母が間質性肺炎になり、約3年。

去る6月3日夜明け前。
母は苦しみもがく事なく眠るように息を引き取りました。

私が入院している間に母が入院してしまって、退院してすぐ向かった時には母は既に声を失っていました。

よくよく聞けば、今回の延命治療は自分も受け入れて頑張ってくれたようです。

「もうすぐむすめにあえる たのしみ」

と、筆談でお気に入りの看護師さんに教えてたみたいです。
私がもうすぐ退院するって。
その看護師さんと母と私でまだ母に意識があった時3人で話してた時に「良かったですねー、娘さん来てくれて!楽しみに待ってたよねー」と言われて母もにっこり笑って、私も笑って。

私の退院を待つために延命治療を続ける決意をして、頑張って待っていてくれたのではないかと…。

そして、また家に帰っておいしいもの一緒に食べて一緒に過ごそうって思ってたのかな、と。

でも本当によく頑張ってくれました。

私が分かる範囲での母の友人に伝えたら、みるみる内に広がり思っていた以上にたくさんの方が会いに来て

母は愛されてきたんだな、と実感しました。

私は母の頑張りをずっとずっと見守ってきて、31日の晩からずっと付き添い、二人の時間ではずっと色んな話をしました。

もちろん、夫婦だけの時間も作りました。
父がちゃんと話が出来たかどうかは分かりません。


通夜告別式では、泣かないと、不謹慎と言われても構わない。
出来るだけ笑っていようと、決めて泣かずにいました。

納棺の儀の際も、祖母(母の実母)や叔父叔母を優先しました。

私は十分お話をして、独り占めした時間がたくさんあったので、皆さんに見送って頂こう、というスタンスでいました。

出棺の際も、ご友人の方々や、他の親族にたくさんのお別れ花を入れて頂きました。

私は母の顔を目に十分焼き付けたし、お化粧直しもしてあげたし、ネイルもしてあげたし、お手紙も入れてあげられたし、他の方々に見送って貰おう、そう決めて一歩引いて、泣かずにいました。

でも親族に

「頑張らなくていいの!我慢しなくていいの!ちゃんと顔見てあげな!」

と、出棺前に声をかけられた時に緩んでしまって少しだけ泣いたけれど

私よりも辛いのは、おばあちゃんや母の叔父と叔母だろうな…と。

あとは、悲しさで泣くというより
不謹慎かもしれませんが、母が本当にたくさんの人に愛されて、いや、愛し愛されて生きてきたんだなぁって思ったらそんなお母さんの子供になれて良かったなぁって思って、お母さんに会いに来てくれる人がたくさんいて良かったなぁって思って、それがなんだか嬉しくて。

改めて、母の偉大さというものを感じています。



間質性肺炎


この病と闘ってきて、約3年。

母はもちろんのこと
父も頑張りました。

私も私なりに頑張ってきました。

病気と向き合って、精一杯頑張った3年。

お疲れ様でした。




同じ病気と闘っている方々より、色々なお言葉を頂いたり学ばせて頂いた事もたくさんありました。



ありがとうございました。