お仏壇の奥の引き出し

その場所のありかさえ知らずにいた

 

ある日その引き出しを見つけた

 

そこには私が

この世で逢うことはなかった

夫の伯父

その人の手紙があった。

 

伯父は大正6年生まれ

昭和13年7月12日 

中国は揚子江 安慶という場所で

22歳で戦死していた。

 

 

 

伯父は次男

長男は二つ年上

昭和19年10月 30歳のときに

フィリピンレイテ島で戦死している。

 

二人の伯父の50回忌は

京都のこの家に嫁いでから

お勤めさせて頂いた。 

 

 

戦死したということで

立派な石碑も一人ずつある。

お参りもさせて頂いている。

 

それでも私にとっては

遠い方だった。

 

 

ただ10年ほど前

毎年夏に行われる

この地域の

戦没者慰霊祭に参加させて頂いたときに

この地域で戦死した英霊の

名前、戒名、戦死した場所、年齢が

戦死した順に読み上げられ

弔われるのに立ち会って

僅かではあるけれど身近に感じた。

 

 

伯父の手紙は

古いかなづかいでもあり

読めないと思っていた。

丁寧にゆっくり読んで行くと

次第に分かって来て・・・

 

読み進めるうちに

どうみてもこれは恋文・・・

だということが分かってしまった。

 

何故、その手紙が家に?

 

この手紙が書かれたのは昭和13年7月10日付

つまり戦死した2日前

 

通常切手を貼る場所には軍事郵便と書かれていて

封印されたのがあけたのだろう

封が切られていた。

表書きはなかった。

 

便箋3枚に思いが綴られている。

相手の方のお名前もある。

 

どうやら

この手紙は出されることなく

戦死した伯父の遺品として

他の2通の友人宛の葉書と共に

故郷の家に辿り着いたのだと想像出来る。

「懐かしの京都駅を出てはや○○〇・・・」

「去年の今頃を思い出し・・・」

 

中国揚子江を船で行く様子

戦場での様子

内地への想い

大陸の暑さ

その方への想い

「手紙を送って欲しい

それから

どうしてもそんなものでも良いので

お顔を拝顔したいので写真を送って欲しい

これだけはどうしてもお願いしたいと・・・」

 

そんなことが綴られていた。

 

涙した。

 

これをどうするのか・・・

 

伯父は個人的なことを

みなに知られることをよしとするのか・・・

そうも思ったのだけれど

 

 

難しい言葉を調べると

それは

戦時中に使われた特別な言葉だったりした。

様々学ばせて頂きながら

解読して清書していった。

 

そしてそれを夫に

また子どもたちに

孫たちに伝えていった。

昨年末のことだった。

 

このタイミング

だったのだなと思う。

 

 

 

伯父の命日

7月12日は

長男のお誕生日

 

 

予定日は7月29日だったのに

12日の朝、産気づいたとき

義母は

「今日生れたらきっと男の子やわ。」

と言った。

そのことはよく覚えている。

そして

ご先祖様が帰ってくるとも。 

 

 

 

伯父さん

もう生まれ変わって

今度は幸せに暮らしているかな。