あらすじ(引用:movie walker)
>琴子(Cocco)は世界がふたつに見える。ひとつに見えるのは歌っているときだけだ。琴子には幼い息子・大二郎がいる。日常は予測できない恐怖に満ちている。息子を守ろうとするあまり強迫観念は肥大化し、琴子は現実と虚構の狭間を彷徨いはじめる。そして世間から幼児虐待の嫌疑をかけられ、愛する息子と引き離されてしまう。そんなある日、田中(塚本晋也)と名乗る男が突然、琴子に声をかけてくる。彼女の歌と、歌う姿に魅了されたという田中と一緒に暮らしはじめ、世界はひとつになると思えたが……。



危なっかしくて、救えない彼女をもっと見ていたいと思う。
この先どうなっていくのか。
どんな風に壊れていくのか。
生きていくのか。
死んでしまうのか。




残念なのは、表現にこだわる余り、カメラが激しく動くこと。
熱心に見入っていたらたちまち酔ってしまった。

リストカット・暴力・事故etc.
ショッキングなシーンも多いのだが、
KOTOKOの部屋・KOTOKOが作ったおもちゃ・血液ですら
美しく、色鮮やかで、せつないのだ。
後ほど調べて、美術もCoccoなのだと知った。
彼女の世界はなんと美しくて強くてはかないものなのだろう。




久しぶりに再会した息子と触れ合う琴子のシーン。
自分の代わりに息子を育てている姉に対する嫉妬が
チラリ、と見える気がする。

息子を育てていかねばならない。
だってこの子の命は私が握っているのだもの。
だけどどうやってもダメ。
どうしてもうまくいかない。できない。


一歩引いてみると、誰も琴子のことを責めていない。
一方で琴子は私以外は全員味方以外の存在だと認識しているようだ。
認識というよりは習慣化している、
そういうものなのだと理解しているといったような。
逆に言えば自分を襲わない世界など、どうでもいいものなのだ。
低い温度のまま、ゆっくり時間は流れていく。



少しネタバレが入る。


自分を決して否定しない田中の出現であるが
田中はおそらく琴子の作り上げた人格ではないだろうか。

琴子といるとき、田中には誰も話しかけていないはずだ。
田中という人物は実際にはいるのだろうが、
テレビで見た「田中」と琴子といる田中は別物なのだろう。




彼女は歌って「世界をひとつにする」。
何故このような設定が必要なのか。
映画はCoccoのための映画で、
琴子はCocco自身の投影だからなのではないか。


いい作品だと思うが、私は二度と見たくない。
そして人にも勧めはしない。
だけど引き込まれる、見たくないけど見たい作品。