すっかりご無沙汰してしまい申し訳ありません。 | みのちゃんのブログ

すっかりご無沙汰してしまい申し訳ありません。

このところ本名で行っているFacebookでのアップばかりなのですが、今日そちらでアップした記事をそのまま貼り付けます。


こちらでの古いお友達はご存じの方が多いのですが、以下の文章は長女の事を改めて纏めると同時に、現況のご報告です。


今日は長女の33歳の誕生日です。今まで家族の誕生日には必ず「
お誕生日、おめでとう」と直接声を掛けるか、旅行中などで顔を合
わせることが出来なければメールか電話でお祝いの言葉を述べてい
た私ですが、今年ばかりはあまりの体調の悪さに声を掛ける事をた
めらってしまいます。

在宅で訪問医療専門医と看護師の方々に毎日、訪問介護と点滴治療
を受け、抗生剤の投与もして戴いていますが、38℃台の発熱も3
0分と持たずに溜まるネバネバした痰絡みの唾液の塊の誤飲と吐瀉
の連続で付き添っている家内は24時間片時も休む暇がありません

注射針を刺す血管が極端に細い長女はラインが上手く確保できない
ため、太めの点滴用針を刺し損ねた赤黒い針を刺し損ねた跡が手脚
に何カ所も痛々しく残っています。
起きているときは苦しさで「うんうん」うなっているし、疲れてウ
トウトしても1時間と持たずに溜まった唾液を誤飲しかけて咳き込
み目を覚まします。...


殆ど眠れず朦朧としている家内は一日に数回訪れて下さる医師や看
護師のお相手もせねばならず、その合間に介護で汚れ大量に出る洗
濯物を初めとする家事もこなし、疲弊しきっています。
私も5月末を乗り越えて少しだけ仕事の負荷が軽くなったので朝の
世話を受け持って、その間に家内を2~3時間仮眠させたり、でき
る限り手助けをしていますが、中々思うに任せません。

改めて長女が後遺障害を負った経緯を記しますと、我々夫婦の最初
の子どもは双子でした。
体質的に母親譲りで極端に悪阻が重い家内はその上に初産が双子だ
ったので、筆舌に尽くしがたい苦しさを何とか乗り越えて、出産予
定日直前の検診を受けました。
予定日は昭和59年6月1日でその2日くらい前の事でしたが、そ
の時は双子の胎児は二人とも元気でした。
当時の多胎児出産では母親のお腹の中にいる一日は外に出たときの
1週間に匹敵すると言われ、その日は帰宅しました。
そして1週間後の6月6日に再度検診を受けたとき、胎児の一人の
心音が止まっていることが判明し、急遽帝王切開手術を受けて残っ
た胎児を取り上げました。その子が長女です。

悪阻で自分自身が脱水症状のため入院寸前なほど、苦しみながらも
生まれてくる子ども達の為、手編みの手袋と靴下を編んでいた家内
から、帝王切開手術を受けるため手術室に向かう直前、その手袋と
靴下を「亡くなった子に、これを着せてあげて」と麻酔で朦朧とし
始めた顔で手渡された時は、思わずこみ上げてくる涙をどうしても
こらえることが出来ませんでした。

帝王切開手術が終わったのは午後3時前後のことだったと記憶して
いますが、その時に適切な対応さえ速やかに取ってくれていれば長
女は健常児として育った可能性が有ったのです。

そんなことはつゆ知らない私は長女が取り上げられて間も無く、看
護婦さんからガラス越しに対面すら出来たのですが、そのまま帰宅
して6時間ほど経ったとき、出産をした産院(下落合の聖母病院で
した)から突然自宅へ電話がかかって来て、長女が痙攣を頻発し、
聖母病院では手に負えないので東京女子医大へ救急車で搬送する。
との連絡を受け、捕り物もとりあえず駆けつけました。
そして生まれて数時間の長女が保育器の中、息も絶え絶えに小さな
身体でピクピク痙攣を起こしている姿を何もしてあげられず、胸が
つぶれるような思いで見守りながら救急車に同乗して女子医大へ駆
けつけました。

そこで担当して下さった緊急担当の若い女医さんから言われのは「
極度の脳貧血から起きている痙攣でこれから緊急輸血を行うが、も
う既に手遅れで後遺障碍が起きることを覚悟して欲しい。但し、生
命の確保には全力を尽くす」とのショッキングな言葉でした。
勿論、私はどんなに酷い後遺障害が残ろうが、家内の為にも何とか
して命だけは助けて下さい。と懇願しました。

後で分かったことですが、長女達は一卵性双生児でした。
そして胎内死したもう一人の娘に、生き残った長女から血液が一方
通行の様に流れ、死んだ娘の身体は鬱血状態となり、残った長女は
極度の貧血状態だったにも関わらず、聖母病院では検査1つせず、
普通の保育器で何の手当も受けられないまま放置され、連続痙攣を
起こし出してから、慌てて設備不足を理由にその治療を放棄し、女
子医大へと押しつけられたのです。

