辰野にて~安心立命 | 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める

辰野にて~安心立命

 

 

【長野県辰野町 かやぶきの館で】

 6月24日の土曜日、私は長野県辰野町~かやぶきの館にて夏季合宿の打ち合わせをしていました。打ち合わせ終了後、かやぶきの館の社長、伊藤さんと荻野さん、そして、TATSUJIN(たつじん)の一人馬渕会長と食事をしました。初めは取り留めもないことを話していたのですが、絶妙のタイミングで素敵な音楽が聞こえてきました。

 

 実は、NHK・BSプレミアム・総合「ニッポンの里山~故郷の絶景に出会う旅」の楽曲の演奏会前日でした。

明日、この場所で里山楽団「トイ・ル・カント」の演奏会が行われるとのこと。私は、そのリハーサルの場所と食事の場所が一緒だったのです。なんという、偶然!!

 

 私はかやぶきの館の途中に見た里山の風景を思い出していました。同時に不思議な気持ちになりました。それは、みんなに守られていた、幼い頃の事を思い出したのです。また、山や川、そして海などの自然に囲まれ、その自然を身近に感じていた頃のことを。そのような光景が脳裏に映ったのです。

 

 私は言葉を失いました。そして、多岐にわたる構想の準備に追われ心身が疲れているのかな、と思いながらも涙が溢れてくるのです。おそらく、音楽の波動と里山の有する波動、そして馬渕さん、伊藤さん、荻野さん、私の波動が共鳴し、私の心を揺り動かしたのだと思います。本当は思い切り泣きたかった。そうすれば、もっと心と身体が癒されたと思います。私はこの偶然と音楽に感謝しました。

 

【私が直感したこと~安心立命】

 ここで少し、辰野町の川島地区、かやぶきの館で私が直感したことを述べたいと思います。

 

 私は、全ての人間が「私が、私が」「俺が、俺が」と我を張って生きているのだ、とみています(頑張って生きていいる)。そして、我を張れる場所を見つけたいと願っている。同時に、そのような場所が「安心」できる場所なのだと思います。

 

 そういう意味では、幼い頃に過ごした場所は、まさしくそのような場所です。つまり、通常、幼い頃を過ごした場所は、安心できた場所なのです。なぜなら、なんだかんだと生き抜いた場所なのですから。

 

 故に、多くの人が幼い頃に過ごした場所を懐かしく思うのではないでしょうか。そのような懐かしさの感覚の基盤には「安心」を求める感覚があるのだ、と私は思います。

 

 昔、百人組手を行った時、私の心に湧き上がった悟りのような体験がありました。その体験を言葉で表せば、「安心立命」となります。この言葉は儒教思想でも、また仏教思想でも使われます。ニュアンスは多少異なっても、私は全ての人間が普遍的に求める感覚が「安心」だと考えています。その安心を得る過程、また安心を悟る瞬間に「幸福」もあるのです。

 

 辰野町の里山は、長い年月をかけて形成された風景、そして場所です。その風景が、いまだ姿を変えずに残っている。私は都市と言われる場所は、変わることが必然だと言っても良いと考えています。しかしながら、ここは変わらず、残っている。懐かしい風景が…。その真実とは、日々、人間が自然と優しく対話し続け、変わり続けていたから(理解しようとしてきたから)に他なりません。ポリスに生きる人間は、その真実を知らないかのようです。そして「風景」の意味の理解もしていない。

 

 誰の心の中にも「安心できる風景」がある。もちろん、それが里山だとは限らない。しかしながら、里山が持つ、人間と自然との対峙と対話の歴史が重要なのです。そこには普遍的な波動が存在する。私はそのように直感するのです。そして、そのような風景を守ることが人の「安心」につながる道だ、と私は直感しています。同時に、その思想を、街づくりや都市作りに活かすべきだと考えています。

 

 さらに言えば、何百年経ってもも変わらぬものと変わっていくものの共存が重要だと思います。換言すれば、「現在、過去、未来」のハーモニーを感じるような風景を私はイメージしています。また、私は風景というものを、目に見えるもののみならず、音や匂い、朝から夜までの変化、また一年を通じての変化、そして物語性、それらの全てが含まれていると考えています。

 

 そのような将来の人間社会の風景をデザインする際、核となるものが「安心」です。そして、もう一つ「立命」を挙げたいと思います。私は「立命」を儒教的とも、また仏教的とも異なる、「個々の命を輝かせること」と考え、伝えます。それは拓心道哲学における言葉の用い方です。

 

 この日、私はそんなことを直感したのですが、一緒に打ち合わせをしていた、かやぶきの館の社長である伊藤氏が、子ども食堂について語り始めました。

 

 実は伊藤氏は「子供食堂」を運営しているらしいのです。私は、伊藤氏が語る子供食堂の話を聞いて、私は幼い頃過ごした場所を安心できる場所にすることがいかに人間にとって大事かということを直感しました。また、幼い頃、安心できない経験をした人がいることに対しても思いを馳せました。願わくば、全ての人の安心を、そして子供たちの安心を醸成するような活動をしたいと思いました。また、老年も同様だと思います。老年が自分の人生に安心し、死ぬまで立命を続ける。そうであってこそ、将来を生きる、子供達、若者も頑張れる。そんな直感を得たのです。

 

 私は、最期は周りの人に安心を与えたい。しかし、安心を得るには戦いも必要だと思います。ただ、より大事なことは、短期的な安心ではなく、将来的な安心、本質的な安心を掴む力を醸成することだと思います。

 ここまで述べると抽象的過ぎて、変に思われるかもしれません。この以上の言葉は、行動とともに紡ぎたいと思います。

 

 最後に、今日は馬渕さん、伊藤さん、荻野さんとに感謝したいと思います。そして一生、忘れることのない贅沢な時間になりました。また、これからの人生を心を活かす生き方をするために使う、と銘記する1日になりました。

 

 私(増田 章)は、是非、辰野(TATSUNO)のTATSUJIN-AN(たつじんあん)から心を高める活動をしていきたいと思っています。

 

2023-7-4:一部加筆

 

 

かやぶきの館での動画