聖書について。 | まいけるのおうち

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なんとか続けてます。

もう何年も触れることもないです。多分これから先もそうでしょう。

これまでも何度となくブログ記事にしてきましたが、僕は聖書はただの本であって、その記述を基に信仰を持つなんてことは自分自身にはあり得ないことだと思ってます。(他の人がどう思うかは知りませんし、信仰を持つ人がいてもそれを批判することはありません。)

ここから聖書のことをボロクソに書きますんで、そういうのを目にしたくない人は回れ右!でお願いします。














聖書にそんなに良いことが書いてあるとどうしても思えないんですよ。

まず、最初の人間とされてるアダムさん。この人は完全な人間。完全ってことは完璧な人間ですよ。それなのに、サタンが誘惑したらイチコロ。正直、弱過ぎです。完全な人間が神に忠実であることが出来なかったのですから、物語としてはそこで終わりですよ。だって、完全な人間がダメだったのに不完全な人間が神に信仰を持ち続けるなんて出来るわけがないです。

出エジプト以降のイスラエルの民なんて目の前で何度も奇跡を見てるんですよ。なのに、ちょっと腹が減ったり指導者が目の前からいなかったりしただけで、これまで救ってくれた神のことなんて忘れて別の異教の神のもとへ走ってしまう。この恩知らずが!と吐き捨てたくなります。

ソロモン王なんて人もいましたね。すべての権力、恐ろしいほどの富を持ち、綺麗な奥さん数百人。そんな状況なのに「すべては虚しい」とか言ってんじゃねーよ、ってツッコミたくなるのは僕だけじゃないはず。お前、一回貧乏人の暮らしをやってみてから言えよ、って言いたくなります。神にそれだけ良い待遇を与えられてたのに挙句の果ては、異教の神のもとへ走ると言うこれまた恩知らず! (ちなみにこの人が書いたエロ詩はソロモンの歌という題名で聖書の1冊に入ってます。どんだけエロ好きやねんw 聖書から1冊なくしていいと言われたら、これを選ぶキリスト教徒は多いはずw)


基本的に出エジプトからイスラエル建国までの辺りって、土地を奪うための人殺しの話ばっかリですよね。女も子供も異教徒だからという理由で皆殺しですよ。やられた方はたまったもんじゃないです。ユダヤ目線では神の勝利!なのでしょうけど、奪略された側からすれば侵略の歴史なわけで。神の命令となれば何をやっても許されるってのは傲慢な考えだと思います。(現代でも、欧米人の異文化に対する傲慢とも思える態度はこのあたりから来てるのでしょうね)

他にも女にだらしない男どもの話とか、醜い権力争いの話だとか、旧約聖書はとにかくダメダメな話のオンパレードです。このあたりの話を実写化したらR15指定は間違いないですよ。子供の教育には絶対に不適です。見るものに気をつけましょうと言いますが、まずは聖書から見直した方がいいです。


では、新約聖書は良い本かと言われると、これまた微妙なわけで。あくまで個人的な考えですけど、「まぁ、読み物として許されるのは4福音書だけだよねー」ですw

イエスという人物の伝記としての4福音書という位置づけなら、まあいいんじゃないですか?旧約みたいに殺しだとか女にだらしないだとか不道徳な話はほとんどない訳ですし。

パウロが書いたと言われるいろんな手紙が聖書には含まれるわけですが、はっきり言って、JWのおかしな教えってパウロが書いた部分にほぼ集中してますよね? パウロの書いた部分をなくすとJWの教義が成り立たないと言っても過言ではないと思います。啓示の書(ヨハネの黙示録)なんてどう見てもヨハネの空想の産物としか思えません。

4福音書ならいいんじゃね?と書きましたが、僕が指摘するまでもなく、4つの並行記述にはけっこうな矛盾点が多いですよね。イエスの死後、何十年も経ってからそれぞれの筆者が書いたと言われてますから、それも無理はないと思います。人間の記憶って時が経てば経つほど曖昧になるし、都合の悪いことは忘れ、良いことだけを覚えてるものですから。 カリスマ性があって死んだ人って、年々その存在が美化されていくものですが、イエスの場合はそれが極端だったのでしょうね。

福音書にはイエスの言葉がいろいろ書いてありますが、正直言って分かりにくいと思いません? 無学な弟子たちと分かってるのに禅問答のような言葉をよくもまあ次から次へと(笑) その辺りが彼のカリスマ性を引きたててたのかもしれませんけど、現代にいたるまで意味不明な部分も多いし、とかく例え話が多すぎて分かりづらい。その分かりづらさは、例え話を根拠に教義を作れたりするくらい分かりづらいです。完全な人間の言葉にしては、配慮が足りないというか・・・。頭の良い人ほど、無学な人に分かりやすく教えてくれるものですよねぇ。

福音書と言えば12使徒! ペテロさんなんて最悪ですよね。目の前で何度もイエスの奇跡を見てるのに、自分が捕まりそうになったら「私はイエスの弟子なんかじゃない、別人だ!」と2度も否定してちゃうんですから(予言の成就のためにうんぬんの話はおいといて)。目の前でイエスの言動を見た人すらダメだったのですから、2000年も経っちゃってる現代の人がイエスの歩みに忠実でありたいなんて難しいというか無理があるんじゃないの?と客観的に思います。


聖書が世界中の人に与えてきた影響は歴史として認めてますし、理解できますが、どこをどう読んでもこれを読んで神に信仰を持て!なんてのは僕には無理です。無理なもんは無理です。聖書に信仰をもつくらいなら、日本書紀とか古事記とか読んで神道の道に行く方が日本人としては性に合ってるかも。


長々と書きましたが、僕にとって聖書はただの本です。そして子供には読ませたくない本です。それ以外の意味を持たせることに困難を覚えますので、死ぬまできっと無宗教だろうなあと思います。