当時は血液の管理や流通も万全では無く、新鮮血が必要と言うこと
で、身内で誰かと言われたのですが、私と家内は2人とも両親がA
B型とO型の両親から生まれたBO型だったのですが娘達はO型だ
ったため、私から輸血することが出来ず、一番親しい従兄弟に相談
し、彼の奥さんがO型だからと言うことで急ぎ駆けつけて輸血はし
て下さったのですが、その時には既に手遅れで脳細胞の何割もが深
刻なダメージを受けて死滅してしまった後でした。
でも、そのお陰と元々強い生命力を備えていた長女の体力が長女を
生きながらえさせてくれました。

視覚神経を受け止める部分の脳も壊死してしまったので、育った後
も目は開けてきょろきょろもするし、瞳孔反応もあるのに盲目状態
です。

一番活発に脳細胞が分裂成長する時期も殆ど脳の発育は見られず、
顔から下は成長して大きくなったのに頭は本当に小さなままで余っ
た頭皮が波打っているほどです。

今でしたら無条件に医療ミスの保険で慰謝料を支払ってもらえるケ
ースだと思うのですが、当時は出産医療の技術も低くしかも医療ミ
スの訴訟はその判定に関与する医師同士の互助会的な連携が有り、
99.9%勝てない時代だったのと担当医が知人の紹介を受けた医
師だったこと、そして同時期に弟の嫁も2週間ほど後に同じ病院で
出産する予定だった事、何よりも帝王切開手術を受けた家内がその
まま入院中だった為に、事を荒立てるこるが出来ず、全くの泣き寝
入りでした。

でも、今思えばとても温厚な性格なのに遠慮がちに「医療ミスでは
無いか?」と何年か後に問いかけてきた義父や家内の為にも、例え
負けたり、義理の悪い思いをしてもキチンと訴訟を起こすべきだっ
たと深く後悔しています。

家内は長女を少しでも何かが出来るように育てようと、毎日毎日必
死で首も座らぬ長女を背負子で背負ってあちこちの病院を回ったり
、当時テレビで放映された落馬して脳に障害を負った天才騎手福永
洋一さんの懸命なリハビリを追ったテレビ放映で見たドキュメント
番組で「ドーマン法」という損傷した脳細胞を身体を他動的に動か
したり、音声や光、そして香りなど様々な刺激を与え続けて使って
いない脳細胞を活性化する療法に一縷の望みを託し、当時国内でそ
の療法が行われていた2つの施設、1つは藤沢。そしてもう一つは
神戸・六甲山の山中に有る施設へもあらゆる手を使って通おうと努
めました。
藤沢の施設は、受けいられる対象が居住範囲が神奈川県の近隣地区
のみだったので、該当する地域だった家内の従姉妹の嫁ぎ先に家内
と長女の住民票まで移して通所する道を探り、もう一つの神戸の施
設は船舶振興会の援助で設立されたので、家内の叔父が当時、笹川
さんと共同事業をされておられたので、紹介を受けて六甲山中腹の
へんぴな場所に存在するその施設まで毎月のように家内と2人、交
代で通ってはリハビリ方法を習い、1年以上地道なリハビリをコツ
コツと続けました。

元々あるべき脳細胞が最初から存在しないのでどんなスーパードク
ターを持ってしても、外科的には長女を健常者並みにすることは不
可能なのです。

先ほど紹介したリハビリ療法の「ドーマン法」は正にその失った細
胞の代わりに眠っている脳細胞を活性化させるリハビリで、これは
確かに大きな効果がありました。

方法は割愛しますが最低でも2人がかりで行う訓練により、1~2
歳の頃の長女は人生で一番健常児に近づきました。
目が見えないのでずっと音楽を掛けていましたが、時折鼻歌のよう
にその中のお気に入りの曲のメロディーをフンフンと歌っていたし
、たった一度だけ脱水状態で入院している最中、苦しさに泣き続け
ているのをダッコしながら病院内を歩き回っているとき、色々と話
しかけながら「オンブする?」と問いかけたらハッキリと「オンブ
」と答えたりもしました。

あの頃から1年間くらいが長女のピークで、短時間なら座位も保持
できたし、座っている後に脚を広げて支えてあげると前後に身体を
揺すって私のお腹に身体をぶつけ「痛いよ~」と答えると「きゃっ
きゃっ」と笑って遊ぶことすら出来ました。
この時の可愛らしさは健常な幼児と変わらず、今から思うと一生の
中で一番幸福なひとときでした。

しかし、家内と2人、強い葛藤を抱えながら次の子どもを産むこと
を決め、願い通り家内が妊娠してからは充分なリハビリが出来なく
なってしまい、更に頻繁に起きる痙攣発作の為、徐々に脳が萎縮し
それまで出来た事がどんどん出来なくなってしまったのです。

