2024年3月29日 サガン鳥栖コラム

 

サガン鳥栖は降格圏で苦しんでいる。

川井監督は、それこそ戦術が好きな人や監督論が好きな人には評判がいい。

選手からもかなり好印象だろう。

 

何せ、やろうとしている「サッカー」が哲学なのだ。

しかし勝てていない。

 

これは「好きな音楽」を仕事にした時に、

自分の好きな曲を作って演奏したい」のか

売れたい」のかに似ている理論だ。

 

日本はアーティスティックな方がクリエーターは受けがいい。

ともすれば「商業音楽」は「売れ線狙い」と揶揄される。

 

しかし、売れ線狙って売れるのはとてつもない才能だ。

 

そういう意味では町田は「勝ちにいって」勝っているすごいチームだ。

 

 

断っておくが「自分の好きな曲をやりたい」人たちも売れたくないわけではない。

売れなくていいわけでもない。

 

「自分の好きな曲」で「売れたい」のだ。

実にわがままである笑

 

しかし歴史に残るのはそういったアーティストが

「売れ線」を自分たちで作り出した世界観なのもまた事実である。

 

この「サッカー」で「勝ちたい」のか

「勝てる可能性」を高めたサッカーを「狙う」のかの違いだ。

 

後者はある意味、型がない。

今日その日いる選手の最適解を毎回模索する。

また「相手の嫌がることをする」という事は、毎回やる事が変わる可能性もある。

 

毎回「相手の嫌がる事をし続ける」という意味では変わらいのだが、

実は毎試合同じゲームをやれるとは限らない。

 

そこをなるべく再現性を高めるために極度に「シンプル」にする。

やる事をできるだけシンプルにすれば、相手によって毎回変わるサッカーの中で、

「勝ちに行くこと」にこだわっても、やる事が変わらなくなる。

書いててゲシュタルト崩壊しそうだ。

 

それが町田サッカーの本質だ。

 

翻って川井監督は複雑だがやる事は変わらない。

ボールを保持したら配置を高めて多くの人数を前に送り込む。

その状態で奪われたらなるべく2度追いで、前に人が多い状態で奪い返すことを狙う。

下げられたら即座にリトリートしてセカンドボールに備えつつ、

あいまいなボールを蹴らせるべくプレスもやめない。

 

セレッソ戦の前半を見返してほしい。

堀米のフリーマンの動き。

富樫の追い方に、福田がカバーした状態で河原のハント。

 

実に有機的で見事だ。

これは複雑だが再現性はある。

 

毎回これだけ押し込める可能性もある。

 

 

しかし続かなかった。

 

 

これは時間とともにゴールが生まれないことによる不安や、

毎熊やブエノの個人的な打開力で、理不尽な状態を作られた事に起因する。

 

 

「こんなにかっこいい音楽作ってるのに何で売れないんだ!」

 

と叫ぶ若手アーティストの気持ちが良く分かるだろう。

今更売れ線狙いには変更できない。

かっこ悪いし。

 

なにより「売れ線狙えば売れるわけじゃない」のだ。

 

「急にPOPになったね笑」と笑われて余計売れない。

慣れないことは出来ないもんだ。

 

 

だから急に「鳥栖は勝ちだけ狙うサッカーします!」

としたところで急に勝てるわけはない。

 

そういうサッカーにはそれだけの覚悟や重みがあるんだ。

彼らにも「意思」と「哲学」がある。

 

 

さあ町田戦

 

 

哲学の戦いとなるが、いよいよ鳥栖は負けられない。

こういう時に、それでも状況を覆すのは何か?

 

それが「覚悟」だ。

 

覚悟とは「責任」のことだと僕は思う。

 

誰だって「自分のせいで負けたくない」と思うだろう。

しかし、どうしようもない状況をただ見過ごして良いのか?

 

チーム理論に沿っていれば責められはしない。

「ちゃんと戦ったけど相手が強かったね」となる。

 

それを「良しとしない」意地があれば、

そこから逸脱した動きが出てくるはずだ。

 

それが悪影響を生む場合もある。

 

しかし今僕が鳥栖に求めるのは まさに そこだ。

 

 

 

「逸脱せよ」

 

自分の勝手な動きのせいで負けるかもしれない

チーム戦術を無視するかもしれないが、

「勝てる可能性を1mmでも増やすと信じるならば」

身勝手な行動さえも許される。

 

それはサッカーが「大人」のスポーツだから。