少なくとも途上国へ行った人なら

一度は考えたことがあるのではないだろうか。



よく途上国で買い物をしているとで

”ボラれる”という話を聞くが、

これは果たして真か。


そもそもモノに一定の価格をつける考え方が絶対なのか。

ましてや、サービスという目に見えないモノに価格をつけることができるのか。



タイ・チェンマイでのバザールでもそうだが、

基本的に定価なんてあるようでないようなもの。

すべては売り手との交渉次第。


しかし、

それは本質的には”ボろう”としているのではなく、

売値なんていうものはもっと感覚的なものなのだ。

気にくわない奴には高く売ればいいし、

気に入った奴には安くすればいい。


もちろん、儲けたいなら高く売ればいい。

どう売ろうと売り手の自由。

いたって自然な考え方だ。

彼らにとって定価という概念は、

我々ほど重要ではないのである。

買い物とは

モノを売買するだけの行為ではないと

最近つくづく思う。

買い物には

商品を通して生まれる会話を楽しむ

という重要な要素があると思うのだ。

(俗に言うエクスペリエンス・マーケティング)

チェンマイのバザールや

メキシコ・オアハカでの買い物は実に楽しい。

片言でも商品を通して色々な会話をする。

そして、仲良くなりお茶をごちそうになりながら、

商品とは関係のない話もする。

もちろん全ての売り手がそういうわけではないが、

この過程で売値が決められていく。

いたって明快で人間的な商売ではないだろうか。

定価が表示されていないと”ボられる”かもしれない

と警戒してしまう我々だが、

むしろがめついのは

定価にこだわる僕たちの方なのかもしれない。

(しかし、ここで頭に入れておこう。

売手が自由、かつ、買手が自由ではない場合を。

つまりバザールのような自由競争市場ではなく、

そこでしか買うことができない独占的な状況だ。

ここでは、定価という常識が意味をなす。

やはり価格は神の見えざる手で動いている。)

定価の必要性も理解できるが、

それゆえ一言もしゃべらずとも買い物が平然とできる日本。

どちらの「買い物」が正しいのかなどという議論はやめておこう。

しかし、

今なお我々は銀行券と兌換しているものがあるのではないだろうか。