痙攣発作が一度起こると脳細胞が100万個単位で死滅すると言わ
れています。

少なくとも1週間に3~4回は発作が起きる状態で、30数年生き
てきたので残された正常な脳細胞はいったいどれ程少なくなってい
るのかと考えると胸が詰まるばかりです。

長女が生まれて2ヶ月くらいで「この子には視線が無い」と目が見
えていない事に気付いたのも家内でしたし、6ヶ月目くらいに痙攣
発作を起こしたことに気付いたのも勿論、家内でした。

ですから異例の早さで障碍の認定は受け、生後数ヶ月で障害の程度
が国の障害者手帳と東京都の愛の手帳とも、最重度の判定である1
級と1度の判定を受け、しかも通常は数年に一度必要な見直し判定
をその時点で一生見直し判定は不用と断定される程の重い障害でし

それから今日まで33年間、在宅と通所で24時間365日介助の
生活を続けているのが我が家の日常生活です。

障碍の判定を受ける手続きを進めていたとき、来訪してくれた区の
障害福祉課の担当者からは即座に「こう言う状態の子は学齢まで生
きられない」と言う言葉でした。
「残酷な宣言」の様ですが、今思えば、むしろ「だから数年間辛抱
すればゴールがある」と言う励ましのつもりだったのでしょう。

生後、半年ほどからスプーンに乗り切れない程、多種多様な抗痙攣
剤やそれによる胃腸の荒れを防ぐための整腸剤。そして便が硬くな
るのを防ぐ薬などを飲み続けている長女は家内の献身的な介護で普
通ならとっくの昔に起こしても不思議で無い内臓の不調も起こさず
に今日33歳の誕生日を迎えました。

でも、今が33年間の生涯で一番体調が悪く、苦しんでいます。

障害児・者に対する行政の支援として成長途中には学齢前に通う肢
体不自由児者向けの施設が新宿区立で存在し、小学校・中学校も新
宿養護学校というところが存在します。高校も都立の養護学校があ
って通いました。 そして養護学校卒業後は再び、学齢前に通った施設で受け入れて下
さり、全ての施設で送迎のバスも仕立てて戴けます。

それぞれの施設・学校では健常児の学校と同じように運動会・学芸
会・展覧会などのイベントや校外学習もあります。
ですが、肢体のみ不自由でも普通の学習能力を備えた在校生ならと
もかく、自立どころか座位さえ不可能な長女に何一つ出来る訳も無
く、例えば学芸会なら長女の手形を押した作品。
運動会なら担当して下さる職員さんが長女の車椅子を押して行う障
害物競走などのリレーだったり、職員の皆様の懸命な努力には感謝
こしつつも参加すればするほど虚しくなるものばかりでした。

そういう施設は学年別構成では無く、障害の程度によるクラス分け
が行われ、長女は常に最重度のクラスでした。

学齢前に通った施設は高校卒業後の受け入れ先でも有り、そうやっ
て30年近く通ってきた諸施設で同じクラスにいたメンバーは、1
人欠け2人欠けの繰り返しで、長女の他に生存しているのは1~2
名です。

この間、同窓生の葬式には延べで何回参列したか数知れません。
そういうとき、必ずと言って良いほど周囲から聞こえてくるのは(
特に親族らしき人からの)「この子も(死んで)最後の親孝行をし
た」「○○(=母親の名前)さんもこれで少しは楽になる」という
声です。

もしも、皆さんが万一にも同じような状況に遭われたときには、必
ずご遺族に健常者のご家族が不幸にも亡くなられたときと同じよう
に、お悔やみをなさって戴きたいと思います。

我が子が死んで、楽になったと思う親など存在しません。他人から
見たら、厄介者で大変な存在かも知れませんが、親にとってはほん
の僅かな反応。
例えば目が見えない娘に優しく「み~か~ちゃん」と呼びかけてあ
げると、一瞬「んっ?」と言うような表情で見えない目を斜め上に
向け、その後、一呼吸置いて「にまぁ」と笑ってくれるだけで、い
つまでも赤ちゃんの様な娘が限りなく愛おしく思えます。

長女の事を「生まれてから死ぬまで一度も悪い事をしない『天使』
だ」と指摘してくれ、親戚中で一番長女を可愛がって、それまで孤
軍奮闘しながら介護を続けつつも長女の将来に対する不安と不憫さ
でノイローゼ寸前だった家内に生きる気力を与えてくれたのは、今
、世話になっている従兄弟の父親である3年前に亡くなった叔父で
した。

33年間、接していて長女は正に叔父の指摘通りの天使でした。

それなのに、どうして神様はそんな天使のような長女にこれほどま
で辛く苦しい思いを与え続けるのでしょう。

家内の体力・気力も限界が近づき、切羽詰まってきました。せめて
土日で外部との接触が少ない明日・明後日は私が介助を出来るだけ
引き受けて家内に休息を取らせたいと思っています。