で単身オーストラリアに留学。
ラララ、 ラララと歌いながら、いつのまにかすっかり溶け込んでしまった。
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自分よりも、もっと悲惨な状況の人だって、ラララ、ラララと歌いながら生きている。
現実を直視したって、何の進展があろうか。
現実を直視するより、別の何か、心を楽しくさせるような何かに視点を合わせて生きるべきなのだ。

現実を見れば絶望かも知れない。
現実は生老病死の四苦だろう。
それでも、それでも、心の置き所によっては、四苦を四楽に転ずることが出来る。
四楽とは「常楽我浄」である。
意味はわからなくても、何となくニュアンスがわかるだろう。
仏教用語など、それで十分だ。

ポジティブシンキングというのは、希望が現実になる、という思想だ。
だが、希望が現実にならなくっても良いのだ。
両上下肢機能障害がポジティブシンキングで治るなんて、そうそう、あり得る話ではない。
ポジティブシンキングでもなく、現実主義でもなく、ラララなのだ。

一休さんは傘をかぶり、尺八を吹きながら歩いたという。
虚無僧の元祖だ。
これこそ、ラララだ。

心の置き所を、苦しい現在でもなく、将来の希望でもなく、まったく別のところに置く。
中国の古典、「荘子」には、宇宙大の大きな鳥の話が出て来る。
そういうデッカイ気持ちで、世の中を見下ろした時に、なんだか、とっても愉快になれるのだ。

信仰によって、その境地に到達することも出来るかも知れない。
あるいは、泣きながらでもラララ、ラララと歌うことだ。


※ポッドキャスト更新
http://poyoyoken.seesaa.net/article/226528623.html